1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。
徳川慶喜が戦わずに帰ったわけ 慶喜流リーダーのあり方 |
徳川慶喜には、「逃げた」という評がつきまといます。鳥羽伏見の戦いにおいて、兵力では上回っていたにもかかわらず、大坂城から開陽丸で海路、戦わずして江戸に戻ったという事件です。以後慶喜は謹慎、表に出てこなくなりました。なぜ逃げたのか。その答えが、回顧録『昔夢会筆記』にありました。
薩長との決戦にはやる大坂城にあって、慶喜は風邪で体調が思わしくない。寝間着のまま過ごしていたといいます。そこにやってきた老中板倉に対して慶喜。
〈予、すなわち読みさしたる『孫子』を示して、「知彼知己百戦不殆」ということあり、試みに問わん……〉
彼を知り己れを知れば、百戦してあやうからず。謀攻篇の有名な一節です。このあと、こう続きます。彼を知らず己れを知らざれば、戦うごとに必ずあやうし。
慶喜が老中に説いたのもそのことでした。
「幕府に西郷隆盛に匹敵する人物はいるか」
「いません」
「大久保利通はいるか」
「いません」
次々に名を連ねるも、老中の答えは同じ。
〈このごとき有様にては、戦うとも必勝期し難き……〉
慶喜はなんと、兵力ではなく、将――人材力を秤にかけて決断していたのです。彼(敵)を知り、己れを知った慶喜だからこそ得た答えなのでしょう。
慶喜は別の場面でも、こんな言葉を漏らしています。
〈あの時分は諸侯というものは、つまり家来に良い者があれば賢人、家来に何もなければ愚人だ、家来次第といったようようなもの。そこで主人がそう言っても、家来が承知しなければそれは通らない〉
幕末の四賢侯として名高い伊達宗城、山内容堂、松平春嶽さえも、慶喜から見れば、自分では何一つ決められない人間に映っていたようです。
さて開陽丸の中で、勝海舟は慶喜に決戦を説いたようです。その策とは幕府の軍艦を清水港(静岡)に集め敵兵を迎え撃ち、一部の軍艦を薩摩に向かわせ本拠を叩く。しかし慶喜は朝敵の汚名をよしとせず、〈既に一意恭順に決したり〉と耳を貸しません。そこで勝も諦め、西郷との江戸開城の会見に臨んだのだと慶喜はいいます。
藩主でなかった慶喜は、家来を育成することができなかった。幕政を改革する時間もなかった。初めから慶喜は『孫子』がいうところの「戦うべからざる」とわかっていたのかもしれません。
ジャンル | 伝記/記録 |
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時代・舞台 | 幕末の日本 |
読後に一言 | 見方を変えれば、幕末の四賢侯は、部下の声に耳を傾けたからこそ、賢侯と呼ばれたといえます。慶喜からすれば、「言うこと聞かないヤツは飛ばす」というリーダーは、愚人中の愚人でしょう。 |
効用 | 渋沢栄一らが音頭をとって、晩年の慶喜を囲んで話を聞いたのが、本書です。特に5章から13章(全26章)は、本人の語りがそのまま再現されており、臨場感たっぷりです。 |
印象深い一節 ・ 名言 | 先帝(孝明天皇)の真の叡慮(攘夷についての考え方)というのは、誠に恐れ入ったことだけれども、外国の事情や何か一向御承知ない。昔からあれ(外国人)は禽獣だとか何とかいうようなことが、ただお耳にはいっているから、どうもそういう者のはいって来るのは厭 (いや)だとおっしゃる。(慶喜談、第九章) |
類書 | 渋沢栄一による伝記『徳川慶喜公伝(全4巻)』(東洋文庫88ほか) 漂流民からみた維新『アメリカ彦蔵自伝(全2巻)』(東洋文庫13、22) |
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(2024年5月時点)