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1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。

東洋文庫 76

『昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談』(渋沢栄一編 大久保利謙校訂)

2021/05/27
アイコン画像    徳川慶喜が戦わずに帰ったわけ
慶喜流リーダーのあり方

 徳川慶喜には、「逃げた」という評がつきまといます。鳥羽伏見の戦いにおいて、兵力では上回っていたにもかかわらず、大坂城から開陽丸で海路、戦わずして江戸に戻ったという事件です。以後慶喜は謹慎、表に出てこなくなりました。なぜ逃げたのか。その答えが、回顧録『昔夢会筆記』にありました。

 薩長との決戦にはやる大坂城にあって、慶喜は風邪で体調が思わしくない。寝間着のまま過ごしていたといいます。そこにやってきた老中板倉に対して慶喜。


 〈予、すなわち読みさしたる『孫子』を示して、「知彼知己百戦不殆」ということあり、試みに問わん……〉


 彼を知り己れを知れば、百戦してあやうからず。謀攻篇の有名な一節です。このあと、こう続きます。彼を知らず己れを知らざれば、戦うごとに必ずあやうし。

 慶喜が老中に説いたのもそのことでした。


 「幕府に西郷隆盛に匹敵する人物はいるか」
 「いません」
 「大久保利通はいるか」
 「いません」


 次々に名を連ねるも、老中の答えは同じ。


 〈このごとき有様にては、戦うとも必勝期し難き……〉


 慶喜はなんと、兵力ではなく、将――人材力を秤にかけて決断していたのです。彼(敵)を知り、己れを知った慶喜だからこそ得た答えなのでしょう。

 慶喜は別の場面でも、こんな言葉を漏らしています。


 〈あの時分は諸侯というものは、つまり家来に良い者があれば賢人、家来に何もなければ愚人だ、家来次第といったようようなもの。そこで主人がそう言っても、家来が承知しなければそれは通らない〉


 幕末の四賢侯として名高い伊達宗城、山内容堂、松平春嶽さえも、慶喜から見れば、自分では何一つ決められない人間に映っていたようです。

 さて開陽丸の中で、勝海舟は慶喜に決戦を説いたようです。その策とは幕府の軍艦を清水港(静岡)に集め敵兵を迎え撃ち、一部の軍艦を薩摩に向かわせ本拠を叩く。しかし慶喜は朝敵の汚名をよしとせず、〈既に一意恭順に決したり〉と耳を貸しません。そこで勝も諦め、西郷との江戸開城の会見に臨んだのだと慶喜はいいます。

 藩主でなかった慶喜は、家来を育成することができなかった。幕政を改革する時間もなかった。初めから慶喜は『孫子』がいうところの「戦うべからざる」とわかっていたのかもしれません。



本を読む

『昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談』(渋沢栄一編 大久保利謙校訂)
今週のカルテ
ジャンル伝記/記録
時代・舞台幕末の日本
読後に一言見方を変えれば、幕末の四賢侯は、部下の声に耳を傾けたからこそ、賢侯と呼ばれたといえます。慶喜からすれば、「言うこと聞かないヤツは飛ばす」というリーダーは、愚人中の愚人でしょう。
効用渋沢栄一らが音頭をとって、晩年の慶喜を囲んで話を聞いたのが、本書です。特に5章から13章(全26章)は、本人の語りがそのまま再現されており、臨場感たっぷりです。
印象深い一節

名言
先帝(孝明天皇)の真の叡慮(攘夷についての考え方)というのは、誠に恐れ入ったことだけれども、外国の事情や何か一向御承知ない。昔からあれ(外国人)は禽獣だとか何とかいうようなことが、ただお耳にはいっているから、どうもそういう者のはいって来るのは厭 (いや)だとおっしゃる。(慶喜談、第九章)
類書渋沢栄一による伝記『徳川慶喜公伝(全4巻)』(東洋文庫88ほか)
漂流民からみた維新『アメリカ彦蔵自伝(全2巻)』(東洋文庫13、22)
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