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1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。

東洋文庫 325

『熱河日記1 朝鮮知識人の中国紀行』(朴趾源著 今村与志雄訳)

2021/06/17
アイコン画像    「未知」の世界を旅するとは?
240年前の旅人がたどり着いた境地

 未知の世界に尻込みするのはなぜだろう? 誰もが未知を歓迎するわけじゃない。日本で前例踏襲が横行するのだって未知への恐怖かもしれない。

 そんなことをグズグズ考えていたら、『熱河(ねっか)日記』の一節に目が止まった。著者の朴趾源(パクチウォン)は、清(中国)と李朝(朝鮮)の国境の街に驚いていた。整然とした町並み、田舎じみていない調度品。中央から見れば果ての街なのにこの有様だ。朴はすぐに帰りたくなった。全身は熱くなっていた。朴は気づく。


 〈これは嫉妬心なのだ。私はもともと淡泊な性分で、羨望・猜疑・嫉妬は、本来、まったくない。いま、他国(清)に一歩足をふみいれ、僅か万分の一しか見ていないのに、こういう妄念を起こすとはなにごとか!〉


 少々説明がいる。当時の朝鮮は、満州族が起こした清朝を下に見ていた。満州族より自分たち朝鮮族のほうが中華の文化を学んでいるという自負だ。清なんて蛮族の国家だろ? 見下すあまり、李朝の人たちは清朝から学ぶことをやめていた。根拠なき理由で相手国を下に見る。現在の日本人の一部も隣国を蔑むが、同根の感情だ。

 朴趾源は耳も目も塞ぎ、踵を返そうとしたが、踏み留まった。自分の中の嫉妬に気づいた。そして目の前に広がる「未知の世界」を受け入れ、歩を進めたのだ。

 なぜ朴趾源にはそれが可能だったのか。

 〈朴趾源の68年の生涯は,大きく3期に分けることができる〉(ジャパンナレッジ「世界文学大事典」)という。


(1)挫折と葛藤、不遇の文章修業時代(~35歳)
(2)実学思想を確立した時代(~49歳)
(3)実学思想を現実社会に適用しようとした官僚時代


 上の文章は、(2)の時のものだ。〈中国の文物に接して実学思想を確立した〉(同前)とあるが、つまりこの時の中国への旅が朴趾源を大きく変えたといえる。


 〈いたずらに口と耳だけにたよる者は、学問を語りあう値打ちがない〉


 峻烈な言葉だ。朴が中国で綴った言葉だ。孔子を顧みず、釈迦を否定し、西洋人の大航海を信じない。過去も現在も未来も見ずに、自分の都合のいい世界に閉じこもる人を斬って捨てる。朴趾源は悟ったのだ。過去も現在も未来も繋がっていて、それは押し並べて〈大いなる瞬間、大いなる呼吸〉なのだと。未知など恐れる必要はなかった。この瞬間、瞬間が未知なのだから。



本を読む

『熱河日記1 朝鮮知識人の中国紀行』(朴趾源著 今村与志雄訳)
今週のカルテ
ジャンル紀行/随筆
時代・舞台1780年代の李朝(韓国、北朝鮮)、中国
読後に一言著者の朴趾源が中国に向かったのは1780年の夏。240年前のことです。ですが古びていない内容に打ち震えました。続きは次回!
効用皮肉と社会批評たっぷりの小説『両班伝』が付録に。これも興味深い物語です。
印象深い一節

名言
自己が人に劣ることを恥じながら、自己にまさるものに質問しないのは、終身、みずから固陋(ろう)無学の場にとじこめることだ。(付録3『北学議』序)
類書朴趾源も登場する『朝鮮小説史』(東洋文庫270)
本書とともに朝鮮紀行文学の双璧『海游録 朝鮮通信使の日本紀行』(東洋文庫252)
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