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1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。

東洋文庫 484

『東韃地方紀行 他』(間宮林蔵述 村上貞助編 洞富雄、谷澤尚一編注)

2021/07/29
アイコン画像    間宮海峡を発見し、シーボルトを
密告し、隠密になるという人生

〈文化五辰年の秋、再び間宮林蔵一人をして、北蝦夷の奥地に至る事を命ぜられければ、其年の七月十三日、本蝦夷地ソウヤ(宗谷。北海道最北端)を出帆して、其日シラヌシに至る〉


 間宮林蔵(1780~1844。生年を1775年とする説もある)の『東韃(とうだつ)地方紀行』の書き出しです。「日本史」の授業では必ず登場する人物ですが、彼の功績は、地図上に残っています。

〈この探検によって樺太は島であることが確認されたが,シーボルトがこれを〈間宮海峡〉としてヨーロッパに紹介したことにより,間宮林蔵の名は世界地図上不朽のものとなった〉(ジャパンナレッジ「世界大百科事典」)

「この探検」を描いたのが、『東韃地方紀行』です。実際は口述によって描かれたようですが、林蔵の見聞が文字になっているのは間違いありません。全編を通して、各地の人々の風俗の描写は微に入り細を穿ち、林蔵の観察眼が光る紀行となっています。

 この間宮林蔵、もとは茨城の農民の出です。

〈幼少の時より数学的才能に秀で、その才が郷里近くの岡堰工事に従事していた幕吏に認められて寛政二年(一七九〇)ごろ江戸に出る〉(同「国史大辞典」)

「蝦夷地御用雇」になった林蔵は、蝦夷(北海道)に渡ります。〈このとき蝦夷地で測量中の伊能忠敬について測量術を学んだ〉(同「世界大百科事典」)のは有名な話。伊能忠敬(1745~1818)もまた、若い時から数学的才能に秀で、晩年、測量術を学び、日本地図を作成した人物ですから、何か共通するものがあったのでしょう。

 間宮林蔵は、日本史にもうひとつ名を残しています。〈シーボルトが帰国の際に、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚した〉(同「デジタル大辞泉」)、いわゆる「シーボルト事件」(1828年)です。この時、幕府へ〈シーボルト事件を密告〉(同前)した人物こそ、間宮林蔵なのです。これにより、〈人望を失った〉(同「国史大辞典」)林蔵は、〈幕府隠密として長崎に下り、ついで薩摩藩密貿易の探索、石見国浜田の密輸事件摘発などを行なった〉(同前)。

 どうです? 何やら間宮林蔵という男の情念のようなものが、端々から滲み出ます。彼の行動を突き動かしたものはなんだったのでしょうか。〈晩年は暗く〉(同「日本歴史地名大系」「間宮林蔵正家」の項)、〈不遇〉(同「日本架空伝承人名事典」)とされる間宮林蔵の心の内を覗いてみたくなりました。



本を読む

『東韃地方紀行 他』(間宮林蔵述 村上貞助編 洞富雄、谷澤尚一編注)
今週のカルテ
ジャンル紀行/記録
時代・舞台19世紀初頭のロシア
読後に一言登場する民族を説明する付録「北蝦夷・東韃地方居住民族注」を興味深く読みました。この地域に、さまざまな文化、暮らしがあったことに今さらながら驚きます。
効用19世紀初頭のカラフト、アムール川下流地域(韃靼地方の東)の様子がよくわかります。
印象深い一節

名言
満州人に源義経蝦夷より満州へ入りし事を度々に尋ねしに、聢(しか)といたせし証拠はなく候へども、当時漢土の天子は日本人の末なりといふ事承り伝へ候と、人ごとに答へたり。(「窮髪紀譚」)
類書ロシア人の見たカラフト『サハリン島占領日記1853-54』(東洋文庫715)
間宮林蔵も登場する『シーボルトの日本報告』(東洋文庫784)
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