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1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。

東洋文庫 732

『太平記秘伝理尽鈔3』(今井正之助、加美宏、長坂成行校注)

2022/04/07
アイコン画像    鎌倉幕府滅亡の瞬間、
アラサーたちが躍動す

 さて鎌倉幕府が滅亡したのはいつでしょうか。パッと年号が出てきたならば拍手喝采。正解はこれです。

 〈各地で討幕の兵がおこり、1333年5月にはまず足利高氏(あしかがたかうじ)(のち足利尊氏)らが六波羅探題を攻略し、さらに新田義貞(にったよしさだ)らによって鎌倉幕府も落とされ、ここに北条氏は滅亡した〉(ジャパンナレッジ「ニッポニカ」)

 NHKの大河ドラマで、さあこれから平氏を討ち、いざ鎌倉幕府を開こうというタイミングで、鎌倉幕府が亡びる話題を持ち出すのもなんですが、『太平記』は鎌倉幕府滅亡の物語でもあるのです。

 本書『太平記秘伝理尽鈔3』には、新田義貞の鎌倉幕府を攻め込むシーンもしっかり描かれています。


 〈伝云、(北条)高時運の尽(つ)きぬる故にやありけん、前々干(ひ)ると云へども馬の大(ふと)〈太〉腹(はら)のつかるほどにあるは稀(まれ)なり。其日は遠干潟(とをひがた)となれり〉


 義貞は、鎌倉の東側、海岸沿いに極楽寺坂、稲村ヶ崎からと攻め込みます。

 幕府が置かれた鎌倉は、〈東・北・西の三方を標高一〇〇メートル前後の丘陵によって囲まれ〉た、〈防御に容易な地形〉で、〈古東海道上の要地〉(同「日本歴史地名大系」「鎌倉市」の項)でした。ところが新田義貞が攻め入ったその日は、海の水が引けていました。この日は〈稀〉な〈遠干潟〉だったのです。

〈万人是を見たりとにや。義貞のきせい(祈請)と書し事、いかに。神国の威(ゐ)を輝かさん為にや〉

 極楽寺坂まで進軍してきた義貞は、〈太刀を海中に投げ龍神に退潮を祈願〉したといいます。〈果たして夜更けに潮が引き、軍勢は鎌倉へ乱入〉したのでした。『太平記』の名シーンのひとつです。

 義貞は〈5月22日鎌倉を落とし、得宗(とくそう)北条高時(たかとき)以下を自殺させ〉(同「ニッポニカ」「新田義貞」の項)ます。鎌倉幕府滅亡の瞬間です。

 これが1333年のこと。この時点での主要人物の年齢を記載してみましょう。後醍醐天皇46歳、楠木正成40歳、新田義貞33歳、北条高時31歳、足利尊氏29歳。次の政権を占う大戦は、両陣営とも実はアラサーが中心だったのです。

 正成が自害するのはこの3年後、義貞が戦死するのは5年後のことです。

本を読む

『太平記秘伝理尽鈔3』(今井正之助、加美宏、長坂成行校注)
今週のカルテ
ジャンル文学/歴史
時代・舞台16世紀末~17世紀初頭頃に成立/日本
読後に一言新田義貞は、〈官途名すらもたぬほど鎌倉幕府からは冷遇された一御家人(ごけにん)にすぎなかった〉(ジャパンナレッジ「ニッポニカ」)ようです。ゆえに手足となる一族も少なく、足利との争いに敗れたとも。歴史の悲しい一面です。
効用新田義貞の活躍をとくとご覧あれ。
印象深い一節

名言
七書(中国の武経七書)を能く学びて、深く其意(こころ)を覚(さと)し、時に合て是を行ふに、あやまり有る事なからん。(『太平記評判秘伝理尽抄巻第十二』「公家一統政道の事」)
類書初の軍記物語『将門記(全2巻)』(東洋文庫280、291)
鎌倉や稲村ヶ崎も案内する『明治日本旅行案内 東京近郊編』(東洋文庫776)
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