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1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。

東洋文庫 189

『モンゴル帝国史3』(ドーソン著 佐口透訳注)

2022/05/12
アイコン画像    皇帝クビライは、中国を征服し
その刃を日本に向ける

 大河ドラマの主人公、小栗旬演じる小四郎(北条義時)の父、と言ったほうが通りがいいでしょうか。鎌倉幕府の初代執権・北条時政のことですが、彼が亡くなったのは1215年のこと。70歳を超える長寿でした。この同じ年に生を受けたのが、本書の主人公ともいえるこの男、元朝の初代皇帝クビライ(フビライとも)です。

 クビライは、チンギス・ハンの孫で、〈モンゴル帝国第5代のハン(在位1260~94)〉となりましたが、彼を〈モンゴル帝国の首長と認めない同族は多かった〉(ジャパンナレッジ「ニッポニカ」「フビライ・ハン」の項)。同族間の抗争は続き、〈西方の諸汗国は独立の形勢となり、モンゴル大帝国も事実上、解体した〉(同「国史大辞典」「忽必烈(フビライKhubilai)」の項)のでした。

 クビライは第5代ハンに即位後、宋(中国)へ進軍します。1273年の樊城(はんじょう)の城攻めでは、〈ペルシアより招いていた技師(砲匠)たち〉を投入します。この砲匠は、〈城壁に対して砲を据え〉、〈重さ百五十斤の石を発射し、塁壁に深さ七、八フィートの穴をいくつも穿った〉。「1斤」は約600gなので、150斤といえば約9万g=90kg。とんでもない重さです(ただし注によれば、弾ではなく砲の重さのようですが)。この砲によって、壁には深さ2mを超える穴がいくつも開き、モンゴル軍は侵入が可能になりました。


 〈モンゴル軍は突撃を開始し、大虐殺をおこなったすえ、外郭を奪取した〉


 中国制覇に目処が立ったクビライは、〈ただちに、古来より中華帝国に朝貢していた日本を服属させようと欲し〉ます。これが世に言う「元寇」、〈文永11年(1274)と弘安4年(1281)に、元のフビライの軍が日本に攻めてきた事変〉(同「デジタル大辞泉」「げん‐こう【元寇】」の項)です。

 日本にとっては大事件でした。実際、〈鎌倉幕府体制の有していた諸矛盾は、蒙古襲来を契機として顕在化し〉(同「ニッポニカ」「元寇」の項)、〈幕府側が元の侵攻に備えて御家人のみならず非御家人をも含む、いわば分を超えた防御態勢の維持に精力をとられている間に、のちの倒幕に至る潜勢力を蓄えた〉(同「国史大辞典」「文永・弘安の役」の項)のですから。元寇の半世紀後、鎌倉幕府は滅びます。

 しかしモンゴル帝国史からみれば、日本への侵攻は些細な出来事であったようです。本書のページでいえば、元寇の記述はわずか数ページ。全体の100分の1程度です。これが攻めて負けた側の理屈かもしれません。

本を読む

『モンゴル帝国史3』(ドーソン著 佐口透訳注)
今週のカルテ
ジャンル歴史
成立・舞台1200~1300年代の中国、モンゴル、日本、北朝鮮、韓国など
読後に一言本論からはズレますが、元寇の影響としての次の指摘は心に留めておきたいと思います。〈モンゴルとの交渉の開始以後、元に対して対等の立場を確保する必要上、天照大神以来その神孫が皇位を継承するとの神孫君臨の神国思想が強まった〉(ジャパンナレッジ「国史大辞典」「文永・弘安の役」の項)
効用モンゴルと宋がどう戦ったのか。その過程がわかります
印象深い一節

名言
〈かくてこの年〔一二七九年〕に、皇帝クビライは中国全土の平和な君主となったのであったが、モンゴル人は中国を征服するのに半世紀以上も費やしたのであった。(第三篇「第二章」)
類書元朝に対してどう戦ったか『中国民衆叛乱史2 宋~明中期』(東洋文庫351)
クビライに厚遇されたマルコ・ポーロの旅行記『東方見聞録(全2巻)』(東洋文庫158、183)
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