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神武天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『神武天皇』の国史大辞典・新版 日本架空伝承人名事典・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
神武天皇
じんむてんのう
『日本書紀』および『古事記』によれば、第一代の天皇で、皇室の祖先とされる。その名は、『日本書紀』神代、神皇承運章本文・同第一の一書によれば、神日本磐余彦(かんやまといわれひこ)尊という。〓〓草葺不合(うがやふきあえず)尊の第四子で、母は玉依姫(たまよりひめ)。甲寅の歳、諸兄とともに日向を発して、瀬戸内海を経て、河内の白肩(しらかた)の津に上陸したが、長髄彦(ながすねひこ)が孔舎衛(くさえ)坂に防いだために、紀伊に迂回し、この間に諸兄を失った。熊野で高倉下(たかくらじ)の迎えを受け、頭八咫烏(やたがらす)と日臣(ひのおみ)命(道臣命)の先導によって、中洲(なかつくに、大和)に入った。菟田(うだ)では弟猾(おとうかし、猛田(たけだ)県主の祖)が帰順し、吉野では井光(いひか、吉野首の祖)・磐排別(いわおしわけ、国樔(くず)部の祖)・苞苴担(にえもつ、養〓(うかい)部の祖)らが服従した。国見丘(くにみのおか)では八十梟師(やそたける)を斬り、さらにその余衆を忍坂(おさか)に亡ぼした。磯城(しき)では弟磯城(磯城県主の祖)が帰順した。ついに進んで長髄彦を鳥見(とみ)に撃った。戦の不利の際に、金色の鵄(とび)が磐余彦の弓弭(ゆはず)にとまり、敵はその光に眩いた。かねて長髄彦に奉ぜられていた饒速日(にぎはやひ)命は、磐余彦が天神の子であることを認めて、長髄彦を誅して帰順した。これが物部氏の祖先である。なお層富(そふ)の新城戸畔(にいきとべ)、和珥坂下(わにのさかもと)の居勢祝(こせのはふり)、臍見長柄丘岬(ほそみのながえのおかさき)の猪祝(いのはふり)などの土蜘蛛(つちぐも)も、すべて亡ぼされた。そこで磐余彦は畝傍(うねび)山の東南橿原(かしはら)の地に帝宅を造り、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)命を正妃に立て、辛酉の歳帝位に即いた。これを始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称する。ついで功労のあった臣下に賞を与え、また鳥見山に霊畤を立てて、皇祖の天神を祭った。在位七十六年、寿百二十七歳で崩じ、畝傍山東北陵に葬った。
この伝承の中で、『日本書紀』に記された東征や即位に際しての誥命が、中国の史書の形式を模倣して作られたことは、いうまでもない。即位の年を辛酉と定めたことが、讖緯説の辛酉革命の説に基づいて、その一蔀(ぼう)のはじめを取ったことは、早く三善清行にこれを示唆するものがあり、伴信友がこれを主張し、那珂通世に至って定説となったものである。いまこれらの明らかな修飾を除いて、伝承を分析すると、それはほぼ『帝紀』と『旧辞』とを原史料とすると考えられる。『帝紀』は系譜的記事である。氏族の出自、陵墓・皇居などの所在に関する記事はこれに含まれる。氏族の出自に関しては、社会的地位を確認させるために作為されたものが多いから、必ずしも信用できないが、陵墓は顕著な造営物であるから、これに伴う記憶もしくは伝承は、注意に値する。『日本書紀』天武紀によれば、壬申の乱にあたって、高市郡の大領高市県主許梅(こめ)に神懸りがあったために、神武陵に馬および兵器を奉ったという。すなわちこの時に公式に神武陵とされたものが存在したばかりでなく、それは祭祀の対象でもあったのである(『多武峯略記』によると、この陵墓は、平安時代中期までは、荒廃しながらも、その位置を知られていたらしい)。そしてそれはさらに大化前代にさかのぼるべきものであり、『帝紀』が五世紀にはじめて記録として成立したとしても、口承による伝承は、より以前から存在したと考えることも可能であろう。皇居も陵墓と類似した性質を有する。「ミヤ」という言葉に示されるごとく、古代の皇居は、単に天皇の居住する場所であるにとどまらず、また神殿でもあり祭場でもあった。そして、それは天皇の治世とともに移動したから、特定の天皇を指す場合に、その名の上に皇居の所在を冠することは、きわめて一般的な用例であった。それがすでに五世紀に存在することは、熊本県江田船山古墳出土の刀銘によって確認される。おそらく歴代の皇居の所在も、それ以前から伝承されたのであろう。
周知のごとく神武天皇およびそれ以後の十数代の天皇の年寿および在位年数は異常に長い。これが作為であることはいうまでもないが、これは神武の即位を辛酉の歳に定めたために、実年代との間に数百年の開きを生じ、しかも『帝紀』の伝える歴代の代数を動かすことができないために、不自然な操作を行なったからである。すなわちこれらの作為は、単なる机上の制作ではなく、全く『帝紀』の記載を尊重した結果にほかならない。そして『帝紀』の記載を尊重する限り、神武天皇の史的実在は、これを確認することも困難であるが、これを否認することも、より以上に困難なのである。これに対して、『旧辞』は物語である。近世の関東地方の各地に、平将門や源義家に関する口碑が存在するように、古代の奈良盆地とくにその周辺地域には、磐余彦に関する多くの口碑(地名説話を含む)が存在したらしい。これを集成し、適当に配列して、磐余彦の大倭平定の物語が成立したものと考えられる。猛田県主や磯城県主などの諸氏族の祖先に関する伝承も、多くは一応この物語の大筋が成立してから、これに寄生したものが多いようである。ただ物部氏などに関しては、その固有の伝承が動かし難かったために、その祖先である饒速日命を、磐余彦と同格に天神の子とする説話が保存されたのであろう。物語の中に挿入された多くの歌謡は、資料的には、全く系統を異にするものであって、それらはすべてもと大伴氏に属した久米部に伝えられた久米歌である。その中から地名その他で説話の内容に関係があるらしく考えられるものを取り入れたものである。いま綜合して物語の原型を推測すると、それは磐余彦と長髄彦(登美彦)との二人の首長の争闘、そして磐余彦の勝利というきわめて単純な図式となる。そしてこれはおそらく皇室に古くから保存された伝承であろう。
近年この磐余彦の大倭平定説話を以て、崇神天皇・応神天皇、もしくは継体天皇などの事蹟を、より古代に反映させたものとする説がある。しかしこれらの諸説は、いずれもその論証がすこぶる不充分なばかりでなく、その前提となる崇神・応神・継体の事蹟の史実性についての吟味を欠いているために、信用することができない。これと対蹠的に、磐余彦の大倭平定説話の前段階を構成する東征説話に、北九州の邪馬台国が東遷した事実が含まれていると主張する説もある。しかしこれは津田左右吉が早く指摘したように、皇室の祖先を説明するために、天孫が日向に降臨したという説話が設定されたために、これを実在する大和朝廷に結びつける必要から作為されたものであって、全く史実性を認めることはできない。しかしそれは単なる作為というよりは、むしろイスラエル民族のエジプト脱出の伝承に類似する一種の信仰というべきものであろう。
[参考文献]
文部省編『神武天皇聖蹟調査報告』、佐藤小吉編『飛鳥誌』、津田左右吉『日本古典の研究』(『津田左右吉全集』一・二)、植村清二『神武天皇』(『日本歴史新書』)
(植村 清二)

畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)

奈良県橿原市大字洞(ほら)にあり、旧字名を「みさんざい」(「みささぎ」の訛り)という。南面する円丘で、方形の濠が巡っており、陵前の鳥居は黒木を用いている。『日本書紀』によれば、天皇は七十六年三月十一日に崩御、翌年九月十二日当陵に葬るとあり、『古事記』には陵は「畝火山之北方、白檮尾上(かしのおのえ)」にありとし、『延喜式』諸陵寮の制は「兆域東西一町、南北二町、守戸五烟」で、遠陵に班している。天武天皇が壬申の乱(六七二年)で大和に陣した際、高市郡の大領に神教があって、当陵に馬や兵器を供えて祭らせたことがある(『日本書紀』)。『続日本紀』文武天皇四年(七〇〇)八月条には「宇尼備(うねび)」などの山陵の樹木が故なくして枯れたとあるが、当陵かどうかは明らかでない。円融天皇の時に、神武天皇の神託によって陵側に国源寺が創建されたと伝えられている(建久八年(一一九七)撰の『多武峯略記』)。同寺はその後荒廃して明らかでないが、現在当陵域内に遺存する一群の礎石は同寺のものといわれている。中世以後当陵に関して伝えるものはなく、ついに荒廃して所在を失うに至った。近世になり勤王の気運に伴って皇陵の関心も高まり、元禄九年(一六九六)松下見林は『前王廟陵記』において、畝傍山の東北慈明寺村の「神武田(じぶでん)」という所にある小丘を陵所とした。当所の字名は「みさんざい」といい、貝原益軒も同所をあてたが、元禄十一年江戸幕府の皇陵探索の時は、現在綏靖天皇陵になっている四条村の塚根山を陵として竹垣を巡らした。しかしいろいろ異説も出て、竹口尚重が畝傍山の北方にある洞村の丸山(一名、御殿山)を擬してからは、この説に従うものも多かったが、嘉永二年(一八四九)奈良奉行川路聖謨がその著『神武御陵考』において前記の神武田の小丘が真陵であると論じてからは、この方が有力となり、両者の正否は決めかねたので幕末の修陵の際、文久三年(一八六三)二月勅裁によって神武田の方を陵とし、大いに修理を施した。
[参考文献]
谷森善臣『山陵考』(『(新註)皇学叢書』五)、上野竹次郎『山陵』上
(中村 一郎)


新版 日本架空伝承人名事典
『古事記』『日本書紀』に伝えられ初代の天皇とされる。高天原たかまがはらより天津神あまつかみの子として地上に降臨した瓊瓊杵ににぎ尊の曾孫とされる。神武という名は八世紀後半の命名による漢風諡号しごうで、記紀には、〓若御毛沼わかみけぬ命、〓神倭伊波礼毘古かむやまといわれびこ命、〓始馭天下之天皇はつくにしらししすめらみことほか多くの名が記されている。〓は穀霊的性格を示す幼名にあたり、〓は神聖な大和の国のいわれ(由緒)を負うている男、〓は初めて天下を治定した天皇の意である。記紀の神武天皇の所伝は若干の小異があるが大綱においてほぼ同様で、要するにそれは神々の世界に生まれた穀霊的存在(〓)が、いかにして人の世を開き初代君主(〓〓)となったかを語った一種の英雄伝説とみなされる。『日本書紀』の記す紀年、辛酉年かのととりのとし(前六六〇)即位、七六年(前五八五)に一二七歳で没というのは史実をよそおった造作であり、六~七世紀の記紀神話形成期に今見るような形に物語化されたものであろう。
神武伝説の大要
初め日向の国の高千穂宮たかちほのみやにいた神武は、兄五瀬いつせ命とはかり、「どの地を都とすれば安らかに天下を治められようか、やはり東方をめざそう」と日向を出発する。途中、宇佐、筑紫、安芸、吉備を経歴しつつ瀬戸内海を東進して難波に至り、そこで長髄彦ながすねひこと戦って五瀬命を失う。神武の軍は南に迂回して熊野に入ったところを化熊に蠱惑こわくされるが、天津神の助力によって危地を脱し、天津神の派遣した八咫烏やたがらすの先導で熊野・吉野の山中を踏み越えて大和の宇陀に出る。ここで兄猾えうかし弟猾おとうかしを従わせ、以後、忍坂おさか土雲八十建つちぐもやそたける、長髄彦、兄磯城えしき弟磯城おとしきらの土着勢力を各地に破り、大和平定を成就する。さらに別に天下っていた饒速日にぎはやひ命も帰順して、神武は畝傍うねび橿原かしはらを都と定め天下を統治するに至った。后妃は日向の土豪の妹、阿比良比売あひらひめがいたが、大后おおぎさきとして三輪の大物主おおものぬし神の娘、伊須気余理比売いすけよりひめを立て、その間に神渟名川耳かむぬなかわみみ尊(第二代綏靖天皇)ほか二子が生まれた。
神武伝説の形成
以上の神武伝説は往古の覇者東漸を記した歴史というより、七世紀前後に王権の儀式、大嘗祭だいじょうさいとかかわりつつ記紀神話の一環として語りだされたものであろう。大嘗祭に基礎をおく神話の一典型は、大嘗宮での新天子誕生の秘儀を説話化した瓊瓊杵尊の降臨譚だが、神武伝説はこの天孫降臨神話の地上的・世俗的再話といえる。神武の穀霊的素性を示す幼名は、彼が瓊瓊杵尊の分身であることをあらわし、熊野での危機とその克服は降臨譚と同じく死と復活の儀式の型をふんでいる。ただ前者の天界より地上へという宇宙的・神話的展開に対し、後者が日向から大和への遍歴・征服の筋をとるのは、大嘗祭の地上的部分、とくに国覓くにまぎ儀礼にもとづくからであろう。国覓は天子が都とするに足るよき地を求めることで、七世紀末以前の都城が天子一代限りとされていた時代には即位式中の一重要部分であった。実際の国覓は大和周辺のあれこれの地を卜占等により選定するが、神武伝説はそれを歴代都城の地にほかならぬ大和そのものの発見、治定として典型化している。それこそが初代君主にもっともふさわしい事業とされたのであろう。なお神武伝説には、一連の戦闘歌謡、久米歌くめうたが含まれている。これも大嘗祭における歌舞、久米舞くめまいの詞章によるものだが、独特な活気と迫力をもって物語中に精彩を放っている。
[阪下 圭八]
神倭伊波礼毘古命、其の伊呂兄五瀬命と二柱、高千穂宮に坐して議りて云りたまひけらく、「何地に坐さば、平らけく天の下の政を聞しさむ。猶東に行かむ。」とのりたまひて、即ち日向より発たして筑紫に幸行でましき。
古事記中巻
十有二月の癸巳の朔丙申に、皇師遂に長髄彦を撃つ。連に戦ひて取勝つこと能はず。時に忽然にしてけて雨氷ひさめふる。乃ち金色のあやしきとび有りて、飛び来りて皇弓みゆみはずに止れり。其の鵄光り曄煜てりかがやきて、かたち流電いなびかりの如し。是に由りて、長髄彦が軍卒いくさのひとども皆迷ひまぎえて、復力きはめ戦はず。
日本書紀
辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に即帝位す。是歳を天皇の元年とす。
日本書紀
ツラツラ其の応跡の形体を尋ぬれば、地神五代鸕〓草不合尊第四子人皇第一神武天皇、時に太子として、甲寅の年諸の皇子をヒキいて東征し給ふ。戊午の年紀伊の国名草の邑、遂に狭野を越え熊野の神の邑に到り、ホノカに視そなはし給ふに、野の間に大熊屡々現じ忽然として即ち隠れぬ。又人有りて高倉下と曰ふ。天照の告を得て夢の覚て、庫を開くるに神剣現在せり。彼此共に権現応作の形、和光利物の姿也。爰に天皇山を越えんと欲するに、峨峨として路無く険阻にして通り難し。時に八咫の霊烏翔り降りて路を示す。偏に是れ権現の冥助重跡の加被、真所実相を以て物に同し、強に禽獣の族と化し、神剣威を振りて能く魔界の敵を禦ぐ。
熊野権現講式


世界大百科事典

《古事記》《日本書紀》に伝えられ初代の天皇とされる。高天原(たかまがはら)より天津神(あまつかみ)の子として地上に降臨した瓊瓊杵(ににぎ)尊の曾孫とされる。神武という名は8世紀後半の命名による漢風諡号(しごう)で,記紀には,(1)若御毛沼(わかみけぬ)命,(2)神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)命,(3)始馭天下之天皇(はつくにしらししすめらみこと)ほか多くの名が記されている。(1)は穀霊的性格を示す幼名にあたり,(2)は神聖な大和の国のいわれ(由緒)を負うている男,(3)は初めて天下を治定した天皇の意である。記紀の神武天皇の所伝は若干の小異があるが大綱においてほぼ同様で,要するにそれは神々の世界に生まれた穀霊的存在((1))が,いかにして人の世を開き初代君主((2)(3))となったかを語った一種の英雄伝説とみなされる。《日本書紀》の記す紀年,辛酉年(かのととりのとし)(前660)即位,76年(前585)に127歳で没というのは史実をよそおった造作であり,6~7世紀の記紀神話形成期に今見るような形に物語化されたものであろう。

神武伝説の大要

初め日向の国の高千穂宮(たかちほのみや)にいた神武は,兄五瀬(いつせ)命とはかり,〈どの地を都とすれば安らかに天下を治められようか,やはり東方をめざそう〉と日向を出発する。途中,宇佐,筑紫,安芸,吉備を経歴しつつ瀬戸内海を東進して難波に至り,そこで長髄彦(ながすねひこ)と戦って五瀬命を失う。神武の軍は南に〓回して熊野に入ったところを化熊に蠱惑(こわく)されるが,天津神の助力によって危地を脱し,天津神の派遣した八咫烏(やたがらす)の先導で熊野・吉野の山中を踏み越えて大和の宇陀に出る。ここで兄猾(えうかし),弟猾(おとうかし)を従わせ,以後,忍坂(おさか)の土雲八十建(つちぐもやそたける),長髄彦,兄磯城(えしき),弟磯城(おとしき)らの土着勢力を各地に破り,大和平定を成就する。さらに別に天下っていた饒速日(にぎはやひ)命も帰順して,神武は畝傍(うねび)の橿原(かしはら)を都と定め天下を統治するに至った。后妃は日向の土豪の妹,阿比良比売(あひらひめ)がいたが,大后(おおぎさき)として三輪の大物主(おおものぬし)神の娘,伊須気余理比売(いすけよりひめ)を立て,その間に神渟名川耳(かむぬなかわみみ)尊(第2代綏靖天皇)ほか2子が生まれた。

神武伝説の形成

以上の神武伝説は往古の覇者東漸を記した歴史というより,7世紀前後に王権の儀式,大嘗祭(だいじようさい)とかかわりつつ記紀神話の一環として語りだされたものであろう。大嘗祭に基礎をおく神話の一典型は,大嘗宮での新天子誕生の秘儀を説話化した瓊瓊杵尊の降臨譚だが,神武伝説はこの天孫降臨神話の地上的・世俗的再話といえる。神武の穀霊的素性を示す幼名は,彼が瓊瓊杵尊の分身であることをあらわし,熊野での危機とその克服は降臨譚と同じく死と復活の儀式の型をふんでいる。ただ前者の天界より地上へという宇宙的・神話的展開に対し,後者が日向から大和への遍歴・征服の筋をとるのは,大嘗祭の地上的部分,とくに国覓(くにまぎ)儀礼にもとづくからであろう。国覓は天子が都とするに足るよき地を求めることで,7世紀末以前の都城が天子一代限りとされていた時代には即位式中の一重要部分であった。実際の国覓は大和周辺のあれこれの地を卜占等により選定するが,神武伝説はそれを歴代都城の地にほかならぬ大和そのものの発見,治定として典型化している。それこそが初代君主にもっともふさわしい事業とされたのであろう。なお神武伝説には,一連の戦闘歌謡,久米歌(くめうた)が含まれている。これも大嘗祭における歌舞,久米舞(くめまい)の詞章によるものだが,独特な活気と迫力をもって物語中に精彩を放っている。
→天孫降臨神話
[阪下 圭八]

[索引語]
若御毛沼(わかみけぬ)命 神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)命 始馭天下之天皇 八咫烏 兄猾 弟猾 兄磯城 弟磯城 国覓
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であろう。 [参考文献]文部省編『神武天皇聖蹟調査報告』、佐藤小吉編『飛鳥誌』、津田左右吉『日本古典の研究』(『津田左右吉全集』一・二)、植村清二『神武天皇』( ...
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世界大百科事典
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日本国語大辞典
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34. あきつしま【秋津洲】奈良県:御所市
日本歴史地名大系
「掖上の室山」の記事がみえ、掖上とよばれた地域にあった。現在の大字室付近に推定。「日本書紀」神武天皇三一年四月一日条に、皇輿巡り幸す。因りて腋上の ...
35. あぐちじんじゃ【開口神社】
国史大辞典
執っていたので今も「大寺さん」の俗称で親しまれている。主祭神の塩土老翁は山幸海幸神話にまた天孫降臨や神武天皇東征に説示された神と伝え、事勝国勝長狭(ことかつくに ...
36. あしひとつあがりのみや【一柱騰宮】
国史大辞典
記紀にみえる神武天皇の行宮。『日本書紀』によれば、神武天皇即位前紀甲寅年十月条に、日向から東征し、速吸之門(はやすいのと)を経て筑紫国菟狭(うさ)に至った時、 ...
37. あしひとつあがり‐の‐みや【足一騰宮・一柱騰宮】
日本国語大辞典
神武天皇の行宮。筑紫国菟狭(うさ)に建てた宮と伝えられる。現在の大分県宇佐市南宇佐などに比定される。「古事記伝」では、川に大きな柱をたてて宮を支えたことにちなむ ...
38. あしや【芦屋】
日本国語大辞典
北部の地名。遠賀川河口にあり、江戸時代は米、石炭、唐津(からつ)物の積み出し港として栄えた。神武天皇東征、仲哀天皇西征のときの通過地といわれる。*浮世草子・武家 ...
39. あしやむら【芦屋村】福岡県:遠賀郡/芦屋町
日本歴史地名大系
社)。村の北部、岡松原(三里松原)に神武天皇・仲哀天皇・神功皇后の三柱を祀る神武宮(現神武天皇社)がある(続風土記附録)。当地が「古事記」にみえる神武天皇の行宮 ...
40. 排蘆小船(近世随想集) 277ページ
日本古典文学全集
念入りに見る、じっとみまもる意の漢字。『石上私淑言』一「余牟といふ事は、やや後の事なるべし。ただし神武天皇紀に宇多預瀰といふ言あり。ただし是は後よりいへる言なる ...
41. あそしんわ【阿蘇神話】
国史大辞典
かと孝えられるが、中央の確実な文献に何ら所見がなく(『旧事本紀』の『国造本紀』では速瓶玉命は神武天皇の皇子神八井耳命の孫となっている)、中世阿蘇氏がその地位を保 ...
42. 阿蘇神社画像
日本大百科全書
二宮阿蘇都比咩命はその妃(きさき)で、そのほかはすべてその血縁関係にあたる。社伝によれば、健磐竜命は神武天皇の特命を受けて九州鎮護の任にあたり、当時大湖水であっ ...
43. あそ‐じんじゃ【阿蘇神社】
日本国語大辞典
阿蘇都比〓命(あそつひめのみこと)は神武天皇の勅によって阿蘇地方の国土開発にあたった開拓神といわれる。延喜式内名神大社。肥後国一の宮。 ...
44. あそのくにのみやつこ【阿蘇国造】
国史大辞典
古代の阿蘇地方の豪族。九州の名族で阿蘇君と称し神武天皇の皇子神八井耳命の裔という系譜を持つ。国造とあるのは『国造本紀』だけであるが、『筑紫風土記』逸文には「閼 ...
45. あたの-おばし【吾田小橋】
日本人名大辞典
)(海幸)を祖とする日向(ひゅうが)の隼人(はやと)の有力者。妹の吾平津媛(あひらつひめ)が神武天皇の妃となった。「古事記」には阿多小椅としるされる。 ...
46. あた・る【当・中】
日本国語大辞典
経平安後期点〔1050頃〕一八「各十万両の金に直(アタル)」*大鏡〔12C前〕一・後一条院「神武天皇より卅七代にあたり給ふ孝徳天皇と申すみかどの御代」*平家物語 ...
47. あだ【阿太】
国史大辞典
郷に属した。阿太の名は『日本書紀』神武天皇即位前紀にみえる阿太養〓部(うかいべ)にちなみ ...
48. あだのおおの【阿陀大野】奈良県:五條市
日本歴史地名大系
五條市東部、吉野川沿岸の地域。「古事記」神武天皇段に「其の八咫烏の後より幸行でませば、吉野河の河尻に到りましし時、筌を作せて魚取る人有りき、爾に天ツ神の御子、「 ...
49. あづまじんじゃ【吾妻神社】静岡県:御殿場市/御殿場村
日本歴史地名大系
吾妻神社と改めた。当社祭礼の吾妻祭は江戸時代までは一月一六日に行われていたが、明治時代になり神武天皇祭として四月三日に行われるようになり、現在は四月の第一日曜日 ...
50. 安仁神社
世界大百科事典
岡山市に鎮座。備前国の二宮,もと国幣中社。祭神は神武天皇の兄の彦五瀬(ひこいつせ)命とされるが,異説も多い。吉備氏にゆかりの神社と考えられ,《延喜式》では備前で ...
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天皇(改訂新版・世界大百科事典)
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皇位継承(改訂新版・世界大百科事典)
7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で
摂政(国史大辞典)
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万機に関与する重職で摂政に類似する。したがって摂政と合わせて摂関・摂ろく・一の人・一の所などと称し、執柄・博陸・殿下などの唐名がある。関白の語は『漢書』霍公伝に、宣帝が諸事まず霍光に関白してから奏上せしめたとみえているが
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文官分限令・文官懲戒令(日本大百科全書)
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上皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
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昭和天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
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