
草葺不合(うがやふきあえず)尊の第四子で、母は玉依姫(たまよりひめ)。甲寅の歳、諸兄とともに日向を発して、瀬戸内海を経て、河内の白肩(しらかた)の津に上陸したが、長髄彦(ながすねひこ)が孔舎衛(くさえ)坂に防いだために、紀伊に迂回し、この間に諸兄を失った。熊野で高倉下(たかくらじ)の迎えを受け、頭八咫烏(やたがらす)と日臣(ひのおみ)命(道臣命)の先導によって、中洲(なかつくに、大和)に入った。菟田(うだ)では弟猾(おとうかし、猛田(たけだ)県主の祖)が帰順し、吉野では井光(いひか、吉野首の祖)・磐排別(いわおしわけ、国樔(くず)部の祖)・苞苴担(にえもつ、養
(うかい)部の祖)らが服従した。国見丘(くにみのおか)では八十梟師(やそたける)を斬り、さらにその余衆を忍坂(おさか)に亡ぼした。磯城(しき)では弟磯城(磯城県主の祖)が帰順した。ついに進んで長髄彦を鳥見(とみ)に撃った。戦の不利の際に、金色の鵄(とび)が磐余彦の弓弭(ゆはず)にとまり、敵はその光に眩いた。かねて長髄彦に奉ぜられていた饒速日(にぎはやひ)命は、磐余彦が天神の子であることを認めて、長髄彦を誅して帰順した。これが物部氏の祖先である。なお層富(そふ)の新城戸畔(にいきとべ)、和珥坂下(わにのさかもと)の居勢祝(こせのはふり)、臍見長柄丘岬(ほそみのながえのおかさき)の猪祝(いのはふり)などの土蜘蛛(つちぐも)も、すべて亡ぼされた。そこで磐余彦は畝傍(うねび)山の東南橿原(かしはら)の地に帝宅を造り、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)命を正妃に立て、辛酉の歳帝位に即いた。これを始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称する。ついで功労のあった臣下に賞を与え、また鳥見山に霊畤を立てて、皇祖の天神を祭った。在位七十六年、寿百二十七歳で崩じ、畝傍山東北陵に葬った。


は穀霊的性格を示す幼名にあたり、
は神聖な大和の国のいわれ(由緒)を負うている男、
は初めて天下を治定した天皇の意である。記紀の神武天皇の所伝は若干の小異があるが大綱においてほぼ同様で、要するにそれは神々の世界に生まれた穀霊的存在(
)が、いかにして人の世を開き初代君主(
)となったかを語った一種の英雄伝説とみなされる。『日本書紀』の記す紀年、
草不合尊第四子人皇第一神武天皇、時に太子として、甲寅の年諸の皇子を《古事記》《日本書紀》に伝えられ初代の天皇とされる。高天原(たかまがはら)より天津神(あまつかみ)の子として地上に降臨した瓊瓊杵(ににぎ)尊の曾孫とされる。神武という名は8世紀後半の命名による漢風諡号(しごう)で,記紀には,(1)若御毛沼(わかみけぬ)命,(2)神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)命,(3)始馭天下之天皇(はつくにしらししすめらみこと)ほか多くの名が記されている。(1)は穀霊的性格を示す幼名にあたり,(2)は神聖な大和の国のいわれ(由緒)を負うている男,(3)は初めて天下を治定した天皇の意である。記紀の神武天皇の所伝は若干の小異があるが大綱においてほぼ同様で,要するにそれは神々の世界に生まれた穀霊的存在((1))が,いかにして人の世を開き初代君主((2)(3))となったかを語った一種の英雄伝説とみなされる。《日本書紀》の記す紀年,辛酉年(かのととりのとし)(前660)即位,76年(前585)に127歳で没というのは史実をよそおった造作であり,6~7世紀の記紀神話形成期に今見るような形に物語化されたものであろう。
初め日向の国の高千穂宮(たかちほのみや)にいた神武は,兄五瀬(いつせ)命とはかり,〈どの地を都とすれば安らかに天下を治められようか,やはり東方をめざそう〉と日向を出発する。途中,宇佐,筑紫,安芸,吉備を経歴しつつ瀬戸内海を東進して難波に至り,そこで長髄彦(ながすねひこ)と戦って五瀬命を失う。神武の軍は南に
回して熊野に入ったところを化熊に蠱惑(こわく)されるが,天津神の助力によって危地を脱し,天津神の派遣した八咫烏(やたがらす)の先導で熊野・吉野の山中を踏み越えて大和の宇陀に出る。ここで兄猾(えうかし),弟猾(おとうかし)を従わせ,以後,忍坂(おさか)の土雲八十建(つちぐもやそたける),長髄彦,兄磯城(えしき),弟磯城(おとしき)らの土着勢力を各地に破り,大和平定を成就する。さらに別に天下っていた饒速日(にぎはやひ)命も帰順して,神武は畝傍(うねび)の橿原(かしはら)を都と定め天下を統治するに至った。后妃は日向の土豪の妹,阿比良比売(あひらひめ)がいたが,大后(おおぎさき)として三輪の大物主(おおものぬし)神の娘,伊須気余理比売(いすけよりひめ)を立て,その間に神渟名川耳(かむぬなかわみみ)尊(第2代綏靖天皇)ほか2子が生まれた。
以上の神武伝説は往古の覇者東漸を記した歴史というより,7世紀前後に王権の儀式,大嘗祭(だいじようさい)とかかわりつつ記紀神話の一環として語りだされたものであろう。大嘗祭に基礎をおく神話の一典型は,大嘗宮での新天子誕生の秘儀を説話化した瓊瓊杵尊の降臨譚だが,神武伝説はこの天孫降臨神話の地上的・世俗的再話といえる。神武の穀霊的素性を示す幼名は,彼が瓊瓊杵尊の分身であることをあらわし,熊野での危機とその克服は降臨譚と同じく死と復活の儀式の型をふんでいる。ただ前者の天界より地上へという宇宙的・神話的展開に対し,後者が日向から大和への遍歴・征服の筋をとるのは,大嘗祭の地上的部分,とくに国覓(くにまぎ)儀礼にもとづくからであろう。国覓は天子が都とするに足るよき地を求めることで,7世紀末以前の都城が天子一代限りとされていた時代には即位式中の一重要部分であった。実際の国覓は大和周辺のあれこれの地を卜占等により選定するが,神武伝説はそれを歴代都城の地にほかならぬ大和そのものの発見,治定として典型化している。それこそが初代君主にもっともふさわしい事業とされたのであろう。なお神武伝説には,一連の戦闘歌謡,久米歌(くめうた)が含まれている。これも大嘗祭における歌舞,久米舞(くめまい)の詞章によるものだが,独特な活気と迫力をもって物語中に精彩を放っている。
→天孫降臨神話

草葺不合尊(ひこなぎさたけう ...
(つかあな) ...
命(あそつひめのみこと)は神武天皇の勅によって阿蘇地方の国土開発にあたった開拓神といわれる。延喜式内名神大社。肥後国一の宮。 ...
部(うかいべ)にちなみ ...
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