日本国憲法に定める日本国および日本国民統合の象徴。
〈天皇〉は〈オオキミ〉とも〈スメラミコト〉とも呼ばれた。しかしこの二つの日本語は決して同義ではなく,むしろ両者の質の違い,それぞれの用いられる次元の相違に注目することが,〈天皇〉の歴史性に近づいてゆくための一項目となろう。まずオオキミは〈大いなる君〉の意で,キミはまた〈カミ=上〉と通ずる古来の日常的尊称であった。《万葉集》の恋歌に女性が相手の男性をキミと呼ぶ例が多いのも,それが親愛をあらわす生活の言葉だったことを示す。〈胸形君(むなかたのきみ)〉〈筑紫君(つくしのきみ)〉などと地方豪族の地位の称にみえるキミは日常語からの延長であり,それをさらに大きく称号化したものがオオキミだといえる。したがってオオキミは天皇だけをさす語ではなく,王族身分の称(額田王(ぬかたのおおきみ)など)に用いられ,さらに一般にとくに尊敬をこめた代名詞として使われた形跡がある。
これに対しスメラミコトは天皇のみをさす尊称で,それは旧来のオオキミに代わって,王権の聖性と尊厳を内外にあらわすべく,6世紀末ないし7世紀初めのころ,とくに定められたものと思われる。スメラミコトの用例が対外的文書や詔勅といった公式的・儀礼的機会に限ってみられ,歌の中にいっさい出てこないのはこの語の特性にもとづく。《万葉集》中の天皇賛歌においても,天皇はやはりオオキミと呼ばれており,これは当時の歌が生活の言語を基本とするための,神聖な権威をあらわすスメラミコトとなじまなかったのである。そこからスメラミコトが日常語とは次元の異なる宮廷専用の,天皇を政治的・宗教的に聖別する用語として機能したことを知りうる。おそらくこの語の成立には王権神授の由来を説く記紀神話の形成が重なっていたと考えられる。
〈天皇〉の漢字表記は中国典籍によるが,スメラミコトの類語に〈スメガミ(皇神)〉〈スメロギ(皇祖)〉〈スメミマ(皇孫)〉等をみることに照らせば,スメラミコトは〈天皇〉の和訓ではなく,すでに先行していたこの語に〈天皇〉の字をあてたとみなされる。なお語義に関し〈スメラ〉を〈統(す)べる,統治する〉ととるのが従来の説だが,〈スメラ〉を〈澄める〉にもとづくものとし,それにより〈ケガレ〉の対極にあるところの神聖王権の超越性をあらわしたとの西郷信綱の見解がある。
《日本書紀》は第1代の天皇を神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇と称し,前660年に即位したと伝えるが,もとより事実ではない(神武天皇)。〈天皇〉号の成立は,かつては7世紀前半の推古朝とする説が有力であった。それは推古朝の仏像の光背の銘に〈天皇〉の称がみえることや,608年(推古16)に日本から隋に送った国書に〈東天皇敬白西皇帝〉とあったと《日本書紀》にみえることなどによる。しかし,仏像の銘は後代に刻まれた可能性が強く,《日本書紀》の文は8世紀の編者の潤色が多くて,ともに信用できないうえ,中国ではもと天皇の語は天の最高神の意に用いられ,地上の君主の意に用いるのは唐の674年(上元1)すなわち日本の天武3年以後のことなので,近年では天武朝より天皇の称号が用いられたとする意見が有力である。
天皇の語の使用以前は,〈大王〉の称が用いられた。それは癸未年(443年または503年)の干支をもつ隅田八幡人物画像鏡の銘に〈大王〉,辛亥年(471年または531年)の干支をもつ稲荷山古墳から出土した大刀銘に〈獲加多支鹵(わかたける)大王〉とあることなどからわかる。後者の大王は5世紀後半に在位したとされる雄略天皇に相当すると思われることなどから,大和,河内地方を基盤とする5~6世紀のヤマト政権の首長の称号と考えられる。大王の権力は獲加多支鹵大王の時代をへて,6世紀中葉にさらに強化された。このころ大王の都が奈良盆地南東部に集中して設けられること,大王の死後天国排開広庭(あめくにおしはるきひろにわ)(欽明)など荘重な諡(おくりな)を奉る風が始まること,舎人(とねり)など大王直属の軍事力や,大蔵,内蔵,屯倉(みやけ)などの財政組織が整備されることなどが,それを示している。中央集権制の端緒をなす初期の官司制も,この時期にはじまると考えられる。推古朝にはそれがさらに発展し,冠位十二階の制が定められた。
大王(天皇)の地位は645年からはじまる大化の新政によりいっそう高まり,天皇,皇太子を中心とする政治体制が形成された。しかし5世紀以来ヤマト政権の主要勢力を構成する豪族連合の力は依然強大で,天智天皇がその末年(671)に,有力豪族の代表5人を左右大臣や御史大夫に任じ,政府首脳部を構成したのはそのあらわれである。この体制は壬申の乱後,天武天皇によって打破され,皇親政治と呼ばれる天皇中心の独裁的な政治が行われたが,天武の没後には永続せず,大宝律令制下では新しく制定された太政官(だいじようかん)制として復活した。太政官の首脳部は,定置の官でない太政大臣のほか,左右大臣と大納言,令外官の中納言と参議によって形成され,政策の決定に大きな発言権をもち,その会議の結論は天皇も容易に拒否することはできなかった。また天皇の意志は詔書,勅旨(勅)として発布されるが,太政官の首脳部などの連署を必要とした。しかし有力貴族も権力をふるうには天皇の権威を必要としたので,天皇と姻戚関係をもつことに熱中する傾向があった。
天皇の権威は長い伝統によるが,神話や伝説を天皇中心に構成しなおし《古事記》《日本書紀》を編纂し,権威を高めることに努めた。その他律令国家では内蔵寮(くらりよう)や官田(のちには勅旨田,勅旨荘),また衛府(えふ)(五衛府のち六衛府)の制により,天皇の財政的・軍事的基礎が固められ,その地位を強化した。だが律令制の弛緩とともにそれらはしだいに実体を失って形骸化した。
律令制下の天皇は,中国流の皇帝として位置づけられたが,中国皇帝と基本的に異なる点をいくつかもっている。その第1は,天皇の地位が特定の家系に独占世襲されたことである。これは有徳者が天命を受けて君主となるという中国の思想とは根本的に相いれない。
第2は,皇祖神をはじめ,日本固有の天神地祇をまつる祭祀執行者の地位である。これは第1の特徴に密接に関係するが,天命を受けた天子が天帝をまつる中国の郊祀とは基本理念を異にするとともに,天皇の地位と不可分であった。孝謙上皇が淳仁天皇から政権を奪ったときの詔に,祭祀と小事のみ天皇の親裁にゆだねると宣したのは,端的にこれを裏づけている。これが江戸時代に来航した欧米人の目に,天皇が将軍=世俗的皇帝に対して,〈宗教的皇帝〉〈生得の教皇〉と映じたゆえんである。
第3は,皇位の超責任的性格である。これも究極的には第1の特性に帰着するが,いかに儒教的徳治主義を標榜しても,易姓革命(えきせいかくめい)を認めない以上,天皇に対する責任の追及には限界がある。また大化前代の中央豪族から系譜を引く議政官の議定と執奏を柱とする太政官政治も,天皇の超責任性を支える要素であった。もちろん天皇が大政を総攬する権能も厳存したから,政務親裁ないし独裁を志向する天皇の出現も妨げられなかったが,執政官に大政を委任し,〈垂拱(すいきよう)して成るを仰ぐ〉天皇があらわれても,太政官政治は十分に機能したのである。
この後者の方式を慣習化したのが,摂関政治と呼ばれる政治形態である。その端緒は,人臣太政大臣の任命にある。令制の太政大臣が唐制の三師,三公と異なる点は,菅原道真が指摘したように,分掌はないが,太政官の職事として天下の政を知り行うところにある。この権能がやがて人臣摂政に移り,さらに関白の職権となった。摂政は天皇幼少の間,天皇に代わって大政を摂行する臨時的な地位であるが,関白は大政総攬の権能をもつ天皇のもとで,百官総己を職権として執政する地位であった。したがって摂関政治の成否は,執政能力のない幼帝の代理人たる摂政は別として,成人の天皇と関白との一体性いかんにかかっている。当時の言葉でいう〈魚水の契〉の成立が,摂関政治が有効に機能する基本的条件であった。その一体性を強固に支えたのが,天皇と摂関との姻戚関係であり,摂関政治の全盛期には,天皇が摂関家にとり込まれる様相を呈した。
しかしその反面,外戚関係が失われ,天皇の独立性が強まると,摂関の権勢は急速に後退した。もちろん後三条,白河と個性の強い天皇が続いたのも,摂関勢力の後退に拍車をかけた原因であろうが,基本的には社会的,経済的変革の流れが,貴族勢力を再編成し,結集させる強力な権威を求め,生み出したとみるべきであろうし,それが専制的な院政権力の出現となったのである。それが天皇親政ではなく,上皇執政となった理由は,第1に,上皇が,行動を制約する面の多い祭祀をはじめ,煩瑣の度を強めていた天皇の儀礼から解放されたことにある。第2は,摂政・関白と直接的な関係がないことである。天皇と摂関の間には,制度的にも慣習的にも強いきずながあるが,上皇はそれから自由な立場にある。こうした条件をふまえて,〈意に任せ,法に拘らぬ〉上皇の治政が成立したのである。もちろんその根源も,前天皇としての権威に帰着するわけで,現天皇を東宮,上皇を事実上の天皇とみなす見解も行われたが,一面では上皇の専制君主化は,しばしば上皇を政争の当事者とし,ついには遠島配流の悲劇を招いて,皇位の超責任性すら危うくするに至った。また院政のもとで皇位継承が恣意的に行われ,上皇が続出すると,天皇と複数の上皇のうち,だれが〈治天の君〉となるかが問題となった。ことに持明院,大覚寺両皇統の対立が皇位の継承を複雑にすると,皇位と治天の君が分離し,それぞれ別個に定められ,継承される事態を招いた。だから後醍醐天皇の討幕運動は,この天皇と治天の君の再統合を図ったものということもできる。
1185年(文治1),源頼朝は〈日本国総追捕使,日本国総地頭〉に任命され,全国の軍事警察権を一手に掌握し,武士勢力を直接,間接に支配するに至った。頼朝はさらに奥州征伐を前にして征夷大将軍の任命を奏請したが,後白河上皇はこれを許さず,上皇の没後,ようやくこれに任ぜられた。ただそのときにはすでに征夷の実質はなく,名目的な職名にすぎなくなっており,頼朝はわずか在職2年にしてこれを辞任した。しかし頼朝の後継者は,征夷大将軍の任命を佳例とし,武家の棟梁にふさわしい称号として重んじ,代々その任命を奏請した。一方,社寺を含む公家勢力は,一応京都の公家政権の支配下におかれ,公武両政権併立の外観を呈したが,承久の乱(1221年)により公家勢力は鎌倉幕府に屈服を余儀なくされた。しかし一面では,公家政権は幕府の監視と保障のもとにかえって安定し,院評定(天皇親政の場合は禁中議定)と伝奏および文殿(ふどの)(親政の場合は記録所(きろくじよ))を中核とする政務運営も定着して,公家社会を支配した。ついで後醍醐天皇の公武一統の政権が成立したが,まもなく崩壊して南北両朝の抗争に突入すると,北朝の公家は武家政権のもとに組み込まれ,両朝の対立も,世人は宮方と武家方の抗争とみなした。しかし武家政権内部に続発した内紛の原因の一つが,南朝の存在にあったので,室町幕府は南朝を抹殺する方策として,両朝合一を図った。
かくて50年にわたる南朝の抵抗,さらにその後の後南朝の抵抗は,国内統一に果たす天皇の権威の重さを武家にも強く認識させることになった。
織田信長,豊臣秀吉のいわゆる〈尊皇〉も,もちろん国内統一の最も有効な手段として標榜されたもので,徳川家康にもそれは引き継がれた。しかし信長にしても,秀吉,家康にしても,みな自己の実力をもって政権をかちとったものであり,天皇ないし朝廷から与えられたものではなかった。家康が法度を作って,天皇をはじめ公家の権限,行動を強く規制しても,朝廷がこれになんら抵抗できなかったのも当然である。天皇にわずかに残された権能である官位授与権,元号制定権,暦制定権すら,形式的・名目的な範囲を出なかったし,朝廷内部の公卿,廷臣らの支配さえ,幕府の干渉をまぬがれることができなかった。しかし泰平がうち続き,文運が興隆するなかで,学者の間に,天皇の立場の過去と現在を調和させる試みとして,武家は天皇から政権を委譲されたものとする大政委任説があらわれた。もっともその論者の一人である熊沢蕃山も〈武家の人の帝位に上り給はんと,王の天下をとり給はんとは,共に無分別たるべき也〉と述べて,朝廷の政権回復を否定しているが,やがて大政委任説は幕府当路者の間にも普及し,政権奉還を唱える政治運動も起きた。ことに幕末,外交問題の処理に窮した幕府が,これを諸藩に諮問し,朝廷に奏上するに及び,幕府の独裁制に大きな亀裂を生ずる一方,武家の棟梁の標識にすぎなかった征夷大将軍の職名に,現実の攘夷の役割が押しつけられ,将軍と幕府を苦しめた。かくしてついに大政奉還をうけた天皇は,さしあたり将軍に代わって,〈同盟列藩の主〉と称して内外に対処したが,ついで版籍奉還,廃藩置県が実行されることにより列藩体制は崩壊し,近代天皇制の成立へ向けて歩みはじめた。
→皇位継承
畿内を中心とした律令国家が成立して以来,現代に至るまで,天皇が日本列島の一部,またはすべてを支配下に入れた〈日本〉を国号とする国家の機構の頂点に,政治的実権の有無は別として,なんらかの形で関与しつづけ,その地位を世襲,維持してきた理由は,いまもなお,十分に明らかにされたとはいいがたい。
その出発点において,天皇の立場は二つの支柱によって支えられていたと考えられる。その一つは水田を基盤とする稲作民の全共同体の首長としての立場であり,他の一つは山野河海などの境界領域とそこに生活する非農業民に対する支配者としての立場であった。
律令制において,前者は租,庸,調を中心とする負担,諸種の農耕儀礼と結びついた祭祀として体系化された。初穂の儀礼にもとづく租の徴収と正税出挙(しようぜいすいこ),共同体成員である平民(自由民)の義務としての調,庸や軍役等の負担は,もともとオホヤケといわれた首長への奉仕の形で行われていたが,天皇はそうしたすべての平民の首長として,班田制を通じてこれらの貢納,軍役を組織化した。また,首長の主宰する共同体の農耕儀礼,穀霊・祖霊に対する祭りも,天皇の即位儀礼としての大嘗祭(だいじようさい)をはじめとする祭祀,宮廷の年中行事に吸収されたのである。このように天皇は平民の全共同体の首長,オホヤケ(公)として,姓をもつことなく,暦,元号を制定し,時間の支配者の立場に立ちつつ,位階によって支配層を秩序づけていた。
一方,後者は律令の規定からはずれた贄(にえ)の貢献として制度化された。天皇に直属する江人,網曳などの海民や鵜飼いなどの献ずる贄をはじめ,諸国から徴収される贄も山野河海の産物であり,国ごとに特定された非農業民の集団がそれを貢献したが,贄は本来的には天皇の食膳に供せられる性格のもので,天皇家自体の経済を支えるものであった。当時〈異種族〉とみられていた吉野の国栖(くず)や,南九州の隼人(はやと)の奉仕する芸能も,また同じ意味をもっていたといってよい。しかしこうした国郡の制度の上に立つ天皇の支配は北海道,沖縄にはもとよりまったく及ばず,東北北部にその支配が及ぶのもかなり後のことであった。
律令制の弛緩,変質,荘園公領制の形成とともに,この二つの支柱のあり方も大きく変化する。権門,寺社の占取によって狭められた山野河海に対する支配は,この時期には交通路に対する支配として機能するようになり,天皇はそこをおもな活動の舞台とする商工民,芸能民などの非農業民に対し,天皇家の直属機関として設置された蔵人所(くろうどどころ),検非違使(けびいし)等を通じてその支配を及ぼした。遍歴して交易に携わらなくてはならない商工民,芸能民は,それまでにかかわりをもっていた内蔵寮,掃部寮(かもんりよう),造酒司(さけのつかさ)等のいわゆる内廷官司や,御厨子所(みずしどころ),納殿(おさめどの)のような小官衙を通して,各地の関,渡,津,泊(とまり)等における課税免除,自由通行権の保証を求め,供御人(くごにん)の称号を得て過所を与えられたが,この過所を発給したのはこれらの官司,小官衙を統轄した蔵人所であった。また,天皇の直領中の直領ともいうべき京都には,多くの商工民,芸能民が集住するようになったが,在京供御人の居住地をはじめ,獄所,悲田院,さらに道路や河原は検非違使の直轄下にあり,そこで活動する洛中洛外の非人や仲媒,遊女なども,その統轄下に置かれたのである。こうした境界領域,非農業民に対する支配は,中世前期までの天皇家の経済の実質に重要な比重を占めていた。
一方,荘園公領制の中では,後院領,諸司領が天皇家の直領であった。後院領は天皇個人の自由に処分しえない〈天皇家渡領〉の性格をもち,諸司領は便補保(びんぽのほ),および供御人などの給免田を中心とする御厨(みくりや),御薗(みその)であるが,これに加えて,六勝寺(ろくしようじ)領をはじめとする御願寺領,院・女院の分国(ぶんこく),女院の名義にされた膨大な荘園群があり,それらが国守,国衙(こくが)を通じての賦課とともに,朝廷の年中行事,儀式を支えていた。
これらの,供御人となった商工民,芸能民,あるいは荘園に対する天皇家の支配は,古代末期から中世初期にかけて,摂関家をはじめ大寺社との激しい競合を通じて確保されたのであるが,延久(1069-74)以後,頻々と発せられた公家新制-荘園整理令,神人(じにん)・寄人(よりうど)整理令によって,天皇は荘園の廃立,神人,寄人の認可,停廃をみずからの意志の下に置き,荘園,公領をこえたより高次の権威を確立しようとした。大田文(おおたぶみ)や供御人,神人,寄人の交名(きようみよう)はその前提として作成され,大田文に記載された田地は公田と呼ばれて,大嘗祭,伊勢神宮の役夫工米(やくぶくまい)など国家的な行事,儀礼に必要な費用はこの公田を基準に,公事(くじ),一国平均役(いつこくへいきんやく)として賦課された。また,大寺社の神人,寄人となった商工民,芸能民に対しても,天皇は公役賦課権を保持していたのであり,国司,諸国追捕使を通じて,交名にのせられた〈武勇の輩〉にも軍役を賦課し,これを動員したのである。
しかし頻々たる戦争を通じて,棟梁を中心に強固な主従関係を発展させた東国の武将たちが,東国政権または東国国家として鎌倉幕府を樹立したことによって,こうした天皇の諸権限,統治権は地域的にも実質的にもしだいに限定されていった。とくに西国に対する軍役賦課権を行使して行われた天皇の幕府に対する挑戦,承久の乱の惨憺たる敗北によって,それは決定的となり,もとより北海道,沖縄を除く地域の軍役動員権を幕府にほぼ掌握されただけでなく,東国については,国衙在庁(ざいちよう)指揮権,境界相論裁定権,交通路支配権,一国平均役賦課権などの統治権を,天皇は幕府に奪われるにいたった。またごく一時期ではあるが東国に異元号があらわれ,さらに東国独自の暦が使用されはじめるなど,元号,暦の制定権も動揺,官位も東国の人々についてはその実質を失いつつあり,モンゴル襲来(1274,81)以後,西国の軍役賦課権もまったく失い,交通路支配権の実質も幕府の手中に帰するなど,天皇の政治的実権は著しく縮小し,限定されてしまった。
この状況を打破すべく,鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は,いったんは全国の統治権を再び掌握し,著しく専制的な支配を実現しようと試みたが,わずか3年で失敗,その遺志を継承した南朝も,まもなく地域的な小勢力に転落した。これに対し,京都に本拠を置いた室町幕府は,北朝の保持した政治的実権をしだいに剝奪し,南朝を吸収して南北朝の内乱に終止符をうつころまでには,天皇の実質的支配の及ぶ最後の拠点ともいうべき京都の市中支配権も手中に収め,室町将軍は明(みん)の元号を奉じて〈日本国王〉を称するにいたったのである。
さらに同じころ,沖縄に成立した琉球国には,天皇とは別個の権威をもつ琉球国王があり,応仁・文明の乱(1467-77)のころになると,東北北部,北海道にかかわりをもつと推定される〈夷千島王〉を称する人も姿をあらわす。
このように天皇の立場は,南北朝動乱を境として大きく変化するが,国郡の制度が維持された日本列島の主要部に対する天皇の元号,暦の制定権はともあれ保持され,すでにほとんど実質を失い,社会的な身分標識としての機能をもつようになった官位の授与も形式的には天皇によって行われた。天皇はこれらにかかわる儀式をふくむ年中行事を行う儀礼的存在になったのであるが,東国に成立した鎌倉幕府をはじめ室町幕府も,独自な官職体系を創り出しているとはいえ,従来の官位をむしろその標識として利用し,これを否定するまでにはいたらず,元号についても,室町時代,依然として独自な権力が維持されつづけた東国で,戦国時代に入るとさかんに異元号が用いられたが,この地域にも継続的に天皇のそれと異なる元号を制定するだけの権威は生まれなかった。
それゆえ,室町幕府は,天皇に代わって諸国の守護を通じ,一国平均に段銭(たんせん)などを賦課して費用を調達,こうした朝廷の儀式,諸行事を支えつづけた。また,南北朝動乱の過程で,天皇家領の大部分は無実化し,室町時代になると,天皇は畿内とその周辺に,諸司領,御願寺領などの流れをくむわずかな禁裏料所を保持するにとどまったが,室町幕府は摂関家領とともに,仏神領に準ずる保護をこれに加えている。
一方,京の七口をはじめとする京都周辺の関,率分所に対する天皇の支配,供御人として交通上の特権を保持する商人,手工業者,芸能民の集団および都市となったその本拠地と,天皇との結びつきも,諸官司の職を世襲する貴族,官人を媒介として,依然,保たれており,戦国の動乱の中で,禁裏料所の無実化がさらに進むとともに,天皇家および公家たちの経済中に占めるその比重は,相対的にさらに大きなものとなっていった。
室町時代以後,こうした商人,手工業者,芸能民は,それぞれに職能集団としてしばしば国郡を単位に組織化されてくるが,その過程で生まれる職能の起源にかかわる説話,多くは由緒書,偽文書(ぎもんじよ)の形で現在に伝わる伝説には,鋳物師(いもじ)のそれに典型的にみられるように,かつてこれらの職能民が供御人などとして天皇と結びついていた時期の記憶が,粉飾された虚構の形でもりこまれることが多かった。それは戦国時代から江戸時代に至るまで,鋳物師や木地屋のように,長く職人の組織を実質的に支える役割を果たし,またさまざまな芸能の形となって生きつづけ,語られつづけたのである。この時期,賤視される立場に固定化されつつあった人々の間にも,こうした伝説的な天皇は根強く生きていた。
他方,一般の平民百姓たちにとって,その負担する年貢,公事は,天皇家領をのぞき,すでに早くから直接天皇とはかかわらぬものとなっていたが,鎌倉後期から荘園の支配者が公方(くぼう)といわれたように,こうした負担を〈公〉に対して負うことは平民の義務と考えられていた。室町,戦国時代以降,新たな支配者となった大名も,年貢を平民-農民に負担させるためには,公方,公儀としての立場に立たなくてはならなかった。そのために,キリスト教など,別個の権威を模索する動きもなかったわけではないが,結局,大名たちはさきのような元号,暦の制定,官位授与などの儀式,行事の主催者としての天皇,国郡の制度の枠組みの上に立ちうる天皇,また伝説化した形にせよ平民百姓たちの間にある程度浸透した天皇の権威に依存せざるをえなかった。戦国時代,ときに大名間の戦争の調停者の役割などを果たしてはいるが,儀式,行事すら満足に行いがたい状況に陥った天皇が,織豊期から江戸時代にかけて生きのびることのできた理由は,一応その辺に求めることができよう。
江戸時代の禁裏料所は当初1万石余,中期に3万石余で,天皇,公家の立場は幕府のきびしい規制の下にごく限定されたものであり,その儀礼的な役割も形式的,名目的にとどまった。ただ,真継(まつぎ)家が鋳物師,土御門(つちみかど)家が陰陽(おんみよう)師,吉田家が神職に許状を与え,久我(こが)家が当道(とうどう)座を支配したように,職人,芸能民と公家との関係は,江戸時代を通じて保たれ,その経済を多少とも支えつづけた。しかも江戸後期,公家はそれをさらに積極的に拡大しようとした形跡があり,その実態と意義を探ることは,今後の研究に残されている。
日本の天皇制を,王権論としてとらえ,人類学,民俗学,宗教学などの立場からみた場合,およそ三つの特色が指摘できる。
第1は人神(ひとがみ)的性格である。人神として存在するためには,特別の霊魂が付着していなければならない。天皇の場合,《日本書紀》敏達天皇10年の記事にみえる〈天皇霊〉によって表現されている。これは外来魂であり,かつ恐るべき〈威霊〉とみなされ,他の人間につく霊魂よりはるかに卓越した力をもつと認識されていた。天皇はこの天皇霊を身体に付着する儀礼を実修してきた。具体的事例は,毎年の新嘗祭(にいなめさい)と,即位時の大嘗祭である。大嘗祭は鎮魂祭を意味しており,先帝から遊離した天皇霊を,新帝の身体に鎮める鎮魂術が中心となっている。この時使われる呪具を真床襲衾(まとこおふすま)と称した。これは天孫ニニギノミコトが降臨したとき,身体を包んでいた寝具の一種だといわれているが,物忌のための呪具であり,外光を避ける目的があったと思われる。天皇はいったん真床襲衾にくるまり,そこから脱け出ることによって,新たな天皇になると認識されていた。新嘗祭は毎年行われる収穫儀礼であるが,天皇が,稲作の豊穣を祈念して,弱まった霊魂を強化させることが,稲魂(いなだま)の再生に連なると考えられていた。即位儀礼の大嘗祭は,天皇霊の鎮魂のほかに,穀霊再生の呪法をかねて行われていたといわれている。大新嘗(おおにいなめ)のつづまった語が,大嘗(おおにえ)に相当していることからも推察される。奈良時代以後,大嘗祭と新嘗祭は区別されるようになったが,両者の根本は共通しているのである。強いて区別すれば,真床襲衾を中心とした大嘗祭は,質量ともに規模が大きいのに対し,新嘗祭の方には,翌年の穀霊再生を強調する儀礼が強く表出しているというちがいだけである。この二つの儀礼の司祭者が天皇であり,天皇自身は,天皇霊や穀霊の〈容れ物〉と位置づけられていた。折口信夫は,司祭者である天皇が,天津神をまつる存在であるため,特別なマナ(霊魂)を身につけた地上の神として存在すると考えた。それは祭儀のときにのみ神化する司祭者であり,シャーマンとして客観化できる存在といえる。天皇はまた御言詔持ち(みこともち)であり,天津神の託宣を代弁する存在でもあった。天皇に介添えする巫女があり,現実には,地上の神に仕える女性としての役割をになっていた。
第2の特色として,遊幸性がある。人神とみなされた天皇は,〈巡狩〉〈国見〉の目的をもって,統治する空間を巡遊する伝説が語られている。定着民の世界に,異人が来訪してきて,丁重にもてなされる。この異人は,一般に貴種とされ,人神的性格をになっている。伝説上では,素戔嗚(すさのお)尊や日本武(やまとたける)尊,神功皇后などの神話上の人物のほかに,後醍醐天皇や安徳天皇,花山天皇など実在の天皇があげられている。共通しているのは,これらの貴種は,地位を追われて放浪している存在だということである。たとえば後醍醐天皇は戦いに敗れ,隠岐島へ流されるが,再起を図って,再度帰京するという巡狩還幸の形式をとっている。後醍醐天皇の隠岐脱出,船上山への潜行という事実にもとづき,山陰,山陽地方に,天皇遊幸の伝説が分布している。安徳天皇は,平家一門とともに都落ちして,8歳のときに,水中に没して死んだことになっている。ところが伝説上では,さらに各地を遊幸して,山中に隠れ住んでいたという。死後に作られた安徳天皇陵は,主として西日本の各地に分布している。安徳天皇は追放された天皇であり,漂泊しているうちに,各地で受容され,丁重にもてなされている。つねに母の建礼門院徳子といっしょに各地を遊幸しているところからみると,その基底には,旅の母と子という主題がこめられているらしい。神話上はもちろん,近代に入っても,明治天皇の行幸形態のなかにもその要素が濃厚に残存しているといえる。その場合,天皇は,行幸の際の休止所で,丁重にもてなされて,去った後,とどまった空間が聖地と化して保存される傾向があった。天皇には人神的性格があるゆえ定着民の社会で異人として位置づけられてきたことが,遊幸性を持続させてきたのである。
第3に非日常的性格がある。王権は,日常生活における災厄を,王の罪悪,狂気,反倫理性の状況と結びつけることによって,災厄を祓(はら)う役割を負わされているという考え方がある。神話上では,天照大神が,素戔嗚尊を追放した話にうかがえる。素戔嗚尊の乱暴をみて,天照大神が岩戸隠れをした。素戔嗚尊は根の国に追放されることにより,ふたたび天照大神が実権をにぎるという形になる。これを,真王と仮王の交替劇としてとらえると,仮王が追放され,災厄が除去されることによって世界の秩序が保たれることになる。素戔嗚尊の乱暴は,王権を持続させるために必要な行為として位置づけられる。同様な構造は,平安時代反藤原氏的な言動を示した陽成天皇の例にもある。陽成天皇は性悪とか物狂帝として追放された。しかし結果的には,その後藤原氏の意にかなう天皇が立てられることによって維持されていく。こうした類例は,しばしば見られたことであり,いわゆる悪王の存在は,王権の基礎に不可欠の要素と考えられている。
天皇は,徳川将軍が〈タイクン(大君)〉といわれたのに対し,〈ミカド(御門)〉〈ダイリ(内裏)〉と呼ばれていたと幕末に来日したヨーロッパ諸国の外交官が記録している。ミカドやダイリという呼称は天皇を直接に称号をつけて呼ぶことができないがため,天皇というものに対する略称であった。また天皇への敬愛をあらわす言葉としては〈キンリサマ(禁裡様)〉〈テンシサマ(天子様)〉との表現が使われた。一方,幕末の政争に参加した志士は天皇のことをひそかに〈玉(ぎょく)(ギョク,タマ)〉と記していた。こうした日本の君主である天皇が〈天皇〉という公式称号で統一されるのは明治になってのことである。この公称が確定するまでには,天皇をさす表現として,皇上,聖上,聖主,聖躬,至尊,主上,天子,皇帝,国帝などと,さまざまな漢語が使われていた。天皇という名称は,これら語群の一つであったが,宮内省一等出仕伊地知正治が〈天皇又ハ天子ト尊称シ奉リ,又ハ各国対等ノ公文式ハ天皇ト称謂ヲ定メ候ヘバ,其他ハ不用ナリ〉と1882年に説いているように,明治14年の政変(1881)をふまえ国家の方向が明確になることで確定されたものにほかならない。ちなみに元老院における憲法草案では,第2次案まで〈皇帝〉とされており,第3次案で〈天皇〉と改められた。また民間の憲法草案の多くは〈皇帝〉〈国帝〉という類の帝号で記されていた。まさに〈天皇〉という公称の成立は大日本帝国憲法によって確定されたわけであるが,その英訳はEmperorであり,外交文書では〈皇帝〉とされていた。外交文書の〈皇帝〉が〈天皇〉となるのは,国体論が時代を謳歌する潮流になってのことで,1936年をまたねばならない。こうした天皇称呼の確立には近代日本における国家体制のありかたが不可分にかかわっていた。国内的には大日本帝国憲法で〈天皇〉の公称を確定したとはいえ,日露戦争で兵士にあたえた感状には〈日本国皇帝〉というのがみられるように,〈天皇〉という称号がもつ特殊性に対する認識は官民ともに希薄であった。それだけに日本の君主たる天皇が他の一般君主と異なる存在であるとの主張は,近代日本の国家体制を整備していくうえで,意識的に強調されねばならなかった。
討幕の志士は,天皇を〈玉〉とみなし,自己の政治的立場を強化する道具として活用しようとした。そして〈玉〉をとりこんで権力確立への第一歩を踏み出した後は,いかにして〈玉〉たる天皇をして,新国家の秩序に位置づけるかが課題となった。大久保利通は,1868年(明治1)1月に〈大阪遷都〉を建議したさい,天皇を公卿勢力から引き離し,外国の帝王が従者一二を率し国中を歩き万民を撫育するように,一天の主たる天皇の存在を広く天下に知らしめるべきであると説いた。いわば天皇は,西洋諸国の帝王像にならうかたちで,新国家の根軸たるべく位置づけられた。ここに新政府は盛んに行幸をとり行い,天皇を中心にした国家祝祭日を定めた。江戸時代の天皇は,〈キンリサマ〉〈ダイリサマ〉の呼称が体現しているように,ほとんど宮中の外に出ることがなかった。その点で明治天皇は頻繁に各地へ行幸した。なかでも六大巡幸(1872年の近畿,中国,九州地方,76年の東北地方,78年の北陸,東海地方,80年の中央道地方,81年の東北,北海道地方,85年の山陽道地方)は,国家形成期における民情視察に名をかり,君主たる天皇の存在を広く民衆に周知させようとしたものにほかならない。その背後には天皇の存在が広く日本人一般に知られるところでなかったことがある。このことは,新政府の布告が天皇を伊勢神宮の神様の子孫と紹介し,正一位稲荷大明神の位も天皇によって授けられたものだといい,それほどに尊いかただと説き,日本の父母であると述べたなかにもうかがえる。こうした説諭は,大教宣布運動の教化において,〈政府は人民の仕事を取扱ふ場所,天子様は請負人の頭取〉のようなものだとの説明にもみられるように,新国家の君主たる天皇の存在意味をはじめ,その位置と役割を広く民衆に知らしめねばならなかったことによる。行幸は,このような教化で説かれた天皇の姿をみせる場であっただけに,全国巡幸を軸にその多くが87年までに集中していた。天皇が行幸の途次で休息や宿泊した場所は後に〈聖蹟〉とされ,その使用した器具類を〈御器〉とし,ともに保存した。かつ天皇がみずから植樹した樹木(おもに常緑樹)は〈御幸松〉などと称された。これらの〈聖蹟〉や樹木類は,天皇霊の依代(よりしろ)のようなものとみなされ,聖皇である天皇の仁慈を地域社会でかたりつぐ場であり,地域民衆と天皇との結節点をなした。
また,日常生活の場で天皇の存在を知らしめたのが国家祝祭日行事であった。国家祝祭日には,1873年の〈年中祭日祝日等ノ休暇〉によって紀元節と天長節という国家の創始と天皇の誕生を祝う日を軸に,宮中儀礼に新しいよそおいをつけて決定された。それらは,西洋君主国の国家儀礼にならうことで,旧来の五節句祝いを否定し,天皇がいとなむ宮中のマツリを国家の祝祭日にしたものにほかならない。しかしこのような祝祭日の感覚は,元来,日本人にはないため,政府は国家祝祭日の意義を説き,権力によって強要せねばならなかった。かくて祝祭日行事は,神武天皇と明治天皇を一体化してかたることで,〈日本国の父母〉たる天皇への帰依を促す場として活用せしめられた。式典における天皇の写真は,1871年ころからはじまった天皇神聖化政策にもとづき,73年より,〈聖影〉〈御真影〉として聖なるものとみなされた。御真影は,聖浄なる場に玉座を設けて置かれ,奉拝された。行幸によって広く人民に知らしめられた実体としての天皇は,国家祝祭日行事として,生活の場で日常的にくりかえし意識されるとともに,御真影にあらわされた神聖なる君主とみなされていった。ここに天皇は,政治的君主であるとともに,それ以上に宗教的権威を体現した神聖なる王としての性格を時代とともに強くした。
この神聖天皇像は,教育勅語と御真影を一体化した臣民教育により,日本人のなかに浸透していくこととなる。そして天皇の意思は,公的なものが勅語として,私的な心情が御製によって吐露された。天皇は,勅語と御製によって,国家の意思を代弁したのであった。このような君主にふさわしい名称として〈天皇〉があった。いわば近代の天皇は,西洋君主国における君主のありかたにならいつつ,行幸や祝祭日行事をはじめ学校教育の場において〈民の君〉として位置づけられた。そのさい君主像は万世の一系の〈天皇の国〉という国体神話によって粉飾された。このことは,万邦無比なる国体をもった日本の君主であるがために,皇帝,帝王,国主などとも異なる公称として〈天皇〉を主張せしめた。いわば天皇という公称は,政治的権威のみならず宗教的権威をも備えもつものとして,世界に無比なる神聖君主との位置づけを表明したものにほかならない。
→国体思想
天皇は大日本帝国憲法において天皇権の行使にかかわる大権を規定されていた。この天皇大権は立法大権,議会開閉大権,官制・任官大権,軍事大権,外交大権,戒厳宣告大権,恩赦大権,栄典授与大権,祭祀大権等である。国家は,大権にもとづき,天皇の行政,天皇の司法として運営され,天皇の軍隊によって支えられた。なかでも軍隊は天皇を頭首とする組織として成立していた。それだけに天皇は大元帥として兵士に臨みもした。兵士は〈股肱(ここう)の臣〉として天皇に身をささげねばならなかった。この主従関係は,天皇がいかに神格化されようとも,軍隊において天皇が最高指揮官として君臨することで成立した。そのため天皇は,帝国憲法発布後に神聖君主として宗教的権威をおびたがために臣民の前から時とともに姿をかくすこととなったにもかかわらず,大演習に姿をさらした。明治天皇の行幸は,明治20年代以後になると,陸海軍の大演習と帝国議会開院式,帝国大学卒業式などに限定されていく。このことは,天皇の軍隊,議会,官吏と将官を養成する天皇の諸学校の行事に臨むことで,〈頭首〉を自称する家父長の務めを果たしたことによる。
天皇の神格化は,鹿児島行幸のさい一国学者が天皇の御糞や食べかすなどの下賜を願い出て,その下賜品を神棚に聖なるものとしてまつったような行為からうかがえるように,きわめて土俗的なものと結びつくことで可能となった。天皇信仰=天子への敬仰は,家内安全,五穀豊穣,身体守護等をもたらしてくれるであろうカミ信心の一つとして,表明されたものにほかならない。このことは,国家が確立しようとしていた神聖君主たる天皇像とは別に,農耕儀礼や御利益神につらなるカミの一つと天皇がみなされていたことをうかがわせる。こうした俗信をふまえた天皇像は昭和期に盛行した類似宗教教団の教説に表明されたものでもある。このような信仰のありかたこそは,敗戦後に天皇が〈人間宣言〉(天皇人間宣言)でみずからの神格を否定した後も,天皇への敬仰,期待を持続せしめた要因である。民衆は,政治的につくられた神聖君主としての天皇にではなく,大いなる力や威霊をそなえているであろうものについてのあわい期待でもって天皇を意識した。そのため天皇への敬仰は,帝国憲法が規定した〈天皇〉に対してよせられているのではなく,イエやムラの頭首たる家父長ともいうべきものによせる心情につらなる思いであった。昭和天皇は,敗戦で明治国家の根軸たらしめるべく付与された宗教的権威を失いながらも,明治天皇の故事にならった行幸をこころみることで,天皇信仰をゆり起こし,新時代の〈聖天子〉としての新しい場をきずいたのであった。
旧憲法は天皇を中心とする天壌無窮の国体を確認する形で制定されていたので,天皇は旧憲法体制の中核であった。旧憲法は冒頭で〈大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス〉(大日本帝国憲法1条)と定めていたが,それは天皇が国家の最高意思決定権者すなわち主権者であること,および,天皇の地位の根拠は上諭にも〈之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所〉とあるように天孫降臨の際の天照大神の大詔にあること(神勅主権)を意味していた。皇位世襲制(2条)はこの原理の当然の帰結である。そしてこのように神勅によって天皇を根拠づける限り,天皇ひいては天皇を中核とする旧憲法体制は宗教的=神道的色彩を帯びざるをえなかった。そのため,本来は天皇の無答責をあらわす〈天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス〉(3条)の規定も宗教的に理解され,文字どおり天皇は神聖であるとして現人神(あらひとがみ)との理解を生んだ。したがって,天皇に対する不敬行為には不敬罪として重罰が科せられ(旧刑法117条,刑法74,76条),天皇を中心とする国体の変革を図る者は厳しく罰せられた(治安維持法)。こうした天皇中心主義は,宗教に代わる国民の統合作用を皇室に期待した伊藤博文などの構想に出るものであったが,このイデオロギーは1890年に出された教育勅語によって教育を通して国民に植えつけられていった。
一方,天皇の権能については,天皇は統治権の総体,すなわち立法,司法,行政の3権のすべてを総攬し,国を対外的に代表する元首であった(4条)。しかし,旧憲法は立憲的要素をもつ憲法であったから,天皇は統治権の行使にあたっては憲法の条規に拘束された(上諭,4条)。そして,立法権は帝国議会の協賛をもって天皇が行い(5条),司法権は天皇の名において裁判所が行い(57条),大権,行政権については国務各大臣が輔弼(ほひつ)した(55条)。議会の協賛を必要としない大権は広範であったが,美濃部達吉はこれを,国務各大臣が輔弼する外交大権,立法大権などの国務上の大権,慣習法的に国務大臣の輔弼の範囲外で軍令機関が輔弼する統帥大権(統帥権),皇室自律主義の下で臣民の介入を許さず宮内大臣が輔弼した皇室大権,君主の栄誉権にもとづく栄誉大権,最高の祭主としての祭祀大権に区分している。なお,旧憲法時代には,国務各大臣,帝国議会,裁判所,枢密院などの憲法上の機関に加えて,元老,内大臣,重臣,侍従長,侍従武官長,軍事参議院などの憲法外の機関が存在し,天皇に影響を与え,政治を左右した。〈統帥権の独立〉によって軍令事項について議会,内閣の統制を受けない軍を含むこれら相互に独立した複雑な諸機関を統括するものは,憲法上天皇以外にはなかったので,天皇の積極性の有無によって政治の統一性が確保されたり相互に無責任に流れたりした。美濃部に代表される立憲学派(天皇機関説)のように国務大臣の輔弼に事実上の拘束力をもたせた場合には内閣を中心とした国政の立憲的運用が一応可能であったが,その場合にも内閣の統制の及ばぬ軍令事項について天皇が同様に消極的であり軍令機関の輔弼に拘束されれば,天皇の名における軍の独走を許すことになる。事実,昭和史において軍の独走を防ぎえなかった一因として,天皇による憲法の〈立憲的運用〉があったと指摘される。その意味で旧憲法体制は,天皇の文字どおりの親裁によってのみ統一が保たれるという,立憲的観点からみれば大きな矛盾をもっていた。
→大日本帝国憲法
1945年の敗戦と共に天皇制度の廃止を求める声が国内外からあがったが,占領軍の中核であったアメリカは天皇制度を〈民主化〉することによりこれを占領政策遂行の手段として利用する道を選択した。こうして新憲法によって象徴天皇制が誕生した。
(1)性格 天皇は日本国の象徴,日本国民統合の象徴となった(日本国憲法1条)。主権者は国民となり,天皇は主権者の一員でもないと解されている。象徴規定にはとくに法的な意味はなく,また国民を統合する機能は憲法上天皇には期待されていない。天皇に認められた権能もきわめて限定されており,諸外国の君主に比すと独任の世襲的地位であることが共通しているだけで,行政権ももたず国を対外的に代表することもない天皇を君主とか元首とみることは困難である。
(2)地位の根拠 天皇の地位は主権者である国民の総意にもとづいている(1条)。したがって,国民の総意によって天皇制度を改廃することが可能である。神勅主義は明確に否定されているので,神秘的・宗教的要素がここに介入する余地は皆無であり,天皇には公的な宗教的活動が禁止されている(20条)こととあいまって,天皇,国家の世俗化が要求されている。したがって,神道が特別な地位を与えられることはもはや許されない。そのため,皇位継承の際に行われた大嘗祭や〈三種の神器〉の継承は,天皇家の私事としてのみありうる。
(3)皇位継承 憲法は皇位は世襲であるとのみ定め,その詳細は法律である皇室典範にゆだねている(2条)。したがって,憲法上女帝を排除する理由はないが,皇室典範は皇統に属する男系男子に資格を限定している。継承順位は直系主義,長系主義が原則であり,皇嗣に不治の重患や重大な事故がある場合には皇室会議の議によって継承順位が変更される。旧憲法の下でのような庶子の継承権は認められず,また,天皇,皇族には養子が禁じられている。皇位の継承原因は天皇の死亡の場合に限られ,生前退位は認められない。継承時は天皇死亡時であり,後に即位の礼が行われる。皇位世襲制は〈法の下の平等〉原則(14条)の一大例外である。
(4)権能 天皇は憲法が限定的に列挙している国事に関する行為(国事行為)だけを行い,国政に関する権能はいっさいもたない(4条,6~7条)。したがって,国事行為は国家意思の形成にかかわらない形式的・儀礼的性格の行為である。天皇が国事行為を行う場合にはつねに内閣の助言と承認が必要であって単独で行うことはできず,内閣はみずから行った助言と承認について責任を負う(3条)。天皇に精神・身体疾患や事故がある場合,外国旅行などのようにそれが一時的,一過的なときには〈国事行為の臨時代行に関する法律〉(1964公布)にもとづいて権能を委任し(4条2項),長期的,重度なときには皇室会議の議によって摂政が設置され,摂政は天皇の名で国事行為を行うことになっている(5条)。憲法上,天皇は公的には国事行為しかできないと読めるが,実際には外国元首との親電交換や国会開会式へ出席して〈おことば〉を朗読するなど,天皇は国事行為以外に多くの公的行為を行っている。これを〈象徴としての行為〉〈準国事行為〉〈公人としての行為〉などと称して根拠づけるのが有力であるが,違憲説もなお存在している。これらの行為を認める学説では,それらは内閣の助言と承認によってなされる必要があると説かれている。
(5)責任 内閣の助言と承認にもとづいて行った国事行為については,天皇はいっさい責任を負うことはない。天皇の刑事責任を免責する明文規定はないが,摂政について皇室典範がその在任中訴追されないと定めている(21条)ことから類推して,天皇もその在任中は訴追されないとすることができる。他方,天皇の民事責任を否定する理由はない。
(6)特例 憲法の保障する基本的人権が天皇にも保障されるかどうか議論が分かれているが,天皇も人間である以上,原則的に人権が保障されるべきであろう。しかし,天皇については,皇室典範によって,陛下という敬称を有するなどの特権が認められている反面,婚姻には皇室会議の議決を要するなどの制限がある。その他,天皇は氏をもたず,18歳が成年であり,戸籍法,住民登録法の適用を受けないほか,皇室の財産授受は制限を受け(憲法8条),皇室費用は予算に計上され国家が負担する(88条)など,一般国民とはいろいろな面で区別されている。また,選挙権も実定法上認められていない。
(7)実態 国民主権の憲法の下で天皇は名目的な存在になるはずであったが,旧天皇制意識の残存に加えて天皇の権威強化とそれによる国民の統合に利益を見いだす者が有力に存在するために,近年天皇の権威強化の動きが進行している。具体的には,(a)象徴規定の権威主義的拡大解釈,(b)公的行為の拡大,(c)栄典授与の濫発,(d)元首としての実態的取扱い,(e)〈日の丸〉〈君が代〉など天皇にまつわるシンボルの強調,(f)天皇に関する記述の教科書検定強化,(g)在位五十年式典の挙行,(h)天皇や閣僚による靖国神社参拝などの宗教活動の公然化(国家神道とのつながり),(i)天皇批判言論に対する圧迫などによって天皇の権威は強化されている。同時に,改憲による天皇元首化の実現も一部で意図されている。ともあれ,象徴天皇制の存在とその運用は,国民主権原理および平等原則を希薄化する機能を果たしているといえよう。
→日本国憲法
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