・執柄・博陸などの唐名があり、その地位に因んで一の人・一の所などと称され、殿下ともいわれた。摂政の語は中国・朝鮮の文献にみえるが、『史記』などにみえる中国の例は、皇帝は在位するが老齢・幼少などのため統治能力のない場合、皇帝に代わって統治する者をさし、朝鮮の例は『三国史記』などによると、王が幼少のため統治能力を欠く場合、母后である皇太后・太皇太后が王に代わって大政を執ることをいい、わが国の称制に相当するものといえる。摂政をその出自により大別すると、皇族摂政と人臣摂政に分けられる。『日本書紀』によると、仲哀天皇の崩御後、神功皇后が摂政になったとあるのをわが国の摂政の初例とするが、皇后の統治は摂政というよりも称制にもとづいていたと考えられるし、また皇后の摂政には伝説的要素も多い。皇族摂政の確実な例は、推古天皇の厩戸(うまやと)皇子、斉明天皇の中大兄皇子、天武天皇の草壁皇子で、いずれも皇太子であるのが共通しているごとく、皇太子が天皇に代わって万機を総摂したもので、皇太子摂政ともいう。一方、人臣摂政は、貞観八年(八六六)八月十九日清和天皇の外祖父藤原良房が摂政を命ぜられたのに始まる。一説に清和天皇の践祚した天安二年(八五八)に摂政を命ぜられたとあるが、幼主のとき摂政を置くとする後世の観念に基づいた説である。清和天皇の譲位後に陽成天皇が践祚すると、良房の嗣子基経が摂政を命ぜられ、天皇在位中基経はその任にあったが、宇多天皇が践祚した後、基経は関白に補された。このときいわゆる阿衡(あこう)の紛議が起ったが、この事件の結果、関白の語義が明らかになり、摂政・関白の制が定まった。しかし基経の死後、しばらく摂政・関白は補任されなかったが、朱雀天皇が幼少で践祚すると、外戚の藤原忠平が摂政となり、天皇の元服後に摂政を辞し関白になるに及び、天皇幼少の間は摂政を、成人ののちは関白を置くのを例とした。爾後慶応三年(一八六七)十二月九日王政復古の大号令で摂政・関白・内覧などが廃止されるまで、摂政は一千年にわたって存続したが、その間延べ六十人、実人員四十六人の摂政を数えた。摂政の補任は、古くはいずれも皇太子であるため、皇太子であるのが摂政の資格といえるが、人臣摂政にあっては、(一)天皇の外戚、(二)藤原氏北家の一流、(三)大臣またはその経験者、を資格とした。しかし平安時代末の鳥羽天皇の践祚に際し、先朝の関白藤原忠実が天皇と外戚関係がなく摂政となって以来、必ずしも(一)はその資格でなくなったが、(二)と(三)は全時代を通じて摂政の資格であった。なお(三)についていえば、もと摂政は大臣の兼摂する職掌であったが、寛和二年(九八六)六月摂政となった右大臣藤原兼家が翌七月右大臣を辞任して摂政専任の例を開いて以来、摂政は正官のごとく見做され、摂政在任中に大臣を辞任する例も少なくなく、この例は関白にも及び、前大臣で摂政・関白に補任される例も現われた。摂政の補任は、譲位による践祚においては譲位の宣命により、先帝の崩御による践祚においては太上天皇の詔旨を載せる宣命により、その他の場合は詔書によって補任された。摂政の解任は、天皇の崩御・譲位および天皇の成長もしくは政治的要因などさまざまであるが、天皇の成長による場合は、元服の年またはその翌年に、摂政は政事(まつりごと)を天皇に復するいわゆる復辟の表を二度上り、勅許を得るが、おおむね引き続き関白に補任される。その際、二、三年の間は准摂政を命ぜられ、その間、准摂政は摂政と同じく、叙位・任官・官奏を関白の直廬で行うことを聴許された。摂政は「宸儀に異ならず」と称されたごとく、天皇に代わって万機摂行を任としたが、摂政に補任されると、一座の宣旨を蒙って三公の上に列したのをはじめ、随身兵仗・牛車宣旨および藤氏長者となる氏長者宣旨を賜わったが、これらは平安時代中期から次第に整備され、鎌倉時代以降、摂政新任にあたっては必ずこれらの宣旨を蒙り、再任あるいは関白より転任する場合は、「旧の如し」とか「元の如し」と仰せられるのを例とした。
せっしょう(摂政) ...
gent(フランス語)が治めている時期をさすが、とくにフランス史上、18世紀初期、ルイ15世幼少期(171 ...
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