斯王―乎富等大公王の系譜を掲げる。彦主人王の死後、振媛は越前に帰って天皇を養った。天皇が五十七歳のとき、武烈天皇が死に、継嗣がないので、大伴金村が中心となり、物部麁鹿火らとともに天皇を越前から迎え、河内の樟葉で即位した。そののち、樟葉から山背の筒木および弟国を経て、即位の年より二十年目に大和国に入り、磐余玉穂に都を定めた。天皇は武烈天皇の妹、手白香(たしらか)皇女を皇后に立て、欽明天皇を生んだが、そのほかに近江・尾張・河内方面の皇族・豪族の女を妃とした。そのうち尾張連草香の女目子媛(めのこひめ)は、手白香皇女よりさきに安閑・宣化両天皇を生んだ。以上は『日本書紀』の伝えであるが、即位記事は応神五世の孫という伝えをふくめて、継体天皇の即位を正当化するための潤色が多いのではないかとする説がある。その説では、越前・近江地方に勢力のあった豪族が、武烈天皇の死後、朝廷の乱れに乗じて応神天皇の子孫と称し、約二十年の対立・抗争ののち、大和の勢力を圧倒して大和に入り、皇位を継承するとともに、手白髪(香)皇女を皇后として地位を確立したとする。継体天皇の時代は、新羅をはじめ朝鮮諸国の国力がたかまり、日本はしばしば軍隊を派遣したが、朝鮮での勢力は次第に衰えた。任那の四県を百済の請いによって与えたことは、そのあらわれである。司馬達等による仏教の伝来(『扶桑略記』)や、百済からの五経博士の貢上などもあり、文化の発展もみられたが、国内では継体天皇二十一年から翌年にかけて、筑紫国造磐井の反乱があり、政治の動揺がつづいた。天皇の死についても疑問がある。『日本書紀』は『百済本記』により辛亥年(五三一)の死とするが、甲寅年(五三四)とする説もあった。また『百済本記』には「日本天皇及太子皇子倶崩薨」とある。これらから、辛亥の年に政変がおこり、天皇はまきこまれて死に、甲寅の年に至って平穏に復したのではないかとし、これを辛亥の変と称する説がある。
摂津国島上郡
、兆域東西三町、南北三町、守戸五烟」とし遠陵にする。元禄修陵には現陵を調べたが、『徳川実紀』は所在不明とし、享保陵改めで決定した。大正から昭和初めごろ、現陵は江戸時代後期旧島下郡にあり、南北朝時代の条里も同じで、『延喜式』の所在と異なるとし、現陵の東北約一・五キロの旧島上郡今城塚古墳(大阪府高槻市)を当陵とする説が出され、この説をとる研究者も多い。しかし、現陵は享保陵改めには島上・島下の郡界の山にあり、『中川氏御年譜』(永禄から天正の茨木領主家譜)の「摂州図抄」では阿威川が郡界で、旧島上郡にあるので、『延喜式』の所在と現陵の所在が異なると断定はできない。記紀に第26代と伝える天皇。没年は527年、534年の説もある。応神(おうじん)(誉田(こんだ))天皇の5世孫とされ、名は男大迹(おおど)(『古事記』では袁本杼命(おおどのみこと))、またの名を彦太尊(ひこふとのみこと)という。6世紀初頭に越前(えちぜん)(福井県)あるいは近江(おうみ)国(滋賀県)から大和(やまと)(奈良県)の磐余宮(いわれのみや)に入って新しい王統(王朝)を築いた天皇として有名。『日本書紀』によれば、武烈(ぶれつ)(小泊瀬(おはつせ))天皇に継嗣(あとつぎ)がなかったので、大伴金村大連(おおとものかなむらのおおむらじ)が中心となって越前の三国(みくに)(福井県坂井(さかい)市。『古事記』では近淡海国(ちかつおうみのくに))から迎え入れたとある。この天皇の出自については、遠く越前から入ってきたこと、大和に入るまで20年を経ていること、応神5世孫とされているがその間の系譜が明示されていないことから、地方の一豪族で、武烈亡きあとの大和王権の混乱に乗じて皇位を簒奪(さんだつ)した新王朝の始祖とする見解が有力である。
しかし、記紀編纂(へんさん)よりも古くさかのぼる『上宮記(じょうぐうき)』には、天皇の父系・母系の詳細な系譜が明示されていること、仁賢(にんけん)天皇の女(むすめ)手白香(たしらか)皇女を皇后としていること、継体を受け入れた大和王権自体はなんら機構的にも政策的にも質的転換をみせていないことから、継体を大和王権内部に位置した王族と考える見解もある。
6世紀初めころの第26代に数えられる天皇。名はヲホドで,《古事記》に袁本杼命,《日本書紀》に男大迹王,《上宮記》の逸文に乎富等大公王などと書かれているが,隅田(すだ)八幡人物画像鏡の銘文にみえる男弟王を天皇の名に当てることには,音韻の上で難がある。上の諸書によれば,天皇は応神天皇5世の孫で父は彦大人(ひこうし)王,母は父の異母妹で垂仁天皇7世の孫に当たる振媛(ふりひめ)。近江の高島にいた父が越前の三国にいた母を召し納れて天皇を生んだが,父が早く死んだため,母は天皇を伴って越前の生家に帰った。その後,《日本書紀》によれば天皇57歳のとき,武烈天皇が死んで後継者がなかったので,大連の大伴金村が主唱して天皇を越前から迎えて皇位に即け,仁賢天皇の女の手白香(たしらか)皇女を皇后とした。そこで天皇は河媛内の樟葉(くすは)宮から山背の筒城(つつき)宮,同じく山背の弟国宮などを経て,20年後に初めて大和に入って磐余(いわれ)の玉穂宮に都したという。天皇の治世は朝廷は終始朝鮮対策に追われ,任那4県の割譲,北九州の筑紫国造磐井の乱などもあって,朝鮮の形勢はますます非となっていったが,天皇は531年ころに世を去り,摂津の三嶋の藍野陵に葬られた。記紀では天皇の死後,天皇の即位以前の子である安閑,宣化両天皇が順次即位し,そのあとに手白香皇后が生んだ欽明天皇が即位したことになっているが,実は天皇の死後直ちに欽明天皇も一方で即位し,宣化天皇の死までの約8年間は両朝分立の状態だったとする見方が今日では有力となっており,その場合には天皇の死はなんらかの重大な事変によるものだったとする推測説もある。また天皇の即位については,天皇が応神天皇の5世の孫という遠い皇親であること,大和に入るまで長年月を要していることなど,きわめて異例の点が多いので,天皇が別系から出て実力によって旧権力を倒し,新王朝を開いたとする王朝交替説も一部に出されている。
→王朝交替論 →継体・欽明朝の内乱

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国の南半部。継体天皇六年に百済国の請いによって、同国に割き与えられた四県の一つ。 ...
古墳】
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