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  11. 舒明天皇
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
舒明天皇
じょめいてんのう
 - 六四一
六二九―四一在位。和風諡号は息長足日広額天皇。父は敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子。母はその異母妹糠手姫皇女、またの名は田村皇女で、天皇の諱田村はこれに因む。推古天皇三十六年(六二八)推古天皇の没後、田村皇子を推す大臣蘇我蝦夷は、聖徳太子の遺児で皇位を主張する山背大兄王と対立し、紛争数ヵ月の後翌年正月に田村の即位を実現した。天皇は姪にあたる宝皇女(のち皇極・斉明天皇)を皇后として葛城皇子(天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇皇后)・大海人皇子(天武天皇)を儲け、蘇我馬子の娘法提郎媛を夫人として古人大兄皇子を生み、吉備の蚊屋采女に蚊屋皇子を生ませた。舒明天皇二年(六三〇)十月、飛鳥岡本宮に遷る。在位中に第一回遣唐使の派遣(二年)、唐使の来朝(四年)、百済宮および百済大寺の造営開始などのことがあったが、大臣蝦夷・入鹿父子の全盛期に際会し、さしたる事蹟を残すことなくして十三年十月九日崩じた。「百済の大殯」と呼ばれる盛大な殯宮儀礼を経て、やがて押坂陵に葬られた。なお、『本朝皇胤紹運録』『一代要記』などには崩年四十九とある。
(黛 弘道)

押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)

 奈良県桜井市大字忍阪にある上円下方墳。『日本書紀』は押坂陵とし、『延喜式』は現陵号を用いる。皇極天皇二年(六四三)九月六日滑谷岡(なめはざまのおか)から舒明天皇を改葬した。『延喜式』諸陵寮は、「兆域東西九町、南北六町、陵戸三烟」とし遠陵に入れ、陵内に田村皇女(糠手姫皇女)押坂墓、陵域内に大伴皇女押坂内墓、陵域内東南に鏡女王押坂墓があると記す。のち所伝を失い、元禄十年(一六九七)の調査では、奈良奉行所は舒明天皇の不分明陵として段ノ塚と呼ばれていた当陵を報告し、ここに決定された。元治元年(一八六四)九月修陵に着手し、地元で修陵資金を借用して山陵銀札を発行し、翌慶応元年(一八六五)十一月竣工した。墳丘は丘陵先端の傾斜地にあり、三段築成の下方部両側面は中途から傾斜面に吸収される。下方部幅は下段約一〇五メートル、中段約七八メートル、上段約五四メートル、高さ下段約七メートル、中段・上段各約四メートル、各段斜面にはところどころに一メートル前後の大石が露出し、本来の法面は巨石積み石垣である。上円部は高さ約一二メートル、間口・奥行とも約四五メートル、前面中央から左側の墳丘裾には直線状の積み石と角形隅石が露出し、上円部基礎は八角形と推測される。墳丘上部は堆積土に覆われているが、磚状の板石小口積みの法面が一部露出する。伏見桃山陵以後の近代の陵形は、当陵形をまねたものである。石室については、「文化山陵図」の説明書に、「山之半覆塚穴口石と見へ、長壱間程、幅四尺程之石有之、往古石の下、広き口開き候て、雑人入込候故、埋み置候」とあり、文化年間(一八〇四―一八)に石室の口を塞いだことがわかる。谷森善臣著『山陵考』には、石室内に石棺が二つあり、奥は横、手前は縦で、二棺がT字形に安置されていたと、石室開口時に見た里人の談話をのせている。
[参考文献]
上野竹次郎『山陵』上
(石田 茂輔)


日本大百科全書(ニッポニカ)
舒明天皇
じょめいてんのう
[593―641]

第34代とされる天皇(在位629~641)。名は田村(たむら)。和風諡号(しごう)は息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇。押坂彦人大兄(おさかのひことのおおえ)皇子(敏達(びだつ)天皇の皇子)の皇子。母は糠手姫(あらてひめ)皇女。即位にあたっては朝廷が紛糾し、山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)(聖徳太子の子)を推す声も強かったが、大臣蘇我毛人(蝦夷)(そがのえみし)の支持を得て即位し、岡本宮に入った。こうした経緯もあって、政界はまとまらず独自の政策も目だたなかったが、この治政下、百済(くだら)王子豊璋(ほうしょう)、唐使高表仁(こうひょうじん)の渡来や蝦夷(えみし)征討などがあった。治政11年(639)から百済川畔に百済大宮、百済大寺の造営を命じ、翌年、百済宮に移ったが、九重塔をもつ百済大寺は完成後ほどなく焼失した。その翌年10月、天皇は百済宮で没した。陵墓は奈良県桜井市の押坂内陵。
[門脇禎二]



世界大百科事典
舒明天皇
じょめいてんのう
593?-641

7世紀前半の第34代に数えられる天皇。在位629-641年。名を田村皇子といい,和風諡号(しごう)は息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇。高市岡本宮天皇などともいう。敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の子,母は敏達天皇皇女の糠手姫(ぬかてひめ)/(あらてひ)め皇女。628年(推古36)3月の推古天皇の死後,大臣(おおおみ)蘇我蝦夷(えみし)が大夫(まえつぎみ)らを召集して次期天皇のことを諮ったが,田村皇子支持派と山背大兄王(聖徳太子の子)支持派に分かれてすぐに結論が出ず,蝦夷の意向によって翌年正月に田村皇子が即位した。天皇の治世は,東アジアの国際情勢が緊迫の度を加えていたが,国内の政情は比較的平穏で,天皇は631,638年に摂津の有間温湯(ありまのゆ),639年に伊予温湯(いよのゆ)に行幸した。また636年に飛鳥岡本宮が焼けて田中宮に移っていたが,639年から東西の民を徴発して百済宮と百済大寺を造り始め,翌年田中宮から百済宮に移って,その翌年にここで世を去った。天皇は宝皇女(皇極女帝)を皇后として中大兄皇子(天智),大海人皇子(天武),間人皇女(孝徳皇后)をもうけ,大臣蘇我馬子の女の法提郎媛(ほほてのいらつめ)をめとって古人皇子が生まれた。《万葉集》巻一に雑歌その他がある。
[関 晃]

[索引語]
田村皇子 息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇
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1. 舒明天皇
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薬師恵日(くすしの-えにち)らを第1回遣唐使として派遣。百済(くだら),新羅(しらぎ)とも関係をふかめた。舒明天皇13年10月9日死去。49歳。墓所は押坂内陵( ...
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9. あか・す【明】
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10. あき‐おさ[‥をさ]【商長】
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11. あきつ‐しま【秋津島・秋津洲・蜻蛉洲】
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12. あじむら‐の[あぢむら‥]【味群─】
日本国語大辞典
八五「人多(さは)に 国には満ちて 味村乃(あぢむらノ) 去来(かよひ)は行けど〈斉明天皇・舒明天皇説あり〉」*万葉集〔8C後〕二〇・四三六〇「朝なぎに 楫(か ...
13. 飛鳥画像
日本大百科全書
これに飛鳥川西岸の豊浦(とゆら)宮(推古(すいこ)天皇)、小墾田(おはりだ)宮(同)、田中宮(舒明天皇)などを加えていう場合もある。周辺には渡来人も多く住み、こ ...
14. 飛鳥画像
世界大百科事典
紀のはじめ,推古天皇が豊浦宮で即位し,さらに近くに小墾田宮(おはりだのみや)を造営して以後,舒明天皇の飛鳥岡本宮,皇極天皇の飛鳥板蓋(いたぶき)宮,斉明天皇の飛 ...
15. あすかいたぶきのみや【飛鳥板蓋宮】奈良県:高市郡/明日香村/岡村
日本歴史地名大系
継続して調査が行われている。当地域の遺構は三時期ある。下層から一期、二期、三期とよばれている。一期は舒明天皇の飛鳥岡本宮、(六三〇〜)、二期は皇極天皇の飛鳥板蓋 ...
16. 飛鳥岡本宮
世界大百科事典
舒明天皇の飛鳥岡本宮と,その皇后であった斉明天皇の後飛鳥岡本宮がある。630年(舒明2)10月,舒明天皇は飛鳥岡のそばに,岡本宮を営んだ。宮号は,飛鳥岡と称され ...
17. あすかおかもとのみや・のちのあすかおかもとのみや【飛鳥岡本宮・後飛鳥岡本宮】奈良県:高市郡/明日香村/小山村
日本歴史地名大系
舒明・斉明両天皇の皇居。「日本書紀」によれば、舒明天皇二年一〇月、飛鳥岡のほとりに宮を移し、岡本宮といったが、同八年六月、岡本宮は焼け、田中宮に移った。のち斉明 ...
18. あすかきょう【飛鳥京】
国史大辞典
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19. 飛鳥時代画像
日本大百科全書
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20. 飛鳥時代(年表)
日本大百科全書
王子である豊璋を人質として日本に送る640(舒明12)高向玄理、南淵請安、唐から帰る641(舒明13)舒明天皇没す。蘇我倉山田石川麻呂、山田寺造営開始643(皇 ...
21. あすかのおかもとのみや【飛鳥岡本宮】
国史大辞典
舒明・斉明両天皇の皇居。『日本書紀』によると舒明天皇二年(六三〇)十月癸卯条に「天皇遷〓於飛鳥岡傍 ...
22. 飛鳥美術
世界大百科事典
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23. あすかぶっきょう【飛鳥仏教】
国史大辞典
くつがえすことはできなかった。舒明天皇十一年(六三九)に、百済宮と並んで百済寺の建立が始められた。天皇家の最初の寺であり、宮廷仏教の開始であるが、しかし百済寺も ...
24. 阿曇比羅夫
日本大百科全書
いう。山背に本貫があったのだろう。舒明(じょめい)天皇の末年に百済(くだら)への使節となり、舒明天皇の崩御を聞いて百済からの弔使を伴って帰朝、その応接にあたり、 ...
25. 阿曇比羅夫
世界大百科事典
7世紀中期,対朝鮮半島の行動に活躍した水軍の将。生没年不詳。阿曇山背比羅夫とも称す。642年(皇極1),舒明天皇の死を弔する百済使節とともに帰国,弔使の応対に当 ...
26. あずみの-ひらふ【阿曇比羅夫】
日本人名大辞典
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27. あずみのひらぶ【阿曇比羅夫】
国史大辞典
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28. あべのうちのまろ【阿倍内麻呂】
国史大辞典
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29. あべのおたらしひめ【阿倍小足〓
国史大辞典
生没年不詳 孝徳天皇の第一の妃。大化の左大臣阿倍内(倉梯)麻呂の娘で、天皇即位以前の舒明天皇十二年(六四〇)に有間皇子を生んだ。『帝王編年記』には男足媛とある ...
30. あべの-まろ【阿倍摩侶】
日本人名大辞典
もらいたいという蘇我馬子の希望を天皇につたえる。推古天皇の死後,蘇我蝦夷(えみし)の命で,田村皇子(舒明天皇)の即位を群臣にはたらきかけた。阿倍倉梯(くらはしの ...
31. あべのみうし【阿倍御主人】
国史大辞典
六三五―七〇三 七世紀の公卿。『公卿補任』『尊卑分脈』にみえる没年から逆算すると舒明天皇七年(六三五)の誕生となる。布勢麿古臣の男。本姓は布勢朝臣であったが持 ...
32. あみだにょらいぞうめい【阿弥陀如来像銘】 : 観心寺
国史大辞典
死者のためにその妻が阿弥陀仏を造り、亡夫と七世父母が浄土に生まれることを願うというものである。阿弥陀信仰は、舒明天皇十二年(六四〇)の恵隠による『無量寿経』講説 ...
33. あめのかぐやま【天香久山】奈良県:橿原市/大和三山
日本歴史地名大系
されている。山の東北は磐余地方、南に飛鳥、西に藤原京を控えるためことに尊崇厚かったと思われ、舒明天皇はここで国見をし、「大和の 青香具山は 日の経の 大御門に  ...
34. あやぐん【阿野郡】香川県:讃岐国
日本歴史地名大系
、軍王の山を見て作る歌」として長歌と反歌を載せている。山上憶良の「類聚歌林」によれば、これは舒明天皇一一年に伊予温湯宮(現松山市)に行幸した帰途の歌とされている ...
35. ありま【有間】
全文全訳古語辞典
[地名]現在の神戸市北区有馬町。舒明天皇が六三一年(舒明二)に津国の有間温泉に行幸された記事が『日本書紀』にある。平安時代より山紫水明の温泉地として知られる。「 ...
36. ありま【有馬】兵庫県:神戸市/北区/湯山町
日本歴史地名大系
するが、「和名抄」に有馬の郷名はなく、この地域は春木郷に属したと考えられている。「日本書紀」舒明天皇三年九月一九日条に「津国の有間温湯に幸す」とあるように古代以 ...
37. ありまおんせん【有馬温泉】
国史大辞典
温泉。六甲(ろっこう)山の北麓に湧出し、その名は古くから知られている。『日本書紀』によると、舒明天皇が同天皇三年(六三一)と同十年の二回行幸されたのをはじめ、孝 ...
38. ありまおんせん【有馬温泉】兵庫県:神戸市/北区/湯山町
日本歴史地名大系
〔古代〕有馬温泉は京畿に近いため古くから知られており、「日本書紀」に最も早く登場する温泉である。同書によると舒明天皇は三年九月と一〇年一〇月に、孝徳天皇は大化三 ...
39. ありまぐん【有馬郡】
国史大辞典
、幡多・忍壁の二郷が上下に分かれていたらしい。有馬は古来温泉によって有名であり、『日本書紀』舒明天皇三年(六三一)九月条に「幸〓 ...
40. ありまぐん【有馬郡】兵庫県:摂津国
日本歴史地名大系
此の山の近くに塩の湯あり」と郡名がみえる。有馬温泉(現北区)は古くから知られ、「日本書紀」には舒明天皇が三年九月と一〇年一〇月とに「有間温湯」に行幸した記事がみ ...
41. いきのくに【壱岐国】長崎県
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。「日本書紀」皇極天皇元年一〇月条によれば、この年三月新羅が皇極天皇の即位を祝賀する使いと、舒明天皇の死去を弔う使いを派遣し、使いはその帰途に壱岐島に停泊してい ...
42. いそのかみのまろ【石上麻呂】
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七世紀末・奈良時代前期の貴族。旧氏姓は物部連。衛部大華上宇麻乃の子で乙麻呂の父、宅嗣の祖父。舒明天皇十二年(六四〇)に生まれ、壬申の乱に際し大友皇子側にあって敗 ...
43. 逸文(風土記) 433ページ
日本古典文学全集
」とある。その前の舒明三年(六三一)に行宮が造営されていたはず。改修のことをいうか。あるいは舒明天皇(高市岡本宮御宇天皇)事跡と孝徳天皇事跡との伝承上の錯誤か。 ...
44. い‐・ぬ【寝─】
日本国語大辞典
*万葉集〔8C後〕八・一五一一「夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず寐宿(いね)にけらしも〈舒明天皇〉」*源氏物語〔1001~14頃〕夕顔「はなれたる所に心 ...
45. いぬかみぐん【犬上郡】滋賀県
日本歴史地名大系
一日条)、対外関係に活躍している。とりわけ犬上御田鍬は著名で、推古天皇二二年六月には遣隋使、舒明天皇二年八月には遣唐使として二度も中国への公式使節に任命されてい ...
46. いぬかみ‐の‐みたすき【犬上御田鍬・犬上三田耜】
日本国語大辞典
飛鳥時代の官人。推古天皇二二年(六一四)遣隋使として中国に渡り、翌年帰国。舒明天皇二年(六三〇)には遣唐使となり渡航、唐の使者高表仁、僧旻らとともに帰朝した。生 ...
47. いぬかみのみたすき【犬上御田鍬】
国史大辞典
(『旧事本紀』に名を御嬬とするが未詳)らとともに出発、翌年九月、百済使を伴って帰国した。また舒明天皇二年(六三〇)八月、初代の遣唐使として薬師恵日(くすしのえに ...
48. 犬上御田鍬
日本大百科全書
矢田部某とともに第五次遣隋使(けんずいし)となる。翌年百済(くだら)使を伴い帰国。630年(舒明天皇2)8月、薬師恵日(くすしえにち)とともに第一次遣唐使となる ...
49. いわゆのかりみや【石湯行宮】
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この時の斉明天皇の作としている。宮の所在地は今の松山市の道後温泉。立花町に宮址を伝えるが不詳。また『日本書紀』舒明天皇十一年(六三九)十二月壬午条に「幸 ...
50. 宇治拾遺物語 458ページ
日本古典文学全集
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