第38代天皇(在位668~671)。舒明(じょめい)天皇の皇子。母はその皇后にあたる皇極(こうぎょく)天皇。諱(いみな)は中大兄(なかのおおえ)皇子、葛城(かつらぎ)皇子また開別(ひらかすわけ)皇子ともいう。鸕野(うの)皇女(持統(じとう)天皇)、阿倍(あべ)皇女(元明(げんめい)天皇)、大友(おおとも)皇子(弘文(こうぶん)天皇)らの父。同母弟に大海人(おおあま)皇子(天武(てんむ)天皇)がいる。『日本書紀』舒明天皇13年(641)条に、東宮開別皇子が父舒明天皇の葬儀に弔辞を読んだとあるのが、文献上にみえる天智天皇の行動の最初である。645年(大化1)中臣鎌子(なかとみのかまこ)(藤原鎌足(かまたり))、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)らと謀って、蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)の父子を倒し、叔父の軽(かる)皇子が皇位につく(孝徳(こうとく)天皇)と、自らは皇太子となった。年号を大化(たいか)とたて、天皇制支配の確立を目標とする政治改革を断行し、公地公民制の実現を目ざした。いわゆる大化改新である。政策の実施過程で、自己の意図する進路を妨げるおそれのある者は容赦なく退けるといった強行手段に出た。645年に異母兄の古人(ふるひと)大兄皇子を討ち、649年に蘇我倉山田石川麻呂を自殺させたのはその例である。当時、政治の実権は天皇よりも皇太子にあり、そのため、政治の実行にあたり天皇の存在を無視する行動に出ることもあった。孝徳天皇が崩じ皇極天皇が重祚(ちょうそ)して斉明(さいめい)天皇となると、引き続き皇太子の座にあって政治のすべてを握った。658年(斉明天皇4)に孝徳天皇の子、有間(ありま)皇子を謀反の名目で処刑したのは、自己の即位後に有間皇子立太子の可能性が大きく、政治の権限が同皇子に移るのを恐れたためといわれる。
661年、斉明天皇が筑紫(つくし)の朝倉宮(あさくらのみや)に崩ずると、即位することなく天皇の地位にたつ、いわゆる称制(しょうせい)の立場をとった。百済(くだら)再興に力を注ぎ、救援の兵を朝鮮半島に送ったが、663年唐・新羅(しらぎ)の連合軍と白村江(はくそんこう)に戦って大敗した。664年内政において二十六階の冠位制を設け、また氏上(うじのかみ)、民部(たみべ/かきべ)、家部(やかべ)制を定めるなどして官人秩序の整備にあたる一方、同年に対馬(つしま)、壱岐(いき)、筑紫に防人(さきもり)と烽(とぶひ)を置き、筑紫に水城(みずき)を築き、翌年には長門(ながと)国にも築城するなど、西国の防備を固めながら大陸との外交に臨んだ。667年、都を飛鳥(あすか)から畿外(きがい)の近江大津宮(おうみおおつのみや)に遷(うつ)し、翌年即位し、弟の大海人皇子を皇太弟とした。670年には、後世の戸籍の基準となり、氏姓の根本台帳としての役割を果たす戸籍を作成した。これが庚午年籍(こうごねんじゃく)である。671年大友皇子を、政治の全権を握り政治権力が皇太子に等しい太政(だいじょう)大臣につけた。これは、大海人皇子を政権の場から除外し、自己の長子である大友皇子の政権確立を意図するものであった。なおこのとき近江令(りょう)を施行したとの意見もある。また天皇が皇太子時代に自ら製造したと伝えられる漏刻(ろうこく)(水時計)を初めて用いたのも671年である。同年、天皇は病に臥(ふ)し大海人皇子に後事を託したが、同皇子は陰謀のあることを知って辞退し、吉野に引きこもった。天智天皇はこの年12月、近江大津宮に崩じた。御陵は山城(やましろ)国宇治郡(京都市山科(やましな)区御陵上御廟野町(みささぎかみごびょうのちょう))にあり、山科陵という。『万葉集』に四首の歌を残しているが、そのうち『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』にみえる説話を取り入れた大和(やまと)三山の歌(巻1―13、14)、また印南野(いなみの)の海浜あたりでの作といわれる雄大な自然の情景を歌った「渡津海(わたつみ)の豊旗雲(とよはたぐも)に入日(いりひ)さし」の歌(巻1―15)は、万葉の作風を濃厚に示すものとして著名である。なお前者は、額田王(ぬかたのおおきみ)をめぐる大海人皇子との争いに託したとの説があるが、根拠は薄い。
第38代に数えられる天皇。称制661-668,在位668-671。大化改新以後,律令体制成立期の政治を指導した。葛城(かつらぎ)皇子,また中大兄(なかのおおえ)皇子といった。舒明天皇の子,母は宝皇女(のちの皇極天皇)。異母兄に古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子,同母弟に大海人(おおあま)皇子がある。天智の誕生は推古朝の末期で,海外では618年に隋が滅び,かわってより強大な唐がおこり,その勢力は朝鮮を脅かしはじめていた。朝鮮三国はもちろん日本も,国力を強化してこれに対抗する必要があった。641年舒明天皇が没したとき,天智は16歳で皇位をつぐ資格はあったが,蘇我法提郎媛(ほてのいらつめ)を母とする古人大兄皇子も有力な候補者で,皇位は結局,皇后宝皇女(皇極)がついだ。両皇子のいずれを天皇とするかを定めかねたためであろうか。他にも有力な皇族に聖徳太子の長子山背大兄(やましろのおおえ)王がいたが,643年(皇極2)大臣蘇我入鹿(いるか)はこれを襲撃して滅ぼした。切迫する情勢のなかで,中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は天智に接近して蘇我氏打倒の計画をすすめた。天智は入鹿と対立する蘇我石川麻呂の娘を妃として勢力を固め,また長く中国に留学して帰った南淵請安について大陸の新知識を学び,政治の改革にそなえた。天智はこうした準備のもとに,645年クーデタ(乙巳(いつし)の変)をおこし,飛鳥板蓋宮で入鹿を暗殺し,蘇我氏本宗家を滅ぼした。
皇極天皇は退位し,天智は皇極の弟の孝徳天皇を擁立し,自分は皇太子となり,阿倍内麻呂と蘇我石川麻呂を左右大臣,鎌足を内臣(うちつおみ),僧旻(みん)らを国博士,年号を大化と定めて,さらに都を飛鳥から難波へ移し,政治の改革に着手した。その間政敵の古人大兄を謀反の罪で滅ぼした。646年(大化2)発布した大化改新の詔には,公地公民の制や,国郡里の行政制度,戸籍・班田収授の制,租税の制など,唐の律令制にならった進んだ政策が示されているが,各条文には大宝令を手本にして作られた部分が多く,改新詔は大化当時のものとは思われない。しかし孝徳の治世10年(645-654)の間に,政治の改革は多くの点で進み,天皇の権力は強化され,官制も整備され,冠位は13階となり,さらに19階の制が施行され,地方では国造の支配した国にかわって郡の前身となる評(こおり)が置かれた。壮大な規模の難波長柄豊碕宮も652年に完成した。孝徳の没後,皇極が再び即位し(斉明天皇),都は飛鳥に帰った。天智は皇太子のまま政治をとり,阿倍比羅夫を遣わして蝦夷を討ち領土の開拓につとめ,斉明朝の末年には唐と新羅に攻められた百済救援の軍を朝鮮に送った。救援軍派遣中に斉明天皇は661年に没し,天智は皇太子のまま政治をとったが,救援軍は663年(天智2)に白村江で大敗した。天智は大宰府に水城(みずき),各地に山城(さんじよう)を造り,さらに667年に都を近江の大津に移し唐の来襲に備え,そうした国際的緊張の高まるなかで律令制度の摂取と,国政の改革をおしすすめた。冠位の制は遷都以前に26階とした。668年正式に即位,670年には庚午年籍(こうごねんじやく)を作成,671年に近江令を施行した。近江令の存在を疑う説もあるが,天智が律令体制の形成に果たした功績は大きい。671年1月に子の大友皇子を太政大臣として後継者としようとしたが,その体制の固まらぬうちに,その年12月に没した。諡(おくりな)は天命開別(あめみことひらかすわけ)。陵は京都市山科区御陵上御廟野町にある。
天智天皇は歌人としては《万葉集》第1期に属す。649年妻を亡くしたとき,その悲しみを渡来系の詞人に代作させたり(《日本書紀》),近江宮廷に詩歌の雅宴を開いたりした(《懐風藻》《万葉集》)。自作は《万葉集》に大和三山歌など長歌1首と短歌3首,《日本書紀》に短歌1首が伝えられるが,その歌風は細部にとらわれず,古朴で大らかで生気がある。〈わたつみの豊旗雲に入り日さし今夜(こよい)の月夜(つくよ)さやけくありこそ〉(《万葉集》巻一)
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