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国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
天智天皇
てんじてんのう
六二六 - 七一
六六一―六八称制、六八―七一在位。大化改新の中心人物。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)。淡海(近江)大津宮天皇とも。推古天皇三十四年(六二六)の生。父は田村皇子(舒明天皇)、母は宝皇女(舒明皇后、皇極・斉明天皇)。同じ母の生んだ妹に間人(はしひと)皇女(孝徳皇后)、弟に大海人(おおあま)皇子(天武天皇)がいる。名は葛城(かずらき)皇子、開別皇子。父の即位後、中大兄(なかのおおえ)とよばれるようになったのは、大兄つまり皇位継承候補として、蘇我大臣馬子の娘の生んだ異母兄に古人大兄(ふるひとのおおえ)がいるためである。その古人大兄を大化改新着手後に兵を送って殺し、娘の倭姫(やまとひめ)を引き取ってのちに皇后としたが、二人の間に子はなかった。配偶者として他に八人を『日本書紀』は記載し、大友・建(たける)・川嶋・施基(しき)の四皇子と、太田・〓野(持統天皇)・御名部・阿倍(元明天皇)ら十皇女を生んだとするが、『続日本紀』は施基を第七皇子とし、『扶桑略記』は子女を男六人・女十三人とし、他書にも大友皇子の弟妹についての所伝が残るなど、天智の子女はほかにもいた形跡がある。没した翌年に起った壬申の乱のために書物が多く失われたらしく、『日本書紀』も天智紀以前は天武紀以後にくらべて記事が簡略である。改新以前の中大兄については、父の殯(もがり)に年十六で誄(しのびごと)を述べたとあるほか、飛鳥寺の西の槻の木のある広場で催された蹴鞠の会で中臣鎌子(のちの藤原鎌足)と親しくなり、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の所へ一緒に通う間に蘇我大臣家打倒の計画を練ったという話をのせている程度である。藤原鎌足の伝記『大織冠伝』にもほぼ同じ話がみえるが、旻(みん)法師の堂へ通うとしている。請安も旻も、推古朝に隋へ派遣された第一回の留学僧であり、隋の滅亡と唐の興隆とを目撃し、舒明朝に帰国したばかりであった。彼らの説く王朝交代の論理は、折しも高句麗で大臣が国王らを殺して独裁者となり、百済では国王が反対派の王族や高官らを追放するなど、唐の圧迫を受けた朝鮮諸国激動の情報とともに、若い中大兄の危機感を鋭く刺激したことであろう。日本でも皇室と蝦夷・入鹿ら蘇我大臣家とのいずれかが主導権を握って、国家統一を強化しなければならぬ状況だったからである。ところが舒明の死後の皇位継承候補には、中大兄と古人大兄のほかにも、聖徳太子の子の山背大兄(やましろのおおえ)がいて、朝廷豪族たちの意見が一致しないために、皇后が即位すると(皇極天皇)、その翌皇極天皇二年(六四三)、入鹿は兵を斑鳩宮に派遣して山背大兄一族を滅ぼしてしまった。このような先制攻撃に対し、中大兄は鎌足とともに大臣家打倒の計画を練り、まず蘇我石川麻呂の娘を中大兄の妻に迎えて彼ら一族の分裂を策し、また暗殺者を雇って決行当日の手順を組み、さらに打倒後の新政府の人事や政策も立案したらしい。かくて皇極天皇四年夏六月十二日、飛鳥板蓋宮の正殿で外交儀礼が行われている最中に、侍立していた入鹿を暗殺した。このとき二十歳の中大兄は、暗殺者たちがひるんでいるのを見かね、率先して長槍をふるい、入鹿に襲いかかったという。翌日、大臣蝦夷は自邸を焼いて自殺。翌々日、皇極天皇は弟の孝徳天皇に譲位。中大兄は皇太子として実権を掌握、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我石川麻呂を右大臣、中臣鎌子を内臣、旻と高向玄理(たかむこのげんり)とを国博士とする新政権を樹立した。新政権は飛鳥寺の槻の木の下に群臣を集めて忠誠を誓わせ、はじめて年号を立てて大化元年とし、秋には東国や倭国に使者を派遣して当面の軍事的、財政的基盤とし、冬には都を飛鳥から難波に移し、大化二年(六四六)正月元日、いわゆる改新の詔を公布した。公地公民の原則、国・郡(評)・里などの地方行政組織、戸籍の作製や班田の収授、租税制度など、四綱目にわたって改革の方針を宣言したこの詔は、唐のような中央集権国家の建設をめざしていたが、改革の実現は、どれ一つを取り上げても容易ではなかった。中大兄自身、屯倉(みやけ)・入部(いりべ)のような私有地・私有民を返上したのをはじめ、中央では冠位十二階を十三階、さらに十九階と細分して、官僚機構の充実に対応させ、地方では国造の支配していた国を郡の前身である評に組みかえ、一里を五十戸で編成するなど、新政権は大化年間を通じて目標の達成に努め、内部に右大臣の石川麻呂のような批判者が出れば、中大兄は容赦なく粛清した。だがその翌年春、穴戸(長門)国で発見された白い雉が献上されると、これを天の下した祥瑞と自讃し、年号も白雉と改めた。はたしてこのころから改革の勢いも鈍くなる。やがて中大兄は孝徳天皇とも対立し、白雉四年(六五三)には母や弟妹とともに群臣を率いて飛鳥へ引き上げ、残された天皇が翌年冬に病死すると、再び母を立てて斉明天皇とし、みずからは引き続き皇太子として実権をとった。斉明朝の七年間は、飛鳥岡本宮造営などの大きな土木工事、阿倍比羅夫らの遠征による蝦夷地の支配、そして唐に滅ぼされた百済を復興しようとする努力に費やされたが、それが可能だったのは、大化年間の改革で朝廷の直接に支配する人民や財貨が増加したためと思われる。また中大兄の子どもたちのなかでは、右大臣石川麻呂の娘が生んだ建皇子が次の皇太子かと期待されていたのに、斉明天皇四年(六五八)八歳で死ぬと、皇位継承候補として浮上してきた孝徳天皇の遺子有間皇子を、土木工事を非難し反乱を企てたとして、処刑してしまった。かような内政問題を抱えているので、六六〇年(斉明天皇六)唐に滅ぼされた百済の遺臣が日本に救援を求めてきたことは、中大兄らに対するさまざまな不満をそらせる好機であった。そこでほぼ日本全国から兵を動員し、阿倍比羅夫らを将軍として朝鮮半島に送りこむ一方、みずからは母や弟や妻子を率いて北九州の筑前国朝倉に宮を移し、翌年母の斉明が病死した後も、皇位にはつかずに政務をみる、つまり皇太子の称制という形式で百済復興戦争を継続した。しかし六六三年(称制三)の白村江の戦いで、日本の水軍が唐の水軍に大敗するに至って復興を諦め、百済からの亡命貴族とともに全軍を日本に引き上げさせた。翌年には十九階の冠位を二十六階に増して官僚機構の充実に努めるとともに、諸豪族の氏上は朝廷が認定することとし、その民部(かきべ)・家部(やかべ)ら私有民も朝廷の監督下に置くなど、再び内政の改革に着手した。国際関係の変化に対しては、大化以来しきりに遣唐使を派遣して状況を把握しようとしていたが、白村江の敗戦後は、亡命貴族に指導させて大宰府の水城や、北九州から瀬戸内海沿岸にかけての朝鮮式山城を築いて唐の侵攻に備え、さらに彼らを近江や東国各地に住まわせて、その新しい技術による開拓や増産をはかった。こうして称制七年春、都を大和の飛鳥から近江の大津に移し、翌春には即位して天智天皇となった。近江遷都には、のちに柿本人麻呂が「いかさまに思ほしめせか」と歌ったように、不満の声は少なくなかったようだが、やはり唐の侵攻を顧慮しての決断だったらしい。ともかく近江朝の四年間は、表面上穏やかに過ぎた。即位の翌年秋の鎌足の病死は天智に打撃であったし、かねてから鎌足に命じて作らせていた律令も、律はもちろん、いわゆる『近江令』も体系的な法典としてはついに完成しなかったのではないかと疑われるけれども、大化以来、官僚機構をはじめ、さまざまな法令や制度がこのころまでに整ってきたことは確かである。近江朝では亡命貴族を教官とする大学ができたといわれ、『懐風藻』でも大友皇子の漢詩が最も古く、天智天皇九年(六七〇)に日本最初の全国的な戸籍である庚午年籍が作製されたのも、地方の役人まで漢字を書けるようになったためと考えられる。『万葉集』では舒明朝から天智朝ころにかけての歌が、作者の明らかになった最初の作品群といわれ、天智の歌は斎藤茂吉が「蒼古峻厳」と評しているけれども、弟の大海人皇子と額田女王の蒲生野での相聞のほうが初心者には印象あざやかであろう。しかしこの額田女王も大海人との間に十市皇女を生んでいるのに天智の妻となる。天智天皇十年正月、長子の大友皇子を太政大臣に任じて政を委ね、蘇我赤兄(あかえ)を左大臣、中臣金(こがね)を右大臣、蘇我果安(はたやす)・巨勢人(ひと)・紀大人(うし)を御史大夫として大友を輔佐する体制を整えてから新たな法令を公布したが、その冬十二月三日、大臣や御史大夫らに後事を託して世を去った。四十六歳。しかしこの人事に対する不満は翌年、壬申の乱が起きる直接の原因となる。ともあれ天智天皇は、親友だった藤原鎌足の子孫が奈良時代初期から歴代の大臣や高官として政権を掌握するようになり、奈良時代末期に施基皇子の子の白壁王が光仁天皇となって以後は皇統の祖とされたために、実際には弟の天武、娘の持統の両天皇が壬申の乱後に律令国家を完成させたにもかかわらず、後世の朝廷からは天智が律令国家の創始者と仰がれることとなった。だが、近親の団結が必要な武家時代、ことに儒教が広まり始めた江戸時代には、天智が義兄の古人大兄、義父の石川麻呂、甥の有間皇子らを容赦なく粛清していった事実が注目されて、人格的に非難されるに至った。結局平穏な時代には、激動の時代に生きた人物像が理解しにくかったのである。
(青木 和夫)

山科陵(やましなのみささぎ)

 史書に山階陵・山階山陵などとも記す。京都市山科区御陵上御廟野(みささぎかみごびょうの)町にあり、舌状に伸びる丘陵南端の緩斜面に立地する。典型的な上円下方墳で、南面する。上円部は、裾の径約四二メートル・高さ約七メートル、法面に段は認めないが、人頭大以下の円礫が顕著である。墳頂部の八角形に繞る石列や墳丘の等高線の走向から、上円部は平面八角形と推測される。下方部は、二段築成。上段は、一辺の長さ約四五メートルで、四隅に大型の切石が認められる。下段は、地形に制約されて南辺が高く北辺が低い。南辺は長さ約六二メートル。南辺中央のテラスには、上段に接するようにして、約二メートル×三メートルの「沓石」と呼ばれる上面平坦な切石があり、礼拝の施設と考えられる。天武天皇元年(六七二)近江朝廷側がこの陵の営造のためと称して美濃・尾張の人夫を集めたことは、壬申の乱の直接的な発端となる。その後、工事は中断したのか、文武天皇三年(六九九)、諸臣を遣して陵を修造せしめた。以後、奈良・平安・鎌倉時代を通じて、外交使節の来朝、外敵の来襲、天皇の不予・即位・元服、皇太子の廃位、災異・祥瑞の出現などに際して使が陵に派遣されることが多く、近陵・荷前(のさき)奉幣の例にも長く預かった。光仁天皇以降、皇統が天智天皇系に復すること、陵所が平安京に近いことなどによる。『延喜式』諸陵寮は現陵号と同じで、「在〓山城国宇治郡〓、兆域東西十四町、南北十四町、陵戸六烟」とあり、近陵とする。鎌倉時代初期にはすでに陵所は荘園化し、預職が置かれ、種々の公事が課され(『諸陵雑事注文』)、南北朝時代以降もなお諸陵寮が所管し、沙汰人が置かれた。江戸時代に入っても「禁裏御領」として沙汰人の子孫である地元有力者によって守護が続けられた。元禄・享保・文久の修補を経て明治政府に引き継がれ、現在に至る。なお、この陵の形態は、舒明天皇押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)のそれとともに、明治天皇伏見桃山陵以下の陵形の範とされた。ただし、当時、上円部の平面は、八角形ではなく、円形と考えられていた。
[参考文献]
上野竹次郎『山陵』上、白石太一郎「畿内における古墳の終末」(『国立歴史民俗博物館研究報告』一)、笠野毅「天智天皇山科陵墳丘遺構」(『書陵部紀要』三九)
(笠野 毅)


日本大百科全書(ニッポニカ)
天智天皇
てんじてんのう
[626―671]

第38代天皇(在位668~671)。舒明(じょめい)天皇の皇子。母はその皇后にあたる皇極(こうぎょく)天皇。諱(いみな)は中大兄(なかのおおえ)皇子、葛城(かつらぎ)皇子また開別(ひらかすわけ)皇子ともいう。鸕野(うの)皇女(持統(じとう)天皇)、阿倍(あべ)皇女(元明(げんめい)天皇)、大友(おおとも)皇子(弘文(こうぶん)天皇)らの父。同母弟に大海人(おおあま)皇子(天武(てんむ)天皇)がいる。『日本書紀』舒明天皇13年(641)条に、東宮開別皇子が父舒明天皇の葬儀に弔辞を読んだとあるのが、文献上にみえる天智天皇の行動の最初である。645年(大化1)中臣鎌子(なかとみのかまこ)(藤原鎌足(かまたり))、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)らと謀って、蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)の父子を倒し、叔父の軽(かる)皇子が皇位につく(孝徳(こうとく)天皇)と、自らは皇太子となった。年号を大化(たいか)とたて、天皇制支配の確立を目標とする政治改革を断行し、公地公民制の実現を目ざした。いわゆる大化改新である。政策の実施過程で、自己の意図する進路を妨げるおそれのある者は容赦なく退けるといった強行手段に出た。645年に異母兄の古人(ふるひと)大兄皇子を討ち、649年に蘇我倉山田石川麻呂を自殺させたのはその例である。当時、政治の実権は天皇よりも皇太子にあり、そのため、政治の実行にあたり天皇の存在を無視する行動に出ることもあった。孝徳天皇が崩じ皇極天皇が重祚(ちょうそ)して斉明(さいめい)天皇となると、引き続き皇太子の座にあって政治のすべてを握った。658年(斉明天皇4)に孝徳天皇の子、有間(ありま)皇子を謀反の名目で処刑したのは、自己の即位後に有間皇子立太子の可能性が大きく、政治の権限が同皇子に移るのを恐れたためといわれる。
 661年、斉明天皇が筑紫(つくし)の朝倉宮(あさくらのみや)に崩ずると、即位することなく天皇の地位にたつ、いわゆる称制(しょうせい)の立場をとった。百済(くだら)再興に力を注ぎ、救援の兵を朝鮮半島に送ったが、663年唐・新羅(しらぎ)の連合軍と白村江(はくそんこう)に戦って大敗した。664年内政において二十六階の冠位制を設け、また氏上(うじのかみ)、民部(たみべ/かきべ)、家部(やかべ)制を定めるなどして官人秩序の整備にあたる一方、同年に対馬(つしま)、壱岐(いき)、筑紫に防人(さきもり)と烽(とぶひ)を置き、筑紫に水城(みずき)を築き、翌年には長門(ながと)国にも築城するなど、西国の防備を固めながら大陸との外交に臨んだ。667年、都を飛鳥(あすか)から畿外(きがい)の近江大津宮(おうみおおつのみや)に遷(うつ)し、翌年即位し、弟の大海人皇子を皇太弟とした。670年には、後世の戸籍の基準となり、氏姓の根本台帳としての役割を果たす戸籍を作成した。これが庚午年籍(こうごねんじゃく)である。671年大友皇子を、政治の全権を握り政治権力が皇太子に等しい太政(だいじょう)大臣につけた。これは、大海人皇子を政権の場から除外し、自己の長子である大友皇子の政権確立を意図するものであった。なおこのとき近江令(りょう)を施行したとの意見もある。また天皇が皇太子時代に自ら製造したと伝えられる漏刻(ろうこく)(水時計)を初めて用いたのも671年である。同年、天皇は病に臥(ふ)し大海人皇子に後事を託したが、同皇子は陰謀のあることを知って辞退し、吉野に引きこもった。天智天皇はこの年12月、近江大津宮に崩じた。御陵は山城(やましろ)国宇治郡(京都市山科(やましな)区御陵上御廟野町(みささぎかみごびょうのちょう))にあり、山科陵という。『万葉集』に四首の歌を残しているが、そのうち『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』にみえる説話を取り入れた大和(やまと)三山の歌(巻1―13、14)、また印南野(いなみの)の海浜あたりでの作といわれる雄大な自然の情景を歌った「渡津海(わたつみ)の豊旗雲(とよはたぐも)に入日(いりひ)さし」の歌(巻1―15)は、万葉の作風を濃厚に示すものとして著名である。なお前者は、額田王(ぬかたのおおきみ)をめぐる大海人皇子との争いに託したとの説があるが、根拠は薄い。
[亀田隆之]



世界大百科事典
天智天皇
てんぢてんのう
626-671(推古34-天智10)

第38代に数えられる天皇。称制661-668,在位668-671。大化改新以後,律令体制成立期の政治を指導した。葛城(かつらぎ)皇子,また中大兄(なかのおおえ)皇子といった。舒明天皇の子,母は宝皇女(のちの皇極天皇)。異母兄に古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子,同母弟に大海人(おおあま)皇子がある。天智の誕生は推古朝の末期で,海外では618年に隋が滅び,かわってより強大な唐がおこり,その勢力は朝鮮を脅かしはじめていた。朝鮮三国はもちろん日本も,国力を強化してこれに対抗する必要があった。641年舒明天皇が没したとき,天智は16歳で皇位をつぐ資格はあったが,蘇我法提郎媛(ほてのいらつめ)を母とする古人大兄皇子も有力な候補者で,皇位は結局,皇后宝皇女(皇極)がついだ。両皇子のいずれを天皇とするかを定めかねたためであろうか。他にも有力な皇族に聖徳太子の長子山背大兄(やましろのおおえ)王がいたが,643年(皇極2)大臣蘇我入鹿(いるか)はこれを襲撃して滅ぼした。切迫する情勢のなかで,中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は天智に接近して蘇我氏打倒の計画をすすめた。天智は入鹿と対立する蘇我石川麻呂の娘を妃として勢力を固め,また長く中国に留学して帰った南淵請安について大陸の新知識を学び,政治の改革にそなえた。天智はこうした準備のもとに,645年クーデタ(乙巳(いつし)の変)をおこし,飛鳥板蓋宮で入鹿を暗殺し,蘇我氏本宗家を滅ぼした。

 皇極天皇は退位し,天智は皇極の弟の孝徳天皇を擁立し,自分は皇太子となり,阿倍内麻呂と蘇我石川麻呂を左右大臣,鎌足を内臣(うちつおみ),僧旻(みん)らを国博士,年号を大化と定めて,さらに都を飛鳥から難波へ移し,政治の改革に着手した。その間政敵の古人大兄を謀反の罪で滅ぼした。646年(大化2)発布した大化改新の詔には,公地公民の制や,国郡里の行政制度,戸籍・班田収授の制,租税の制など,唐の律令制にならった進んだ政策が示されているが,各条文には大宝令を手本にして作られた部分が多く,改新詔は大化当時のものとは思われない。しかし孝徳の治世10年(645-654)の間に,政治の改革は多くの点で進み,天皇の権力は強化され,官制も整備され,冠位は13階となり,さらに19階の制が施行され,地方では国造の支配した国にかわって郡の前身となる評(こおり)が置かれた。壮大な規模の難波長柄豊碕宮も652年に完成した。孝徳の没後,皇極が再び即位し(斉明天皇),都は飛鳥に帰った。天智は皇太子のまま政治をとり,阿倍比羅夫を遣わして蝦夷を討ち領土の開拓につとめ,斉明朝の末年には唐と新羅に攻められた百済救援の軍を朝鮮に送った。救援軍派遣中に斉明天皇は661年に没し,天智は皇太子のまま政治をとったが,救援軍は663年(天智2)に白村江で大敗した。天智は大宰府に水城(みずき),各地に山城(さんじよう)を造り,さらに667年に都を近江の大津に移し唐の来襲に備え,そうした国際的緊張の高まるなかで律令制度の摂取と,国政の改革をおしすすめた。冠位の制は遷都以前に26階とした。668年正式に即位,670年には庚午年籍(こうごねんじやく)を作成,671年に近江令を施行した。近江令の存在を疑う説もあるが,天智が律令体制の形成に果たした功績は大きい。671年1月に子の大友皇子を太政大臣として後継者としようとしたが,その体制の固まらぬうちに,その年12月に没した。諡(おくりな)は天命開別(あめみことひらかすわけ)。陵は京都市山科区御陵上御廟野町にある。
[直木 孝次郎] 天智天皇は歌人としては《万葉集》第1期に属す。649年妻を亡くしたとき,その悲しみを渡来系の詞人に代作させたり(《日本書紀》),近江宮廷に詩歌の雅宴を開いたりした(《懐風藻》《万葉集》)。自作は《万葉集》に大和三山歌など長歌1首と短歌3首,《日本書紀》に短歌1首が伝えられるが,その歌風は細部にとらわれず,古朴で大らかで生気がある。〈わたつみの豊旗雲に入り日さし今夜(こよい)の月夜(つくよ)さやけくありこそ〉(《万葉集》巻一)
[渡瀬 昌忠]

[索引語]
葛城(かつらぎ)皇子 中大兄(なかのおおえ)皇子
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27. あい‐あらそ・う[あひあらそふ]【相争】
日本国語大辞典
互いに競い合う。*万葉集〔8C後〕一・一三「香具山は 畝火雄々しと 耳梨と相諍競(あひあらそひ)き〈天智天皇〉」*太平記〔14C後〕二・師賢登山事「三十六騎の者 ...
28. あいそめがわ【藍染川】福岡県:太宰府市/宰府村
日本歴史地名大系
いったものであろう。飯尾宗祇の「筑紫道記」文明一二年(一四八〇)九月一九日条には染川に沿って下ると「天智天皇の皇居木の丸殿の跡」、すなわち都府楼跡に出るとあるこ ...
29. あくみのしょう【飽海庄】愛知県:豊橋市/吉田城下/魚町
日本歴史地名大系
安海熊野神社の伝承に、神社は、天智天皇三年にあくみの庄司五郎左衛門治堅の創始という。また安海熊野宮略縁起には、保延二年(一一三六)鳥羽天皇の勅願で創始されたとい ...
30. あさがけ の 駄賃(だちん)
日本国語大辞典
(「行きがけの駄賃」のもじり。「あさがけ(4)」から) 物事の容易なことのたとえ。*浄瑠璃・天智天皇〔1692〕五「気遣なさるな、五人や十人は朝がけの駄賃ぞ」 ...
31. あさくらじんじゃ【朝倉神社】高知県:高知市/朝倉村
日本歴史地名大系
当社のこととする説が古くから行われてきた。明暦四年(一六五八)林春斎の記した土佐国朝倉宮縁起も、斉明―天智天皇頃の百済派兵と合せて当社にあてている。現在、「日本 ...
32. 朝倉宮
世界大百科事典
あんぐう)。正式には朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)といい,《新古今集》が天智天皇の作とする〈朝倉や木の丸殿に我が居れば名宣りをしつつ行くは誰 ...
33. あさくらまち【朝倉町】福岡県:朝倉郡
日本歴史地名大系
朝倉社・朝倉橘広庭宮の跡地と伝える場所もある(杷木町の→朝倉社 →朝倉橘広庭宮)。「新古今集」が天智天皇の歌とする「朝倉や木の丸殿にわがをれば名のりをしつつ行く ...
34. あさごぐん【朝来郡】兵庫県
日本歴史地名大系
承和一二年(八四五)には粟鹿神が従五位下の神階を与えられている(「続日本紀」同年七月一六日条)。「日本書紀」天智天皇二年(六六三)三月条によれば、新羅征討軍を派 ...
35. あさひなよしひで【朝比奈義秀】
日本架空伝承人名事典
とゝめんとおもふなり。そこをひくなといふまゝに、まつさきかけてきつてかゝる。つゝくおにともには、天智天皇の御時、ちかたといひし逆臣につかへしおに、その名を石熊童 ...
36. あすか【飛鳥】奈良県:高市郡/明日香村
日本歴史地名大系
・阿須箇(斉明紀)、「万葉集」に明日香・飛鳥・阿須可・安須可などの用字がみられる。金石文では天智天皇七年の船首王後墓誌に「阿須迦宮」、持統天皇三年の采女氏塋域碑 ...
37. あすかいたぶきのみや【飛鳥板蓋宮】奈良県:高市郡/明日香村/岡村
日本歴史地名大系
限る玉石組の大溝の下層から出土しているが、後者の地点から出土した木簡には大化三年(六四七)に制定し天智天皇三年まで使用していたと「日本書紀」に記す「小山下」以下 ...
38. あすかきょう【飛鳥京】
国史大辞典
中心とする京師の制の整備が立案され、実行に移されはじめたと推定してよかろう。孝徳天皇の難波遷都、天智天皇の近江遷都は、京制の整備を推進する契機となったと思われる ...
39. 飛鳥浄御原令
世界大百科事典
行されたと伝えるものが,これにあたる。ただしこの《日本書紀》の記事については,古くはこれを,天智天皇が藤原鎌足らに編纂させたといわれる近江令を681年に修訂し, ...
40. 飛鳥時代画像
日本大百科全書
結果として大化の前後の国制に根本的なギャップを生ぜしめなかった。黛 弘道天武・持統朝中大兄皇子(天智天皇)の領導のもと改革は強引に推進されたが、その没後まもなく ...
41. 飛鳥時代
世界大百科事典
大和から近江大津宮に移して天智天皇として正式に即位し,近江令の制定や庚午年籍(こうごねんじやく)の作成など内政の推進にも意をそそいだ。このように大化改新以後長い ...
42. 飛鳥時代(年表)
日本大百科全書
造営665(天智4)筑紫に大野城・基肄城を築く667(天智6)近江大津宮に遷都668(天智7)中大兄即位(天智天皇)。高句麗滅亡669(天智8)藤原(中臣)鎌足 ...
43. あすかでら【飛鳥寺】画像
国史大辞典
。同月、中大兄皇子の兄古人大兄皇子は皇位を辞退し、法興寺の仏殿と塔の間で剃髪し仏門に入った。天智天皇十年(六七一)十月天皇の病のため袈裟・金鉢や珍財を法興寺の仏 ...
44. 飛鳥美術
日本大百科全書
新しい要素を備えたものとが混じり合い、今日若草伽藍(がらん)と称している法隆寺の火災のあった670年(天智天皇9)をもって飛鳥時代の終わりとする説もあるが、ここ ...
45. あすかぶっきょう【飛鳥仏教】
国史大辞典
摂論・三論・成実の三宗は、いずれも旧訳経典をテキストとする旧訳仏教である。仏法興隆の大勢はつづき、天智天皇は、母の斉明天皇の追善のために、筑紫に観世音寺を、また ...
46. あすけはちまんぐう【足助八幡宮】愛知県:東加茂郡/足助町/足助村
日本歴史地名大系
比売命・瀬織津比売命・菊理媛命・日本武尊。南北朝時代成立と推定される足助八幡宮縁起によると、天智天皇の時、宝飯郡大深山(現本宮山)に猿の形・鹿姿・鬼体をなす怪異 ...
47. あずまやじんじゃ【四阿屋神社】佐賀県:鳥栖市/牛原村
日本歴史地名大系
祭神は日本武尊(熱田大明神)・住吉大明神・志賀大明神。近世、田代領養父郡の総社。旧郷社。縁起によれば天智天皇元年の創建というが、「類聚符宣抄」には「正六位上東屋 ...
48. あずみ‐の‐ひらふ[あづみの‥]【安曇比羅夫】
日本国語大辞典
飛鳥時代の武将。天智天皇元年(六六二)、百済(くだら)救援のため船一七〇隻を率いて朝鮮半島に渡り、百済王子豊璋(ほうしょう)を王位につける。翌年、唐・新羅連合軍 ...
49. あそう・あそうわん【浅海・浅茅湾】長崎県:下県郡
日本歴史地名大系
ったことが浅海湾沿岸遺跡調査で展望できた。南辺の城山には朝鮮式山城の遺構があり、「日本書紀」天智天皇六年(六六七)一一月条にみえる金田城(現美津島町、国指定特別 ...
50. あちはやおじんじゃ【阿遅速雄神社】大阪府:大阪市/鶴見区/放出村地図
日本歴史地名大系
往古は八剣大明神と称した。旧郷社。「延喜式」神名帳に載る東生郡の同名社に比定される。社伝によれば、天智天皇七年(六六八)に熱田神宮(現名古屋市熱田区)の神剣草薙 ...
「天智天皇」の情報だけではなく、「天智天皇」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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皇位継承(改訂新版・世界大百科事典)
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摂政(国史大辞典)
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上皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
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昭和天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一九〇一 - 八九 一九二六―八九在位。明治三十四年(一九〇一)四月二十九日午後十時十分、東宮御所に生誕。皇太子明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)と皇太子妃節子(のちの貞明皇后)の第一皇子。五月五日明治天皇より裕仁(ひろひと)と命名され
大正天皇(国史大辞典・日本大百科全書・日本人名大辞典)
一八七九 - 一九二六 一九一二―二六在位。明治十二年(一八七九)八月三十一日午前八時十二分、東京青山御所内御産所にて生誕。明治天皇第三皇子、生母権典侍柳原愛子。九月六日、嘉仁(よしひと)と命名、明宮(はるのみや)と称した
明治天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
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