野(持統天皇)・御名部・阿倍(元明天皇)ら十皇女を生んだとするが、『続日本紀』は施基を第七皇子とし、『扶桑略記』は子女を男六人・女十三人とし、他書にも大友皇子の弟妹についての所伝が残るなど、天智の子女はほかにもいた形跡がある。没した翌年に起った壬申の乱のために書物が多く失われたらしく、『日本書紀』も天智紀以前は天武紀以後にくらべて記事が簡略である。改新以前の中大兄については、父の殯(もがり)に年十六で誄(しのびごと)を述べたとあるほか、飛鳥寺の西の槻の木のある広場で催された蹴鞠の会で中臣鎌子(のちの藤原鎌足)と親しくなり、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の所へ一緒に通う間に蘇我大臣家打倒の計画を練ったという話をのせている程度である。藤原鎌足の伝記『大織冠伝』にもほぼ同じ話がみえるが、旻(みん)法師の堂へ通うとしている。請安も旻も、推古朝に隋へ派遣された第一回の留学僧であり、隋の滅亡と唐の興隆とを目撃し、舒明朝に帰国したばかりであった。彼らの説く王朝交代の論理は、折しも高句麗で大臣が国王らを殺して独裁者となり、百済では国王が反対派の王族や高官らを追放するなど、唐の圧迫を受けた朝鮮諸国激動の情報とともに、若い中大兄の危機感を鋭く刺激したことであろう。日本でも皇室と蝦夷・入鹿ら蘇我大臣家とのいずれかが主導権を握って、国家統一を強化しなければならぬ状況だったからである。ところが舒明の死後の皇位継承候補には、中大兄と古人大兄のほかにも、聖徳太子の子の山背大兄(やましろのおおえ)がいて、朝廷豪族たちの意見が一致しないために、皇后が即位すると(皇極天皇)、その翌皇極天皇二年(六四三)、入鹿は兵を斑鳩宮に派遣して山背大兄一族を滅ぼしてしまった。このような先制攻撃に対し、中大兄は鎌足とともに大臣家打倒の計画を練り、まず蘇我石川麻呂の娘を中大兄の妻に迎えて彼ら一族の分裂を策し、また暗殺者を雇って決行当日の手順を組み、さらに打倒後の新政府の人事や政策も立案したらしい。かくて皇極天皇四年夏六月十二日、飛鳥板蓋宮の正殿で外交儀礼が行われている最中に、侍立していた入鹿を暗殺した。このとき二十歳の中大兄は、暗殺者たちがひるんでいるのを見かね、率先して長槍をふるい、入鹿に襲いかかったという。翌日、大臣蝦夷は自邸を焼いて自殺。翌々日、皇極天皇は弟の孝徳天皇に譲位。中大兄は皇太子として実権を掌握、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我石川麻呂を右大臣、中臣鎌子を内臣、旻と高向玄理(たかむこのげんり)とを国博士とする新政権を樹立した。新政権は飛鳥寺の槻の木の下に群臣を集めて忠誠を誓わせ、はじめて年号を立てて大化元年とし、秋には東国や倭国に使者を派遣して当面の軍事的、財政的基盤とし、冬には都を飛鳥から難波に移し、大化二年(六四六)正月元日、いわゆる改新の詔を公布した。公地公民の原則、国・郡(評)・里などの地方行政組織、戸籍の作製や班田の収授、租税制度など、四綱目にわたって改革の方針を宣言したこの詔は、唐のような中央集権国家の建設をめざしていたが、改革の実現は、どれ一つを取り上げても容易ではなかった。中大兄自身、屯倉(みやけ)・入部(いりべ)のような私有地・私有民を返上したのをはじめ、中央では冠位十二階を十三階、さらに十九階と細分して、官僚機構の充実に対応させ、地方では国造の支配していた国を郡の前身である評に組みかえ、一里を五十戸で編成するなど、新政権は大化年間を通じて目標の達成に努め、内部に右大臣の石川麻呂のような批判者が出れば、中大兄は容赦なく粛清した。だがその翌年春、穴戸(長門)国で発見された白い雉が献上されると、これを天の下した祥瑞と自讃し、年号も白雉と改めた。はたしてこのころから改革の勢いも鈍くなる。やがて中大兄は孝徳天皇とも対立し、白雉四年(六五三)には母や弟妹とともに群臣を率いて飛鳥へ引き上げ、残された天皇が翌年冬に病死すると、再び母を立てて斉明天皇とし、みずからは引き続き皇太子として実権をとった。斉明朝の七年間は、飛鳥岡本宮造営などの大きな土木工事、阿倍比羅夫らの遠征による蝦夷地の支配、そして唐に滅ぼされた百済を復興しようとする努力に費やされたが、それが可能だったのは、大化年間の改革で朝廷の直接に支配する人民や財貨が増加したためと思われる。また中大兄の子どもたちのなかでは、右大臣石川麻呂の娘が生んだ建皇子が次の皇太子かと期待されていたのに、斉明天皇四年(六五八)八歳で死ぬと、皇位継承候補として浮上してきた孝徳天皇の遺子有間皇子を、土木工事を非難し反乱を企てたとして、処刑してしまった。かような内政問題を抱えているので、六六〇年(斉明天皇六)唐に滅ぼされた百済の遺臣が日本に救援を求めてきたことは、中大兄らに対するさまざまな不満をそらせる好機であった。そこでほぼ日本全国から兵を動員し、阿倍比羅夫らを将軍として朝鮮半島に送りこむ一方、みずからは母や弟や妻子を率いて北九州の筑前国朝倉に宮を移し、翌年母の斉明が病死した後も、皇位にはつかずに政務をみる、つまり皇太子の称制という形式で百済復興戦争を継続した。しかし六六三年(称制三)の白村江の戦いで、日本の水軍が唐の水軍に大敗するに至って復興を諦め、百済からの亡命貴族とともに全軍を日本に引き上げさせた。翌年には十九階の冠位を二十六階に増して官僚機構の充実に努めるとともに、諸豪族の氏上は朝廷が認定することとし、その民部(かきべ)・家部(やかべ)ら私有民も朝廷の監督下に置くなど、再び内政の改革に着手した。国際関係の変化に対しては、大化以来しきりに遣唐使を派遣して状況を把握しようとしていたが、白村江の敗戦後は、亡命貴族に指導させて大宰府の水城や、北九州から瀬戸内海沿岸にかけての朝鮮式山城を築いて唐の侵攻に備え、さらに彼らを近江や東国各地に住まわせて、その新しい技術による開拓や増産をはかった。こうして称制七年春、都を大和の飛鳥から近江の大津に移し、翌春には即位して天智天皇となった。近江遷都には、のちに柿本人麻呂が「いかさまに思ほしめせか」と歌ったように、不満の声は少なくなかったようだが、やはり唐の侵攻を顧慮しての決断だったらしい。ともかく近江朝の四年間は、表面上穏やかに過ぎた。即位の翌年秋の鎌足の病死は天智に打撃であったし、かねてから鎌足に命じて作らせていた律令も、律はもちろん、いわゆる『近江令』も体系的な法典としてはついに完成しなかったのではないかと疑われるけれども、大化以来、官僚機構をはじめ、さまざまな法令や制度がこのころまでに整ってきたことは確かである。近江朝では亡命貴族を教官とする大学ができたといわれ、『懐風藻』でも大友皇子の漢詩が最も古く、天智天皇九年(六七〇)に日本最初の全国的な戸籍である庚午年籍が作製されたのも、地方の役人まで漢字を書けるようになったためと考えられる。『万葉集』では舒明朝から天智朝ころにかけての歌が、作者の明らかになった最初の作品群といわれ、天智の歌は斎藤茂吉が「蒼古峻厳」と評しているけれども、弟の大海人皇子と額田女王の蒲生野での相聞のほうが初心者には印象あざやかであろう。しかしこの額田女王も大海人との間に十市皇女を生んでいるのに天智の妻となる。天智天皇十年正月、長子の大友皇子を太政大臣に任じて政を委ね、蘇我赤兄(あかえ)を左大臣、中臣金(こがね)を右大臣、蘇我果安(はたやす)・巨勢人(ひと)・紀大人(うし)を御史大夫として大友を輔佐する体制を整えてから新たな法令を公布したが、その冬十二月三日、大臣や御史大夫らに後事を託して世を去った。四十六歳。しかしこの人事に対する不満は翌年、壬申の乱が起きる直接の原因となる。ともあれ天智天皇は、親友だった藤原鎌足の子孫が奈良時代初期から歴代の大臣や高官として政権を掌握するようになり、奈良時代末期に施基皇子の子の白壁王が光仁天皇となって以後は皇統の祖とされたために、実際には弟の天武、娘の持統の両天皇が壬申の乱後に律令国家を完成させたにもかかわらず、後世の朝廷からは天智が律令国家の創始者と仰がれることとなった。だが、近親の団結が必要な武家時代、ことに儒教が広まり始めた江戸時代には、天智が義兄の古人大兄、義父の石川麻呂、甥の有間皇子らを容赦なく粛清していった事実が注目されて、人格的に非難されるに至った。結局平穏な時代には、激動の時代に生きた人物像が理解しにくかったのである。
山城国宇治郡
、兆域東西十四町、南北十四町、陵戸六烟」とあり、近陵とする。鎌倉時代初期にはすでに陵所は荘園化し、預職が置かれ、種々の公事が課され(『諸陵雑事注文』)、南北朝時代以降もなお諸陵寮が所管し、沙汰人が置かれた。江戸時代に入っても「禁裏御領」として沙汰人の子孫である地元有力者によって守護が続けられた。元禄・享保・文久の修補を経て明治政府に引き継がれ、現在に至る。なお、この陵の形態は、舒明天皇押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)のそれとともに、明治天皇伏見桃山陵以下の陵形の範とされた。ただし、当時、上円部の平面は、八角形ではなく、円形と考えられていた。第38代に数えられる天皇。称制661-668,在位668-671。大化改新以後,律令体制成立期の政治を指導した。葛城(かつらぎ)皇子,また中大兄(なかのおおえ)皇子といった。舒明天皇の子,母は宝皇女(のちの皇極天皇)。異母兄に古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子,同母弟に大海人(おおあま)皇子がある。天智の誕生は推古朝の末期で,海外では618年に隋が滅び,かわってより強大な唐がおこり,その勢力は朝鮮を脅かしはじめていた。朝鮮三国はもちろん日本も,国力を強化してこれに対抗する必要があった。641年舒明天皇が没したとき,天智は16歳で皇位をつぐ資格はあったが,蘇我法提郎媛(ほてのいらつめ)を母とする古人大兄皇子も有力な候補者で,皇位は結局,皇后宝皇女(皇極)がついだ。両皇子のいずれを天皇とするかを定めかねたためであろうか。他にも有力な皇族に聖徳太子の長子山背大兄(やましろのおおえ)王がいたが,643年(皇極2)大臣蘇我入鹿(いるか)はこれを襲撃して滅ぼした。切迫する情勢のなかで,中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は天智に接近して蘇我氏打倒の計画をすすめた。天智は入鹿と対立する蘇我石川麻呂の娘を妃として勢力を固め,また長く中国に留学して帰った南淵請安について大陸の新知識を学び,政治の改革にそなえた。天智はこうした準備のもとに,645年クーデタ(乙巳(いつし)の変)をおこし,飛鳥板蓋宮で入鹿を暗殺し,蘇我氏本宗家を滅ぼした。
皇極天皇は退位し,天智は皇極の弟の孝徳天皇を擁立し,自分は皇太子となり,阿倍内麻呂と蘇我石川麻呂を左右大臣,鎌足を内臣(うちつおみ),僧旻(みん)らを国博士,年号を大化と定めて,さらに都を飛鳥から難波へ移し,政治の改革に着手した。その間政敵の古人大兄を謀反の罪で滅ぼした。646年(大化2)発布した大化改新の詔には,公地公民の制や,国郡里の行政制度,戸籍・班田収授の制,租税の制など,唐の律令制にならった進んだ政策が示されているが,各条文には大宝令を手本にして作られた部分が多く,改新詔は大化当時のものとは思われない。しかし孝徳の治世10年(645-654)の間に,政治の改革は多くの点で進み,天皇の権力は強化され,官制も整備され,冠位は13階となり,さらに19階の制が施行され,地方では国造の支配した国にかわって郡の前身となる評(こおり)が置かれた。壮大な規模の難波長柄豊碕宮も652年に完成した。孝徳の没後,皇極が再び即位し(斉明天皇),都は飛鳥に帰った。天智は皇太子のまま政治をとり,阿倍比羅夫を遣わして蝦夷を討ち領土の開拓につとめ,斉明朝の末年には唐と新羅に攻められた百済救援の軍を朝鮮に送った。救援軍派遣中に斉明天皇は661年に没し,天智は皇太子のまま政治をとったが,救援軍は663年(天智2)に白村江で大敗した。天智は大宰府に水城(みずき),各地に山城(さんじよう)を造り,さらに667年に都を近江の大津に移し唐の来襲に備え,そうした国際的緊張の高まるなかで律令制度の摂取と,国政の改革をおしすすめた。冠位の制は遷都以前に26階とした。668年正式に即位,670年には庚午年籍(こうごねんじやく)を作成,671年に近江令を施行した。近江令の存在を疑う説もあるが,天智が律令体制の形成に果たした功績は大きい。671年1月に子の大友皇子を太政大臣として後継者としようとしたが,その体制の固まらぬうちに,その年12月に没した。諡(おくりな)は天命開別(あめみことひらかすわけ)。陵は京都市山科区御陵上御廟野町にある。
天智天皇は歌人としては《万葉集》第1期に属す。649年妻を亡くしたとき,その悲しみを渡来系の詞人に代作させたり(《日本書紀》),近江宮廷に詩歌の雅宴を開いたりした(《懐風藻》《万葉集》)。自作は《万葉集》に大和三山歌など長歌1首と短歌3首,《日本書紀》に短歌1首が伝えられるが,その歌風は細部にとらわれず,古朴で大らかで生気がある。〈わたつみの豊旗雲に入り日さし今夜(こよい)の月夜(つくよ)さやけくありこそ〉(《万葉集》巻一)
てんじてんのう(天智天皇) ...
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