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国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
天武天皇
てんむてんのう
 - 六八六
六七三―八六在位。父は舒明、母は皇極(斉明)天皇で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇皇后)の同母弟。幼名を大海人(おおしあま・おおあま)皇子といい、諡号を天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)という。『一代要記』などに享年六十五とあるのによれば、推古天皇三十年(六二二)の誕生となるが、兄天智天皇より年長となるので疑問である。

〔即位に至る事情〕

天智天皇七年(六六八)立太子したとされ、天智朝には重要な政務に参画したと思われるが、のち天皇と反目した。『藤氏家伝』上には、天智天皇七年、酒宴の席で長槍を床に刺し通し、激怒した天皇に殺されようとしたが、中臣鎌足の諫めで事なきを得たとある。同十年、天智の子大友皇子が太政大臣となり、同年天智の死の直前、大海人皇子は近江の朝廷を去って吉野に引退した。翌天武天皇元年(六七二)、吉野を脱して美濃に赴き、東国の兵を集めて大友皇子を擁する近江の朝廷を倒し(壬申の乱)、翌年二月飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位し、天武天皇となった。

〔天武朝の政治〕

天皇治世の初期には、麻続(おみ)王・屋垣王の配流などいくつかの事件があったが、天皇の指導力が強力に発揮されるに及び、政界は安定した。新羅が唐の勢力を駆逐して朝鮮半島の統一を完成したことにより、東アジアの情勢も安定の方向に向かった。天皇は新羅との国交は保持しつつ、中国の唐との交渉は断ち、天皇を中心とする畿内豪族層の結集の上に立つ、中央集権体制の確立に腐心した。天皇は豪族層を国家の官人として組織することに意を用い、天武天皇二年には大舎人の制を定め、官途につく場合まず大舎人として出仕させ、のちその才能に応じ、適当な官職につけることとした。官人の勤務の評価、官位の昇進のための考選の法も同七年に定められた。同十四年には、親王・諸王十二階、諸臣四十八階の新冠位制を施行、冠位授与の範囲を親王にまで拡大した。この前年の八色の姓(やくさのかばね)の制定も、位階の制と結合した新しい朝廷の身分秩序を定めたものである。皇族・豪族の経済的基盤についても、同四年、天智朝に諸氏に賜わった部曲(かきべ)を廃止する一方、食封制に改革を加えて封主・封民の間の私有民的な関係を断ち、国家の官人に対する給与としての性格に徹せしめた。天皇はまた、理念的な面で天皇を中心とする支配層の結束を強めることに努力した。伊勢神宮の祭祀を重んじ、奈良盆地の農業神としての広瀬・竜田祭を国家の手で行い、国造を諸国の大祓(おおはらえ)に奉仕させるなど、神祇の祭祀権を天皇に集中せしめた。天皇は仏教をも尊崇し、大官大寺の造営や川原寺での一切経書写事業などを行なったが、寺院・僧尼にはきびしい統制を加え、鎮護国家のためのものとして仏教を位置づけた。宮廷においては中国風の礼法・衣服、結髪法、乗馬法などを採用し、諸国から歌人・歌女を貢上させ、五節舞を創始するなど、礼楽備わった威容を誇示しようとした。官人の武装を整え、乗馬に習熟すべきことを再三命令しているのも、儀式への参列や行幸への供奉に備えてのものであり、同時に官人層の意識の結集をはかったものであろう。『日本書紀』天武天皇十年三月条にみられる『帝紀』、上古諸事の記定や、『古事記』序にみられる『帝紀』『旧辞』の削偽定実などの天武朝の修史事業も、諸氏の由来を皇祖神から連なる天皇の系譜、歴代の事蹟の中に位置づけ、全支配層の意識の上での一体化をはかろうとするものであったと推測される。日本の古代国家と天皇制の基礎は、天皇によって固められたといってよい。

〔晩年と死後の情勢〕

『日本書紀』によると、天皇には皇后の〓野讃良皇女(持統天皇)との間に生まれた草壁皇子のほか、大津・長・弓削・舎人・新田部・穂積・高市・忍壁・磯城の諸皇子と、大来・但馬・紀・田形・十市・泊瀬部・託基の諸皇女とがあった。天皇は皇位継承をめぐる争いの再発を恐れ、同八年、天智の二皇子を含めた六人の皇子と吉野で会盟して宥和をはかり、同十年、草壁皇子を皇太子とした。しかし才能にすぐれた大津皇子の存在は皇太子をおびやかし、朱鳥元年(六八六)九月九日の天皇の死の直後、変によって大津皇子は自殺した。天皇の死にあたっては二年余にわたる殯宮の儀が営まれ、持統天皇二年(六八八)十一月に至り、檜隈大内陵に埋葬された。『万葉集』には、天智天皇七年蒲生野遊猟のおり額田王に答えた歌をはじめ、四首の歌を載せる。天皇の死後は皇后の〓野讃良皇女が称制し、皇太子草壁皇子の死後は即位して持統天皇となり、天武天皇の事業を継承して『浄御原令』の施行や藤原京への遷都を実現し、律令国家の地方・人民支配の体制を完成させた。天武天皇の諸皇子は、八世紀においても、忍壁・穂積・舎人各皇子が知太政官事となり、『大宝律令』の編纂(忍壁皇子)や『日本書紀』の編纂(舎人皇子)に関わるなど、政界に重きをなした。文武・元正・聖武・孝謙(称徳)・淳仁の諸天皇は、いずれも天武天皇諸皇子の系譜をひくものであった。
→壬申の乱(じんしんのらん)
[参考文献]
川崎庸之『天武天皇』(『岩波新書』青九八)、北山茂夫『天武朝』(『中公新書』五〇六)、石母田正『日本の古代国家』(岩波書店『日本歴史叢書』)
(笹山 晴生)


日本大百科全書(ニッポニカ)
天武天皇
てんむてんのう
[?―686]

第40代天皇(在位673~686)。舒明(じょめい)天皇の皇子。母はその皇后にあたる皇極(こうぎょく)天皇で、天智(てんじ)天皇の同母弟。諱(いみな)を大海人(おおあま)皇子といい、草壁(くさかべ)、大津(おおつ)、高市(たけち)、舎人(とねり)の諸皇子らの父。天皇の生涯の前半は兄の天智天皇の活躍に隠れているが、かなりの部分、行動をともにしたらしい。668年(天智天皇7)兄が即位すると(天智天皇)、皇太弟として政治を助けた。しかし天智天皇の子の大友(おおとも)皇子が成人すると、皇嗣(こうし)問題で両者は対立するに至った。671年に大友皇子は太政大臣となったが、これにより大海人皇子は政権から疎外され、両者の対立は決定的となった。この年の秋、病床に臥(ふ)した天皇は後事を大海人皇子に託そうとしたが、陰謀のあることを知った皇子は、病気全快を祈るため出家するとの名目で辞退し、吉野に引きこもった。同年末、天智天皇は近江大津宮(おうみおおつのみや)に崩じたが、翌672年6月、近江方の動きを察した皇子は、先手を打って少数の舎人らと挙兵し、鈴鹿(すずか)、不破(ふわ)の関をふさいで東国の兵を動員して戦闘に臨んだ。約1か月の戦いののち近江大津宮に攻め入り、大友皇子(弘文(こうぶん)天皇)を自殺させ勝利を得た。いわゆる壬申(じんしん)の乱である。
 673年飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に即位し、天智天皇の子の鸕野(うの)皇女をたてて皇后とした(後の持統(じとう)天皇)。以後、天皇権力の安定強化に力を注ぎ、律令(りつりょう)制支配の完成を目ざした。このために官人の任官昇進規定などを法令化し、豪族たちの官僚化に努めた。684年に八色(やくさ)の姓(かばね)の制を定め、皇室との親疎を規準とする身分制を設け、翌年に親王、諸王に十二階、諸臣に四十八階の位階制を設け、草壁皇子以下諸皇子に位を与え、天皇以外は位階序列のなかに位置づけた。また大化改新以来の公地公民制の実施も進められ、675年には諸氏族の部曲(かきべ)の廃止、諸王臣私有の山野の収公などの処置に出た。翌々年には諸王臣の封戸(ふこ)に対して強い統制を及ぼし、封戸の民と給主との私的な結び付きを断つ方策を実施した。
 一方、681年から開始された律令と史書の編纂(へんさん)事業は、天皇の死によって中断されたが、それぞれ後継者により継承され完成した。すなわち、令は持統天皇によって689年(持統天皇3)に『浄御原令(きよみはらりょう)』として諸官司に頒布され(律は未完成に終わった公算が大)、さらに、『大宝(たいほう)律令』として701年(大宝1)に大成されている。また史書の編纂は712年(和銅5)の『古事記』、720年(養老4)の『日本書紀』として実を結んでいる。天武天皇の政治は天智天皇のそれを継承しているが、単なる継承ではなく、天皇を頂点とする中央集権的支配体制の確立を、より徹底化、促進化したものとして注目される。686年(朱鳥1)崩ず。御陵は大和(やまと)国高市(たけち)郡(奈良県明日香(あすか)村野口字王墓)にあり、檜隈大内(ひのくまおおうち)陵という。『万葉集』に天皇の歌が四首収められているが、そのうち額田王(ぬかたのおおきみ)との間に交わされた歌(巻1―21)や、壬申の乱直前に吉野入りしたとき自己の心情を歌った歌(巻1―25)などは名高い。また同歌集に「大王(おおきみ)は神にしませば」という語句で始まり、天武天皇およびその一族をたたえた歌がみえるが、これは壬申の乱に勝利を得た天皇への畏敬(いけい)と、勝利をともに戦い抜いた天皇への親近感をこめたもので、こうした歌がその後二十数年で絶えるのは、天皇の存在がそうした畏敬や親近感から遠いものになる一方、作者たちも整然とした官人秩序のなかに身を置かざるをえなくなったからであると説かれている。
[亀田隆之]



世界大百科事典
天武天皇
てんむてんのう
?-686(朱鳥1)

第40代にかぞえられる天皇。在位673-686年。いわゆる白鳳時代,律令国家の形成を推進した。名は大海人(おおあま)皇子。舒明天皇の子,母は宝皇女(のちの皇極天皇),同母兄に中大兄皇子(天智天皇)がいる。生年は不明だが,天智より5歳年少の631年(舒明3)の生れとするのが通説。それに従うと大化改新のはじまる645年(大化1)には15歳で,直接の関係はなかったと思われる。しかし成長するにしたがって中大兄の政治を助けたであろう。中大兄は孝徳天皇のもとで皇太子として大化の新政を指導し,孝徳の死後は母皇極をふたたび天皇(斉明)とし,なお皇太子の地位にあった。斉明朝の657年(斉明3)に天武が中大兄の女鸕野讃良(うののさらら)皇女を妃としているのは,このころから政治にかかわったことを示すのではあるまいか。その前後に鸕野讃良の同母姉大田皇女をも妃としている。なお,これよりさき額田王(ぬかたのおおきみ)をめとり,十市皇女をもうけたが,額田王はそののち天武と離れ中大兄に寵愛された。

 当時中大兄のもとで律令的政治制度を唐・朝鮮より摂取し,国政の改革が進行していたが,海外では唐の強大な勢力が朝鮮に及び,東アジアの国際情勢は緊迫の度を強めていた。661年,唐と新羅に攻められた百済救援の軍が派遣されたのもその一つの現れであるが,その軍は663年(天智2)に白村江で大敗した。翌年に天智は冠位二十六階の制や民部・家部の制などを定めて体制の建直しを図り,667年に都を近江の大津に移し,その翌年ここで正式に即位する。このとき天武は皇太子の地位につき,皇太弟と呼ばれた。しかしその後,天智は子の大友皇子を後継者にしようとし,671年に太政大臣に任じた。天武はその天智の意中を察して宮廷を退き出家するとして,吉野山中に隠れた。天智は同年12月に没し,近江朝廷は大友皇子(弘文天皇)が君臨したが,天武は672年(天武1)6月,直領地のある美濃を基盤にして挙兵して反乱をおこした。これが壬申の乱である。天武の策戦指導が適切であったことと,宮廷内部にも地方豪族にも天武に同調者の多かったことにより,反乱は成功し,約1ヵ月のちに近江宮は落ち,大友皇子は自殺した。

 天武は都を大和にかえし,翌673年飛鳥浄御原宮で即位し,鸕野讃良皇女を皇后とした。政治の方針は,太政大臣や左右大臣を置かず,有力豪族の勢力を排除して天皇に権力を集中し,律令体制を推進することにあった。天武は皇后や皇子・皇族の補佐によって政治を執ったので,天武の政治を皇親政治ともいう。その治世のあいだに,天智朝に定めた部曲および山林原野の収公,飛鳥浄御原律令の編纂,八色の姓(やくさのかばね)の制定,地方豪族の武器の収公と兵制の整備,官吏の登用・昇進の制および位階六十階の制定など,つぎつぎに新制を実施し,律令政治を軌道にのせた。国史の編纂や伊勢神宮の整備も天武の仕事である。治世15年で686年に没した。諡(おくりな)を天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)といい,陵は奈良県明日香村野口にある。
[直木 孝次郎] 天武天皇は歌人としては《万葉集》第2期に属する。最初,当代第一の女流歌人額田王を妻として娘をもうけたが,やがて彼女は実兄,中大兄の後宮に入る。668年に天智天皇の蒲生野での薬猟(くすりがり)に従って,かつての妻額田王との間にかわした贈答歌は名品として知られる。〈紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我れ恋ひめやも〉(《万葉集》巻一)。この歌は狩のあとの宴会で宮廷の人々の前で歌われたもので,相手の歌のことばに即興的に答えながら,不思議にみずみずしく,深い真情が訴えられている。673年以後,壬申の乱の直前の吉野での思いを回想した長歌1首は,当時の歌謡によって抒情したもの。ほかに吉野を語呂よくほめた短歌1首と,藤原夫人(ふじわらのぶにん)に戯れかけた短歌1首との計4首が《万葉集》に伝えられている。これらに共通する,明快で清純で時に沈痛な力強い歌風は,この時代を領導した作者の人柄とともに,白鳳文化の特徴をよく示している。
[渡瀬 昌忠]

[索引語]
大海人(おおあま)皇子 天智天皇 鸕(菟)野讃良(沙羅々)(うののさらら)皇女 大友皇子 壬申の乱 皇親政治
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1. 大海人皇子・天武天皇
日本史年表
野讃良皇女 称制(紀)。 687年〈持統元 丁亥〉 9・9 天武天皇 の国忌斎を京師の諸寺で行う(紀)。 688年〈持統2 戊子〉 11・11 天武天皇 を檜隈 ...
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また史書の編纂は712年(和銅5)の『古事記』、720年(養老4)の『日本書紀』として実を結んでいる。天武天皇の政治は天智天皇のそれを継承しているが、単なる継承 ...
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国史大辞典
去って吉野に引退した。翌天武天皇元年(六七二)、吉野を脱して美濃に赴き、東国の兵を集めて大友皇子を擁する近江の朝廷を倒し(壬申の乱)、翌年二月飛鳥浄御原宮(あす ...
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7. てんむてんのう【天武天皇】
日本人名大辞典
まひとのすめらみこと),浄御原天皇。【格言など】凡(およ)そ政(まつりごと)の要は軍事なり(天武天皇13年の詔) ...
8. 天武天皇[文献目録]
日本人物文献目録
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9. てんむてんわう【天武天皇】
全文全訳古語辞典
[人名]『万葉集』第一期の歌人。生年未詳。六八六年(天武十五)没。兄の中大兄皇子が天智天皇として即位して皇太弟となったが、天智天皇没後、大友皇子との間に壬申の乱 ...
10. 天武天皇作五節舞 (見出し語:天武天皇)
古事類苑
神祇部 洋巻 第2巻 313ページ ...
11. 天武天皇即位 (見出し語:天武天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 309ページ ...
12. 天武天皇山陵 (見出し語:天武天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 1015ページ ...
13. 天武天皇辭東宮 (見出し語:天武天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 1384ページ ...
14. 天武天皇辭東宮 (見出し語:天武天皇)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 445ページ ...
15. 掘損天武天皇陵 (見出し語:天武天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 1067ページ ...
16. てんむてんのうしゃ【天武天皇社】三重県:桑名市/桑名城下/鍋屋町
日本歴史地名大系
東海道より北側へ一五間ほど引込んでいるが、鳥居は東海道に面して立つ。祭神は天武天皇。旧郷社。壬申の乱に際して大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名を通過・宿泊したこ ...
17. 天武天皇御棺 (見出し語:棺)
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18. あいなめのまつり【相嘗祭】
国史大辞典
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19. あおきのさんりょうき【阿不幾乃山陵記】
国史大辞典
天武天皇と持統天皇を合葬した檜隈大内陵(青木山陵)が、嘉禎元年(一二三五)三月に盗掘された折の陵内実見記。『御陵日記』ともいう。筆者は盗掘後、陵内を見に集まっ ...
20. あかおむら【赤尾村】滋賀県:伊香郡/木之本町
日本歴史地名大系
献じていた。田居間谷に鎮座する布勢立石神社は「延喜式」神名帳の伊香郡「布勢立石神社」に比定される。天武天皇六年(六七七)に布勢宿禰が氏祖を勧請、正中二年(一三二 ...
21. あかのむら【赤野村】岡山県:真庭郡/落合町
日本歴史地名大系
)に向かう人々が利用した。八幡神社は江戸時代、当村・西原村の氏神で、祭神は玉依姫命など三神、天武天皇の時代に鎮座したといい(美作国神社資料)、明治四二年(一九〇 ...
22. あかべむら【赤部村】奈良県:北葛城郡/広陵町
日本歴史地名大系
馬見丘陵中から奈良朝時代瓦窯跡が出土している。中世、興福寺支配下の赤土器座が所在したともいわれる。「日本書紀」天武天皇七年四月条に「十市皇女を赤穂に葬る」、同一 ...
23. あかみとり【朱鳥】
日本国語大辞典
〔名〕(朱鳥を訓読したもの、または赤御鳥の意といわれる)飛鳥時代、天武天皇の代の年号。天武一五年(六八六)赤雉(あかきじ)の献上があって七月二〇日改元。同年九月 ...
24. 県犬養氏
日本大百科全書
神皇産霊尊(かむむすひのみこと)の後裔(こうえい)と称する神別氏族。本姓は連(むらじ)、684年(天武天皇13)宿禰(すくね)姓を、764年(天平宝字8)一部に ...
25. あがたのいぬかいうじ【県犬養氏】
国史大辞典
神魂命八世孫阿居太都命の後裔としている。はじめ連姓であったが、壬申の乱で大伴・手繦らが活躍し、天武天皇十三年(六八四)宿禰姓を賜わった。この一族から三千代がでて ...
26. あがたのいぬかいの-おおとも【県犬養大伴】
日本人名大辞典
−701 飛鳥(あすか)時代の官吏。壬申(じんしん)の乱(672)のとき大海人(おおあまの)皇子(天武天皇)にしたがい東国にいき,功をたてる。文武天皇5年1月2 ...
27. あきたけむら【秋竹村】愛知県:海部郡/七宝町
日本歴史地名大系
[現]七宝町秋竹 北は遠島村に、南は佐屋路を隔てて桂村に接する。「尾張志」は村域内の藤島神社の創建を天武天皇四年と伝え、この頃から「秋竹郷」の名がみえるという。 ...
28. あきの【安騎野】奈良県:宇陀郡
日本歴史地名大系
「日本書紀」天武天皇元年六月二四日条に「菟田の吾城」がみえ、「万葉集」巻一に「軽皇子の安騎の野に宿りましし時、柿本朝臣人麿の作る歌」として長歌とともに、阿騎の野 ...
29. あきはまむら【安喜浜村】高知県:安芸市
日本歴史地名大系
畑山村に鎮座していたが天正二年の洪水で神体が流出、東浜に上がったのを祀ったと記す。なお「日本書紀」天武天皇一三年一〇月一四日条に「人定に逮りて、大きに地震る(中 ...
30. あくなみぐん【飽波郡】
国史大辞典
奈良時代大和国(奈良県)にあった郡。現在の生駒郡安堵地方が郡域であったと考えられる。『日本書紀』天武天皇五年(六七六)四月条に「倭国飽波郡」とあるのが初見。飽波 ...
31. あくなみごう・あくなみぐん【飽波郷・飽波郡】奈良県:大和国/平群郡
日本歴史地名大系
飽波郷は「和名抄」高山寺本・刊本ともに「阿久奈美」と訓ずる。「日本書紀」天武天皇五年四月五日条に「倭国の飽波郡」がみえるが、飽波郡は以後みられず、天平勝宝二年( ...
32. あさいじんじゃ【浅井神社】愛知県:稲沢市/浅井村
日本歴史地名大系
境内三一九坪。〓鉤は天武天皇元年の壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)方で活躍した尾張の国司。「延喜式」神名帳に「浅井神社」とみえるから平安初期には創建され ...
33. あさけぐん【朝明郡】
国史大辞典
北は桑名郡・員弁郡、南は三重郡、西は鈴鹿山脈の釈迦ヶ岳を境に滋賀県神崎郡にそれぞれ接していた。『日本書紀』天武天皇元年(六七二)六月丙戌条に、「旦於 ...
34. あさしろじんじゃ【朝代神社】京都府:舞鶴市/田辺城下/朝代町
日本歴史地名大系
奉る」とあり、日之少宮(伊弉諾尊)を祭神とする。旧郷社。草創については不詳だが、社伝によれば天武天皇元年、淡路島(現兵庫県)より奉遷したという。江戸時代には、田 ...
35. あさづまむら【朝妻村】奈良県:御所市
日本歴史地名大系
に立地。「日本書紀」仁徳天皇二二年正月の歌に「朝嬬の避介の小坂」とある朝嬬の地とされる。同書天武天皇九年九月九日条に「朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を長柄 ...
36. あさののなかい【朝野魚養】
国史大辞典
朝野は居地の名をいう。その奏言によれば、祖は葛木襲津彦の第六子熊道足禰で、熊道の六世孫首麻呂が天武天皇辛巳年(六八一)忍海原連の姓を賜わってから、連姓の不当であ ...
37. あさまおんせん【浅間温泉】長野県:松本市/本郷地区/浅間村
日本歴史地名大系
古来犬飼(犬甘)の御湯といわれ、温泉利用の歴史は古く、縄文から古墳時代にかけての遺跡も多い。「日本書紀」天武天皇一四年一〇月一〇日条に「軽部朝臣足瀬・高田首新家 ...
38. あさま‐やま【浅間山】
日本国語大辞典
黒斑(くろふ)山、牙(ぎっぱ)山、剣が峰の外輪山に囲まれ、中央火口丘の前掛山、浅間山がある。天武天皇一四年(六八五)の噴火記録があり、以降三十数回。天明三年(一 ...
39. あさまやま【浅間山】
国史大辞典
長野県北佐久郡と群馬県吾妻郡にまたがる活火山。海抜二五四二メートル。『日本書紀』天武天皇十四年(六八五)三月条に、「灰信濃国に零り、草木皆枯る」(原漢文)とあ ...
40. あさまやま【浅間山】群馬県:吾妻郡
日本歴史地名大系
上信越高原国立公園の一角を占める。噴煙をあげつつ雄大な姿をみせているが、ときには激しい噴火をした。「日本書紀」天武天皇一四年(六八五)一月条に「是月、灰信濃国に ...
41. あさまやま【浅間山】長野県:北佐久郡
日本歴史地名大系
浅間山を道場としようとした修験関係者の創建であろうと考えられている(北佐久郡志)。「日本書紀」天武天皇一四年一月に「是月、灰信濃国に零り、草木皆枯る」と記される ...
42. あしきたぐん【葦北郡】熊本県
日本歴史地名大系
職(色)(現芦北町佐敷)・水俣・仁主(現水俣市市渡瀬仁王木か)が旧葦北郡に属したと思われる。天武天皇の皇孫、長親王の子である長田王がこの地に来ており、「万葉集」 ...
43. あしきむら【阿志岐村】福岡県:久留米市/旧御井郡地区
日本歴史地名大系
弥生時代前期の土坑・土器も出ている。七曲山古墳群は四世紀末―五世紀前半代の五基の古墳からなる。前田遺跡では天武天皇七年(六七八)の筑紫大地震(「日本書紀」同年一 ...
44. あしだ【葦田】奈良県:北葛城郡
日本歴史地名大系
岡山打過、阿私多池堤過侍、黒駒俄驚物前後不進」と記されている。「日本書紀通証」は「日本書紀」天武天皇元年七月一三日条に「壱伎史韓国が軍と、葦池の側に戦ふ」とある ...
45. あしゅうむら【芦生村】富山県:上新川郡/大沢野町
日本歴史地名大系
[現]大沢野町芦生 神通川東岸に位置し、北は牛ヶ増村、南は今生津村。塩の多久比礼志神社の社記に、天武天皇の時代、林弥鹿岐が礪波から船出して塩を求めて笹津・芦生へ ...
46. 排蘆小船(近世随想集) 365ページ
日本古典文学全集
二典に載れる歌どもなど是也」。二典とは『古事記』『日本書紀』のこと。奈良時代の歴史、物語書。三巻。天武天皇の命で稗田阿礼が暗唱したものを太安万侶が撰録した。歌謡 ...
47. 飛鳥画像
世界大百科事典
造営して以後,舒明天皇の飛鳥岡本宮,皇極天皇の飛鳥板蓋(いたぶき)宮,斉明天皇の飛鳥川原宮・後飛鳥岡本宮,天武天皇の飛鳥浄御原(きよみはら)宮など〈飛鳥〉を冠す ...
48. あすか【飛鳥】奈良県:高市郡/明日香村
日本歴史地名大系
知される。「昨日の淵ぞ今日は瀬となる」(古今集)など、飛鳥川は無常流転の比喩に多く用いられ、天武天皇五年五月には川の氾濫を避けるために上流の南淵・細川山の乱伐を ...
49. 飛鳥岡本宮
世界大百科事典
本宮を営んだ。斉明紀の記述では,同年,後飛鳥岡本宮に火災がおこっている。ただし,壬申の乱後,天武天皇は,後飛鳥岡本宮の南に,飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや ...
50. あすかおかもとのみや・のちのあすかおかもとのみや【飛鳥岡本宮・後飛鳥岡本宮】奈良県:高市郡/明日香村/小山村
日本歴史地名大系
田中宮に移った。のち斉明天皇二年夫帝舒明の宮跡に後飛鳥岡本宮を造り移ったが、同年火災に遭っている。天武天皇元年の壬申の乱の後、大海人皇子は倭京にもどり嶋宮に住み ...
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舎人親王(日本大百科全書(ニッポニカ))
天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の娘新田部皇女。知太政官事穂積親王の亡きあとは皇親の長老として重んぜられ、新田部親王とともに皇太子首親王(聖武天皇)を輔翼する責務を負った
天皇(改訂新版・世界大百科事典)
日本国憲法に定める日本国および日本国民統合の象徴。天皇の歴史前近代の天皇オオキミとスメラミコト〈天皇〉は〈オオキミ〉とも〈スメラミコト〉とも呼ばれた。しかしこの二つの日本語は決して同義ではなく,むしろ両者の質の違い,それぞれの用いられる次元の相違に注目することが
皇位継承(改訂新版・世界大百科事典)
7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で
摂政(国史大辞典)
天皇に代わって万機を摂り行う者、または摂り行うことをいう。関白に類する職として関白とともに摂関といい、関白と同じく、摂ろく・執柄・博陸などの唐名があり、その地位に因んで一の人・一の所などと称され、殿下ともいわれた
関白(国史大辞典)
万機に関与する重職で摂政に類似する。したがって摂政と合わせて摂関・摂ろく・一の人・一の所などと称し、執柄・博陸・殿下などの唐名がある。関白の語は『漢書』霍公伝に、宣帝が諸事まず霍光に関白してから奏上せしめたとみえているが
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三条天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇一一―一六在位。貞元元年(九七六)正月三日、冷泉天皇の第二皇子として誕生。母は藤原兼家の女超子。諱は居貞。天元元年(九七八)十一月二十日、親王宣下。寛和二年(九八六)七月十六日、十一歳で兼家の南院第において元服。同日、立太子
花山天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
九八四―八六在位。諱は師貞(もろさだ)。出家ののち入覚と号した。冷泉天皇の第一皇子、母は太政大臣(一条摂政)藤原伊尹の女の女御懐子。安和元年(九六八)十月二十六日誕生、同二年八月十三日立太子、永観二年(九八四)八月二十七日叔父円融天皇
円融天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
九六九―八四在位。諱は守平。天徳三年(九五九)三月二日村上天皇の第五皇子として生まる。母は藤原師輔の女安子。康保四年(九六七)九月一日、同母兄冷泉天皇の皇太弟となり、安和二年(九六九)八月十三日受禅、同九月二十三日即位。永観二年(九八四)
冷泉天皇(日本大百科全書(ニッポニカ))
第63代天皇(在位967~969)。村上(むらかみ)天皇第二皇子。母は藤原師輔(もろすけ)の娘安子。諱(いみな)は憲平(のりひら)。藤原元方(もとかた)の娘元子の生んだ広平親王を越えて皇太子となったので、元方は落胆のあまり病死し、天皇が物の怪
村上天皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
第62代天皇(在位946~967)。醍醐(だいご)天皇第14皇子。名は成明(なりあき)、母は太政(だいじょう)大臣藤原基経(もとつね)の女(むすめ)穏子(おんし)。朱雀(すざく)天皇の同母弟。944年(天慶7)19歳で皇太子となり、946年禅を受け即位
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