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天武天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『天武天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
天武天皇
てんむてんのう
- 六八六
六七三―八六在位。父は舒明、母は皇極(斉明)天皇で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇皇后)の同母弟。幼名を大海人(おおしあま・おおあま)皇子といい、諡号を天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)という。『一代要記』などに享年六十五とあるのによれば、推古天皇三十年(六二二)の誕生となるが、兄天智天皇より年長となるので疑問である。

〔即位に至る事情〕

天智天皇七年(六六八)立太子したとされ、天智朝には重要な政務に参画したと思われるが、のち天皇と反目した。『藤氏家伝』上には、天智天皇七年、酒宴の席で長槍を床に刺し通し、激怒した天皇に殺されようとしたが、中臣鎌足の諫めで事なきを得たとある。同十年、天智の子大友皇子が太政大臣となり、同年天智の死の直前、大海人皇子は近江の朝廷を去って吉野に引退した。翌天武天皇元年(六七二)、吉野を脱して美濃に赴き、東国の兵を集めて大友皇子を擁する近江の朝廷を倒し(壬申の乱)、翌年二月飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位し、天武天皇となった。

〔天武朝の政治〕

天皇治世の初期には、麻続(おみ)王・屋垣王の配流などいくつかの事件があったが、天皇の指導力が強力に発揮されるに及び、政界は安定した。新羅が唐の勢力を駆逐して朝鮮半島の統一を完成したことにより、東アジアの情勢も安定の方向に向かった。天皇は新羅との国交は保持しつつ、中国の唐との交渉は断ち、天皇を中心とする畿内豪族層の結集の上に立つ、中央集権体制の確立に腐心した。天皇は豪族層を国家の官人として組織することに意を用い、天武天皇二年には大舎人の制を定め、官途につく場合まず大舎人として出仕させ、のちその才能に応じ、適当な官職につけることとした。官人の勤務の評価、官位の昇進のための考選の法も同七年に定められた。同十四年には、親王・諸王十二階、諸臣四十八階の新冠位制を施行、冠位授与の範囲を親王にまで拡大した。この前年の八色の姓(やくさのかばね)の制定も、位階の制と結合した新しい朝廷の身分秩序を定めたものである。皇族・豪族の経済的基盤についても、同四年、天智朝に諸氏に賜わった部曲(かきべ)を廃止する一方、食封制に改革を加えて封主・封民の間の私有民的な関係を断ち、国家の官人に対する給与としての性格に徹せしめた。天皇はまた、理念的な面で天皇を中心とする支配層の結束を強めることに努力した。伊勢神宮の祭祀を重んじ、奈良盆地の農業神としての広瀬・竜田祭を国家の手で行い、国造を諸国の大祓(おおはらえ)に奉仕させるなど、神祇の祭祀権を天皇に集中せしめた。天皇は仏教をも尊崇し、大官大寺の造営や川原寺での一切経書写事業などを行なったが、寺院・僧尼にはきびしい統制を加え、鎮護国家のためのものとして仏教を位置づけた。宮廷においては中国風の礼法・衣服、結髪法、乗馬法などを採用し、諸国から歌人・歌女を貢上させ、五節舞を創始するなど、礼楽備わった威容を誇示しようとした。官人の武装を整え、乗馬に習熟すべきことを再三命令しているのも、儀式への参列や行幸への供奉に備えてのものであり、同時に官人層の意識の結集をはかったものであろう。『日本書紀』天武天皇十年三月条にみられる『帝紀』、上古諸事の記定や、『古事記』序にみられる『帝紀』『旧辞』の削偽定実などの天武朝の修史事業も、諸氏の由来を皇祖神から連なる天皇の系譜、歴代の事蹟の中に位置づけ、全支配層の意識の上での一体化をはかろうとするものであったと推測される。日本の古代国家と天皇制の基礎は、天皇によって固められたといってよい。

〔晩年と死後の情勢〕

『日本書紀』によると、天皇には皇后の〓野讃良皇女(持統天皇)との間に生まれた草壁皇子のほか、大津・長・弓削・舎人・新田部・穂積・高市・忍壁・磯城の諸皇子と、大来・但馬・紀・田形・十市・泊瀬部・託基の諸皇女とがあった。天皇は皇位継承をめぐる争いの再発を恐れ、同八年、天智の二皇子を含めた六人の皇子と吉野で会盟して宥和をはかり、同十年、草壁皇子を皇太子とした。しかし才能にすぐれた大津皇子の存在は皇太子をおびやかし、朱鳥元年(六八六)九月九日の天皇の死の直後、変によって大津皇子は自殺した。天皇の死にあたっては二年余にわたる殯宮の儀が営まれ、持統天皇二年(六八八)十一月に至り、檜隈大内陵に埋葬された。『万葉集』には、天智天皇七年蒲生野遊猟のおり額田王に答えた歌をはじめ、四首の歌を載せる。天皇の死後は皇后の〓野讃良皇女が称制し、皇太子草壁皇子の死後は即位して持統天皇となり、天武天皇の事業を継承して『浄御原令』の施行や藤原京への遷都を実現し、律令国家の地方・人民支配の体制を完成させた。天武天皇の諸皇子は、八世紀においても、忍壁・穂積・舎人各皇子が知太政官事となり、『大宝律令』の編纂(忍壁皇子)や『日本書紀』の編纂(舎人皇子)に関わるなど、政界に重きをなした。文武・元正・聖武・孝謙(称徳)・淳仁の諸天皇は、いずれも天武天皇諸皇子の系譜をひくものであった。
→壬申の乱(じんしんのらん)
[参考文献]
川崎庸之『天武天皇』(『岩波新書』青九八)、北山茂夫『天武朝』(『中公新書』五〇六)、石母田正『日本の古代国家』(岩波書店『日本歴史叢書』)
(笹山 晴生)


日本大百科全書(ニッポニカ)
天武天皇
てんむてんのう
[?―686]

第40代天皇(在位673~686)。舒明(じょめい)天皇の皇子。母はその皇后にあたる皇極(こうぎょく)天皇で、天智(てんじ)天皇の同母弟。諱(いみな)を大海人(おおあま)皇子といい、草壁(くさかべ)、大津(おおつ)、高市(たけち)、舎人(とねり)の諸皇子らの父。天皇の生涯の前半は兄の天智天皇の活躍に隠れているが、かなりの部分、行動をともにしたらしい。668年(天智天皇7)兄が即位すると(天智天皇)、皇太弟として政治を助けた。しかし天智天皇の子の大友(おおとも)皇子が成人すると、皇嗣(こうし)問題で両者は対立するに至った。671年に大友皇子は太政大臣となったが、これにより大海人皇子は政権から疎外され、両者の対立は決定的となった。この年の秋、病床に臥(ふ)した天皇は後事を大海人皇子に託そうとしたが、陰謀のあることを知った皇子は、病気全快を祈るため出家するとの名目で辞退し、吉野に引きこもった。同年末、天智天皇は近江大津宮(おうみおおつのみや)に崩じたが、翌672年6月、近江方の動きを察した皇子は、先手を打って少数の舎人らと挙兵し、鈴鹿(すずか)、不破(ふわ)の関をふさいで東国の兵を動員して戦闘に臨んだ。約1か月の戦いののち近江大津宮に攻め入り、大友皇子(弘文(こうぶん)天皇)を自殺させ勝利を得た。いわゆる壬申(じんしん)の乱である。
673年飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に即位し、天智天皇の子の鸕野(うの)皇女をたてて皇后とした(後の持統(じとう)天皇)。以後、天皇権力の安定強化に力を注ぎ、律令(りつりょう)制支配の完成を目ざした。このために官人の任官昇進規定などを法令化し、豪族たちの官僚化に努めた。684年に八色(やくさ)の姓(かばね)の制を定め、皇室との親疎を規準とする身分制を設け、翌年に親王、諸王に十二階、諸臣に四十八階の位階制を設け、草壁皇子以下諸皇子に位を与え、天皇以外は位階序列のなかに位置づけた。また大化改新以来の公地公民制の実施も進められ、675年には諸氏族の部曲(かきべ)の廃止、諸王臣私有の山野の収公などの処置に出た。翌々年には諸王臣の封戸(ふこ)に対して強い統制を及ぼし、封戸の民と給主との私的な結び付きを断つ方策を実施した。
一方、681年から開始された律令と史書の編纂(へんさん)事業は、天皇の死によって中断されたが、それぞれ後継者により継承され完成した。すなわち、令は持統天皇によって689年(持統天皇3)に『浄御原令(きよみはらりょう)』として諸官司に頒布され(律は未完成に終わった公算が大)、さらに、『大宝(たいほう)律令』として701年(大宝1)に大成されている。また史書の編纂は712年(和銅5)の『古事記』、720年(養老4)の『日本書紀』として実を結んでいる。天武天皇の政治は天智天皇のそれを継承しているが、単なる継承ではなく、天皇を頂点とする中央集権的支配体制の確立を、より徹底化、促進化したものとして注目される。686年(朱鳥1)崩ず。御陵は大和(やまと)国高市(たけち)郡(奈良県明日香(あすか)村野口字王墓)にあり、檜隈大内(ひのくまおおうち)陵という。『万葉集』に天皇の歌が四首収められているが、そのうち額田王(ぬかたのおおきみ)との間に交わされた歌(巻1―21)や、壬申の乱直前に吉野入りしたとき自己の心情を歌った歌(巻1―25)などは名高い。また同歌集に「大王(おおきみ)は神にしませば」という語句で始まり、天武天皇およびその一族をたたえた歌がみえるが、これは壬申の乱に勝利を得た天皇への畏敬(いけい)と、勝利をともに戦い抜いた天皇への親近感をこめたもので、こうした歌がその後二十数年で絶えるのは、天皇の存在がそうした畏敬や親近感から遠いものになる一方、作者たちも整然とした官人秩序のなかに身を置かざるをえなくなったからであると説かれている。
[亀田隆之]



世界大百科事典
天武天皇
てんむてんのう
?-686(朱鳥1)

第40代にかぞえられる天皇。在位673-686年。いわゆる白鳳時代,律令国家の形成を推進した。名は大海人(おおあま)皇子。舒明天皇の子,母は宝皇女(のちの皇極天皇),同母兄に中大兄皇子(天智天皇)がいる。生年は不明だが,天智より5歳年少の631年(舒明3)の生れとするのが通説。それに従うと大化改新のはじまる645年(大化1)には15歳で,直接の関係はなかったと思われる。しかし成長するにしたがって中大兄の政治を助けたであろう。中大兄は孝徳天皇のもとで皇太子として大化の新政を指導し,孝徳の死後は母皇極をふたたび天皇(斉明)とし,なお皇太子の地位にあった。斉明朝の657年(斉明3)に天武が中大兄の女鸕野讃良(うののさらら)皇女を妃としているのは,このころから政治にかかわったことを示すのではあるまいか。その前後に鸕野讃良の同母姉大田皇女をも妃としている。なお,これよりさき額田王(ぬかたのおおきみ)をめとり,十市皇女をもうけたが,額田王はそののち天武と離れ中大兄に寵愛された。

当時中大兄のもとで律令的政治制度を唐・朝鮮より摂取し,国政の改革が進行していたが,海外では唐の強大な勢力が朝鮮に及び,東アジアの国際情勢は緊迫の度を強めていた。661年,唐と新羅に攻められた百済救援の軍が派遣されたのもその一つの現れであるが,その軍は663年(天智2)に白村江で大敗した。翌年に天智は冠位二十六階の制や民部・家部の制などを定めて体制の建直しを図り,667年に都を近江の大津に移し,その翌年ここで正式に即位する。このとき天武は皇太子の地位につき,皇太弟と呼ばれた。しかしその後,天智は子の大友皇子を後継者にしようとし,671年に太政大臣に任じた。天武はその天智の意中を察して宮廷を退き出家するとして,吉野山中に隠れた。天智は同年12月に没し,近江朝廷は大友皇子(弘文天皇)が君臨したが,天武は672年(天武1)6月,直領地のある美濃を基盤にして挙兵して反乱をおこした。これが壬申の乱である。天武の策戦指導が適切であったことと,宮廷内部にも地方豪族にも天武に同調者の多かったことにより,反乱は成功し,約1ヵ月のちに近江宮は落ち,大友皇子は自殺した。

天武は都を大和にかえし,翌673年飛鳥浄御原宮で即位し,鸕野讃良皇女を皇后とした。政治の方針は,太政大臣や左右大臣を置かず,有力豪族の勢力を排除して天皇に権力を集中し,律令体制を推進することにあった。天武は皇后や皇子・皇族の補佐によって政治を執ったので,天武の政治を皇親政治ともいう。その治世のあいだに,天智朝に定めた部曲および山林原野の収公,飛鳥浄御原律令の編纂,八色の姓(やくさのかばね)の制定,地方豪族の武器の収公と兵制の整備,官吏の登用・昇進の制および位階六十階の制定など,つぎつぎに新制を実施し,律令政治を軌道にのせた。国史の編纂や伊勢神宮の整備も天武の仕事である。治世15年で686年に没した。諡(おくりな)を天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)といい,陵は奈良県明日香村野口にある。
[直木 孝次郎] 天武天皇は歌人としては《万葉集》第2期に属する。最初,当代第一の女流歌人額田王を妻として娘をもうけたが,やがて彼女は実兄,中大兄の後宮に入る。668年に天智天皇の蒲生野での薬猟(くすりがり)に従って,かつての妻額田王との間にかわした贈答歌は名品として知られる。〈紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我れ恋ひめやも〉(《万葉集》巻一)。この歌は狩のあとの宴会で宮廷の人々の前で歌われたもので,相手の歌のことばに即興的に答えながら,不思議にみずみずしく,深い真情が訴えられている。673年以後,壬申の乱の直前の吉野での思いを回想した長歌1首は,当時の歌謡によって抒情したもの。ほかに吉野を語呂よくほめた短歌1首と,藤原夫人(ふじわらのぶにん)に戯れかけた短歌1首との計4首が《万葉集》に伝えられている。これらに共通する,明快で清純で時に沈痛な力強い歌風は,この時代を領導した作者の人柄とともに,白鳳文化の特徴をよく示している。
[渡瀬 昌忠]

[索引語]
大海人(おおあま)皇子 天智天皇 鸕(菟)野讃良(沙羅々)(うののさらら)皇女 大友皇子 壬申の乱 皇親政治
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日本歴史地名大系
弥生時代前期の土坑・土器も出ている。七曲山古墳群は四世紀末―五世紀前半代の五基の古墳からなる。前田遺跡では天武天皇七年(六七八)の筑紫大地震(「日本書紀」同年一 ...
44. あしだ【葦田】奈良県:北葛城郡
日本歴史地名大系
岡山打過、阿私多池堤過侍、黒駒俄驚物前後不進」と記されている。「日本書紀通証」は「日本書紀」天武天皇元年七月一三日条に「壱伎史韓国が軍と、葦池の側に戦ふ」とある ...
45. あしゅうむら【芦生村】富山県:上新川郡/大沢野町
日本歴史地名大系
[現]大沢野町芦生 神通川東岸に位置し、北は牛ヶ増村、南は今生津村。塩の多久比礼志神社の社記に、天武天皇の時代、林弥鹿岐が礪波から船出して塩を求めて笹津・芦生へ ...
46. 排蘆小船(近世随想集) 365ページ
日本古典文学全集
二典に載れる歌どもなど是也」。二典とは『古事記』『日本書紀』のこと。奈良時代の歴史、物語書。三巻。天武天皇の命で稗田阿礼が暗唱したものを太安万侶が撰録した。歌謡 ...
47. 飛鳥画像
世界大百科事典
造営して以後,舒明天皇の飛鳥岡本宮,皇極天皇の飛鳥板蓋(いたぶき)宮,斉明天皇の飛鳥川原宮・後飛鳥岡本宮,天武天皇の飛鳥浄御原(きよみはら)宮など〈飛鳥〉を冠す ...
48. あすか【飛鳥】奈良県:高市郡/明日香村
日本歴史地名大系
知される。「昨日の淵ぞ今日は瀬となる」(古今集)など、飛鳥川は無常流転の比喩に多く用いられ、天武天皇五年五月には川の氾濫を避けるために上流の南淵・細川山の乱伐を ...
49. 飛鳥岡本宮
世界大百科事典
本宮を営んだ。斉明紀の記述では,同年,後飛鳥岡本宮に火災がおこっている。ただし,壬申の乱後,天武天皇は,後飛鳥岡本宮の南に,飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや ...
50. あすかおかもとのみや・のちのあすかおかもとのみや【飛鳥岡本宮・後飛鳥岡本宮】奈良県:高市郡/明日香村/小山村
日本歴史地名大系
田中宮に移った。のち斉明天皇二年夫帝舒明の宮跡に後飛鳥岡本宮を造り移ったが、同年火災に遭っている。天武天皇元年の壬申の乱の後、大海人皇子は倭京にもどり嶋宮に住み ...
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舎人親王(日本大百科全書(ニッポニカ))
天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の娘新田部皇女。知太政官事穂積親王の亡きあとは皇親の長老として重んぜられ、新田部親王とともに皇太子首親王(聖武天皇)を輔翼する責務を負った
天皇(改訂新版・世界大百科事典)
日本国憲法に定める日本国および日本国民統合の象徴。天皇の歴史前近代の天皇オオキミとスメラミコト〈天皇〉は〈オオキミ〉とも〈スメラミコト〉とも呼ばれた。しかしこの二つの日本語は決して同義ではなく,むしろ両者の質の違い,それぞれの用いられる次元の相違に注目することが
皇位継承(改訂新版・世界大百科事典)
7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で
摂政(国史大辞典)
天皇に代わって万機を摂り行う者、または摂り行うことをいう。関白に類する職として関白とともに摂関といい、関白と同じく、摂ろく・執柄・博陸などの唐名があり、その地位に因んで一の人・一の所などと称され、殿下ともいわれた
関白(国史大辞典)
万機に関与する重職で摂政に類似する。したがって摂政と合わせて摂関・摂ろく・一の人・一の所などと称し、執柄・博陸・殿下などの唐名がある。関白の語は『漢書』霍公伝に、宣帝が諸事まず霍光に関白してから奏上せしめたとみえているが
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豊明節会(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
新嘗祭の翌日の辰日、および大嘗祭においては午日に、天皇が出御して行われる公儀の宴会。荷田在満『大嘗会儀式具釈』に「豊明トハ宴会ヲ云、古クハ宴会豊楽等ノ字ヲ直ニトヨノアカリト訓ズ、大嘗新嘗ノ後ニハ必宴会アリ、仍テ大嘗ノ豊明、新嘗ノ豊明ナドトハイヘド
文官分限令・文官懲戒令(日本大百科全書)
1899年(明治32)3月に第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣の手で公布された、一般文官の身分および職分の保障に関する規定と、懲戒に関する規定。前者では、官吏の身分保障、免官、休職、降任、休職中の俸給、復職などについての原則が規定され、官吏の身分
太上天皇(国史大辞典・日本国語大辞典)
譲位した天皇の称。「だいじょうてんのう」とも訓む。略して上皇あるいは太皇ともいい、また御在所を意味する院の称も用いられ、さらにその御在所を神仙の居所に擬して仙院・仙洞・藐姑射山(はこやのやま)・茨山(しざん)などとも称された。
上皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
譲位した天皇の尊称。正式には太上(だいじょう)天皇と称する。中国の太上皇(たいじょうこう)、太上皇帝の称に始まり、太上は最上または至上の意。日本では697年(文武天皇1)譲位した持統(じとう)天皇が初めて太上天皇と称し、大宝令(たいほうりょう)
昭和天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一九〇一 - 八九 一九二六―八九在位。明治三十四年(一九〇一)四月二十九日午後十時十分、東宮御所に生誕。皇太子明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)と皇太子妃節子(のちの貞明皇后)の第一皇子。五月五日明治天皇より裕仁(ひろひと)と命名され
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