第40代天皇(在位673~686)。舒明(じょめい)天皇の皇子。母はその皇后にあたる皇極(こうぎょく)天皇で、天智(てんじ)天皇の同母弟。諱(いみな)を大海人(おおあま)皇子といい、草壁(くさかべ)、大津(おおつ)、高市(たけち)、舎人(とねり)の諸皇子らの父。天皇の生涯の前半は兄の天智天皇の活躍に隠れているが、かなりの部分、行動をともにしたらしい。668年(天智天皇7)兄が即位すると(天智天皇)、皇太弟として政治を助けた。しかし天智天皇の子の大友(おおとも)皇子が成人すると、皇嗣(こうし)問題で両者は対立するに至った。671年に大友皇子は太政大臣となったが、これにより大海人皇子は政権から疎外され、両者の対立は決定的となった。この年の秋、病床に臥(ふ)した天皇は後事を大海人皇子に託そうとしたが、陰謀のあることを知った皇子は、病気全快を祈るため出家するとの名目で辞退し、吉野に引きこもった。同年末、天智天皇は近江大津宮(おうみおおつのみや)に崩じたが、翌672年6月、近江方の動きを察した皇子は、先手を打って少数の舎人らと挙兵し、鈴鹿(すずか)、不破(ふわ)の関をふさいで東国の兵を動員して戦闘に臨んだ。約1か月の戦いののち近江大津宮に攻め入り、大友皇子(弘文(こうぶん)天皇)を自殺させ勝利を得た。いわゆる壬申(じんしん)の乱である。
673年飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に即位し、天智天皇の子の鸕野(うの)皇女をたてて皇后とした(後の持統(じとう)天皇)。以後、天皇権力の安定強化に力を注ぎ、律令(りつりょう)制支配の完成を目ざした。このために官人の任官昇進規定などを法令化し、豪族たちの官僚化に努めた。684年に八色(やくさ)の姓(かばね)の制を定め、皇室との親疎を規準とする身分制を設け、翌年に親王、諸王に十二階、諸臣に四十八階の位階制を設け、草壁皇子以下諸皇子に位を与え、天皇以外は位階序列のなかに位置づけた。また大化改新以来の公地公民制の実施も進められ、675年には諸氏族の部曲(かきべ)の廃止、諸王臣私有の山野の収公などの処置に出た。翌々年には諸王臣の封戸(ふこ)に対して強い統制を及ぼし、封戸の民と給主との私的な結び付きを断つ方策を実施した。
一方、681年から開始された律令と史書の編纂(へんさん)事業は、天皇の死によって中断されたが、それぞれ後継者により継承され完成した。すなわち、令は持統天皇によって689年(持統天皇3)に『浄御原令(きよみはらりょう)』として諸官司に頒布され(律は未完成に終わった公算が大)、さらに、『大宝(たいほう)律令』として701年(大宝1)に大成されている。また史書の編纂は712年(和銅5)の『古事記』、720年(養老4)の『日本書紀』として実を結んでいる。天武天皇の政治は天智天皇のそれを継承しているが、単なる継承ではなく、天皇を頂点とする中央集権的支配体制の確立を、より徹底化、促進化したものとして注目される。686年(朱鳥1)崩ず。御陵は大和(やまと)国高市(たけち)郡(奈良県明日香(あすか)村野口字王墓)にあり、檜隈大内(ひのくまおおうち)陵という。『万葉集』に天皇の歌が四首収められているが、そのうち額田王(ぬかたのおおきみ)との間に交わされた歌(巻1―21)や、壬申の乱直前に吉野入りしたとき自己の心情を歌った歌(巻1―25)などは名高い。また同歌集に「大王(おおきみ)は神にしませば」という語句で始まり、天武天皇およびその一族をたたえた歌がみえるが、これは壬申の乱に勝利を得た天皇への畏敬(いけい)と、勝利をともに戦い抜いた天皇への親近感をこめたもので、こうした歌がその後二十数年で絶えるのは、天皇の存在がそうした畏敬や親近感から遠いものになる一方、作者たちも整然とした官人秩序のなかに身を置かざるをえなくなったからであると説かれている。
第40代にかぞえられる天皇。在位673-686年。いわゆる白鳳時代,律令国家の形成を推進した。名は大海人(おおあま)皇子。舒明天皇の子,母は宝皇女(のちの皇極天皇),同母兄に中大兄皇子(天智天皇)がいる。生年は不明だが,天智より5歳年少の631年(舒明3)の生れとするのが通説。それに従うと大化改新のはじまる645年(大化1)には15歳で,直接の関係はなかったと思われる。しかし成長するにしたがって中大兄の政治を助けたであろう。中大兄は孝徳天皇のもとで皇太子として大化の新政を指導し,孝徳の死後は母皇極をふたたび天皇(斉明)とし,なお皇太子の地位にあった。斉明朝の657年(斉明3)に天武が中大兄の女鸕野讃良(うののさらら)皇女を妃としているのは,このころから政治にかかわったことを示すのではあるまいか。その前後に鸕野讃良の同母姉大田皇女をも妃としている。なお,これよりさき額田王(ぬかたのおおきみ)をめとり,十市皇女をもうけたが,額田王はそののち天武と離れ中大兄に寵愛された。
当時中大兄のもとで律令的政治制度を唐・朝鮮より摂取し,国政の改革が進行していたが,海外では唐の強大な勢力が朝鮮に及び,東アジアの国際情勢は緊迫の度を強めていた。661年,唐と新羅に攻められた百済救援の軍が派遣されたのもその一つの現れであるが,その軍は663年(天智2)に白村江で大敗した。翌年に天智は冠位二十六階の制や民部・家部の制などを定めて体制の建直しを図り,667年に都を近江の大津に移し,その翌年ここで正式に即位する。このとき天武は皇太子の地位につき,皇太弟と呼ばれた。しかしその後,天智は子の大友皇子を後継者にしようとし,671年に太政大臣に任じた。天武はその天智の意中を察して宮廷を退き出家するとして,吉野山中に隠れた。天智は同年12月に没し,近江朝廷は大友皇子(弘文天皇)が君臨したが,天武は672年(天武1)6月,直領地のある美濃を基盤にして挙兵して反乱をおこした。これが壬申の乱である。天武の策戦指導が適切であったことと,宮廷内部にも地方豪族にも天武に同調者の多かったことにより,反乱は成功し,約1ヵ月のちに近江宮は落ち,大友皇子は自殺した。
天武は都を大和にかえし,翌673年飛鳥浄御原宮で即位し,鸕野讃良皇女を皇后とした。政治の方針は,太政大臣や左右大臣を置かず,有力豪族の勢力を排除して天皇に権力を集中し,律令体制を推進することにあった。天武は皇后や皇子・皇族の補佐によって政治を執ったので,天武の政治を皇親政治ともいう。その治世のあいだに,天智朝に定めた部曲および山林原野の収公,飛鳥浄御原律令の編纂,八色の姓(やくさのかばね)の制定,地方豪族の武器の収公と兵制の整備,官吏の登用・昇進の制および位階六十階の制定など,つぎつぎに新制を実施し,律令政治を軌道にのせた。国史の編纂や伊勢神宮の整備も天武の仕事である。治世15年で686年に没した。諡(おくりな)を天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)といい,陵は奈良県明日香村野口にある。
天武天皇は歌人としては《万葉集》第2期に属する。最初,当代第一の女流歌人額田王を妻として娘をもうけたが,やがて彼女は実兄,中大兄の後宮に入る。668年に天智天皇の蒲生野での薬猟(くすりがり)に従って,かつての妻額田王との間にかわした贈答歌は名品として知られる。〈紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我れ恋ひめやも〉(《万葉集》巻一)。この歌は狩のあとの宴会で宮廷の人々の前で歌われたもので,相手の歌のことばに即興的に答えながら,不思議にみずみずしく,深い真情が訴えられている。673年以後,壬申の乱の直前の吉野での思いを回想した長歌1首は,当時の歌謡によって抒情したもの。ほかに吉野を語呂よくほめた短歌1首と,藤原夫人(ふじわらのぶにん)に戯れかけた短歌1首との計4首が《万葉集》に伝えられている。これらに共通する,明快で清純で時に沈痛な力強い歌風は,この時代を領導した作者の人柄とともに,白鳳文化の特徴をよく示している。
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