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文武天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『文武天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
文武天皇
もんむてんのう
六八三 - 七〇七
六九七―七〇七在位。諱は軽(珂瑠)。諡は天之真宗豊祖父(あまのまむねとよおおじ)天皇。天武天皇の孫、草壁皇子の子。母は阿閇皇女(天智天皇の娘、のちの元明天皇)。天武天皇十二年(六八三)生まれる。持統天皇三年(六八九)、七歳のとき父を失う。持統天皇十年七月に太政大臣高市皇子が没したのち、翌年二月以前に皇太子となり、同年八月、持統天皇の譲位により十五歳で即位。藤原宮で政治をとる。藤原宮子(不比等の娘)を夫人、紀竈門娘・石川刀子娘を嬪とした。宮子は首親王(聖武天皇)を生む。持統は太上天皇となり大宝二年(七〇二)に没するまで文武の政治を助けた。文武朝には、刑部(おさかべ)親王・藤原不比等らにより『大宝律令』が大宝元年に完成し、その翌年にかけて施行され、大宝二年に三十三年ぶりに遣唐使を派遣し、唐との国交が修覆され、慶雲二年(七〇五)に中納言を置き、慶雲三年に官人の考選を短縮するなど、『大宝令』制の改革が行われた。また薩南諸島に使者を派遣し、薩摩・多〓(たね)を征討するなど、領土の拡大が計られた。『懐風藻』に詩三篇、『万葉集』に文武の作かとする短歌一首がある。慶雲四年六月十五日、藤原宮で没、二十五歳。檜隈安古岡上陵に葬られた。
(直木 孝次郎)

檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)

奈良県高市郡明日香村大字栗原字塚穴にあり、丘陵上端に位置し、特別史跡高松塚古墳の通路入口向かい側に位置する。陵号は、『続日本紀』に檜隈安古山陵と安古山陵、『延喜式』に檜前安古岡上陵とあり、現陵号は『延喜式』陵号の「前」の字を「隈」に改めたもの。『続日本紀』には、慶雲四年(七〇七)十月三日造山陵司を任じ、十一月十二日文武天皇遺骸を飛鳥岡で火葬、同二十日当陵に奉葬とあり、『延喜式』諸陵寮は、当陵を「兆域東西三町、南北三町、陵戸五烟」とし、頒幣の別を遠陵とする。中世所在不明となり、元禄の諸陵探索時には、奈良奉行所は高松塚古墳を当陵の未分明陵と報告し、高松塚古墳が当陵に決定され、享保・文化の陵改めもこれを踏襲した。しかし民間には、当陵を史跡中尾山古墳(明日香村平田字中尾山)とする説(『大和志』『大和名所図会』)、野口村皇ノ墓(現在の檜隈大内陵)とする説(『打墨縄』)などの異説があり、安政の陵改めでは、元禄以来檜隈大内陵として来た野口村皇ノ墓を当陵に改定し、檜隈大内陵を五条野村丸山(奈良県橿原市五条野町、国史跡丸山古墳後円部の現畝傍陵墓参考地)に改定した。幕末の修陵は、この改定により皇ノ墓を当陵として修営したが、これには異論があって、陵所の検討は継続された。明治十四年(一八八一)二月一日上奏裁可を経て、御園村に伝存の古水帳に「アンコウ」と記す栗原村字塚穴に当陵を再改定し、同十八年同所の民有地を買収して兆域を定め、拝所・外構柵の設置、旧陵よりの燈籠移建などの修営工事を行い、翌十九年竣工。同二十六年には陵主体部に円丘を築いた。これが現在の陵である。『山陵』などの諸書は、文久山陵図や明治十三年山陵図に、当陵と記載されている現檜隈大内陵を現在の当陵と誤認し、現陵を元治元年(一八六四)考定修補と記載する。現状は南南東に面する拝所の奥に、径約一五メートル、高さ約三・五メートルの円丘があり、円丘背面に接して高さ約九・三メートルの急勾配の不整丘がそびえ立つ。円丘は破壊された切石造り石室を覆い築いたもの。不整丘は当初の墳丘残部と思われる。近年の中尾山古墳の発掘調査で、同古墳の当陵説が再浮上したが、同古墳の墳丘貼石の様相は、檜隈大内陵の切石貼石とは異なり、天智天皇陵の貼石の様相に似る。
[参考文献]
太政官記録局編『太政類典』五編四類山陵、『文武天皇檜隈安古岡上陵之図』(宮内庁書陵部所蔵『陵墓地形図』二七三〔M九九〕)、『奈良県高市郡志料』、佐藤小吉編『飛鳥誌』、宮内省編『明治天皇紀』五・六、谷森善臣『山陵考』(『(新註)皇学叢書』五)
(石田 茂輔)


日本大百科全書(ニッポニカ)
文武天皇
もんむてんのう
[683―707]

第42代天皇(在位697~707)。名は珂瑠(かる)。天武(てんむ)天皇の孫。草壁(くさかべ)皇子の第2子。母は天智(てんじ)天皇の娘阿閇(あへ)皇女(のち元明(げんめい)天皇)。697年2月立太子、同年8月即位、藤原不比等(ふひと)の娘宮子(みやこ)を夫人とする。ときに15歳。治世10年間のうちの前半は、祖母にあたる持統太上(じとうたいじょう)天皇が後見して政務一般を総覧したが、この時期には刑部(おさかべ)親王、藤原不比等らによって律令編纂(りつりょうへんさん)の大事業がなされた。やがて令十一巻、律六巻が完成して、701年(大宝1)には年号を大宝(たいほう)と建元し、令・律は同年から翌年にかけて施行された。これがすなわち大宝律令であり、ここに名実ともに律令国家体制は確立したのである。しかし治世の後半には災害や飢疫の流行などによる世情不安から、いわゆる慶雲(けいうん)の諸改革を断行して、早くも律令制を軌道修正した。また平城京遷都を望んだが果たせず、25歳の若さで世を去った。御陵は奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村の檜隈(ひのくま)安古(あこ)山陵。
[押部佳周]



世界大百科事典
文武天皇
もんむてんのう
683-707(天武12-慶雲4)

第42代に数えられる天皇。在位697-707年。本名は軽(珂瑠),和風諡号(しごう)は天之真宗豊祖父(あめのまむねとよおおじ)。天武天皇の孫。父は草壁皇子,母は阿閉皇女(のち元明天皇)。689年(持統3)7歳のとき皇太子であった父と死別。祖母の持統天皇の保護のもとで成長し,持統は697年2月,反対者を抑えて軽皇子を皇太子とし,同年8月に譲位,702年(大宝2)に没するまで文武の政治を助ける。文武は即位のとき15歳,藤原不比等の娘宮子を夫人(ぶにん),紀竈門娘(かまどのいらつめ),石川刀子娘を嬪(ひん)とし,宮子は首皇子(聖武天皇)を生む。事績としては刑部(おさかべ)親王,藤原不比等らをして大宝律令を作らしめ,701年に完成,翌年にかけて施行したこと,702年に33年ぶりに遣唐使を派遣したこと,705年(慶雲2)に中納言を置き,706年に官人考選の年限を短縮し庸を半減したことなどがある。また698年(文武2)に南西諸島に使者を派遣して領土を広め,702年に薩摩・多褹(たね)を征討した。その資質については《続日本紀》に,寛仁にして博く経史に渉り,射芸をよくしたとある。《懐風藻》に詩3編,《万葉集》に文武の作かとする歌1首がある。没後遺骸は火葬し,高市郡檜隈安古山陵に葬った。
[直木 孝次郎]

[索引語]
軽皇子
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