第45代とされる天皇(在位724~749)。名は首(おびと)、法号勝満(しょうまん)。文武(もんむ)天皇の第1皇子、母は藤原不比等(ふじわらのふひと)の女(むすめ)宮子(みやこ)。文武が崩じたとき幼少で即位できず、祖母元明(げんめい)、伯母元正(げんしょう)が中継して成長を待ち、714年(和銅7)6月立太子、724年(神亀1)2月即位した。新興貴族藤原氏との関係が深く、不比等の女光明子(こうみょうし)を夫人とし、誕生まもない第1皇子基(もとい)(727―728)を皇太子にたてたが早世。これを機に左大臣長屋王(ながやおう)を除き、皇族皇后の慣例を破って光明子を皇后にたて、さらに738年(天平10)阿倍(あべ)内親王を皇太子とし、皇女立太子の初例をつくった。遣唐使を派遣して積極的に唐の文物制度を採用、仏教興隆に尽くして律令(りつりょう)国家の盛期と天平(てんぴょう)文化を開花させたが、そこには新旧貴族の権力抗争に巻き込まれたことからくる、鎮護(ちんご)国家のための仏教政策が大きく影響していた。ことに737年の疫病流行で不比等の4子が没してからの貴族間の抗争は激しく、740年の藤原広嗣(ひろつぐ)の乱後は都を恭仁(くに)(京都府木津川(きづがわ)市加茂町例幣(かもちょうれいへい))、難波(なにわ)(大阪市)、紫香楽(しがらき)(滋賀県甲賀(こうか)市信楽(しがらき)町)と移して、5年後に平城へ還るという政治的混乱を起こすが、この間に国分二寺の制度を整え、743年には盧遮那大仏(るしゃなだいぶつ)の造立を発願した。この大事業は平城に移されて東大寺となったが、公民の負担を重くし、律令体制の崩壊を早める原因ともなった。749年4月陸奥国(むつのくに)産金の報を受けて東大寺へ行幸、大仏に自らを三宝(さんぽう)の奴(やっこ)であると述べて天平感宝(てんぴょうかんぽう)と改元し、皇太子(孝謙(こうけん)天皇)に譲位、出家した。754年(天平勝宝6)鑑真(がんじん)から菩薩戒(ぼさつかい)を受け、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)8年5月道祖王(ふなどおう)を皇太子にすることを遺詔して崩じた。葬儀は仏を奉ずるごとくに行われ、遺愛の品々は光明皇后によって冥福(めいふく)を祈る願文とともに東大寺に献じられ、現在正倉院に収められている。御陵は奈良市法蓮(ほうれん)町の佐保山(さほやま)南陵。
2017年8月21日
第45代に数えられる古代の天皇。在位724-749年。文武天皇の第1皇子。諱(いみな)は首(おびと),母は藤原不比等の女宮子。707年(慶雲4)6月文武天皇が25歳で夭折したとき,嫡長子ではあったがわずか7歳のため,祖母の元明,叔母の元正の両女帝が中継ぎとして続いて即位し,首皇子の成長を待った。この間,714年(和銅7)6月14歳で立太子し,719年(養老3)6月はじめて政務にたずさわった。ついで724年(神亀1)2月,24歳で即位した。聖武天皇の即位に備えて,平城宮では以前から大改作工事が実行されていた。その後宮としては,藤原不比等の女安宿媛(あすかべひめ)(光明皇后),県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ),藤原武智麻呂の女(名前不明),同じく房前の女など4夫人の存在が知られ,このうち安宿媛との間に某王(基(もとい)王)と阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)の2子,県犬養広刀自との間に井上(いかみ)内親王,不破内親王と安積(あさか)親王の3子をもうけた。727年閏9月安宿媛が出産した某王(基王)は,藤原氏の期待をになってただちに立太子されたが,翌年9月死亡した。ちょうどそのころ県犬養広刀自に安積親王が生まれたため,将来権力の座を奪われることをおそれた藤原不比等の4子たちは,場合によっては即位も可能な皇后の伝統的地位に目をつけ,夫人安宿媛を皇后にしようとした。そして,これに強硬に反対すると予想される長屋王を陰謀によって729年2月に葬り(長屋王の変),同年8月に光明立后を強行した。
天皇の母の宮子は長く病にふしていたが,唐より帰国した玄昉(げんぼう)が看病してこれを回復させ,天皇は初めて母に対面することができた。それ以来,天皇は玄昉や吉備真備をますます重用した。これに対する不満をきっかけに,740年(天平12)9月,藤原広嗣は九州において大規模な反乱をおこした(藤原広嗣の乱)。天皇はこれを機に東国へ行幸し,以後745年までの6年間,都は恭仁京(くにきよう),紫香楽宮(しがらきのみや),難波京の間を移動した。光明皇后の影響をうけて仏教に関心を寄せる天皇は,乱後の741年3月,国分二寺の造営を発願し,743年10月には東大寺大仏として結実する盧舎那仏の造顕を発願した。749年(天平勝宝1)ごろ出家して勝満と称し,同年7月に皇太子阿倍内親王に譲位した(孝謙天皇)。その翌々月,光明皇太后のために,従来の皇后宮職を発展させた紫微中台(しびちゆうだい)が設置され,藤原仲麻呂がその長官となった。両者はこの役所を拠点に勢力を拡大していき,聖武の存在はしだいに軽くなっていった。聖武太上天皇は756年5月,56歳で没した。遺愛の品々は光明皇太后によって東大寺盧舎那仏に献じられた。これが正倉院宝物の中でも逸品の数々である。758年(天平宝字2)8月には,勝宝感神聖武皇帝の尊号と天璽国押開豊桜彦尊(あめしるしくにおしひらきとよさくらひこのみこと)の諡号(しごう)がたてまつられた。陵は佐保山南陵(奈良市法町)である。天皇の時代は,一方で仏教文化が花咲いたが,社会経済的にも政治的にも転機をなす不安定な時代でもあった。
聖武天皇の唯一の書跡として正倉院に《雑集》が伝えられる。これは《東大寺献物帳》のうち〈国家珍宝帳〉に〈雑集一巻(注略)右平城宮御宇 後太上天皇御書〉とあるものに当たり,巻末に天平3年(731)9月8日写了とあって,天皇31歳の書である。中国南北朝・隋・唐の詩文を収めており,とくに浄土を礼賛したものが多い。書風は王羲之の影響が強く,また運筆の跡を細く残す筆法には,褚遂良(ちよすいりよう)の影響がうかがわれる。
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