求天下
」させたといい、またこの事件は『類聚国史』によれば、「春日等承
皇太子密旨
」たことによるともいわれる。皇太子側の勢力との暗闘がひきつづいて存在していたことをうかがわせる。延暦十六年以降、廃太子早良親王の霊への鎮謝がしきりに行われ、同十九年七月、早良親王へ崇道天皇の名を贈った。同二十三年八月、大暴風雨によって中院西楼が倒壊した時、牛が打死した。天皇は生年が丑であったため、牛の死を恐れ「朕不
利歟」と歎じた。天皇は牛が殺されたり死んだりするのを特に恐れ、延暦十年・二十年に殺牛祭神の民間信仰を禁止したのもそれにもとづく。同二十四年十二月、参議の藤原緒嗣と菅野真道とに天下徳政のことについて相論させたが、その際緒嗣は「方今天下所
苦、軍事与
造作
也、停
此両事
、百姓安
之」と論じ、真道はこれに異議をさしはさんだ。天皇は緒嗣の意見を採用して、軍事と造作とを停廃した。軍事は蝦夷征討をさすが、天皇の治世の間に三回の蝦夷征討と、一回の征討準備が行われた。延暦二十三年には四回目の蝦夷征討の準備が行われ、坂上田村麻呂が再度征夷大将軍に起用されたが、天皇は緒嗣の意見によって征討を中止させた。造作は平安新京の建設であるが、同二十四年の段階に至ってもなお「営造未
已、黎民或
弊」といった状態であった。緒嗣の意見を入れた天皇はただちに造宮職を廃止させた。桓武朝の二大事業であった軍事と造作とを停廃した前年の暮から天皇は病に罹り、大同元年(八〇六)三月十七日崩御。七十歳。同年四月山城国紀伊郡柏原山陵に葬られたが、十月柏原陵に改葬された。陵墓の名により柏原天皇ともよばれる。
丑寅角二岑一谷
、守戸五烟」とあって、広大な陵域を占め、永世不除の近陵として歴朝の厚く崇敬するところであった。『仁部記』によると、文永十一年(一二七四)陵が賊に発かれた際に、使を遣わしてその状況を検分せしめたが、そのときの報告書に「抑件山陵登十許丈、壇廻八十余丈」とあって、その規模を窺うことができる。しかし、のち所伝を失い、豊臣秀吉の伏見城築造の際にその郭内に入ったため陵址はさらに不明となった。元禄年間(一六八八―一七〇四)以降、山陵の研究家は陵所の探索につとめ、深草・伏見の間に陵所を求めて種々なる説が行われたが、幕末の修陵の際にもついに定説を得るに至らなかった。明治十三年(一八八〇)に谷森善臣の考証にもとづいて現陵を陵所と定め、修治を加えた。日本古代の天皇(在位781~806)。父は天智(てんじ)天皇の孫光仁(こうにん)天皇、母は百済(くだら)系渡来氏族の出の高野新笠(たかののにいがさ)。諱(いみな)は山部(やまべ)。その資質を見抜いた藤原百川(ももかわ)の策謀により、773年(宝亀4)皇太子となり、781年(天応1)45歳で即位した。
784年(延暦3)には、それまでの平城京から、山背(やましろ)国(京都府)の長岡京への遷都を断行した。翌年、遷都と絡んで、造営の中心人物藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、皇太弟早良(さわら)親王が廃位され死亡する事件があった。その後、親王の怨霊(おんりょう)の所為とされる近親の死亡が相次いだため、794年には同じ山背の葛野(かどの)に遷都、平安京と命名した。天皇は他方、蝦夷(えみし)の抵抗を圧服して東北地方の支配を進め、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を起用、802年には胆沢(いさわ)城(岩手県)を築き、その平定に成功した。天皇はまた、地方政治に意を用い、国司・郡司に対する監督を強化し、国司交替の円滑化を図って勘解由使(かげゆし)を置き、また交替式を定めた。班田を励行させ、辺要の地を除いて兵士を廃止して健児(こんでい)を置き、出挙(すいこ)の利率や雑徭(ぞうよう)の日数を軽減して農民の負担を省いたが、造都と征夷の二大事業には惜しみなく人民の労力と国家の財力とを投入した。天皇は貴族勢力を抑えて国政を主導し、政局の転換に成功したが、晩年その政策は行き詰まり、805年、藤原緒嗣(おつぐ)の建議によって造都・征夷の事業を中止、翌年70歳で没し、山城国紀伊郡(京都市伏見(ふしみ)区)の柏原(かしわばら)山陵に葬られた。
第50代に数えられる天皇。在位781-806年。光仁天皇を父とし,高野新笠を母として生まれ,名を山部(やまべ)王といった。父は天智天皇の孫,施基(しき)皇子の子で白壁(しらかべ)王といい,天武系皇統の世に官人として仕え,大納言に昇ったが,770年(宝亀1)称徳天皇が没したとき,62歳で皇位を継承した。光仁天皇には皇后井上(いかみ)内親王との子とする他戸(おさべ)親王があり,これが皇太子に立てられた。渡来人系の卑母から生まれた山部王は親王として中務卿となっていたが,772年井上皇后と他戸皇太子が位を追われ,非業の死をとげる事件が起こり,代わって山部親王が37歳で皇太子に立てられ,781年(天応1)即位した。ここに至るまでには,藤原氏の永手(ながて)・百川(ももかわ)らの策動があったとされる。桓武朝は奈良時代後期のたびかさなる権力闘争や過度の崇仏などによる政治的混乱,および班田制の矛盾や国司の不正などによる社会不安に直面していたが,天皇は気力,体力ともにすぐれ,また壮年に至るまでの官人としての豊富な体験をもち,治世の間,左大臣を置くことなく,みずから強力に政治を指導し,独裁的権力を行使した。この点歴代天皇の中でも異色の存在である。
在位の間における最大の事業は平城京からの遷都と蝦夷の征討である。前者はまず784年(延暦3)6月長岡京造営工事をはじめ,11月遷都を行ったが,翌年この事業を推進していた藤原種継が暗殺され,しかも皇太弟早良(さわら)親王が連座して廃され,淡路国へ流される途中死ぬという事件によって,計画の進行がいちじるしく妨げられた。そこで天皇は793年山背国葛野郡宇太村の地を選んで造営工事をはじめ,翌年11月これを〈平安京〉と名付け遷都した。その後も和気清麻呂らを中心に造営事業が続けられた。次に後者は,光仁朝末期の780年(宝亀11)陸奥国上治郡の大領伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が反乱を起こして以来,大伴家持,紀古佐美(きのこさみ)らに率いられる征討軍は鎮定の功をあげることができず,ことに789年には蝦夷の将阿弖流為(あてるい)のために1000人余の死者を出して大敗するありさまであった。しかし天皇は渡来人系の坂上田村麻呂を抜擢して征夷大将軍とし,その巧妙な戦略によって801年(延暦20)奥地の胆沢地方まで平定できた。平安京の建設と蝦夷征討の後世に及ぼした影響は大きいが,両者に要した巨額の費用は財政を圧迫し,ひいては民生の窮乏を招き,さらに早良親王の怨霊の祟りによって皇后藤原乙牟漏(おとむろ)の死や皇太子安殿(あて)親王(のちの平城天皇)の病気が起こるなど,桓武朝後半には暗い社会情勢がつのった。そこで天皇は800年早良親王に崇道天皇の号を贈り,井上内親王をも皇后位に復するなど怨霊の慰撫につとめ,また805年参議藤原緒嗣の意見を用いて造都,征夷の両事業を停止した。桓武天皇は渡来人の血をひくため中国文化に心酔し,また鷹狩を愛し,後宮も盛大をきわめるなど,古代帝王的面目を発揮した。その子平城・嵯峨・淳和天皇がつづいて皇位を継承し,葛原(かつらはら)親王の子孫は桓武平氏として栄えた。陵は柏原陵(京都市伏見区桃山町)。
墓】 : 藤原良継
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