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  11. 嵯峨天皇
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
嵯峨天皇
さがてんのう
七八六 - 八四二
八〇九―二三在位。平安時代初期の天皇。諱は賀美能(神野)。桓武天皇と皇后藤原乙牟漏との間に、延暦五年(七八六)九月七日生まれ、三品中務卿を経て、大同元年(八〇六)五月十九日同母兄平城天皇の皇太弟となり、同四年四月一日受禅した。しかし病気のため譲位した平城上皇が太政官人半ばを率いて平城旧京に遷り、寵妃藤原薬子とその兄仲成に擁せられて朝政に干渉したので、天皇は巨勢野足・藤原冬嗣を蔵人頭に補するなどによって対抗した。弘仁元年(八一〇)九月、上皇の平城遷都の命を機として坂上田村麻呂以下の兵を派遣して上皇方を制圧した。上皇は入道し、薬子は自殺し、仲成は射殺され、皇太子高丘親王は廃され、阿保親王・藤原真夏らは左遷された。この「薬子の変」後、弘仁・天長・承和の約三十年間、嵯峨天皇(上皇)の権威と指導のもとに太平が続き、空海・小野岑守・同篁・良岑安世らの人材が輩出し、宮廷儀礼と詩文などの文化が栄えた。これを弘仁文化という。律令政治の整備のために編纂された『弘仁格』『弘仁式』、年中行事の次第を定めた『内裏式』、詩文の粋を集めた『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』などはその精華である。平城朝に停廃された諸行事が復活し、さらに内宴・朝覲行幸などの新儀の出現したことや、弘仁九年礼法・服色や、宮殿・諸門の名を唐風に改めたことなども、嵯峨天皇の意向によるものであろう。後宮も繁栄し、『本朝皇胤紹運録』には五十名の皇子女がみえる。弘仁五年その一部は源朝臣の姓をもって臣籍に降り、信・常・融らの嵯峨源氏は一時大いに廟堂に活躍した。弘仁十四年四月十六日皇太弟大伴親王(淳和天皇)に譲位後は皇太后橘嘉智子とともに冷然院に住み、さらに天長十年(八三三)淳和天皇が皇太子正良親王(仁明天皇)に譲位すると、洛西の嵯峨院に隠棲し、腹心の藤原三守・安倍安仁らを院司として、風流韻事を事とした。詩文にすぐれ、作品は『凌雲集』以下にみえる。また書にもすぐれ、「光定戒牒」などの遺品があり、空海・橘逸勢とともに三筆と称せられる。承和九年(八四二)七月十五日崩じた。五十七歳。遺詔して、「思〓欲無位無号詣〓山水〓而逍遙、無事無為翫〓琴書〓以澹泊〓」と心境を述べ、「死何用重〓国家之費〓」と薄葬を命じたところに、その風格がうかがわれる。しかし、その大きな権威が失われたことは、ただちに皇位継承をめぐる「承和の変」の勃発をみ、前期摂関制と呼ばれる北家藤原氏の擡頭を招くこととなった。→薬子の変(くすこのへん),→弘仁・貞観文化(こうにん・じょうがんぶんか)
[参考文献]
林陸朗『上代政治社会の研究』、渡辺直彦『日本古代官位制度の基礎的研究』、川口久雄『平安朝日本漢文学史の研究』、目崎徳衛「政治史上の嵯峨上皇」(『日本歴史』二四八)
(目崎 徳衛)

嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)

 京都市右京区北嵯峨朝原山町にある。大覚寺の西北七〇〇メートル、嵯峨野の北辺をめぐる御廟山の山頂に位置し、形状は円丘、もとは数個の巨石が置かれていたという。『続日本後紀』承和九年(八四二)七月丁未(十五日)条によると、天皇は崩御に際し薄葬のことを詳細に遺命し、葬所については、山北幽僻不毛の地を択び、壙穴は棺を容れれば足り、封を築かず草を生えしめ、永く祭祀を断つべき旨を示した。崩御の翌十六日遺詔に従って山北幽僻の地に陵所を定め、即日葬儀をおえた。『延喜式』諸陵寮に当陵の記載がないのは、薄葬の趣旨が遵奉されたためであろう。しかし即位や改元の折には山陵使が立てられていたことが記録類にみえる。中世以降所伝を失い、嵯峨の二尊院あるいは清凉寺の境内にある石塔が陵所に擬されていたが、『山城志』『山陵志』は当所を陵所として示し、慶応元年(一八六五)修補を加え巡検使が派遣された。
[参考文献]
谷森善臣『山陵考』(『(新註)皇学叢書』五)、上野竹次郎『山陵』上
(戸原 純一)


日本大百科全書(ニッポニカ)
嵯峨天皇
さがてんのう
[786―842]

第52代とされる天皇(在位809~823)。名は神野(かみの)(賀美能)。桓武(かんむ)天皇の皇子。母は皇后藤原乙牟漏(おとむろ)。延暦(えんりゃく)5年9月7日誕生。806年(大同1)同母兄平城(へいぜい)天皇の皇太弟にたてられ、809年天皇の譲りを受けて即位。翌810年(弘仁1)、上皇が平城還都の議をおこしたことからこれと対立、兵を発して上皇方を制圧した。15年の治世ののち、823年(弘仁14)異母弟の淳和(じゅんな)天皇に譲位、その後も仁明(にんみょう)天皇(嵯峨皇子)の842年(承和9)に没するまで、上皇として家父長的権威をもって朝廷を抑え、古代史上まれな政治的安定期を出現させた。『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』『内裏式(だいりしき)』などの法典が編纂(へんさん)され、蔵人所(くろうどどころ)など宮廷の機構が整備され、地方政治も意欲的に行われた。天皇自ら漢詩文、書道をよくし、中国風の文化が栄えた。空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに三筆に数えられる。また皇子女の多くに源(みなもと)の姓を与えて臣籍に降下させ、賜姓源氏の例を開いた。御陵は京都市右京区の嵯峨山上陵。
[笹山晴生]



世界大百科事典
嵯峨天皇
さがてんのう
786-842(延暦5-承和9)

第52代に数えられる平安初期の天皇。在位809-823年。桓武天皇と皇后藤原乙牟漏(おとむろ)との間に生まれ,名を神野(かみの)(賀美能)という。同母兄平城天皇の病気による譲位をうけて即位。平城上皇が寵妃藤原薬子(くすこ)らとともに,多数の官人をひきいて平城旧京に移り,〈二所朝廷〉の観を呈したので,坂上田村麻呂以下の兵を発して上皇方を征圧した。これを〈薬子の変〉という。以後,弘仁の14年間(810-824),異母弟淳和天皇の天長の10年間(824-834),皇后橘嘉智子(かちこ)との間に生まれた仁明天皇の承和9年に没するまでの計30余年は,皇室家父長としての嵯峨天(上)皇の権威のもとに,古代史にまれな政治的安定が出現し,弘仁文化と呼ばれる宮廷中心の文化が開花した。その特徴は,政治的には,基本法たる律令を補足・修正するための法令集《弘仁式》《弘仁格(きやく)》を制定・施行し,朝廷の儀式を整備して《内裏式》をまとめたこと,文化的には,内宴,朝覲(ちようきん)行幸などの優雅な年中行事を発達させ,《凌雲集》《文華秀麗集》等の詩集の勅撰を中心に文章道を興隆させたことなどが挙げられる。嵯峨天皇はみずからも詩文や書道にすぐれ,また唐の文化への強い憧憬をもち,その周囲には空海,小野岑守(みねもり),菅原清公など才能ある人々が集まった。大内裏の諸施設の建設や平安京の都市的整備も,この間に大いに進んだと思われ,それは宮殿・諸門の名がみな唐風に改められたことや,冷然院(れいぜいいん),朱雀院などの大きな離宮が造られたことから推察される。後宮も盛大をきわめ,皇子・皇女は約50人も生まれ,これをすべて親王とすることは財政上不可能だったので,生母が卑姓である子に〈源〉の姓を与えて臣下とし,官人として活躍させることにした。これが嵯峨源氏であり,以後歴代の源氏賜姓の先例が開かれた。また薬子の変の際,藤原冬嗣らを蔵人頭(くろうどのとう)に補したことにはじまる蔵人所は,その後巨大な組織となって宮廷の運営を担当した。こうした点を総合すれば,嵯峨天皇は王朝文化の祖と見ることができよう。
[目崎 徳衛] 嵯峨天皇は空海,橘逸勢とともに三筆の一人とされる。書の確実な遺品としては823年(弘仁14),最澄の高弟光定が延暦寺一乗止観院で大乗菩薩戒を受けたときに下付された《光定戒牒(こうじようかいちよう)》(国宝,延暦寺)が残されるのみで,光定みずから《伝述一心戒文》にこのことを記している。しかし天皇が書に関心が深かったことは,空海から唐の書跡の名品,徳宗,欧陽詢,張誼,王羲之の書や,八分,行草,飛白などの体の書を献ぜられたり,空海みずからに揮毫を命じていることからもわかる。また814年天皇から100屯の綿とともに七言詩1首を賜った空海は〈纔(わずか)に天書を披(ひら)いて,字勢竜のごとくわだかまり〉とたたえ,《日本紀略》大同4年(809)即位前紀にも〈草隷に妙にして神気岳立す〉とある。また826年(天長3)桓武天皇のための法華経供養が行われた際の経は嵯峨天皇の手跡で,〈一点一画に躰あり勢あり。珠連なり星列び。爛然として目に満つ。観る人称して書の聖と曰う。鍾繇(しようよう),逸少(王逸少=王羲之)も猶足らざるがごとし〉と《日本紀略》に記されるように,能書家として名高かった。今わずかに残された《光定戒牒》によれば,欧陽詢風の峻厳な前半部と,後半の婉美な部分とから成り,後半部には,とくに空海の影響が大きいといえる。天皇と空海の関係は,文学の面でも密接なものがあったから,書の面でもその影響が見られるのは当然であると考えられる。
[栗原 治夫]

[索引語]
光定戒牒(こうじようかいちよう)
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神聖なものとして用いることから白馬と変えた。ただし,馬は灰色または葦毛で,表記だけを白馬に変えたにすぎない。嵯峨天皇の811年(弘仁2)を起源とする説などがあり ...
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日本国語大辞典
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日本国語大辞典
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39. 明石(源氏物語) 243ページ
日本古典文学全集
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40. あかだじょうあと【赤田城跡】新潟県:刈羽郡/刈羽村/赤田村
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ら下屋敷・血とり場の地字や刑部屋敷・馬すて場の通称地名があるが、館跡の所在は不明。伝えでは、嵯峨天皇の皇子源融の末孫渡辺源次兵衛定が赤田保の地頭職に任ぜられ、赤 ...
41. あかだむら【赤田村】新潟県:刈羽郡/刈羽村
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11年(弘仁2)嵯峨天皇が皇太子のとき侍講であったことにより従五位下となる。左近衛少将,主殿頭,内蔵頭,兵部大輔をへて,820年従四位下,のち中務大輔,民部大輔 ...
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将軍実朝夫人は夫の菩提のために、京都に遍照心院を建てた時、その維持について泰盛に委嘱した。また文永十年後嵯峨天皇一周忌に高野山奥院に建碑して天皇から『文選』等を ...
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国史大辞典
政に参加した。仁治二年(一二四一)に従五位上、翌三年正月、四条天皇の後嗣問題で、邦仁親王(後嵯峨天皇)を推す幕府の使者として、二階堂行義とともに上洛、幕府の意志 ...
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第63代天皇(在位967~969)。村上(むらかみ)天皇第二皇子。母は藤原師輔(もろすけ)の娘安子。諱(いみな)は憲平(のりひら)。藤原元方(もとかた)の娘元子の生んだ広平親王を越えて皇太子となったので、元方は落胆のあまり病死し、天皇が物の怪
村上天皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
第62代天皇(在位946~967)。醍醐(だいご)天皇第14皇子。名は成明(なりあき)、母は太政(だいじょう)大臣藤原基経(もとつね)の女(むすめ)穏子(おんし)。朱雀(すざく)天皇の同母弟。944年(天慶7)19歳で皇太子となり、946年禅を受け即位
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