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清和天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『清和天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
清和天皇
せいわてんのう
八五〇 - 八〇
八五八―七六在位。文徳天皇の第四皇子。母は藤原良房の女明子。諱は惟仁。嘉祥三年(八五〇)三月二十五日、良房の一条第で生まれ、同年十一月二十五日第一皇子で紀名虎の女の生んだ惟喬親王を越えて皇太子となり、天安二年(八五八)八月二十七日に文徳天皇死去のあとを受けて九歳で践祚。政治は外祖父で太政大臣の良房に委ね、貞観六年(八六四)の元服後も変わらず、同八年応天門の変が起ると、改めて勅命により天下の政治を摂行させ人臣摂政の例を開き、『続日本後紀』を編纂し、『貞観交替式』『貞観格』『貞観式』を施行した。同十四年の良房の死後はその養子基経の輔佐によりみずから政治をみた。天皇は学問を好み、鷹狩などは好まなかったといわれる。同十八年十一月二十九日、皇太子貞明親王(陽成天皇)に譲位し、元慶三年(八七九)五月八日夜落飾入道。法諱は素真。翌年十二月四日粟田院で死去。三十一歳。京都の水尾に葬ったので水尾帝とも称する。
[参考文献]
佐伯有清『伴善男』(『人物叢書』一五六)、櫛田良洪『真言密教成立過程の研究』、目崎徳衛「惟喬・惟仁親王の東宮争い」(『日本歴史』二一二)、水原一「惟喬・惟仁位争い説話について」上(『駒沢大学文学部研究紀要』三三)
(福井 俊彦)

水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)

京都市右京区嵯峨水尾清和の水尾山の山腹にあり、愛宕山の西南二キロの山間狭隘の地で、陵形は地を方形に画するのみである。『三代実録』によると元慶四年(八八〇)十二月七日洛東の上粟田山に火葬し、かねて終焉の地と定めおかれたこの地に葬り、水尾山陵と称されたが、薄葬の遺詔に従って山陵を起さず、『延喜式』諸陵寮は当陵を載せていない。陵下の水尾の里には天皇に関する遺跡もあり、古来その所伝を失わず、幕末修陵の際に修治を加えた。火葬塚は左京区黒谷町の金戒光明寺の裏山にある経塚と称する塚で、大正十五年(一九二六)に治定された。
[参考文献]
上野竹次郎『山陵』上
(戸原 純一)


日本大百科全書(ニッポニカ)
清和天皇
せいわてんのう
[850―880]

第56代天皇(在位858~876)。文徳(もんとく)天皇第四皇子。母は藤原良房(よしふさ)の女明子(むすめあきらけいこ)。諱(いみな)は惟仁(これひと)。水尾(みずのお)帝ともいう。文徳天皇は紀名虎(きのなとら)の女静子の生んだ惟喬(これたか)親王を皇太子とすることを願っていたが、藤原氏の威勢を背景に惟仁親王が850年(嘉祥3)に立太子し、858年(天安2)9歳で即位した。幼齢であったので、外祖父良房が太政(だいじょう)大臣として大権を行使し、元服を終えた866年(貞観8)には良房に対し天下の政を摂行せよとの勅を下し、天皇成人後も良房が大権を行使するというあり方の確認を行っている。職名としての摂政(せっしょう)・関白は使われていないが、良房は摂政・関白の実を行ったと考えられる。在世中応天門が焼け落ちるという事件(866)が起こったが、律令(りつりょう)支配の困難さは深刻化していたとはいえ、概して静謐(せいひつ)のまま終わったようである。18年の在位後876年陽成(ようぜい)天皇に譲位。879年(元慶3)5月落飾(らくしょく)入道し、11月粟田山(あわたやま)荘円覚寺に遷幸し、12月4日崩御。嵯峨(さが)の水尾(みずお)陵に葬る。
[森田 悌]



世界大百科事典
清和天皇
せいわてんのう
850-880(嘉祥3-元慶4)

第56代に数えられる天皇。在位858-876年。文徳天皇と藤原良房女の女御明子との間に生まれ,名を惟仁(これひと)という。祖父仁明天皇と曾祖母の太皇太后橘嘉智子の相つぐ死によって,生後わずか9ヵ月で父文徳天皇の皇太子となり,さらに文徳天皇の急死によって,未成年の9歳で即位する異例を開いた。この異例の背後には外祖父良房の巨大な存在があり,良房は太政大臣として幼帝の大政を摂行した。いわゆる人臣摂政のはじめである。しかし,文徳朝には長兄惟喬(これたか)親王を擁立しようとする紀氏らの動きがあり,清和朝の866年(貞観8)には〈応天門の変〉が起こるなど,政争がくり返された。清和天皇は病弱で政治をいとい,27歳で9歳の皇子陽成天皇に譲位して仏門に入り,畿内の諸寺院を巡拝するなど信仰は熱烈をきわめた。ついに丹波国の水尾山寺(みのおさんじ)に入ろうとしたが,果たさずに没した。その皇后は《伊勢物語》に〈二条の后〉と呼ばれる藤原高子。
[目崎 徳衛]

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日本歴史地名大系
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