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醍醐天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『醍醐天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
醍醐天皇
だいごてんのう
八八五 - 九三〇
八九七―九三〇在位。仁和元年(八八五)正月十八日、宇多天皇の第一皇子として誕生。母は内大臣藤原高藤娘贈皇太后胤子。諱は維城、のち敦仁。寛平元年(八八九)親王宣下、同五年立太子、同九年七月三日、十三歳で元服、同日宇多天皇の譲位で践祚、同十三日即位。上皇は譲位に際して天皇に訓誡(『寛平御遺誡』)を与え、藤原時平と菅原道真を併用し、特に道真を重用すべきことを諭した。天皇は上皇の意を承けて親政を続けるが、延喜元年(九〇一)右大臣道真は讒言によって大宰権帥に左遷され、左大臣時平独り天皇を補佐して政権を握った。時平は延喜九年三十九歳で没するが、すでに父基経の遺志によって後宮に納れた妹穏子は、皇太子保明親王を生んで女御となっており、のち延長元年(九二三)には中宮に進み、時平の弟忠平も翌二年左大臣に進んで、穏子と協力して兄時平の政権を継承した。しかし、上皇は天皇の朝を通じてなお健在で、国政上にもしばしば指示を与え、天皇も君徳すぐれて終始親政に精励した。延喜二年には、時平に班田の励行、新規勅旨田開発の禁止、院宮王臣家による山野占有の停止など、一連の改革を行わせて律令制の維持を図り、同十四年には官人に国政上の意見を提出させ(三善清行『意見封事十二箇条』)、また随時ひろく政績への批判をきいた。なお、この一代における国家的事業として『三代実録』『延喜格式』の編纂、『古今和歌集』の勅撰などがある。中にも後者は、朝廷・後宮を通じて風雅の士女が輩出した新文化隆昌の様相を象徴している。その皇子村上天皇も当代を理想として親政を行い、同様の政治的文化的治世を現出させたから、当代と併せて「延喜・天暦の治」と称され、ともに聖代視された。しかし、社会の現実は、律令制の解体が急速に進みつつあり、これに対応する政治も、藤原摂関体制下に変質を進めるから、この聖代観も、律令国家最後の光輝を放つ時代として敬仰されたことによるかといわれる。天皇は延長八年病床に臥し、九月二十二日大漸に及んで皇太子寛明親王(朱雀天皇)に譲位、二十九日落飾して金剛宝と称し、同日四十六歳で崩御。陵は後山科陵。遺詔により諡せず、醍醐天皇・小野帝などと称する。後宮には中宮穏子(保明親王および朱雀・村上両天皇母)、女御藤原能子、更衣同淑姫(兼明親王母)、同源周子(源高明母)らがある。天皇の日記に『醍醐天皇宸記』がある。→延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)
[参考文献]
『大日本史料』一ノ六、延長八年九月二十二日・二十九日条、古代学協会編『延喜天暦時代の研究』、山口博『王朝歌壇の研究』宇多醍醐朱雀朝篇、角田文衛『紫式部とその時代』、竜粛「延喜の治」(『平安時代』所収)、黒板伸夫「藤原忠平政権に対する一考察」(『摂関時代史論集』所収)、森田悌「藤原忠平政権の動向」(『解体期律令政治社会史の研究』所収)、藤木邦彦「「延喜天暦の治」再論」(『歴史と文化』九)、同「藤原穏子とその時代」(同七)、所功「延喜の治の再検討」(『皇学館大学紀要』六)、同「平安後期に於ける延喜時代観」(『古代学』一四ノ二)、上横手雅敬「延喜天暦期の天皇と貴族」(『歴史学研究』二二八)
(藤木 邦彦)

後山科陵(のちのやましなのみささぎ)

京都市伏見区醍醐古道町にある醍醐天皇の陵。陵号は『類聚符宣抄』『扶桑略記』は「後山科山陵」、『日本紀略』は「山科陵」、『醍醐雑事記』は「山階新陵」とする。現陵号は『延喜式』諸陵寮の清和天皇太皇太后順子の陵号と同一であるが、同陵の現陵号は『三代実録』の同陵陵号「後山階陵」である。当陵は延長八年(九三〇)十月十一日天皇の遺骸と副葬品を埋葬、翌十二日陵上に卒塔婆三基を建て、翌承平元年(九三一)十一月に源添が勅を奉じ行なった陵湟掘削が終了、同四年七月十三日宣旨を醍醐寺に下し、当陵に陵戸五烟、徭丁二十五人を置き、しばらく諸陵寮の管理を停め、醍醐寺に陵を守らせた。以来醍醐寺は毎年天皇の聖忌九月二十九日には、陵前で法会を行い、江戸時代まで続けられた。現在陵は径四五メートルの平坦な円形樹林地で、周囲に幅約五メートル、深さ約一・二メートルの空堀、その外側に幅三・五メートルほどの低い小土手がめぐり、南面に拝所がある。埋葬施設は『醍醐雑事記』『西宮記』によると、兆域東西八町、南北十町を画し、方三丈、深さ九尺の穴を掘り、これに方一丈、高さ四尺三寸の校倉を納め、この中に棺と硯・書・筥・琴・箏・和琴・笛などを安置して蓋をし、埋土している。
[参考文献]
『大日本史料』一ノ六、『醍醐天皇後山科陵之図』(宮内庁所蔵『陵墓地形図』)、上野竹次郎『山陵』上
(石田 茂輔)


日本大百科全書(ニッポニカ)
醍醐天皇
だいごてんのう
[885―930]

第60代天皇(在位897~930)。宇多(うだ)天皇第一皇子。母は内大臣正三位藤原高藤(たかふじ)の女胤子(むすめいんし)。諱(いみな)は敦仁(あつぎみ)。893年(寛平5)4月立太子、897年宇多天皇から禅を受け即位。このときの伝国詔命に藤原時平(ときひら)と菅原道真(すがわらのみちざね)を重用せよとの指示があり、左右大臣として両人が天皇の治政を補佐した。しかし両者の間に反目が生じ、901年(延喜1)道真は時平により讒(ざん)され、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、以後、時平の専権体制が確立し、律令(りつりょう)原則に立ち返った復古路線に基づく施策が打ち出された。時平没後はその弟忠平(ただひら)が太政官(だいじょうかん)の首班となり、時平とは異なる現実主義的路線を採用し、律令支配原理とは異なる支配方式で臨んだようである。政治面において困難に陥っていたが、国史や格式ないし『古今和歌集』の編纂(へんさん)が行われ、文化面では栄えるところがあった。晩年の天皇は流謫(るたく)に処した道真の怨霊(おんりょう)に悩まされ、930年(延長8)朱雀(すざく)天皇に譲位、落飾して即日崩御。陵墓は伏見(ふしみ)の後山科(のちのやましな)陵。
[森田 悌]



世界大百科事典
醍醐天皇
だいごてんのう
885-930(仁和1-延長8)

第60代に数えられる天皇。在位897-930年。父は宇多天皇,母は女御胤子(藤原高藤女)。諱(いみな)は敦仁。893年(寛平5)立太子。897年に元服,即位。治世のはじめは父上皇の意志で藤原時平,菅原道真が並んで補佐の任にあったが,まもなく道真は時平派により,天皇の廃立を謀ったとされて失脚。時平の死後はその弟忠平が政権の中心となった。天皇は親政を行い,地方政治や制度・文化面に実績をあげ,後世高く評価された(延喜・天暦の治)。しかし一方では道真の怨霊の恐怖に悩まされた治世でもあった。時平はじめその一党や,皇太子保明親王,同慶頼王の死も怨霊のたたりとされ,ことに930年の清涼殿の落雷に衝撃をうけた天皇は同年皇子寛明親王(朱雀天皇)に譲位,数日後没した。天皇は皇后穏子(藤原基経女)以下女御・更衣も多かったので,皇子女も源氏賜姓者を含めて多くを数える(醍醐源氏)。陵は京都市山科区の後山科陵。
[黒板 伸夫]

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