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後一条天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『後一条天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・日本人名大辞典のサンプルページ

国史大辞典
後一条天皇
ごいちじょうてんのう
一〇〇八 - 三六
一〇一六―三六在位。寛弘五年(一〇〇八)九月十一日一条天皇の第二皇子として誕生。母は藤原道長の女彰子。諱は敦成。同年十月十六日親王宣下。同八年六月十三日三条天皇の皇太子となる。時に四歳。長和五年(一〇一六)正月二十九日九歳で受禅、同年二月七日即位。寛仁二年(一〇一八)正月三日十一歳で一条殿において元服。天皇は当初、三条天皇の皇子敦明親王を皇太子に立てたが、寛仁元年八月九日敦明親王の辞意により、天皇の同母弟敦良親王(後朱雀天皇)を皇太子とした。天皇は道長を摂政とし(長和五年正月二十九日)、さらにその男頼通を摂政(寛仁元年三月十六日)、ついで関白とした(同三年十二月二十二日)。また寛仁二年十月十六日には道長の女威子を中宮に立て、ここに道長の女三人は同時に后位につくこととなった。威子所生の子に章子内親王・馨子内親王がいる。長元九年(一〇三六)四月十七日清涼殿で崩御。二十九歳。遺詔により喪を秘して敦良親王への譲位の儀を行なったとされる。同年五月十九日浄土寺西原において火葬。菩提樹院陵が陵に治定されている。
(加藤 友康)

菩提樹院陵(ぼだいじゅいんのみささぎ)

京都市左京区吉田神楽岡町にあり、陵形は東南に向く円丘で、天皇の第一皇女で後冷泉天皇皇后の章子内親王(二条院)の陵と同域である。長元九年(一〇三六)五月十九日夜、神楽岡東辺の山作所の中央に設けた貴所屋にて火葬、翌朝酒を以て火を消し、御骨を茶〓壺に納め、呪砂を入れて壺の上に梵本の真言書一巻を結び付け、白革を以て壺を縫い、近くの浄土寺に安置した。火葬所の跡には土を覆い、その上に石卒塔婆を建て、「陀羅尼」を蔵め、四周に木柵を作り、周湟を掘って植樹した。翌長暦元年(一〇三七)六月天皇の母上東門院(藤原彰子)が火葬所に菩提樹院を建てて供養し、長久元年(一〇四〇)十一月十日に御骨を浄土寺より同院に遷した。後世所伝を失ったが、幕末には当所を陵と定めた。しかし間もなく火葬塚に改められ、明治二十二年(一八八九)に至り再び当所を陵と定めた。この時墳丘の西に接する小墳を二条院の墓と定めたが、同三十九年これを陵に改め、陵号は天皇陵と同じ菩提樹院陵と称した。
[参考文献]
上野竹次郎『山陵』下
(中村 一郎)


日本大百科全書(ニッポニカ)
後一条天皇
ごいちじょうてんのう
[1008―1036]

第68代天皇(在位1016~36)。一条天皇第2皇子。母は藤原道長の女(むすめ)彰子(しょうし)。諱(いみな)は敦成(あつひら)。一条天皇が位を三条天皇に譲るとき、皇太子に第1皇子敦康(あつやす)親王を擬そうとしたが、道長をはばかり、その外孫敦成親王を皇太子にたてた。この敦成親王が1016年(長和5)9歳で即位。道長が短期間摂政(せっしょう)となったのち、その男頼通(よりみち)が摂関となり執政した。この朝において太皇太后(一条天皇中宮彰子)、皇太后(三条天皇中宮妍子(けんし))、皇后(後一条天皇中宮威子(いし))の三后がともに道長の女で、その栄華を極めた。道長が「この世をば我世とぞ思ふ望月のかけたる事もなしと思へば」と詠んだのは、威子立后の日であった。
[森田 悌]



日本人名大辞典
後一条天皇
ごいちじょうてんのう
1008−1036
平安時代中期,第68代天皇。在位1016-36。
寛弘(かんこう)5年9月11日生まれ。一条天皇の第2皇子。母は藤原彰子(上東門院)。三条天皇の譲位により9歳で即位。外祖父藤原道長が摂政となる。在位中,刀伊(とい)(女真)が対馬(つしま),壱岐(いき),筑前(ちくぜん)に襲来(1019)したり,下総(しもうさ)で平忠常が乱をおこす(1028)事件があった。長元9年4月17日死去。29歳。墓所は菩提樹院陵(ぼだいじゅいんのみささぎ)(京都市左京区)。諱(いみな)は敦成(あつひら)。
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検索ヒット数 423
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一〇〇八―三六 一〇一六―三六在位。寛弘五年(一〇〇八)九月十一日一条天皇の第二皇子として誕生。母は藤原道長の女彰子。諱は敦成。同年十月十六日親王宣下。同八年 ...
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20. いけのさわいせき【池の沢遺跡】滋賀県:高島郡/朽木村/村井村
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21. 一条院
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22. いちじょういん【一条院】
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23. いちじょういんあと【一条院跡】京都市:上京区/聚楽学区/飛騨殿町地図
日本歴史地名大系
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24. いちじょうてんのう【一条天皇】
国史大辞典
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25. いちだいいちどのだいほうべい【一代一度大奉幣】
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期にかけて重要視された。『三代実録』の貞観元年(八五九)正月十日条にみえるのを初めとする。後一条天皇寛仁元年(一〇一七)度に奉幣を受けた大社は次の如くである。園 ...
26. いちのかみ【一上】
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27. 一(いち)を以(もっ)て万(ばん)を=知(し)る〔=察(さっ)す〕
故事俗信ことわざ大辞典
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29. 出羽弁
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られた。天元二年(九七九)三月二七日には、円融天皇が初めて行幸し、寛仁元年(一〇一七)には後一条天皇が行幸し封戸一〇〇烟を施入した。天慶八年志多良神とも八面神・ ...
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36. いんごう【院号】
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冷泉天皇以降、天皇の追号には譲位後おもに居住した御所の名称によって院号を用いる例となり、さらに後一条天皇以後は在位中崩御した天皇にも、里内裏の殿名などによって院 ...
37. いんごう【院号】 : 院号/(二)
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38. いんごう【院号】 : 院号/(三)
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39. 宇治拾遺物語 163ページ
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