1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 社会
  6. >
  7. 政治
  8. >
  9. 天皇
  10. >
  11. 後三条天皇
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

ジャパンナレッジは約1500冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
国史大辞典
後三条天皇
ごさんじょうてんのう
一〇三四 - 七三
一〇六八―七二在位。諱は尊仁(たかひと)。長元七年(一〇三四)七月十八日、東宮敦良親王(後朱雀天皇)の第二王子として誕生。母は三条天皇の皇女禎子内親王(陽明門院)。同九年父親王の践祚後間もなく親王宣下をうけ、寛徳二年(一〇四五)正月、兄後冷泉天皇の践祚と同時に皇太弟となる。永承元年(一〇四六)十二月元服、ついで藤原能信の養女茂子を納れて妃とした。のちの白河天皇の生母である。爾来東宮に潜居すること二十四年、生母が藤原氏の出でないため、時の関白藤原頼通に忌憚され、東宮の地位すら脅かされたという。治暦四年(一〇六八)四月十九日、兄天皇の崩御のあと直ちに践祚し、関白には藤原教通を補したが、外戚の威権から解放された天皇は、積極的に親政を推進し、多くの治績を挙げた。そのうちでも特に有名なものは、荘園整理事業と公定枡(延久宣旨枡)の制定で、ことに荘園整理事業のため太政官に設置された記録荘園券契所(略して記録所)は、後世その性格を変えながらも再三復活され、あたかも天皇親政を象徴する機関のように見なされるに至った。また一方では皇室経済の強化を図り、各地に勅旨田を設定し、後三条院勅旨田の名で後世まで伝えられた。無実化した令制官田=供御稲田を改編して、山城・河内・摂津などに御稲田を設け、御稲供御人を定めたのも、この治世に始まるといわれる(『百官和秘抄』)。しかし在位わずか四年半で、延久四年(一〇七二)十二月八日位を皇太子貞仁親王(白河天皇)に譲り、同時に女御源基子の所生の皇子実仁親王を皇太弟に立てた。この譲位を天皇が院政を始めるためとする説が古くからあるが、確証はなく、病気のためとする説が有力であり、また実仁親王を東宮に立てるのも目的の一つと考えられている。翌五年四月、病のため落飾、法名を金剛行と称したが、五月七日大炊御門殿において崩御した。年四十。
[参考文献]
橋本義彦「貴族政権の政治構造」(『(岩波講座)日本歴史』四所収)
(橋本 義彦)

円宗寺陵(えんしゅうじのみささぎ)

 京都市右京区竜安寺朱山(しゅうやま)、竜安寺内にある(宮内庁編『陵墓要覧』は「えんそうじのみささぎ」とよんでいる)。後朱雀・後冷泉天皇陵と東西に並び、南面する円丘で三陵同域である。延久五年(一〇七三)五月十七日神楽岡の南の原に火葬、御骨を禅林寺内の旧房に安置した。しかし、のちに当陵を指して「円宗寺」(後三条天皇御願寺)と記しており、また当陵に派遣された権中納言藤原宗忠の日記に「従〓円宗寺北大門大路〓北行一許町、下〓〓車、向〓其所〓、(中略)(此山陵在〓円融院四至〓、彼寺別当沙汰也)」(『中右記』嘉承二年(一一〇七)七月十二日条)とあることは、陵は禅林寺から円融寺の四至内に移されたものと思われる。円融寺は仁和寺の寺地内に建立されたものであるが、中世には衰退し、現在の竜安寺がその跡地であるといわれる。延慶元年(一三〇八)四月三十日に後宇多法皇が仁和寺・円宗寺に御幸の際「後三条院法華堂」に行っているが(『公秀公記』)、この法華堂の詳細は不明である。陵所はその後伝えるものはないが、幕末修陵の時、現陵を前記『中右記』の記事に合うものとして修補を加えた。
[参考文献]
谷森善臣『山陵考』(『(新註)皇学叢書』五)、上野竹次郎『山陵』下
(中村 一郎)

所領

 後三条天皇親政の目的は、摂関家の勢力を削減することにあった。それが経済方面では荘園の整理であり、政治上では院政の実行となった。このため延久元年(一〇六九)設置された記録荘園券契所は、一定の期限後、もしくは券契の不明の不正な荘園は、これを収公して国有とする政策を推進した。関白藤原頼通の荘園についてもついに券契が出され、石清水八幡宮領三十四所のうち十三所を停廃させている。東大寺も、記録所の厳重な催促で文書を提出した。その結果収公された荘園の多くは、後三条天皇領に編入された。後三条院勅旨田がこれである。なお『東文書』にみえる「三条院勅旨田」を、三浦周行は「後三条院勅旨田」の後を略したものと解しているが、賛意を表し得ない。後三条天皇には、この勅旨田のほかに後院領があり、円宗寺を創建して勅願寺とした。これは白河天皇に伝えられ、安芸国後三条院勅旨田は、のち後宇多上皇領となっている。→延久の荘園整理(えんきゅうのしょうえんせいり)
[参考文献]
帝室林野局編『御料地史稿』、三浦周行『続法制史の研究』、中村直勝『天皇と国史の進展』(『中村直勝著作集』六)、竹内理三『律令制と貴族政権』二、段木一行「東寺領安芸国後三条院新勅旨田」(『法政史学』一九)
(奥野 高広)


日本大百科全書(ニッポニカ)
後三条天皇
ごさんじょうてんのう
[1034―1073]

平安後期の天皇(在位1068~72)。名は尊仁(たかひと)。長元(ちょうげん)7年7月18日生まれ。後朱雀(ごすざく)天皇の第2皇子。母は三条天皇皇女陽明門院(ようめいもんいん)禎子内親王。このころまでの天皇は藤原摂関(せっかん)家を外戚(がいせき)としていたから、皇族を母としたのはまれな存在であったが、父の遺言により皇位につくことができた。おもな施策としては以下のとおり。延久(えんきゅう)の荘園(しょうえん)整理令の発布(1069)と、これを実施するための記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)(記録所)の設置。新たな公定枡(ます)として延久の宣旨(せんじ)枡の指定と、これに基づき荘園・公領を問わず全国的に行う一国平均役の徴収。国衙(こくが)によって作成され、中世における土地の基本台帳となった大田文(おおたぶみ)の作成、全般的にみて藤原氏一族でも反摂関家的立場にあった中流貴族や、受領(ずりょう)層・皇族出身者の登用、成功(じょうごう)や重任(ちょうにん)を抑制しようとする政策などを行った。このような新政策は院政に継承され、中世的な国家体制への出発点ともなった。ただし、即位5年で譲位したことによる院政政治への意図については不明の点が多い。延久5年5月7日死去。御陵は京都市右京区竜安寺朱山(りょうあんじしゅやま)の円宗寺(えんしゅうじ)陵。
[川島茂裕]



世界大百科事典
後三条天皇
ごさんじょうてんのう
1034-73(長元7-延久5)

第71代に数えられる天皇。在位1068-72年。後朱雀天皇第2皇子,母は太皇太后禎子内親王(陽明門院)。諱(いみな)は尊仁。1045年(寛徳2)異母兄親仁親王(後冷泉天皇)即位に際し東宮となる。摂関家は直接外戚関係のない尊仁の立太子を喜ばず,関白頼通は女寛子を,彼の同母弟教通は女歓子を後冷泉天皇に入れたが子どもに恵まれず,尊仁は彼らの圧迫をうけながらもその地位を保ち,68年(治暦4)後冷泉天皇が没すると35歳で即位。頼通はその前年関白を辞し,教通が関白となる。天皇の母は頼通らの父道長と対立して不遇であった三条天皇の皇女であったし,頼通らの圧迫も経験したので,即位後は外戚関係の薄くなった摂関家を抑えて親しく政治を行い,村上源氏の源師房や,東宮時代から側近にあった学者出身の大江匡房らを重用した。しかし天皇は公明正大で,東宮時代に摂関家に同調して冷淡な態度をとった者でも能力あるものは用い,政治の刷新に努めた。1069年(延久1)2月,さきに新立荘園停止令が出された1045年(寛徳2)以後新置の荘園と,それ以前の荘園で券契不明で国務を妨げるものを停止し,同年閏10月に記録荘園券契所を設けた。摂関家が券契の提出を拒んだことが伝えられるが,実際には天皇の方針に従ったらしく,この延久荘園整理令はかなり効果があったと考えられる。天皇は一方で後三条勅旨田とよばれる皇室領を設置している。また公定価格を定める估価(こか)法や,標準の枡(宣旨枡)を定める斗升法など経済的施策を行った。また円宗寺(もと円明寺)を建て,1072年(延久4)ここで最勝・法華二会を修した。同年2月皇太子貞仁親王(白河天皇)に譲位,翌年5月没。なお天皇は譲位後,院政を行う意志があったとの説が古くからあるが,まだ結論は下し得ない。天皇は学問に優れ,《後三条天皇御記》(《延久御記》)を記したが,逸文のほかは伝わらない。陵は円宗寺陵(京都市右京区)である。
[黒板 伸夫]

[索引語]
後三条天皇御記 延久御記
ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
タブレットやスマホからも利用できます。
後三条天皇の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 364
検索コンテンツ
1. 後三条天皇
日本大百科全書
平安後期の天皇(在位1068~72)。名は尊仁(たかひと)。長元(ちょうげん)7年7月18日生まれ。後朱雀(ごすざく)天皇の第2皇子。母は三条天皇皇女陽明門院( ...
2. 後三条天皇
世界大百科事典
下し得ない。天皇は学問に優れ,《後三条天皇御記》(《延久御記》)を記したが,逸文のほかは伝わらない。陵は円宗寺陵(京都市右京区)である。黒板 伸夫 後三条天皇御 ...
3. ごさんじょう‐てんのう[ゴサンデウテンワウ]【後三条天皇】
日本国語大辞典
第七一代天皇。後朱雀天皇の皇子。母は陽明門院禎子内親王。名は尊仁。治暦四年(一〇六八)即位。在位五年。母が藤原氏でなかったことから藤原氏の専横をさけて親政を行な ...
4. ごさんじょうてんのう【後三条天皇】画像
国史大辞典
楽岡の南の原に火葬、御骨を禅林寺内の旧房に安置した。しかし、のちに当陵を指して「円宗寺」(後三条天皇御願寺)と記しており、また当陵に派遣された権中納言藤原宗忠の ...
5. 後三條天皇(ごさんじょうてんのう)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 23ページ ...
6. ごさんじょうてんのう【後三条天皇】
日本人名大辞典
1034−1073 平安時代中期,第71代天皇。在位1068-73*。長元7年7月18日生まれ。後朱雀(ごすざく)天皇の第2皇子。母は禎子(ていし)内親王(陽明 ...
7. 後三条天皇[文献目録]
日本人物文献目録
『後三条帝荘園の御処分に関する文書』三上参次『後三条帝荘園の御処分に関する文書に付て』星野恒『後三条天皇の御事蹟』-『後三条天皇の御譲位に就きて』河野房雄 ...
8. 尊仁親王・後三条天皇・後三条上皇
日本史年表
尊仁親王(後三条天皇) 践祚(本朝世紀)。 1068年〈治暦4 戊申〉 7・21 後三条天皇 、太政官庁で即位(本朝世紀)。 1072年〈延久4 壬子⑦〉 1 ...
9. 後三條天皇停新立莊園 (見出し語:後三條天皇)
古事類苑
政治部 洋巻 第2巻 538ページ ...
10. 後三條天皇停重任功 (見出し語:後三條天皇)
古事類苑
政治部 洋巻 第1巻 1033ページ ...
11. 後三條天皇創圓宗寺 (見出し語:後三條天皇)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 862ページ ...
12. 後三條天皇國忌 (見出し語:後三條天皇)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 1278ページ ...
13. 後三條天皇學才 (見出し語:後三條天皇)
古事類苑
人部 洋巻 第1巻 1321ページ ...
14. 後三條天皇山陵 (見出し語:後三條天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 994ページ ...
15. 後三條天皇捨怨學人材 (見出し語:後三條天皇)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 562ページ ...
16. 後三條天皇改升量 (見出し語:後三條天皇)
古事類苑
稱量部 洋巻 第1巻 62ページ ...
17. 後三條天皇法名 (見出し語:後三條天皇)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 416ページ ...
18. 後三條天皇禁奢侈 (見出し語:後三條天皇)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 60ページ ...
19. 後三條天皇置記録所 (見出し語:後三條天皇)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 312ページ ...
20. 後三條天皇親修繕扇 (見出し語:後三條天皇)
古事類苑
服飾部 洋巻 第1巻 1293ページ ...
21. 後三條天皇遊覽御幸 (見出し語:後三條天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 738ページ ...
22. 後三条天皇 所領一覧[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
23. ごさんじょうてんのうしんき【後三条天皇宸記】
国史大辞典
後三条天皇の日記。『延久御記』ともいう。白河上皇が年中行事・臨時・神事・仏事に部類して、類聚二十巻・目録一巻を作らせたというから、宸記の「本書」はかなり大部の ...
24. ごさんじょうてんのうりょう【後三条天皇陵】京都市:右京区/龍安寺門前村/龍安寺朱山七陵地図
日本歴史地名大系
正称は後三条天皇円宗寺陵。天皇は後朱雀天皇第二皇子、母は陽明門院禎子。「皇代記」に「延久五年五月七日崩〓於但馬守高房大炊御門宅 ...
25. 後三条天皇御即位記(著作ID:2624513)
新日本古典籍データベース
ごさんじょうてんのうごそくいき 記録 治暦四 ...
26. 後三條天皇建圓宗寺 (見出し語:圓宗寺【篇】)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 855ページ ...
27. 於圓宗寺後三條天皇國忌 (見出し語:圓宗寺【篇】)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 1278ページ ...
28. 愛染王法
世界大百科事典
《愛染王鈔》を編んだと伝えられており,その弟子の成尊(せいそん)は1065年(治暦1)ごろ後三条天皇の即位を祈ってこの法を修し,成尊の弟子範俊(はんじゆん)もし ...
29. あいぜん‐みょうおう[‥ミャウワウ]【愛染明王】画像
日本国語大辞典
平安朝では調伏・降魔の修法の本尊とされ、仏・菩薩と違って一般人の信仰対象にはならなかった。後三条天皇の即位祈願・白河天皇の病気平癒祈願の折の本尊で、院政期頃から ...
30. 朝所
世界大百科事典
卿以下が酒食をしたためる場所として見えるが,内裏焼亡などのとき,天皇以下の御在所ともなり,後三条天皇の延久の記録所もここに置かれた。→太政官庁土田 直鎮 ...
31. あかなべのしょう【茜部庄】岐阜県:岐阜市/旧厚見郡地区
日本歴史地名大系
度に領域の確認と国司不入の権利を確認させ、かつ少しずつ権利の拡大を図っていったといえよう。後三条天皇による延久の庄園整理令と記録庄園券契所の設置は、当庄をめぐる ...
32. あぬのしょう【阿努庄】富山県:氷見市
日本歴史地名大系
康平四年(一〇六一)末に越中権守となった源家賢(醍醐源氏源高明の子孫)の私領となった。家賢は後三条天皇母禎子内親王宮にかかわる人物である。家賢のあと一子に相伝し ...
33. あん‐が【晏駕】
仏教語大辞典
「晏」は、晩い、「駕」は、乗り物の意 天皇、上皇の崩御を忌んでいうことば。崩御。 続本朝往生伝 後三条天皇 「夢中問之、人皆謂曰、此仙院御往生之相也。窹後人来告 ...
34. いしぐろのしょう【石黒庄】富山県:西礪波郡/福光町
日本歴史地名大系
て「石黒庄本公験事承暦二、八、廿三宣旨歟」とあることから、承暦二年(一〇七八)と考えられ、後三条天皇の御願寺円宗寺(現京都市右京区)領として立庄されたとみられる ...
35. 石黒荘
世界大百科事典
称して石黒三荘といった。小矢部川の上流域にひろがる広い荘園で,古代の川上郷の故地にあたる。後三条天皇が1070年(延久2)に建立した御室円宗寺の所領として,その ...
36. いずみえのしょう【泉江荘】
国史大辞典
四十余町歩の免判をうけ、続いて開発された五十町歩も十年後、源実基の国判を得て封物弁済を免除された。その後、後三条天皇の荘園整理によって実基の免除した五十町歩は収 ...
37. いちじきんりんほう【一字金輪法】
国史大辞典
られる。この法は主として敬愛を得るために祈修されるが、止雨・除病・延寿のためにも修される。後三条天皇の時に仁和寺・円宗寺の金堂にこの尊を安置して、毎年末にこの法 ...
38. いちはしのしょう【市橋庄】岐阜県:岐阜市/旧厚見郡地区
日本歴史地名大系
西の境界としていた。また当庄に国司が公役を切宛てたときには、自らの権威を高めようとして宮(後三条天皇皇女一品聡子内親王)御領の作人と号したという(同年一二月日「 ...
39. いでたちのしょう【出立荘】
国史大辞典
以後しばしば国・郡より年貢・雑役などの免除をうけた。したがって官省符荘ではなかったが、延久四年(一〇七二)の後三条天皇の荘園整理に際しては、寛徳二年(一〇四五) ...
40. いなりたいしゃ【稲荷大社】
国史大辞典
り、やがて二十二社の制が成立すると、その一つに加えられ、上七社第六に位するに至った。ことに後三条天皇は、延久四年(一〇七二)三月にははじめて当社に行幸のことがあ ...
41. いぬじにん【犬神人】
国史大辞典
宣旨により祇園四至の葬送法師を捕獲させた(『小右記』)とあるのがその初見である。その後延久二年(一〇七〇)後三条天皇より社領回りの広大な神領を下賜された時、四条 ...
42. 岩倉保養所
世界大百科事典
不減の霊泉が,眼疾および精神障害に卓効ありとする伝説があった。とくに1072年(延久4),後三条天皇の第3皇女佳子内親王が〈もののけ〉につかれたとき,天皇が神仏 ...
43. いわしみずはちまんぐう【石清水八幡宮】画像
国史大辞典
貞観十八年山城国に勅し石清水八幡護国寺料として米四十二石を充て、天慶三年(九四〇)には神封二十五戸をうけ、後三条天皇の代には荘園三十四所を有し、伊勢に次ぐ第二の ...
44. いわしみずはちまんぐう【石清水八幡宮】京都府:八幡市
日本歴史地名大系
。所領は朝廷などの寄せる封戸三〇〇余烟のほか、荘園も漸次開発寄進され、延久四年(一〇七二)後三条天皇によって当宮領荘園が整理された時には、荘園三四ヵ所(山城国六 ...
45. いわしみずもんじょ【石清水文書】
国史大辞典
それに先祖の本系について述べた一文は注目すべきである。その二は延久四年(一〇七二)九月五日太政官牒であり、後三条天皇の記録荘園券契所の設置により、同宮所領の存廃 ...
46. 院政画像
日本大百科全書
れたが、この説は具体的に裏づける明確な根拠に乏しいため、近年ではほとんど行われなくなった。後三条天皇は皇位を、藤原氏所生の貞仁(さだひと)親王(白河天皇)から源 ...
47. 院政画像
世界大百科事典
より,全面的な執政が定着し,一つの政治形態となったのである。 鎌倉初期の著書《愚管抄》に,後三条天皇は譲位後も政務をみる意志があったが,まもなく没したため,白河 ...
48. いんせい【院政】画像
国史大辞典
られ、源氏と一家のごとく振舞っていたといわれ、外戚の権威が藤・源二氏に分散したこと、(三)後三条天皇の藤原氏掣肘策が功を奏し、公卿の半ばは藤原氏以外のものが占め ...
49. いんせい‐じだい[ヰンセイ‥]【院政時代】
日本国語大辞典
摂関として藤原氏が政権を取った時代と、鎌倉幕府が朝廷に優越する政権となった時代との中間の時代と考えれば、後三条天皇即位の治暦四年(一〇六八)から後鳥羽上皇の退位 ...
50. いんせいじだい【院政時代】
国史大辞典
応徳三年(一〇八六)の白河天皇譲位に始まるが、摂関時代につぐ時代の意味で、治暦四年(一〇六八)の後三条天皇即位の年以後を含めるのが通説である。その終りは、あるい ...
「後三条天皇」の情報だけではなく、「後三条天皇」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る

後三条天皇と同じ天皇カテゴリの記事
舎人親王(日本大百科全書(ニッポニカ))
天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の娘新田部皇女。知太政官事穂積親王の亡きあとは皇親の長老として重んぜられ、新田部親王とともに皇太子首親王(聖武天皇)を輔翼する責務を負った
天皇(改訂新版・世界大百科事典)
日本国憲法に定める日本国および日本国民統合の象徴。天皇の歴史前近代の天皇オオキミとスメラミコト〈天皇〉は〈オオキミ〉とも〈スメラミコト〉とも呼ばれた。しかしこの二つの日本語は決して同義ではなく,むしろ両者の質の違い,それぞれの用いられる次元の相違に注目することが
皇位継承(改訂新版・世界大百科事典)
7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で
摂政(国史大辞典)
天皇に代わって万機を摂り行う者、または摂り行うことをいう。関白に類する職として関白とともに摂関といい、関白と同じく、摂ろく・執柄・博陸などの唐名があり、その地位に因んで一の人・一の所などと称され、殿下ともいわれた
関白(国史大辞典)
万機に関与する重職で摂政に類似する。したがって摂政と合わせて摂関・摂ろく・一の人・一の所などと称し、執柄・博陸・殿下などの唐名がある。関白の語は『漢書』霍公伝に、宣帝が諸事まず霍光に関白してから奏上せしめたとみえているが
天皇と同じカテゴリの記事をもっと見る


「後三条天皇」は天皇に関連のある記事です。
その他の天皇に関連する記事
後朱雀天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇〇九-四五 一〇三六―四五在位。寛弘六年(一〇〇九)十一月二十五日、一条天皇の第三皇子として誕生。母は藤原道長の女彰子。諱は敦良。同七年正月十六日、親王宣下。寛仁元年(一〇一七)八月九日、敦明親王の皇太子辞意により、後一条天皇の皇太子
後冷泉天皇(国史大辞典・日本大百科全書・日本人名大辞典)
一〇二五-六八 一〇四五―六八在位。万寿二年(一〇二五)八月三日、東宮敦良親王(後朱雀天皇)の第一王子として誕生。母は藤原道長の女嬉子。諱は親仁。長元九年(一〇三六)十二月二十二日、親王宣下。長暦元年(一〇三七)七月二日、十三歳で元服
後三条天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇三四-七三 一〇六八―七二在位。諱は尊仁(たかひと)。長元七年(一〇三四)七月十八日、東宮敦良親王(後朱雀天皇)の第二王子として誕生。母は三条天皇の皇女禎子内親王(陽明門院)。同九年父親王の践祚後間もなく親王宣下をうけ
白河天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇五三-一一二九 一〇七二―八六在位。諱は貞仁。天喜元年(一〇五三)六月十九日、皇太子尊仁親王(後三条天皇)の第一王子として誕生。母は権中納言藤原公成の女、贈皇太后茂子である。茂子の養父で、関白藤原頼通の異母弟である春宮大夫能信の庇護のもとに成長し
堀河天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇七九-一一〇七 一〇八六―一一〇七在位。白河天皇の第二皇子。母は関白藤原師実の養女、皇后賢子(実父は右大臣源顕房)。承暦三年(一〇七九)七月九日誕生。同年十一月親王宣下あり、善仁と命名。応徳三年(一〇八六)十一月二十六日立太子
天皇に関連する記事をもっと見る
ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額550万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る