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  11. 後白河天皇
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
後白河天皇
ごしらかわてんのう
一一二七 - 九二
一一五五―五八在位。大治二年(一一二七)九月十一日、三条殿で誕生。鳥羽上皇第四皇子。母は権大納言藤原公実の娘、待賢門院璋子。同年十一月雅仁と命名、親王宣下。近衛天皇の死去に伴い、久寿二年(一一五五)七月二十四日、高松殿で践祚。この践祚は鳥羽法皇・美福門院・関白藤原忠通のはからいによるものであったが、同母兄の崇徳上皇はこれを不満とし、兄忠通と対立していた左大臣藤原頼長に接近した。保元元年(一一五六)鳥羽法皇の没後、後白河天皇・忠通方は、平清盛・源義朝らの武力によって、崇徳上皇・頼長方を破った。こののち天皇は、藤原通憲(信西)を重用して政治を行なった。その政治は、新制を下し、記録所を設けて荘園整理を行うなど、権力の強化を図るものであった。同三年八月十一日、皇子の二条天皇に譲位、上皇として院政を始め、院政は一時の中絶もあったが、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽天皇の五代、三十余年に及んだ。上皇が重用した信西に対しては、同じく上皇の近臣藤原信頼、二条天皇側近の藤原経宗・惟方が反目しており、清盛・義朝の対立も激しかった。平治元年(一一五九)信頼・義朝は挙兵して信西を自殺させたが、清盛に敗れ、こののち平氏は全盛を迎えた。上皇が院御所法住寺殿に移ったのは、応保元年(一一六一)以来であり、熊野・日吉を勧請して新熊野(いまくまの)・新日吉(いまひえ)社を御所の鎮守とし、また蓮華王院を建立、千体の千手観音像を安置した。二条・六条(二条の子)天皇の時代は、両天皇の周辺に上皇に対立する勢力が結集しており、上皇の権力も弱かった。仁安三年(一一六八)上皇は清盛と謀って六条を退位させ、高倉天皇(二条の弟)を立てた。この結果、上皇は反対派を抑え、政治の実権を掌握するに至った。翌嘉応元年(一一六九)には出家して法皇となり、法名を行真と称した。後白河法皇はこれまで平氏の武力を用いてきたが、法皇が政権を握る一方、平氏の勢威も強まってくると、平氏との対立は深まり、法皇は近臣や寺院勢力を利用し、平氏に敵対するようになった。治承元年(一一七七)法皇の近臣が鹿ヶ谷で平氏打倒の密議をこらして露顕し、その後平氏との関係は極度に悪化、同三年ついに清盛は法皇を鳥羽殿に幽閉、その院政を停め、翌四年には娘徳子が生んだ安徳天皇(高倉の子)を立て、高倉上皇には名目だけの院政を行わせて、実権を握った。しかし弟高倉との皇位争いに敗れて不満を抱く以仁王は、源頼政を誘って平氏打倒の兵を挙げた。以仁王・頼政はやがて敗死したが、王の令旨に応じ、伊豆の源頼朝、木曾の源義仲ら各地の武士が蜂起した。この間、幽閉された法皇は、鳥羽殿から藤原季能の八条坊門烏丸亭、摂津福原の平教盛亭、平清盛(一説によれば重盛)の六波羅泉殿、平頼盛の六波羅池殿などを転々とした。戦況は平氏に不利で、養和元年(一一八一)高倉上皇ついで清盛が没すると、法皇は院政を再開、法住寺殿に戻った。寿永二年(一一八三)義仲が都に迫り、平氏は安徳天皇を奉じて西走したが、法皇は都にとどまった。入洛した義仲は法皇と対立し、法皇は鎌倉の頼朝と結んで義仲を退けようとしたため、義仲は法住寺殿を攻め、法皇を捕えた。頼朝は弟の範頼・義経を上洛させ、義仲を討った。法住寺殿は義仲に焼かれ、この後の院政は六条殿で行われた。さて範頼・義経は法皇の命で平氏追討にあたり、文治元年(一一八五)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。しかし義経は次第に頼朝との対立を深め、ついに法皇に請うて頼朝追討の宣旨を出させたものの、これに応じるものは少なかった。頼朝は法皇が追討宣旨を発布した責任を追及し、守護・地頭の設置を承認させ、また右大臣九条兼実を内覧、ついで摂政に推して法皇の独裁を抑えようとし、公武関係は緊張した。しかし同五年、奥州の藤原泰衡が義経を討ち、さらに頼朝が藤原氏を滅ぼすと、義経問題をめぐる公武の対立は解消した。翌建久元年(一一九〇)頼朝は上洛して法皇と対面し、法皇の下で頼朝が御家人を率い、日本国総追捕使として国家の軍事警察を担当する体制が確立した。法皇が政治活動を行なったのは「武者の世」の到来を告げる保元の乱以来であり、清盛・義仲・頼朝らが交互に台頭する動乱期であった。後白河院政はこれらと対決、妥協しつつ権勢の維持に努め、時には危機に瀕しながらも、結局は永い戦乱に終止符をうち、政局の一応の安定をもたらすことに成功した。頼朝上洛の二年後、建久三年三月十三日、法皇は六十六歳で六条殿に没した。御陵は法住寺陵、法皇は深く仏教を信仰し、特に出家後は旺盛な政治活動のかたわら、『法華経』を読誦し、仏道に精進する日々を送った。諸寺・諸山への参詣も多く、熊野御幸は歴代最多の三十四回に及んだ。また芸能を好み、今様を集めて『梁塵秘抄』を編纂した。
[参考文献]
『大日本史料』四ノ四 建久三年三月十三日条、赤木志津子『後白河天皇』、上横手雅敬『源平の盛衰』(『日本の歴史文庫』六)、中村直勝「天皇と国史の進展」(『中村直勝著作集』六所収)、貫達人「後白河院と源平二氏」(『日本人物史大系』一所収)、田中稔「院政と治承・寿永の乱」(『(岩波講座)日本歴史』四所収)、上横手雅敬「鎌倉幕府と公家政権」(同五所収)
(上横手 雅敬)

法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ)

 京都市東山区三十三間堂廻り町にある法華堂陵。後白河院法華堂・蓮華王院法華堂・法住寺法華堂・法住寺御影堂などと呼ばれ、元治の修陵以後、法住寺法華堂を陵名としたが、明治三十九年(一九〇六)現陵名に改められた。後白河天皇は生前に、蓮華王院の東に法華三昧堂を建立し、建久三年(一一九二)三月十五日遺詔によって、この堂下に遺骸を葬った。堂には僧房や、丹波国曾我部荘・大和国山辺荘などの所領を付し、法華堂別当を補して祭祀し、江戸時代には妙法院が祭祀を継承していた。したがって元禄の陵改め以来陵とされていたが、文久の修陵にあたり、当所は御影堂で陵でないとの説が起きたので、堂を預かる実報院広淵(大仏天祐)は、元治元年(一八六四)堂下を試掘して石櫃を検出し、陵であることを証明した。疋田棟隆『山陵外史徴按』一〇に石櫃露出の図を収録する。現陵は木造本瓦葺単層切妻向拝造、三間三面床張西面の堂で、寛喜・慶長・慶安・元治の造替・修理を経て、昭和五年(一九三〇)解体修理したものである。堂下には石槨・石櫃を埋納し、同三十三年にその上に防火厨子を設けて、天皇の法体坐像を安置する。像高約八二・七センチ、寄木内刳造、玉眼嵌入、全面布張り、上に漆を塗り、これに彩色している。像胎内には、藤原為信筆の裏書のある法皇の白描図像と、仮名願文とを納める。
[参考文献]
『大日本史料』四ノ四 建久三年三月十三日条、大仏天祐『後白河法皇御陵探索次第御届書』、上野竹次郎『山陵』下、宮内庁書陵部陵墓調査室他「後白河天皇法住寺陵の御像に関する調査報告」(宮内庁書陵部陵墓課編『書陵部紀要所収陵墓関係論文集』所収)
(石田 茂輔)

所領

 鳥羽天皇らから後院領(藤原頼長の没官領が増加)・六勝寺領のほか、金剛寿院・証金剛院・蓮華蔵院・証菩提院・得長寿院・宝荘厳院・勝光明院・安楽寿院・法金剛院・歓喜光院・金剛勝院・蓮華心院・金剛心院などを伝領し、蓮華王院・長講堂・新日吉(いまひえ)社・新熊野(いまくまの)社を創建し、その社寺領を定めた。また鳥羽天皇皇后美福門院の建立した歓喜光院・金剛勝院・弘誓院などのうち、金剛勝院領の譲与をうけた。なお皇后建春門院のため最勝光院を、皇女殷富門院のために蓮華光院を建て、女院領と定めた。建久三年(一一九二)二月十七日後白河法皇は病危急により所領を処分した(『玉葉』)。すなわち後鳥羽天皇には後院領・六勝寺領・蓮華王院領・鳥羽法住寺・新日吉社領・新熊野社領・最勝光院領・神崎荘・豊原荘・会賀荘・福地牧を、殷富門院には金剛勝院領・押小路殿を、宣陽門院には六条殿・長講堂領法金剛院を、前斎院式子内親王には大炊殿・白川常光院領など、前斎宮好子内親王には花園殿・仁和寺を伝えた。白河・鳥羽・後白河三代に設定された皇室領を三代御起請符地(『随心院文書』承久四年(一二二二)四月五日太政官牒など)といい、特殊な歴史をもっていた。なお後白河天皇の御影堂領・法華堂領がある。→三代御起請符地(さんだいごきしょうふのち)
[参考文献]
帝室林野局編『御料地史稿』、中村直勝『吉野朝史』(『中村直勝著作集』三)
(奥野 高広)


日本大百科全書(ニッポニカ)
後白河天皇
ごしらかわてんのう
[1127―1192]

第77代の天皇(在位1155~58)。名は雅仁(まさひと)。法名行真。鳥羽(とば)天皇の第4皇子。母は藤原公実(きんざね)の女(むすめ)璋子(しょうし)(待賢門院(たいけんもんいん))。大治(だいじ)2年9月11日誕生。1155年(久寿2)即位。58年(保元3)守仁(もりひと)親王(二条(にじょう)天皇)に譲位。以後69年(嘉応1)の出家のあとも、上皇・法皇として、没するまでの30年余りの間、二条、六条(ろくじょう)、高倉(たかくら)、安徳(あんとく)、後鳥羽(ごとば)天皇の5代にわたって院政を行った。
 後白河天皇の即位は、異母弟の近衛(このえ)天皇が17歳の若さで没した後を受けて、29歳で即位するという異例のものであった。このとき鳥羽法皇は、寵姫(ちょうき)美福門院(びふくもんいん)(藤原得子)の猶子(ゆうし)となっていた守仁親王に皇位を伝えようとし、その手順として親王の父である後白河天皇を即位させたのである。このことは皇位継承についての崇徳(すとく)上皇の望みを完全に断つものであった。そのため翌1156年鳥羽法皇が没すると、崇徳上皇方と後白河天皇方との間に武力衝突が起こったが、天皇方は、源義朝(よしとも)、平清盛(きよもり)らの活躍で勝利を収めた(保元(ほうげん)の乱)。天皇は信西(しんぜい)(藤原通憲(みちのり))を重用して政治を取り仕切らせ、乱後、新制七か条を制定し、記録所を設置して荘園(しょうえん)整理を行い、また寺社勢力の削減を図ろうとした。やがて親政3年にして天皇は守仁親王(二条天皇)に譲位し、上皇として院政を開始した。その翌59年(平治1)、信西に反感を抱く人々によるクーデターが起こった(平治(へいじ)の乱)。これは清盛の武力によって決着がつけられ、後白河上皇は主導権を握ることができなかった。こののち二条天皇も独自の立場を示して、かならずしも上皇の意のごとくにはならなかった。上皇は清盛を貴族社会に引き立ててその勢力を利用しようとしたが、やがて平氏の勢力が強大になると、今度は逆にその排除を企てるようになった。69年(嘉応1)出家して法皇となってからは、院近臣の強化、延暦(えんりゃく)寺や東大寺の僧兵の利用などにより清盛を除こうとした。77年(治承1)には、院近臣による平氏打倒の謀議が発覚、近臣数名が平氏によって処罰された(鹿ヶ谷(ししがたに)事件)。しかしその後も法皇は平氏追及の手を緩めず、摂関(せっかん)家に嫁していた清盛の女盛子が死ぬと、盛子の伝領していた摂関家領を没収し、また宮廷人事においても清盛の意向を無視したやり方を続けた。そのためついに79年11月、法皇は清盛によって鳥羽殿に幽閉された。しかし翌年には平家打倒を目ざして諸国の源氏が挙兵、以後、福原(ふくはら)(神戸市)遷都と京都還都、平氏の都落ち、木曽義仲(きそよしなか)の入京と敗死、源義経(よしつね)の入京と没落、平氏の滅亡と鎌倉幕府の成立と、時局はめまぐるしく変転する。約1年後に幽閉を解かれた法皇は、変転する時局に巧みに処して、没するまで「治天(ちてん)の君(きみ)」の地位を保持し続けた。平氏の都落ちに際してはいち早く延暦寺に逐電して同行せず、また入京した義仲と源行家(ゆきいえ)に平氏追討を命ずる一方で、源頼朝(よりとも)の功績を第一としてその上洛(じょうらく)を促すなど、法皇の老獪(ろうかい)さは、頼朝をして「日本第一の大天狗(てんぐ)」といわしめたほどであった。頼朝は法皇の生存中には、ついに彼のもっとも強く希求した征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の称号を得ることができなかったのである。
 後白河院による院政は、11世紀末以来の白河上皇および鳥羽上皇による院政の継承であると同時に総仕上げであった。院庁(いんのちょう)が太政官(だいじょうかん)と並ぶ国政機関となり、新制という新しい形式で国政上の重要事項の徹底が図られるようになり、院の周辺に膨大な荘園群が集積されると同時に、治天の君はすべての荘園本所に超越する高権をもつ専制君主として位置づけられた。後白河院に近侍した信西は、院の専制的性格を、「あえて人の制法に拘(かかわ)らず、必ずこれを遂ぐ」と評している。後白河院は、絶えて久しかった大内裏(だいだいり)造営を行い、また蓮華王院(れんげおういん)(三十三間堂)、長講堂(ちょうこうどう)などを造営し、あるいは高野山(こうやさん)、比叡(ひえい)山などにもしばしば行幸し、熊野参詣(さんけい)は34回に及んだと伝えられる。また院は、清盛の福原の別荘で宋(そう)人を引見したことがあったが、それは当時の貴族たちからは「天魔のしわざ」と非難されることであった。さらに、院は笛の名手でもあったが、当時の流行歌である今様(いまよう)に対して異常なほどの執心ぶりを示した。名人上手と聞けば、身分の高下を問わず、遊女、傀儡子(くぐつ)などをも召し出して、夜を徹して歌い、声をつぶしたことも一度ならずあったという。そしてその歌謡を分類集成した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』10巻および『梁塵秘抄口伝(くでん)集』10巻を自ら撰述(せんじゅつ)している。建久(けんきゅう)3年3月13日没。66歳。御陵は京都市東山区三十三間堂廻(まわ)り町の法住寺陵。
[山本博也]



世界大百科事典
後白河天皇
ごしらかわてんのう
1127-92(大治2-建久3)

第77代に数えられる天皇。在位1155-58年。鳥羽天皇の第4皇子。名は雅仁。母は待賢門院藤原璋子。近衛天皇急死の後,鳥羽院,美福門院,藤原忠通の意向で,後白河の子(後の二条天皇)を即位させるための暫定措置として1155年(久寿2)29歳で即位。翌56年(保元1)鳥羽院の死を契機に,皇位継承問題に摂関家の内紛が絡み,武士をとりこむ形で保元の乱が勃発する。勝利をおさめた後白河天皇側は崇徳上皇を配流し,信西を中心に天皇親政の体制をかため保元新制を断行,さらに没官所々を後院領として後白河院政の実現に備えた。58年後白河は二条天皇に譲位して院政を開始,以後二条,六条,高倉,安徳,後鳥羽の5代30余年にわたって院政をしいた。院政開始後まもなく,59年(平治1)暮れには平治の乱が起こって源氏が失脚し,武門棟梁平清盛が後白河院政の爪牙として勢力を伸ばし始める。当初後白河院と平氏とは協調的関係にあったが,平氏の専権化にともない両者はしだいに対立するようになる。その最初の表面化した事件が77年(治承1)の鹿ヶ谷事件である。院はその後も平氏への圧迫を停めず,79年平盛子,同重盛が死没するとその遺領を没収するに及んだ。こうして同年11月ついに清盛はクーデタを敢行し,院を鳥羽殿に幽閉して院政を停めた。しかし翌80年より以仁王の挙兵,諸国源氏の蜂起が相つぎ,同年暮れには清盛より院政再開の申請があり,院政が再開された。

 83年(寿永2)7月平氏が西走すると,院は比叡山に隠れて平氏との同行を拒否し,かわって入京した源義仲に平氏追討の院宣を与えた。またいっぽうでは10月に源頼朝に東国沙汰権を付与し,上洛を促して義仲を牽制した。11月義仲により再び幽閉されたが,翌84年(元暦1)1月頼朝代官として上洛した源義経が義仲を滅ぼすと,今度は義経に平氏追討の院宣を与えた。翌85年(文治1)義経は壇ノ浦に平氏を滅ぼすが,院は頼朝を牽制するためことさらに義経をひきたて,そのことが頼朝,義経の不和を招き,同年10月には義経の要請に応じて頼朝追討の院宣が下された。しかしそのことはかえって頼朝に朝廷への干渉の口実を与える結果となり,いわゆる〈守護・地頭の設置〉を頼朝に認可せざるをえなくなった。92年3月13日法住寺殿で死没。陵墓は京都市東山区三十三間堂廻り町の法住寺陵。

 後白河院は生涯を通じ造寺・造仏や院領の増加に尽力し,また平安末期から鎌倉幕府草創期にかけての激動の中で,権謀術数と果敢な行動力をもって事に当たった。信西は後白河を評して〈制法に拘(かかわ)らず〉意志を通すと言い,九条兼実は黒白をわきまえないと評し,源頼朝にいたっては〈日本国第一の大天狗〉と論評している。即位以前にはその自由な境遇から,自分の好きな今様(いまよう)を昼夜を通して,また老若男女貴賤を問わずいっしょに歌ったという。後に後白河院自身が撰修する《梁塵秘抄》の基礎はこのころにつちかわれたものであろう。
[飯田 悠紀子]

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世界大百科事典
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国史大辞典
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日本人名大辞典
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国史大辞典
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30. いけだむら【池田村】三重県:鈴鹿市/旧河曲郡地区
日本歴史地名大系
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31. いけのぜんに【池禅尼】
国史大辞典
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32. いしがきのしょう【石垣荘】
国史大辞典
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33. いちいえのしょう【櫟江庄】愛知県:海部郡
日本歴史地名大系
保元の乱に敗死した頼長の所領は没官されていたが、保元二年(一一五七)三月二五日付太政官符により、後白河天皇の後院領となされ、官物は国庫へ、地利は院家へ納めるもの ...
34. いちむらたかだのしょう【市村高田庄】長野県:長野市
日本歴史地名大系
市村郷 野原郷」とみえる。初め平正弘領であり、保元の乱に正弘が崇徳上皇方にくみし敗れたため、後白河天皇が没官領として後院領としたものである。「吾妻鏡」文治二年( ...
35. いっこくへいきんやく【一国平〓役】
国史大辞典
く。また実際には寺社領の本免田(官省符荘)は多く免除され、さらに三代(白河天皇・鳥羽天皇・後白河天皇)御起請地や三社(伊勢神宮・石清水八幡宮・賀茂神社)領なども ...
36. いっせいげんじ【一世源氏】
国史大辞典
・村上天皇の各代の皇子女にその例があり、その総数は皇子五十二人・皇女五十三人を数える。なお後白河天皇皇子以仁王も源姓を賜わったが、これは処罰による特殊の事例であ ...
37. いばのしょう【伊庭庄】滋賀県:神崎郡/能登川町/伊庭村
日本歴史地名大系
与えたと伝えるが(保元物語)、事実としても預所職ないしは下司職の付与と考えるべきであろう。乱後は後白河天皇の管轄になったと考えられる。寛喜三年(一二三一)九月五 ...
38. いへのしょう【位倍庄】兵庫県:西宮市
日本歴史地名大系
一一五七)三月二九日条によると、位陪庄は左大臣藤原頼長の所領であったが、保元の乱で没官され後白河天皇後院領となっている。以後皇室領となり、嘉元三年(一三〇五)七 ...
39. いまひえじんぐう【新日吉神宮】京都市:東山区/大仏廻り/妙法院前側町地図
日本歴史地名大系
大己貴命・大山咋神・大山咋神荒魂・菊理姫命・田心比売命・賀茂玉依比売命・賀茂玉依比売荒魂・後白河天皇を祭神とし、相殿には素戔嗚尊・大年神を祀る。「新比叡」(平家 ...
40. 今様
世界大百科事典
唱歌や賛美歌にも旋律が取り入れられるなど,近世歌謡への影響が大きい。工藤 真由美 今様歌 後白河天皇(法皇) 梁塵秘抄口伝集 雑芸 梁塵秘抄 四句神歌 長唄(歌 ...
41. いわまのまき【石間牧】山梨県:西八代郡/六郷町/岩間村
日本歴史地名大系
七)三月二九日条に「石間牧」とみえ、保元の乱で敗死した左大臣源頼長の所領であったが、乱後に後白河天皇によって没収されて後院領とされた。当牧の成立事情は不詳だが、 ...
42. いんせいじだい【院政時代】
国史大辞典
的方策は、宮廷・摂関家内部に分裂を招き、やがて保元・平治の乱となった。保元の乱後、短期間の後白河天皇親政があったが、二年にして後白河院政が始まった。当初は、藤原 ...
43. いんぷもんいん【殷富門院】
国史大辞典
一一四七―一二一六 雅仁親王(のちの後白河天皇)の第一女。亮子内親王。母は藤原季成の女の成子(のち高倉三位)。久安三年(一一四七)誕生。保元元年(一一五六)四 ...
44. いんぷもんいん【殷富門院】
日本人名大辞典
1147−1216 平安後期-鎌倉時代,後白河天皇の第1皇女。久安3年生まれ。母は藤原成子(せいし)。久寿3年(1156)内親王,さらに伊勢斎宮(いせさいぐう) ...
45. いんりょう【院領】
国史大辞典
創建した祈願寺の寺領、中宮待賢門院・皇后美福門院・女上西門院・同八条院・近衛天皇の各祈願寺領を管領した。後白河天皇(上皇)は、保元元年(一一五六)鳥羽法皇から遺 ...
46. うえきのしよう【植木庄】福岡県:直方市
日本歴史地名大系
庄」とみえ、当庄は保元の乱で敗死した故左大臣(藤原頼長)の所領であったが、乱後に没収されて後白河天皇の後院領となった。建久三年(一一九二)三月、後白河法皇の所領 ...
47. うえだのしょう【上田庄】新潟県:南魚沼郡
日本歴史地名大系
三月二九日条によれば、前年の保元の乱の結果、故散位平正弘の所領「魚沼郡殖田村」が没官され、後白河天皇の後院領とされている。庄としての成立はこの後で、「吾妻鏡」文 ...
48. 雨月物語 278ページ
日本古典文学全集
元永二年(一一一九)生、保安四年(一一二三)即位、永治元年(一一四一)退位、保元元年(一一五六)、後白河天皇に叛して保元の乱を起すが敗れ、讃岐に配流、長寛二年( ...
49. 雨月物語 281ページ
日本古典文学全集
藤原長実の娘。近衛帝の夭折を崇徳の呪詛のためと誤解、崇徳を仇敵視したといわれる。鳥羽第四皇子、後白河天皇。崇徳の同母弟。「代」は天皇の治世をさす。「簒」は奪い取 ...
50. 宇治拾遺物語 181ページ
日本古典文学全集
仰せ事ありける。  年(一一二一)三月から保元三年(一一五八)八月まで、鳥羽・崇徳・近衛・後白河天皇の四代の治世までに及んだ。奈良の春日大社の祭礼。賀茂祭、石清 ...
「後白河天皇」の情報だけではなく、「後白河天皇」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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舎人親王(日本大百科全書(ニッポニカ))
天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の娘新田部皇女。知太政官事穂積親王の亡きあとは皇親の長老として重んぜられ、新田部親王とともに皇太子首親王(聖武天皇)を輔翼する責務を負った
天皇(改訂新版・世界大百科事典)
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皇位継承(改訂新版・世界大百科事典)
7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で
摂政(国史大辞典)
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関白(国史大辞典)
万機に関与する重職で摂政に類似する。したがって摂政と合わせて摂関・摂ろく・一の人・一の所などと称し、執柄・博陸・殿下などの唐名がある。関白の語は『漢書』霍公伝に、宣帝が諸事まず霍光に関白してから奏上せしめたとみえているが
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譲位した天皇の称。「だいじょうてんのう」とも訓む。略して上皇あるいは太皇ともいい、また御在所を意味する院の称も用いられ、さらにその御在所を神仙の居所に擬して仙院・仙洞・藐姑射山(はこやのやま)・茨山(しざん)などとも称された。
上皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
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昭和天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
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大正天皇(国史大辞典・日本大百科全書・日本人名大辞典)
一八七九 - 一九二六 一九一二―二六在位。明治十二年(一八七九)八月三十一日午前八時十二分、東京青山御所内御産所にて生誕。明治天皇第三皇子、生母権典侍柳原愛子。九月六日、嘉仁(よしひと)と命名、明宮(はるのみや)と称した
明治天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
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