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高倉天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『高倉天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
高倉天皇
たかくらてんのう
一一六一 - 八一
一一六八―八〇在位。後白河天皇の第四皇子。諱は憲仁。母は贈左大臣平時信の女建春門院滋子。応保元年(一一六一)九月三日生誕。永万元年(一一六五)十二月親王宣下、翌仁安元年(一一六六)十月立太子。同三年二月十九日六条天皇の禅りを受け、三月二十日即位。承安元年(一一七一)正月三日元服、翌二年二月十日平清盛の女徳子(建礼門院)を中宮とした。治承元年(一一七七)六月のいわゆる鹿ヶ谷の謀議以後、後白河法皇と清盛との関係は悪化の一路をたどる。同二年十二月徳子が生んだ言仁親王(安徳天皇)を皇太子とした。同三年十一月清盛のクーデターにより、法皇の近臣は追放され、法皇は鳥羽殿に幽閉された。天皇は、父法皇と岳父清盛との対立を憂い、同四年二月二十一日皇太子に譲位した。『源平盛衰記』によれば、上皇となったあと、石清水八幡宮などに御幸になる例を破り、清盛をよろこばせるために厳島神社へ御幸になったという。養和元年(一一八一)正月十四日崩御。二十一歳。山城国の清閑寺陵に葬る。天皇は学問・詩歌・音楽にすぐれ、また寛大で温情ある性格であったので、多くの人に慕われたという。
(貫 達人)

後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)

京都市東山区清閑寺歌ノ中山町にある。清閑寺・高倉院法華堂・清閑寺法華堂などといわれてきたが、明治二十九年(一八九六)六条天皇陵と陵域を区分し、現陵号を設けた。『山槐記』『高倉院升遐記』によれば、養和元年(一一八一)正月十四日天皇崩御の夜、遺骸を清閑寺の法華堂に埋葬した。『玉葉』建久六年(一一九五)九月三日条に「高倉院法華堂三昧僧供田事、六口各二町、可〓〓賜交坂・大墓両御領〓之由仰畢」とあり、『葉黄記』寛元四年(一二四六)六月二十七日条に「高倉院法華堂供僧、補〓千誉律師〓」とあって、当陵には所領を付して供僧を任命し、守陵祭祀を行わせた。のちに法華堂は消滅したが、寺僧の祭祀は行われ、元禄の諸陵探索時にも所在明白で、幕末には聖護院宮の管理下にあった。明治二十九年、四周に土塀を設け、南面に唐門を建て、十二月竣工に際して勅使を差遣し、奉告祭を行わせた。陵域は清閑寺本堂の北方約七〇メートルの山腹平坦地に位置し、間口二〇メートル、奥行一五メートルの土塀で区画された南南西に面する方形地である。墳丘は、この中央西寄りにある方約五メートル、高さ約〇・六メートルの石垣積みの法華堂の旧基壇かとみえるものである。なお、墳丘東側に小督局の塔と伝える石造の小宝篋印塔がある。
[参考文献]
宮内庁編『六条天皇清閑寺陵・高倉天皇後清閑寺陵之図』(宮内庁書陵部所蔵『陵墓地形図』一二八)、同編『明治天皇紀』九、上野竹次郎『山陵』下
(石田 茂輔)

所領

鳥羽天皇皇女で、二条天皇の中宮となった高松院妹子内親王は、荘園と京地などを所領とした。同院は安元二年(一一七六)六月に没する前に、後白河上皇の女御建春門院平滋子に伝えた。上皇の実力によってであろう。しかし、同年七月建春門院も没した。同院は高倉天皇の生母であったので、高倉天皇が高松院領を伝領する。養和元年(一一八一)正月、天皇崩御の時に中宮平徳子(建礼門院)に譲ったといわれる(天皇の譲状があった。『経俊卿記』康元元年(一二五六)九月十七日条)。のちに中宮の令旨と号して強く奉行したので、後白河法皇は内心不満であったという。
[参考文献]
帝室林野局編『御料地史稿』、網野善彦「荘園公領制の形成と構造」(『体系日本史叢書』六所収)、永原慶二「荘園制の性格について」(『日本封建制成立過程の研究』所収)
(奥野 高広)


日本大百科全書(ニッポニカ)
高倉天皇
たかくらてんのう
[1161―1181]

第80代の天皇(在位1168~80)。名は憲仁(のりひと)。後白河(ごしらかわ)天皇の第七皇子。母は平時信(ときのぶ)の女(むすめ)滋子(しげこ)(建春門院(けんしゅんもんいん))。永暦(えいりゃく)2年9月3日誕生。天皇の時代は、平清盛(きよもり)の権勢盛んなときにあたる。1180年(治承4)、天皇は清盛の女徳子(とくこ)の生んだ皇子言仁(ときひと)親王(安徳(あんとく)天皇)に譲位し、清盛の強請によって上皇として最初の社参を安芸(あき)(広島県)の厳島(いつくしま)神社に行った。これは京都近辺の寺院勢力の反平氏連合をもたらし、それはまた以仁王(もちひとおう)の挙兵と諸国の源氏の蜂起(ほうき)をよび、ここに源平争乱の時代が始まった。そのさなか、治承(じしょう)5年1月14日没した。御陵は京都市東山区の後清閑寺(のちのせいかんじ)陵。
[山本博也]



世界大百科事典
高倉天皇
たかくらてんのう
1161-81(応保1-養和1)

第80代に数えられる天皇。在位1168-80年。名は憲仁(のりひと)。後白河天皇の第7皇子。母は平滋子(建春門院)。1168年(仁安3)六条天皇の譲位を受けて8歳で即位。院政を敷く父法皇と中宮徳子(建礼門院)の父平清盛との対立に悩み,79年(治承3)11月清盛によるクーデタ後まもなく,徳子所生の安徳天皇(3歳)に譲位した。以来,形式上は高倉院政となったが81年1月病没。笛の名手とうたわれた。陵墓は京都市東山区の後清閑寺陵。
[杉橋 隆夫]

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検索コンテンツ
1. 高倉天皇
日本大百科全書
第80代の天皇(在位1168~80)。名は憲仁(のりひと)。後白河(ごしらかわ)天皇の第七皇子。母は平時信(ときのぶ)の女(むすめ)滋子(しげこ)(建春門院(け ...
2. 高倉天皇
世界大百科事典
1161-81(応保1-養和1) 第80代に数えられる天皇。在位1168-80年。名は憲仁(のりひと)。後白河天皇の第7皇子。母は平滋子(建春門院)。1168年 ...
3. たかくら‐てんのう[‥テンワウ]【高倉天皇】
日本国語大辞典
第八〇代天皇。後白河天皇第七皇子。名は憲仁(のりひと)。母は建春門院滋子。在位(一一六八~八〇)中は後白河院政期であり、また、平清盛の全盛時代にもあたり、清盛の ...
4. たかくらてんのう【高倉天皇】画像
国史大辞典
に伝えた。上皇の実力によってであろう。しかし、同年七月建春門院も没した。同院は高倉天皇の生母であったので、高倉天皇が高松院領を伝領する。養和元年(一一八一)正月 ...
5. 高倉天皇(たかくらてんのう)
古事類苑
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6. たかくらてんのう【高倉天皇】
日本人名大辞典
1161−1181 平安時代後期,第80代天皇。在位1168-80。永暦(えいりゃく)2年9月3日生まれ。後白河上皇の皇子。母は平滋子(しげこ)(建春門院)。六 ...
7. 高倉天皇[文献目録]
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【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:3件 『高倉天皇御消息と仁和寺御伝 守覚法親王の孔雀経法をめぐって』中村義雄『高倉天皇得戒論再考』三田全信『高倉 ...
8. 憲仁親王・高倉天皇・高倉上皇
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1168年〈仁安3 戊子〉 2・19 六条天皇 譲位, 憲仁親王(高倉天皇) 受禅(玉葉)。 1168年〈仁安3 戊子〉 3・20 高倉天皇 即位(兵範記)。  ...
9. 高倉天皇仁德 (見出し語:高倉天皇)
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10. 高倉天皇嚴島神社御幸 (見出し語:高倉天皇)
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11. 高倉天皇國忌 (見出し語:高倉天皇)
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12. 高倉天皇山陵 (見出し語:高倉天皇)
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13. 高倉天皇雅量 (見出し語:高倉天皇)
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15. 高倉天皇 所領一覧[図版]画像
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16. 高倉天皇御記(著作ID:573900)
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17. 高倉天皇御元服記(著作ID:360532)
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18. 高倉院昇霞記(著作ID:360521)
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20. 於最勝光院高倉天皇國忌 (見出し語:最勝光院)
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禮式部 洋巻 第2巻 1282ページ ...
21. あおいのまえ【葵の前】
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?−? 平安時代後期の女官。高倉天皇(在位1168-80)の中宮(ちゅうぐう)建礼門院につかえた。「平家物語」によると天皇の寵愛(ちょうあい)をうけたが,のちと ...
22. あおば‐の‐ふえ[あをば‥]【青葉の笛】
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23. あぜちのてんじ【按察典侍】
日本人名大辞典
?−? 平安時代後期の女官。参議藤原頼定の娘。高倉天皇につかえ,西御方とも称し,治承(じしょう)3年(1179)潔子(けつし)内親王を生んだ。 ...
24. あやおおみやちょう【綾大宮町】京都市:下京区/郁文学区地図
日本歴史地名大系
大宮ノ西、大宮面、大舎人頭兼盛ノ宅」とあり、これは当町西頬、現郁文中学校近辺にあたり、七条院殖子が高倉天皇の第二子守貞親王(後高倉院)を産んだ。寛永一四年(一六 ...
25. ありまぐん【有馬郡】兵庫県:摂津国
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26. あんか‐もんいん[‥モンヰン]【安嘉門院】
日本国語大辞典
後堀河天皇の准母(じゅんぼ)。高倉天皇の第二皇子守貞親王の娘。名は邦子。貞応三年(一二二四)院号を定められる。のち出家し、法号正如覚。承元三~弘安六年(一二〇九 ...
27. あんげん【安元】
日本国語大辞典
平安時代・高倉天皇の代の年号(一一七五~七七)。承安五年(一一七五)七月二八日疱瘡(ほうそう)の流行のため改元。安元三年(一一七七)八月四日京の大火や藤原成親ら ...
28. あんげん【安元】
国史大辞典
高倉天皇の時の年号(一一七五―七七)。承安五年七月二十八日改元。疱瘡の流行による。右大弁藤原俊経の勘申。出典は『漢書』の「除〓民害 ...
29. 安徳天皇
日本大百科全書
皇子。母は平清盛(きよもり)の女(むすめ)徳子。治承(じしょう)2年11月12日誕生。翌々年高倉天皇譲位の後を受けて即位したが、源平争乱の渦中で平氏と運命をとも ...
30. 安徳天皇
世界大百科事典
1178-85(治承2-文治1) 第81代に数えられる天皇。在位1180-85年。名は言仁。高倉天皇の第1皇子として平重盛の六波羅邸で誕生。母は平清盛の娘建礼門 ...
31. あんとく‐てんのう[‥テンワウ]【安徳天皇】
日本国語大辞典
第八一代天皇。高倉天皇の第一皇子。母は平清盛の娘建礼門院徳子。名、言仁(ときひと)。治承四年(一一八〇)即位し在位五年。木曾義仲入京の時、平宗盛に守られて三種の ...
32. あんとくてんのう【安徳天皇】
国史大辞典
一一七八―八五 一一八〇―八五在位。治承二年(一一七八)十一月十二日高倉天皇の第一皇子として誕生。母は平清盛の女の中宮平徳子(のちの建礼門院)。諱は言仁。十二 ...
33. あんとくてんのう【安徳天皇】
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1178−1185 平安時代後期,第81代天皇。在位1180-85。治承(じしょう)2年11月12日生まれ。高倉天皇の第1皇子。母は平徳子(建礼門院)。平清盛の ...
34. あんとくてんのう【安徳天皇】
日本架空伝承人名事典
第八一代に数えられる天皇。在位一一八〇‐八五年。名は言仁。高倉天皇の第一皇子として六波羅邸で誕生。母は平清盛の娘建礼門院徳子。翌月立太子。八〇年(治承四)即位。 ...
35. あんどのしょう【安堵庄】奈良県:生駒郡/安堵村/東安堵村・西安堵村
日本歴史地名大系
に「大和国(中略)安堵庄同堂領」とある。現京都市の七条院の法花堂は領家の一であろう。七条院は高倉天皇後宮で、後鳥羽天皇の母。同庄の本家職の相承次第は、東寺百合文 ...
36. いせへいし【伊勢平氏】 : 平氏
国史大辞典
政を掌握、ついで治承三年(一一七九)院政を停止し、最初の武家政権を成立させた。清盛の娘徳子は高倉天皇の中宮となって安徳天皇を生み、建礼門院の院号を宣下された。し ...
37. 今鏡
世界大百科事典
未詳。《大鏡》の後を継ぐ書として,《大鏡》の記事が終わる後一条天皇の万寿2年(1025)から高倉天皇の嘉応2年までの13代145年間をあつかう。叙述は《大鏡》の ...
38. いまかがみ【今鏡】
全文全訳古語辞典
強く受け、その語り手である大宅世継の孫娘が語る形をとっている。後一条天皇の一〇二五年(万寿二)から、高倉天皇の一一七〇年に至る百四十六年間を記述する。  ...
39. いまかがみ【今鏡】
国史大辞典
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40. うさうじ【宇佐氏】画像
国史大辞典
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43. 江戸繁昌記 3 79ページ
東洋文庫
開くと、立昇る白煙とともに老翁になったという (六)安徳帝 第八一代の天皇。名は言仁(ときひと)、高倉天皇の第一王子。母は建礼門院平徳子。治承四年即位。源平の戦 ...
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47. おがわ【小川】京都市:東山区/粟田口村地図
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48. おこしBいせき【発シB遺跡】三重県:多気郡/明和町/中村
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49. 伽婢子 2 243ページ
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「惜イカナ短命ニシテ没スルナ リ」とする。生没年未詳。安徳天皇(ニノー) 第八一代天皇。在位一一八O l八五。高倉天皇の第一皇子で母は平清盛の女、 中宮徳子(建 ...
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