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安徳天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『安徳天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

国史大辞典
安徳天皇
あんとくてんのう
一一七八 - 八五
一一八〇―八五在位。治承二年(一一七八)十一月十二日高倉天皇の第一皇子として誕生。母は平清盛の女の中宮平徳子(のちの建礼門院)。諱は言仁。十二月八日親王宣下をうけ、十二月十五日皇太子となる。時に生後一ヵ月余。同四年二月二十一日高倉天皇譲位のあとをうけ践祚、四月二十二日即位した。摂政は内大臣藤原基通。同三年十一月十五日より養和元年(一一八一)正月十七日まで、後白河院の院政はとどめられていたから、即位は清盛の計であった。治承四年六月福原に行幸、都としたが、十一月関東の情勢に応ずるため京都に還った。寿永二年(一一八三)七月、木曾義仲が京都に迫り、同月二十五日、平宗盛に擁せられ、神器とともに西海に赴く。一度大宰府に入り、ついで讃岐の屋島に行宮を営んだが、文治元年(一一八五)二月十九日、源義経の襲来によって海に逃れ、三月二十四日壇ノ浦で平氏滅亡の時、二位尼に抱かれて海に沈んだ。八歳。阿弥陀寺陵に葬る。
[参考文献]
『帝王編年記』、『日本紀略』、『源平盛衰記』(『国民文庫』)
(貫 達人)

阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)

山口県下関市阿弥陀寺(あみだいじ)町にあり、赤間神宮の西に境を接する。建久二年(一一九一)閏十二月二十八日長門国に勅して、安徳天皇崩御の地に一堂を建て、その菩提をとむらった。この堂が「阿弥陀寺御影堂」または「あみだいじ御廟」と称されたものである。明治八年(一八七五)阿弥陀寺を廃止して赤間宮とし、同二十二年御影堂の遺跡に陵を営み、旧堂基壇と五輪塔に土盛をして円丘とし、陵背に接続する「平家塚」と呼ぶ五輪塔の群立地域を陵の付属地にした。現在陵の周囲は土塀をめぐらし、正面には唐門がある。天皇の壇ノ浦崩御については、遺骸が確認されていないため、脱出隠棲の後崩御の伝説を産み、陵の伝説地は鳥取・山口・高知・佐賀・熊本・長崎・鹿児島・宮崎などの諸県で十ヵ所余に及び、内五ヵ所が陵墓参考地になっている。
[参考文献]
『大日本史料』四ノ三 建久二年閏十二月二十九日条、『法規分類大全』二編宮廷門、上野竹次郎『山陵』下
(石田 茂輔)


日本大百科全書(ニッポニカ)
安徳天皇
あんとくてんのう
[1178―1185]

第81代天皇(在位1180~1185)。名は言仁(ときひと)。高倉(たかくら)天皇の第1皇子。母は平清盛(きよもり)の女(むすめ)徳子。治承(じしょう)2年11月12日誕生。翌々年高倉天皇譲位の後を受けて即位したが、源平争乱の渦中で平氏と運命をともにした。1183年(寿永2)木曽義仲(きそよしなか)入京の際、平宗盛(むねもり)に擁せられて出京。大宰府(だざいふ)、讃岐(さぬき)の屋島(やしま)、長門(ながと)の壇ノ浦(だんのうら)と移動し、1185年(文治1)壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡するときに、二位尼(にいのあま)に抱かれて海に沈んだ。ときに8歳。御陵は下関市の阿弥陀(あみだ)寺陵。
[山本博也]



世界大百科事典
安徳天皇
あんとくてんのう
1178-85(治承2-文治1)

第81代に数えられる天皇。在位1180-85年。名は言仁。高倉天皇の第1皇子として平重盛の六波羅邸で誕生。母は平清盛の娘建礼門院徳子。翌月立太子。80年(治承4)即位。同年6月摂津国福原に遷都したが,11月京都に帰る。83年(寿永2)7月木曾義仲入京のさい,平氏に擁されて西海に落ち,大宰府・讃岐国屋島などにのがれたが,85年3月長門国壇ノ浦で平氏一門とともに入水・死亡。陵墓は下関市阿弥陀寺陵。
[杉橋 隆夫]

安徳伝説

安徳天皇が壇ノ浦の戦ののちも流離し,生存したという伝承の根を探るとすれば,《平家物語》巻十一〈先帝身投〉にまで戻らねばならない。二位尼に抱かれた幼帝安徳は壇ノ浦の海底深く沈んだことになっているが,覚一本系の諸本を見ると,はじめのところでは〈御髪黒うゆらゆらとして御せなか過ぎさせ給へり〉とあり,そのあとには〈山鳩色の御衣にびんづらゆはせ給ひて〉となっていて,明らかに安徳帝の描写に矛盾があり,同一人物とは思えないところから替玉説が浮上してくる。安徳帝は死んだと見せかけて,ひそかに壇ノ浦から脱出して生存したとする説がそれであって,四国を中心に中国,九州,対馬,硫黄島にまで足跡をとどめている。なお安徳伝説を伝えているところは例外なく辺境である。高貴な出自の中でも,とりわけ尊い天子をみずからの先祖と関係あるものと仰ぐことによって,辺境に生きる人々は,不遇と落魄の日々を支える精神的な支柱としたことが考えられる。
→平家伝説
[岩崎 武夫]

[索引語]
安徳伝説 壇ノ浦の戦 二位尼


新版 日本架空伝承人名事典

安徳天皇
あんとくてんのう
1178‐85(治承2‐文治1)
 第八一代に数えられる天皇。在位一一八〇‐八五年。名は言仁。高倉天皇の第一皇子として六波羅邸で誕生。母は平清盛の娘建礼門院徳子。翌月立太子。八〇年(治承四)即位。同年六月摂津国福原に遷都したが、一一月京都に帰る。八三年(寿永二)七月木曾義仲入京のさい、平氏に擁されて西海に落ち、大宰府・讃岐国屋島などにのがれたが、八五年三月長門国壇ノ浦で平氏一門とともに入水・死亡。陵墓は下関市阿弥陀寺陵。
[杉橋 隆夫]
安徳伝説
 安徳天皇が壇ノ浦の戦ののちも流離し、生存したという伝承の根を探るとすれば、『平家物語』巻十一「先帝身投」にまで戻らねばならない。二位尼に抱かれた幼帝安徳は壇ノ浦の海底深く沈んだことになっているが、覚一本系の諸本を見ると、はじめのところでは「御髪黒うゆらゆらとして御せなか過ぎさせ給へり」とあり、そのあとには「山鳩色の御衣にびんづらゆはせ給ひて」となっていて、明らかに安徳帝の描写に矛盾があり、同一人物とは思えないところから替玉説が浮上してくる。安徳帝は死んだと見せかけて、ひそかに壇ノ浦から脱出して生存したとする説がそれであって、四国を中心に中国、九州、対馬、硫黄島にまで足跡をとどめている。なお安徳伝説を伝えているところは例外なく辺境である。高貴な出自の中でも、とりわけ尊い天子をみずからの先祖と関係あるものと仰ぐことによって、辺境に生きる人々は、不遇と落魄の日日を支える精神的な支柱としたことが考えられる。
[岩崎 武夫]
主上ことしは八歳にならせ給へども、御年の程よりはるかにねびさせ給ひて、御かたちうつくしく、あたりもてりかゝやくばかり也。御ぐしくろうゆら〓〓として、御せなかすぎさせ給へり。あきれたる御さまにて、「尼ぜ、われをばいづちへぐしてゆかんとするぞ」と仰ければ(中略)御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、まづ東をふしをがみ、伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、「浪のしたにも都のさぶらうぞ」となぐさめたてまて、ちいろの底へぞいり給ふ。
平家物語巻十一「先帝身投」
素盞烏尊古ヘ簸ノ河上ニテ切ラレシ八岐ノ蛇、元暦ノ比安徳天皇ト成テ、此宝剣ヲ執テ竜宮城ヘ帰リ給ヒヌ。
太平記巻二十五
めゝつこが出ると二位どのおつかくし
編者/評者:似実軒ら(編)
出典:『末摘花』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):2‐5
刊行/開き:1776~1801年(安永5~享和1)(刊)
誕生の際、「きさき御産の時御殿の棟よりこしきをまろばかす事あり。皇子御誕生には南へおとし、皇女誕生には北へおとすを、これは北へおとしたりければ、こはいかにとさわがれ、おとしなおしたり」(『平家物語』巻三)との説から、安徳帝は女帝との俗説が生じた。「めめっこ」は幼女の性器。「二位殿」は清盛の妻で安徳帝の祖母にあたる。
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検索ヒット数 520
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検索コンテンツ
1. 安徳天皇
日本大百科全書
第81代天皇(在位1180~1185)。名は言仁(ときひと)。高倉(たかくら)天皇の第1皇子。母は平清盛(きよもり)の女(むすめ)徳子。治承(じしょう)2年11 ...
2. 安徳天皇
世界大百科事典
3月長門国壇ノ浦で平氏一門とともに入水・死亡。陵墓は下関市阿弥陀寺陵。杉橋 隆夫 安徳伝説 安徳天皇が壇ノ浦の戦ののちも流離し,生存したという伝承の根を探るとす ...
3. あんとく‐てんのう[‥テンワウ]【安徳天皇】
日本国語大辞典
第八一代天皇。高倉天皇の第一皇子。母は平清盛の娘建礼門院徳子。名、言仁(ときひと)。治承四年(一一八〇)即位し在位五年。木曾義仲入京の時、平宗盛に守られて三種の ...
4. あんとくてんのう【安徳天皇】
国史大辞典
じ)町にあり、赤間神宮の西に境を接する。建久二年(一一九一)閏十二月二十八日長門国に勅して、安徳天皇崩御の地に一堂を建て、その菩提をとむらった。この堂が「阿弥陀 ...
5. 安德天皇(あんとくてんのう)
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6. あんとくてんのう【安徳天皇】
日本人名大辞典
1178−1185 平安時代後期,第81代天皇。在位1180-85。治承(じしょう)2年11月12日生まれ。高倉天皇の第1皇子。母は平徳子(建礼門院)。平清盛の ...
7. あんとくてんのう【安徳天皇】
日本架空伝承人名事典
八五年三月長門国壇ノ浦で平氏一門とともに入水・死亡。陵墓は下関市阿弥陀寺陵。[杉橋 隆夫]安徳伝説 安徳天皇が壇ノ浦の戦ののちも流離し、生存したという伝承の根を ...
8. 安徳天皇[文献目録]
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9. 言仁親王・安徳天皇
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1180年〈治承4 庚子〉 2・21 高倉天皇 譲位, 言仁親王(安徳天皇) 受禅(玉葉)。 1180年〈治承4 庚子〉 4・22 安徳天皇 即位(玉葉)。 1 ...
10. 安徳天皇山陵 (見出し語:安德天皇)
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11. 安徳天皇行幸西海 (見出し語:安德天皇)
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12. 祀安徳天皇於赤間宮 (見出し語:安德天皇)
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16. 安徳天皇御陵記(著作ID:251241)
新日本古典籍データベース
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17. 安徳天皇附属状(著作ID:4397308)
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19. 奉追悼安徳天皇和歌(著作ID:4340958)
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20. あかまがせき【赤間関】山口県:下関市
日本歴史地名大系
寿永四年(一一八五)源平最後の戦いとなった地で、「平家物語」などにその様子が詳細に語られる。その後安徳天皇・崇徳院や兵士の菩提のために建立されたのが現阿弥陀寺の ...
21. 赤間神宮画像
日本大百科全書
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22. 赤間神宮
世界大百科事典
1185年(文治1)源平壇ノ浦合戦で入水した安徳天皇をまつる。ときの朝廷は長門国に勅して赤間関に御影堂を建立し,阿弥陀寺として奉祀させた。明治維新のとき安徳天皇 ...
23. あかま‐じんぐう【赤間神宮】
日本国語大辞典
山口県下関市阿彌陀寺町にある神社。旧官幣大社。安徳天皇をまつる。阿彌陀寺境内の陵の上に建てられた御影堂を、明治維新の際、神社に改めたもの。昭和一五年(一九四〇) ...
24. あかまじんぐう【赤間神宮】
国史大辞典
山口県下関市阿弥陀寺町に鎮座。旧官幣大社。安徳天皇をまつる。文治元年(一一八五)三月二十四日平氏が壇ノ浦で敗滅のとき、安徳天皇も入水崩御、その遺骸は赤間関紅石 ...
25. あかまじんぐう【赤間神宮】山口県:下関市/赤間関/阿弥陀寺町
日本歴史地名大系
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国史大辞典
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日本国語大辞典
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28. あみだじ【阿弥陀寺】
国史大辞典
文治元年(一一八五)三月に平家一門は壇ノ浦で滅び、安徳天皇や落命の兵士は、阿弥陀寺境内に葬られたが、建久二年(一一九一)に後白河法皇の病気平癒のため、安徳天皇な ...
29. あみだじ【阿弥陀寺】 : 阿弥陀寺/(一)
国史大辞典
文治元年(一一八五)三月に平家一門は壇ノ浦で滅び、安徳天皇や落命の兵士は、阿弥陀寺境内に葬られたが、建久二年(一一九一)に後白河法皇の病気平癒のため、安徳天皇な ...
30. あみだじのみささぎ【阿弥陀寺陵】
国史大辞典
安徳天皇(あんとくてんのう)  ...
31. あみだじのみささぎ【阿弥陀寺陵】 : 安徳天皇
国史大辞典
じ)町にあり、赤間神宮の西に境を接する。建久二年(一一九一)閏十二月二十八日長門国に勅して、安徳天皇崩御の地に一堂を建て、その菩提をとむらった。この堂が「阿弥陀 ...
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譲位した天皇の尊称。正式には太上(だいじょう)天皇と称する。中国の太上皇(たいじょうこう)、太上皇帝の称に始まり、太上は最上または至上の意。日本では697年(文武天皇1)譲位した持統(じとう)天皇が初めて太上天皇と称し、大宝令(たいほうりょう)
昭和天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一九〇一 - 八九 一九二六―八九在位。明治三十四年(一九〇一)四月二十九日午後十時十分、東宮御所に生誕。皇太子明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)と皇太子妃節子(のちの貞明皇后)の第一皇子。五月五日明治天皇より裕仁(ひろひと)と命名され
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