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順徳天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『順徳天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
順徳天皇
じゅんとくてんのう
一一九七 - 一二四二
一二一〇―二一在位。諱は守成(もりなり)。後鳥羽天皇の第二(または第三)皇子として建久八年(一一九七)九月十日卯刻に生誕した。生母は、従三位式部少輔藤原範季を父とする重子(のち修明門院)、乳母は又従兄弟(またいとこ)の藤原憲子(岡前(おかざき)別当三位)であった。幼いころから怜悧であったうえに生母は上皇の殊寵を得ていたため、正治元年(一一九九)十二月には親王となり、翌二年四月には、四歳にして皇太弟に立てられた。承元四年(一二一〇)十一月二十五日、後鳥羽上皇の命によって土御門天皇は、位を皇太弟に譲り、順徳天皇は践祚した。つづいて十二月二十八日、太政官庁において即位の儀があげられ、藤原立子は女御とされた。ついで建暦元年(一二一一)正月、女御立子は中宮に立てられた(のち東一条院)。中宮との間には懐成(かねなり、仲恭天皇)・諦子、また内大臣藤原信清の女の位子との間には〓子、従三位藤原清季の女との間には忠成ら三人の皇子女が生まれた。一方、天皇は乳母の憲子の妹で権大納言源通光の妻となり、内裏に仕えていた督典侍(こうのすけ)に情をかけ、彦成・善統(よしむね)の二皇子を生ませた。御所は、里内裏の閑院であった。在位は十年に及んだが、後鳥羽上皇の院政下であったため、みるべき治績をあげることはできなかった。天皇の外祖父の範季は、判官(源義経)贔屓で知られていたし、外祖母で養育にあずかり、かつ側近に仕えた従三位典侍教子は能登守平教盛の妹であった。すなわち天皇は、幼時より反幕府的な環境の中にあったといえる。政務にあずからない天皇は、有職故実の研究や歌論・詩歌・管絃の奥儀の修得に傾倒した。鎌倉幕府に対抗して皇威を振興するためにも、宮廷の行事・儀式・政務などの実際を明確にしておく必要があったが、天皇はこの目的をもってみずから『禁秘抄』を著わした。和歌への精進は、父帝の強い影響に発し、早くから天皇は藤原定家や藤原家隆らとともに歌合に参加し、歌才を磨いた。その歌風には平淡かつ典雅な趣があった。歌集としては、『順徳院御集』『順徳院御百首』『内裏名所百首』が今に伝えられている。歌論の方では、藤原俊成・定家・鴨長明らの後を承け、当代の歌論を大成した『八雲御抄』を著わした。その性格・環境からして天皇は、父上皇の倒幕計画には熱心に参与した。このため、承久三年(一二二一)四月二十日には皇太子懐成に位を譲り、上皇の立場に退いて倒幕に備えた。承久の乱ののち、すなわち承久三年七月二十一日、上皇は都を発って佐渡に向かい、配流の身になった。上皇に随行した人々の歴名の中には督典侍の名がみられた。上皇は、在島二十一年で仁治三年(一二四二)九月十二日、享年四十六をもって配所に崩じた。佐渡配流後、佐渡院とよばれたが、建長元年(一二四九)七月二十日順徳院と追号された。定家は、幕府を憚り、みずからが編集した『新勅撰和歌集』には、順徳院の御製は一首も採択しなかったが、定家あるいは為家は、『小倉百人一首』に、「ももしきや」の御製を採り、憂悶する上皇の心境を広く後世に伝えた。
[参考文献]
『大日本史料』五ノ一五 仁治三年九月十二日条、和田英松『皇室御撰之研究』、長藤蔵『順徳天皇と佐渡』、角田文衛「岡前別当三位」(『王朝の明暗』所収)
(角田 文衛)

真野御陵(まののみささぎ)

佐渡にある順徳天皇の火葬塚をいう。新潟県佐渡郡真野町大字真野にある。火葬塚は陵とはいわないが、当所は古くから御陵あるいは御廟と称された。天皇は崩御の翌日真野山にて火葬、遺骨は京都大原陵に収められたが、地元では火葬所を陵として崇敬してきた。しかし近世に至って荒廃したので、古来守護してきた真輪寺とその本寺である国分寺が連名にて延宝六年(一六七八)佐渡奉行所に修補と保護を願いでた。時の奉行曾根吉正はこれを容れて翌七年に方五十間(約九一メートル)の兆域を寄進して修補を加え、石燈籠を献じた。江戸幕府が皇陵の探索修理を始めたのは元禄十年(一六九七)であるが、それより約二十年も前に僻遠の地で一奉行によって修理が行われたことは注目される。この時の形状が現在に及んでいる。明治七年(一八七四)から政府が管理している。→大原陵(おおはらのみささぎ)
[参考文献]
『大日本史料』五ノ一五 仁治三年九月十二日条
(中村 一郎)


日本大百科全書(ニッポニカ)
順徳天皇
じゅんとくてんのう
[1197―1242]

第84代の天皇(在位1210~21)。名は守成(もりなり)。後鳥羽(ごとば)天皇の第3皇子。母は藤原範季(のりすえ)の女(むすめ)重子(修明門院(しゅめいもんいん))。建久(けんきゅう)8年9月10日誕生。父の後鳥羽上皇とともに討幕計画を進め、1221年(承久3)に承久(じょうきゅう)の乱を起こしたが、幕府軍に敗れ、佐渡に配流された。学問を好み、また優れた歌人でもあった。故実書『禁秘抄(きんぴしょう)』、歌論書『八雲御抄(やくもみしょう)』の著作があり、歌集に『順徳院御集』がある。仁治(にんじ)3年9月12日、配所で没した。陵墓は京都市左京区大原来迎院(らいごういん)町の大原陵。
[山本博也]



世界大百科事典
順徳天皇
じゅんとくてんのう
1197-1242(建久8-仁治3)

第84代に数えられる天皇。在位1210-21年。後鳥羽天皇の第3皇子。名は守成,のち佐渡院とも称す。母は高倉範季の娘修明門院重子。土御門天皇の皇太弟を経て即位。後鳥羽上皇の討幕計画に参画。そのため承久の乱直前の1221年(承久3)4月仲恭天皇に譲位したが,結局,乱に敗れて佐渡に配流され,同所で没した。歌学書《八雲御抄(やくもみしよう)》,有職書《禁秘抄》を著し,日記を《順徳院御記》という。陵墓は真野陵(新潟県佐渡市の旧真野町),大原陵(京都市左京区)。
[杉橋 隆夫]

[索引語]
佐渡院
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1. 順徳天皇 画像
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3. じゅんとく‐てんのう[‥テンワウ]【順徳天皇】
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4. じゅんとくてんのう【順徳天皇】
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5. 順德天皇(じゅんとくてんのう)
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6. じゅんとくてんのう【順徳天皇】
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7. 順徳天皇[文献目録]
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8. 守成親王・順徳天皇・順徳上皇
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13. ごとばてんのうりょう・じゅんとくてんのうりょう【後鳥羽天皇陵・順徳天皇陵】京都市:左京区/来迎院村 地図
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18. 小倉百人一首(100) 歌人/順徳天皇(順徳院)[百科マルチメディア] 画像
日本大百科全書
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25. あんらくじゅいん【安楽寿院】京都市:伏見区/竹田村 地図
日本歴史地名大系
され、姫宮没後は再び女院の手に帰し、女院没後春華門院昇子(後鳥羽皇女)、その没後は昇子の猶子順徳天皇へと伝領。承久の乱で後鳥羽上皇方の多くが八条院領関係者であっ ...
26. いくたのもり【生田森】
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27. いるさやま【入佐山】兵庫県:出石郡/出石町
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28. いわたむら【岩田村】三重県:津市
日本歴史地名大系
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後白河法皇より金剛勝院および押小路殿を伝領。なお九条兼実の子良恵、後鳥羽天皇の皇子長仁親王・守成親王(のちの順徳天皇)、以仁王の子道尊を猶子とした。治承四年(一 ...
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32. 宇治拾遺物語 308ページ
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33. うだのしょう【宇多荘】
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46. おたちむら【御館村】石川県:羽咋郡/押水町
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47. おどむら【小渡村】山形県:西置賜郡/小国町
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天皇の母(皇太后)、または国民の母(皇后)。ここは、範茂と同腹の、修明門院重子(後鳥羽上皇妃、順徳天皇母)。左右近衛府の大・中・少将をよぶ唐名。範茂は左近衛中将 ...
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