子を後嵯峨の中宮とし、摂関家から外戚の座を奪った。公経が寛元二年に没してのち、道家は勢力の挽回を企て、特に同四年後嵯峨上皇が院政を開始したのを契機に、良実にかえてその弟の一条実経を関白とし、幕府から朝廷への奏言を申し次ぐ関東申次も、道家・実経父子が掌握した。しかしその年、道家の子で鎌倉に下っていた前将軍頼経は、北条一族の名越光時らの謀叛に連坐して京都に追われ、その結果、道家も疑われて失脚、籠居を余儀なくされ、幕府の圧力で関東申次は西園寺実氏(公経の子)、ついで翌宝治元年(一二四七)摂政は近衛兼経にそれぞれ改められた。この事件を契機に、朝廷の政治に対する幕府の干渉は著しく強まった。幕府の要求で置かれた院評定衆は、独自の議決機能を持っており、治天の君に対する独立性が強く、人選には幕府の承認が必要であり、重事については幕府の意向を問わねばならず、院政も幕府の制約を強く受けるようになった。治天の君や天皇の決定も、幕府が行うのが常態となり、後嵯峨自身、自分の死後の治天の君の決定を幕府に一任する旨の自筆の勅書を幕府に遣した。九条家の没落にとどまらず、摂関家が全般的に力を失い、摂関の地位は一層低落した。逆に西園寺家は外戚と関東申次の地位を独占、世襲して権勢を振るった。建長四年(一二五二)には、九条家が幕府顛覆の陰謀に関係したとの嫌疑によって、頼経の子の将軍頼嗣も廃された。こうして九条家から将軍を送ってきた摂家将軍の時代は終り、後嵯峨の皇子の宗尊親王が、最初の宮将軍として鎌倉に下った。しかし文永三年(一二六六)には、この宗尊も謀叛を理由に京都に追われ、その子の惟康王が将軍となっている。朝廷や将軍の地位が低下し、得宗の専制が強まったのである。後深草に命じて亀山に譲位させたことでも明らかなように、後嵯峨上皇は後深草よりもその弟の亀山を愛しており、同五年には、後深草上皇の皇子をさしおいて、亀山天皇の皇子世仁親王を皇太子とした。この処置は、当然後深草の不満を招くことになり、後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立の端緒となった。後嵯峨が自分の後の治天の君の決定を幕府に一任したことと相まって、その死後、両者の対立は激化することになる。後嵯峨はあつく仏教を信仰し、熊野・高野などに参詣し、また寺塔の造営、経論の書写などにつとめた。和歌にも長じ、建長三年には藤原為家に命じて『続後撰和歌集』を、文永二年にも為家ら五名に命じて『続古今和歌集』を撰進させた。後嵯峨上皇は嵯峨に亀山殿を営み、文永五年十月五日同所で出家した。法名素覚。同九年二月十七日亀山殿内の寿量院で没した。年五十三。御陵は天竜寺内の嵯峨南陵。
子(大宮院)が同院に法華堂を建立したので、翌十年六月二十一日御骨をここに移し納めた。浄金剛院には亀山天皇の御骨を納めた法華堂もあったが、後世ともに荒廃して所伝を失った。陵所については諸説があったが、幕末には、浄金剛院は天竜寺の方丈の北、塔頭雲居庵の西にあたり、後嵯峨・亀山両天皇の法華堂の位置は天竜寺の庫裡の北すなわち現陵の所と考定され、幕末修陵の際もこれによって修補し、慶応元年(一八六五)五月に竣功した。両陵は同形の檜皮葺宝形造の法華堂で南面して東西に並び、東側が後嵯峨天皇陵、西側が亀山天皇陵である。この時の経費は、本願寺の寺伝に亀山天皇より庇護を賜わったとあるので、その報恩のため、東本願寺が亀山天皇陵の分とともに当陵の分も献じている。修陵のころは両陵ともに浄金剛院法華堂といったが、その後、後嵯峨天皇陵は嵯峨殿法華堂、明治三十九年(一九〇六)嵯峨陵、大正元年(一九一二)に現陵名に改められた。火葬塚は右京区嵯峨亀ノ尾町亀山公園内にあって、亀山天皇・後伏見天皇火葬塚と同所である。第88代天皇(在位1242~46)。名は邦仁(くにひと)。法名素覚。土御門(つちみかど)天皇の第3皇子。母は贈皇太后源通子(みちこ)。四条(しじょう)天皇が急死したのち、鎌倉幕府の推戴(すいたい)によって思いがけず皇位についた。1246年(寛元4)皇位を嫡子の後深草(ごふかくさ)天皇に譲って院政をみたが、59年(正元1)次子の亀山(かめやま)天皇が皇位についたのちも院政を続けた。68年(文永5)出家し、文永(ぶんえい)9年2月17日没す。御陵は京都の嵯峨南陵。天皇は崩御に先だち御書を幕府に遣わし、将来の皇位は後深草、亀山両流のいずれとも定めず、幕府の推挙にまかせるとの旨を伝えたが、これがのちに原因となり、両統迭立(てつりつ)、両統両立(南北朝)紛争の基となった。
第88代に数えられる天皇。在位1242-46年。土御門天皇の第2皇子。名は邦仁。母は土御門通宗の女源通子。誕生後1年にして母を亡くし,ついで承久の乱のため父上皇と生別,祖母の承明門院源在子に養育されたが,1242年(仁治3)四条天皇の急死の後をうけて,幕府の推挙により皇位についた。すでに23歳になっていた天皇は,進んで政務に精励したが,在位わずか4年で位を後深草天皇に譲り,以後,後深草・亀山2代にわたって院中に政務を親裁した。譲位後まもなく,京都政界の首領九条道家が名越光時の乱に関連して失脚したのを機に朝政の刷新を図り,西園寺実氏を関東申次として朝幕間の緊密化を図るとともに,院中に5人の評定衆を置いて,月6度の評定に親臨し,2人の伝奏を任じて隔日に出仕させ,諸司,諸人の申請,訴訟を奏上させて裁断する体制を作りあげた。この評定と奏事を柱とする執政方式は,27年間にわたる上皇の院政のもとで定着し,多少の手を加えながらも,基本的には以後の公家政権に引き継がれた。また幕府の要請をいれて皇子宗尊親王を将軍として鎌倉にくだし,朝幕の提携を強化した。宮将軍の初めである。こうして上皇の治世は平穏な空気につつまれ,政務のかたわら管絃,蹴鞠等に興じ,ことに和歌をよくして,《続後撰和歌集》《続古今和歌集》の2勅撰和歌集を撰集させ,いまに残る御製は200首を超える多数にのぼっている。また深く仏教を信じ,ついに68年(文永5)亀山殿において落飾し,法名を素覚と称した。しかしこの年蒙古より日本招撫の国書がもたらされ,迫りくる国難に心を痛めながら,文永9年2月17日亀山殿別院寿量院で没した。これに先だち遺領を処分したが,〈治天の君〉の選定を幕府にゆだねて,明確な意思を表明しなかったため,のちに持明院・大覚寺両統の分立を生む結果を招いた。遺勅により後嵯峨院と追号。陵所は京都の嵯峨南陵。
子)の遺 ...
子)の遺骨を ...
子。西園寺実氏の第一女、母は四条隆衡の女。嘉禄元年(一二二五)誕生。仁治三年(一二四二)六月女御 ...
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