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  11. 後嵯峨天皇
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
後嵯峨天皇
ごさがてんのう
一二二〇 - 七二
一二四二―四六在位。名は邦仁。承久二年(一二二〇)二月二十六日誕生。土御門天皇の第三皇子。母は参議源通宗の女で典侍の通子(贈皇太后)。翌三年の承久の乱の結果、父の土御門上皇が土佐(のち阿波)に流されて以後は母の叔父の源通方に養われ、暦仁元年(一二三八)通方が没してのちは祖母承明門院(土御門の母)の土御門殿に移った。仁治三年(一二四二)四条天皇が十二歳で没し、皇子がなかったため皇嗣が問題になり、九条道家は順徳上皇の皇子忠成王の擁立を図り、当時幕府の支持を受けて絶大な権勢を誇っていた西園寺公経をはじめ、公卿の大勢もこれを支持した。道家は順徳父子の外戚であったが、順徳上皇は承久の乱の際には、後鳥羽上皇の討幕計画に積極的に関係して佐渡に流されており、幕府は強く警戒していた。そのため幕府は忠成王の即位に反対し、安達義景を使者として上洛させ公卿たちの議を抑え、承久の乱の際、討幕計画にあずからなかった土御門上皇の皇子を擁立した。こうして同年正月二十日、二十三歳の皇子はにわかに土御門殿で元服、邦仁と名づけられ、権大納言四条隆親の冷泉万里小路殿で践祚し、さらに三月十八日太政官庁で即位の儀を行なった。すなわち後嵯峨天皇である。在位四年ののち寛元四年(一二四六)、皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、さらに正元元年(一二五九)には久仁に命じて弟の恒仁親王(亀山天皇)に譲位させたが、この後深草・亀山両天皇の二代二十六年余りにわたり、後嵯峨上皇は治天の君として院政を行なった。これまで朝廷の政治は、西園寺公経と女婿の九条道家を中心に推進されてきたが、後嵯峨の即位はこのような政情に変化をもたらした。さきに忠成王を支持した公経は、一転して後嵯峨を支持するようになったが、一方、孫の彦子を四条天皇の女御としていた道家にとって四条の死は打撃であり、忠成王擁立を図ったため、幕府の疑惑を深め、また公経も幕府の思惑を考えて、道家から遠ざかった。公経は道家の子でありながら、父と不和であった二条良実を関白に起用し、また孫の〓子を後嵯峨の中宮とし、摂関家から外戚の座を奪った。公経が寛元二年に没してのち、道家は勢力の挽回を企て、特に同四年後嵯峨上皇が院政を開始したのを契機に、良実にかえてその弟の一条実経を関白とし、幕府から朝廷への奏言を申し次ぐ関東申次も、道家・実経父子が掌握した。しかしその年、道家の子で鎌倉に下っていた前将軍頼経は、北条一族の名越光時らの謀叛に連坐して京都に追われ、その結果、道家も疑われて失脚、籠居を余儀なくされ、幕府の圧力で関東申次は西園寺実氏(公経の子)、ついで翌宝治元年(一二四七)摂政は近衛兼経にそれぞれ改められた。この事件を契機に、朝廷の政治に対する幕府の干渉は著しく強まった。幕府の要求で置かれた院評定衆は、独自の議決機能を持っており、治天の君に対する独立性が強く、人選には幕府の承認が必要であり、重事については幕府の意向を問わねばならず、院政も幕府の制約を強く受けるようになった。治天の君や天皇の決定も、幕府が行うのが常態となり、後嵯峨自身、自分の死後の治天の君の決定を幕府に一任する旨の自筆の勅書を幕府に遣した。九条家の没落にとどまらず、摂関家が全般的に力を失い、摂関の地位は一層低落した。逆に西園寺家は外戚と関東申次の地位を独占、世襲して権勢を振るった。建長四年(一二五二)には、九条家が幕府顛覆の陰謀に関係したとの嫌疑によって、頼経の子の将軍頼嗣も廃された。こうして九条家から将軍を送ってきた摂家将軍の時代は終り、後嵯峨の皇子の宗尊親王が、最初の宮将軍として鎌倉に下った。しかし文永三年(一二六六)には、この宗尊も謀叛を理由に京都に追われ、その子の惟康王が将軍となっている。朝廷や将軍の地位が低下し、得宗の専制が強まったのである。後深草に命じて亀山に譲位させたことでも明らかなように、後嵯峨上皇は後深草よりもその弟の亀山を愛しており、同五年には、後深草上皇の皇子をさしおいて、亀山天皇の皇子世仁親王を皇太子とした。この処置は、当然後深草の不満を招くことになり、後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立の端緒となった。後嵯峨が自分の後の治天の君の決定を幕府に一任したことと相まって、その死後、両者の対立は激化することになる。後嵯峨はあつく仏教を信仰し、熊野・高野などに参詣し、また寺塔の造営、経論の書写などにつとめた。和歌にも長じ、建長三年には藤原為家に命じて『続後撰和歌集』を、文永二年にも為家ら五名に命じて『続古今和歌集』を撰進させた。後嵯峨上皇は嵯峨に亀山殿を営み、文永五年十月五日同所で出家した。法名素覚。同九年二月十七日亀山殿内の寿量院で没した。年五十三。御陵は天竜寺内の嵯峨南陵。
[参考文献]
三浦周行『鎌倉時代史』(『日本史の研究』新輯一)、竜粛『鎌倉時代』下、橋本義彦「院評定制について」(『平安貴族社会の研究』所収)、上横手雅敬「鎌倉幕府と公家政権」(『(岩波講座)日本歴史』五所収)
(上横手 雅敬)

嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ)

 京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町(天竜寺域内庫裡北隣)にある。文永九年(一二七二)二月十九日、遺詔により亀山殿の別院薬草院に火葬、翌日拾骨、銀壺に納め白絹の袋に包んで、仮に浄金剛院に安置したが、皇后藤原〓子(大宮院)が同院に法華堂を建立したので、翌十年六月二十一日御骨をここに移し納めた。浄金剛院には亀山天皇の御骨を納めた法華堂もあったが、後世ともに荒廃して所伝を失った。陵所については諸説があったが、幕末には、浄金剛院は天竜寺の方丈の北、塔頭雲居庵の西にあたり、後嵯峨・亀山両天皇の法華堂の位置は天竜寺の庫裡の北すなわち現陵の所と考定され、幕末修陵の際もこれによって修補し、慶応元年(一八六五)五月に竣功した。両陵は同形の檜皮葺宝形造の法華堂で南面して東西に並び、東側が後嵯峨天皇陵、西側が亀山天皇陵である。この時の経費は、本願寺の寺伝に亀山天皇より庇護を賜わったとあるので、その報恩のため、東本願寺が亀山天皇陵の分とともに当陵の分も献じている。修陵のころは両陵ともに浄金剛院法華堂といったが、その後、後嵯峨天皇陵は嵯峨殿法華堂、明治三十九年(一九〇六)嵯峨陵、大正元年(一九一二)に現陵名に改められた。火葬塚は右京区嵯峨亀ノ尾町亀山公園内にあって、亀山天皇・後伏見天皇火葬塚と同所である。
[参考文献]
谷森善臣『山陵考』(『(新註)皇学叢書』五)、上野竹次郎『山陵』下
(中村 一郎)

所領

 四条天皇から譲られた所領が主流で、それは後院領・六勝寺領・蓮華王院領・新熊野(いまくまの)社領・浄金剛院領・筑前宗像社などである。宝治元年(一二四七)鎌倉幕府は所領を進上(『葉黄記』同年八月十八日条)。子の後深草天皇即位後に、後白河天皇の女宣陽門院は、所領を養女の後堀河天皇中宮鷹司院長子に譲り、死後は後深草天皇に伝えさせることにした。しかし院政をとっている後嵯峨上皇の申入れで、建長三年(一二五一)二月六条殿と長講堂などはただちに同天皇に譲った。しかし同上皇が管領し(『百錬抄』建長七年八月十日条)、文永四年(一二六七)十月長講堂に関する一切を後深草上皇に引き渡した。後嵯峨上皇は皇子のうち後深草上皇の弟亀山上皇の子孫に皇位をつがせる意思をもち、これが南北両朝分裂の素因となった。同九年正月後嵯峨法皇は治世(治世と皇位は別、同五年幕府にはかり亀山天皇皇子が皇太子についている)と所領処分を決定(『吉続記』)。この処分帳(『伏見宮御記録』元二)によると、後深草上皇分は播磨国と後院領のうち肥前国神崎荘など僅少である。
[参考文献]
帝室林野局編『御料地史稿』、八代国治『国史叢説』
(奥野 高広)


日本大百科全書(ニッポニカ)
後嵯峨天皇
ごさがてんのう
[1220―1272]

第88代天皇(在位1242~46)。名は邦仁(くにひと)。法名素覚。土御門(つちみかど)天皇の第3皇子。母は贈皇太后源通子(みちこ)。四条(しじょう)天皇が急死したのち、鎌倉幕府の推戴(すいたい)によって思いがけず皇位についた。1246年(寛元4)皇位を嫡子の後深草(ごふかくさ)天皇に譲って院政をみたが、59年(正元1)次子の亀山(かめやま)天皇が皇位についたのちも院政を続けた。68年(文永5)出家し、文永(ぶんえい)9年2月17日没す。御陵は京都の嵯峨南陵。天皇は崩御に先だち御書を幕府に遣わし、将来の皇位は後深草、亀山両流のいずれとも定めず、幕府の推挙にまかせるとの旨を伝えたが、これがのちに原因となり、両統迭立(てつりつ)、両統両立(南北朝)紛争の基となった。
[村田正志]



世界大百科事典
後嵯峨天皇
ごさがてんのう
1220-72(承久2-文永9)

第88代に数えられる天皇。在位1242-46年。土御門天皇の第2皇子。名は邦仁。母は土御門通宗の女源通子。誕生後1年にして母を亡くし,ついで承久の乱のため父上皇と生別,祖母の承明門院源在子に養育されたが,1242年(仁治3)四条天皇の急死の後をうけて,幕府の推挙により皇位についた。すでに23歳になっていた天皇は,進んで政務に精励したが,在位わずか4年で位を後深草天皇に譲り,以後,後深草・亀山2代にわたって院中に政務を親裁した。譲位後まもなく,京都政界の首領九条道家が名越光時の乱に関連して失脚したのを機に朝政の刷新を図り,西園寺実氏を関東申次として朝幕間の緊密化を図るとともに,院中に5人の評定衆を置いて,月6度の評定に親臨し,2人の伝奏を任じて隔日に出仕させ,諸司,諸人の申請,訴訟を奏上させて裁断する体制を作りあげた。この評定と奏事を柱とする執政方式は,27年間にわたる上皇の院政のもとで定着し,多少の手を加えながらも,基本的には以後の公家政権に引き継がれた。また幕府の要請をいれて皇子宗尊親王を将軍として鎌倉にくだし,朝幕の提携を強化した。宮将軍の初めである。こうして上皇の治世は平穏な空気につつまれ,政務のかたわら管絃,蹴鞠等に興じ,ことに和歌をよくして,《続後撰和歌集》《続古今和歌集》の2勅撰和歌集を撰集させ,いまに残る御製は200首を超える多数にのぼっている。また深く仏教を信じ,ついに68年(文永5)亀山殿において落飾し,法名を素覚と称した。しかしこの年蒙古より日本招撫の国書がもたらされ,迫りくる国難に心を痛めながら,文永9年2月17日亀山殿別院寿量院で没した。これに先だち遺領を処分したが,〈治天の君〉の選定を幕府にゆだねて,明確な意思を表明しなかったため,のちに持明院・大覚寺両統の分立を生む結果を招いた。遺勅により後嵯峨院と追号。陵所は京都の嵯峨南陵。
[橋本 義彦]

[索引語]
宗尊親王 宮将軍
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検索コンテンツ
1. 後嵯峨天皇
日本大百科全書
第88代天皇(在位1242~46)。名は邦仁(くにひと)。法名素覚。土御門(つちみかど)天皇の第3皇子。母は贈皇太后源通子(みちこ)。四条(しじょう)天皇が急死 ...
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1220-72(承久2-文永9) 第88代に数えられる天皇。在位1242-46年。土御門天皇の第2皇子。名は邦仁。母は土御門通宗の女源通子。誕生後1年にして母を ...
3. ごさが‐てんのう[‥テンワウ]【後嵯峨天皇】
日本国語大辞典
第八八代天皇。土御門(つちみかど)天皇の第一皇子。名は邦仁(くにひと)。母は源通子。仁治三年(一二四二)北条泰時に推されて即位。在位五年で第三子の久仁親王(後深 ...
4. ごさがてんのう【後嵯峨天皇】画像
国史大辞典
権大納言四条隆親の冷泉万里小路殿で践祚し、さらに三月十八日太政官庁で即位の儀を行なった。すなわち後嵯峨天皇である。在位四年ののち寛元四年(一二四六)、皇子の久仁 ...
5. 後嵯峨天皇(ごさがてんのう)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 29ページ ...
6. ごさがてんのう【後嵯峨天皇】
日本人名大辞典
1220−1272 鎌倉時代,第88代天皇。在位1242-46。承久(じょうきゅう)2年2月26日生まれ。土御門(つちみかど)天皇の第3皇子。母は源通子(つうし ...
7. 後嵯峨天皇・後嵯峨上皇・後嵯峨法皇
日本史年表
1242年〈仁治3 壬寅〉 1・20 土御門院皇子(後嵯峨天皇) ,元服,践祚(平戸記)。 1248年〈宝治2 戊申⑫〉 7・25 後嵯峨上皇 ,藤原為家に  ...
8. 後嵯峨天皇即位 (見出し語:後嵯峨天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 257ページ ...
9. 納後嵯峨天皇遺骨於深草法華堂 (見出し語:後嵯峨天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 999ページ ...
10. 後嵯峨天皇 所領一覧1[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
11. 後嵯峨天皇 所領一覧2[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
12. ごさがてんのうりょう【後嵯峨天皇陵】京都市:右京区/天龍寺門前村地図
日本歴史地名大系
[現]右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町 天龍寺境内、方丈の西北にあり、後嵯峨天皇嵯峨南陵といい、陵内に法華堂が建つ。後嵯峨天皇は土御門天皇第一皇子で、母は源通子(通宗 ...
13. 後嵯峨天皇御譲位記(著作ID:2622095)
新日本古典籍データベース
ごさがてんのうごじょういき 記録 寛元四 ...
14. 排蘆小船(近世随想集) 376ページ
日本古典文学全集
天皇系の大覚寺統の二つに分裂、対立し、その後の南北朝期につながる。第九十代天皇。名は恒仁。後嵯峨天皇の皇子。母は西園寺実氏女の姞子。嘉元三年没、五七歳。大覚寺統 ...
15. あだちやすもり【安達泰盛】画像
国史大辞典
将軍実朝夫人は夫の菩提のために、京都に遍照心院を建てた時、その維持について泰盛に委嘱した。また文永十年後嵯峨天皇一周忌に高野山奥院に建碑して天皇から『文選』等を ...
16. あだちよしかげ【安達義景】画像
国史大辞典
政に参加した。仁治二年(一二四一)に従五位上、翌三年正月、四条天皇の後嗣問題で、邦仁親王(後嵯峨天皇)を推す幕府の使者として、二階堂行義とともに上洛、幕府の意志 ...
17. あわづはしもとのみくりや【粟津橋本御厨】滋賀県:大津市/中部地域/粟津
日本歴史地名大系
華頂要略)。鎌倉中期には内侍所を本家とし、領家職は天王寺入道大納言近衛基嗣から尊助法親王・後嵯峨天皇・大宮女院・昭慶門院・世良親王と伝領し、元徳元年(一三二九) ...
18. いくたまのしょう【生玉庄】大阪府:大阪市/東区
日本歴史地名大系
掌握する意味でも注目される。なお、蓮聖が年貢の油一石を五斗に値切ったのを「大宮院御時」とするが、大宮院は後嵯峨天皇の皇后藤原嬉子で、文永一〇年(一二七三)二月に ...
19. 一条家
世界大百科事典
元4)良実に強要して関白を弟の実経に譲らせ,ついでこれを摂政とした。この更迭は実経に対する後嵯峨天皇の信任と道家の寵愛によるもので,良実ははなはだ不満であったが ...
20. いちじょうさねつね【一条実経】
国史大辞典
長兄教実は夭死し、次兄良実は道家と不和であって、道家は実経を愛し、寛元四年(一二四六)正月、後嵯峨天皇が久仁親王(後深草天皇)に譲位の際、関白良実にかえて、左大 ...
21. いわしみずはちまんぐう【石清水八幡宮】京都府:八幡市
日本歴史地名大系
寛元三年(一二四五)には「近日宮寺、以武勇為先、以博奕為業」という有様だったので、同年九月一八日後嵯峨天皇から停止の綸旨が出され、さらに同様の趣旨の亀山院院宣が ...
22. いんりょう【院領】
国史大辞典
そこに寄進して成立した、祈願の社寺領が圧倒的に多いことである。この社寺の創建は後三条天皇の金剛寿院に始まり、後嵯峨天皇の浄金剛院まで約二十八寺と、新熊野・新日吉 ...
23. うりうのしょう【瓜生庄】福井県:遠敷郡/上中町/瓜生村
日本歴史地名大系
すなわち当庄は覚仁親王門跡領から円助親王領となったわけである。円助は「円満院門跡相承次第」によれば、後嵯峨天皇の皇子で円満院門跡を継承している。その後、同一〇年 ...
24. うんがんじ【雲巌寺】
国史大辞典
という人の開創と伝えるが詳しいことは不明。開山は高峯顕日(仏国禅師・応供広済国師)。高峯は後嵯峨天皇皇子といわれ、円覚寺開山・建長寺五世無学祖元(仏光禅師・円満 ...
25. うんがんじ【雲巌寺】栃木県:那須郡/黒羽町/雲巌寺村
日本歴史地名大系
再建、鎌倉円覚寺仏光の弟子仏国(高峰顕日)を招いて開山としたという(開山御由緒調)。仏国は後嵯峨天皇の皇子で、康元元年(一二五六)一六歳で京都東福寺に入った(仏 ...
26. 影供歌合/建長三年九月十三夜(著作ID:107028)
新日本古典籍データベース
 仙洞影供十首歌合 建長三年影供歌合 建長三年九月十三夜十首歌合 建長三年鳥羽殿十首歌合 後嵯峨天皇(ごさがてんのう) 藤原実氏(ふじわらさねうじ) 二条為氏( ...
27. えいふくじ【叡福寺】
国史大辞典
はじめ上下の尊崇をあつめ、太子信仰の隆盛に伴って、四天王寺・法隆寺とともにその中心地となった。後嵯峨天皇の中宮大宮院(藤原〓子)の遺 ...
28. えいふくじ【叡福寺】大阪府:南河内郡/太子町/太子村地図
日本歴史地名大系
ともにその中心となり、天皇の行幸や寄進、高僧の来訪するところとなった。叡福寺文書によると、後嵯峨天皇中宮大宮院(藤原〓子)の遺骨を ...
29. えんざほ【円座保】香川県:高松市/旧香川郡地区
日本歴史地名大系
)の讃岐国内の公領を書上げた箇所に「円座保京極准后 定氏卿知行」とみえる京極准后のことで、後嵯峨天皇典侍でその皇子鎌倉将軍宗尊親王を生んだ平棟基娘棟子である。当 ...
30. えんせいもんいん【延政門院】
日本人名大辞典
1259−1332 鎌倉時代,後嵯峨天皇の第2皇女。正元(しょうげん)元年生まれ。母は藤原公子。弘安(こうあん)7年内親王,准三宮(じゅさんぐう)となり,院号を ...
31. えんめいじ【延命寺】香川県:観音寺市/黒淵村
日本歴史地名大系
行基の開創と伝え、古くは現三豊郡大野原町花稲にあった(大野原町誌)。寛元年間(一二四三―四七)後嵯峨天皇の勅を賜り、近江日吉社山王権現を勧請、その別当職に補せら ...
32. 大宮院
世界大百科事典
1225-92(嘉禄1-正応5) 後嵯峨天皇の皇后藤原姞子。太政大臣西園寺実氏の長女。母は四条隆衡の女,今林准后貞子。1242年(仁治3)入内し,ほどなく立后し ...
33. おおみやいん【大宮院】画像
国史大辞典
一二二五―九二 後嵯峨天皇の皇后。藤原〓子。西園寺実氏の第一女、母は四条隆衡の女。嘉禄元年(一二二五)誕生。仁治三年(一二四二)六月女御 ...
34. おはらむら【小原村】滋賀県:伊香郡/余呉町
日本歴史地名大系
[現]余呉町小原 菅並村の北、高時川上流右岸の山村。鎌倉時代、後嵯峨天皇の第三皇子が当地御所ヶ平に来て小原籠の製法を教えたと伝える。慶長七年(一六〇二)検地帳写 ...
35. 改訂 京都民俗志 59ページ
東洋文庫
しく落ちていて、自然のすがたの水である。土地の旧字をシコブチという。後嵯峨天皇の皇子寛仁法親王がこの傍に住み、桜井宮と称し給うた。都花月名所には桜水とあって、こ ...
36. かくじょほうしんのう【覚助法親王】
日本人名大辞典
1247−1336 鎌倉時代,後嵯峨天皇の第10皇子。宝治(ほうじ)元年生まれ。静忠(じょうちゅう)に師事して京都聖護院にはいる。正元(しょうげん)元年出家し, ...
37. 鎌倉時代画像
日本大百科全書
。 これらの反幕府勢力を結集したのは、後醍醐(ごだいご)天皇による皇権回復の動きであった。後嵯峨天皇ののち、その皇子後深草(ごふかくさ)・亀山(かめやま)両天皇 ...
38. 鎌倉時代
世界大百科事典
は順徳上皇の皇子忠成王を即位させようとしたが,幕府は強硬に反対して強引に土御門上皇の皇子(後嵯峨天皇)を即位させた。土御門上皇が承久の乱の際,討幕に賛成でなかっ ...
39. かまくらじだい【鎌倉時代】
国史大辞典
悪党の行動などは、幕府支配を動揺させつつあった。一方、仁治三年(一二四二)幕府が皇位に干渉して後嵯峨天皇を擁立したことが端緒となって、持明院・大覚寺両統の対立が ...
40. かまくらじだいけんむせいけん【鎌倉時代―建武政権】 : 朝幕関係
国史大辞典
強引に邦仁(後嵯峨天皇)を即位させた。これに対して貴族間に強い反発が見られたのは、なお幕府が皇位選定権を握っていなかったことを示している。順徳上皇の外戚であった ...
41. かめやちょう【亀屋町】京都市:中京区/富有学区地図
日本歴史地名大系
也」とあるから、藤原隆衡・同隆親の第が当町を中心とした方一町にあり(冷泉万里小路殿として)後嵯峨天皇の里内裏、後に同上皇の院御所となったことがわかる。寛永一四年 ...
42. 亀山天皇
世界大百科事典
1249-1305(建長1-嘉元3) 第90代に数えられる天皇。在位1259-74年。後嵯峨天皇の第3皇子,名は恒仁。母は西園寺実氏の娘大宮院姞子。父天皇のはか ...
43. かめやま‐てんのう[‥テンワウ]【亀山天皇】
日本国語大辞典
第九〇代天皇。後嵯峨天皇の皇子。名は恒仁。正元元年(一二五九)即位し在位一五年。譲位後院政をとり、正応二年(一二八九)出家。大覚寺統のはじめ。法名金剛源。建長元 ...
44. かめやまてんのう【亀山天皇】画像
国史大辞典
に竣功した。東側に同形の後嵯峨天皇陵が並んでいる。亀山天皇はかつて本願寺を庇護し勅願寺にしたという寺伝により、修陵の際、東本願寺が報恩のために、当陵と相並ぶ後嵯 ...
45. かめやまてんのうりょう【亀山天皇陵】京都市:右京区/天龍寺門前村地図
日本歴史地名大系
[現]右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町 天龍寺境内方丈の西北、後嵯峨天皇陵に並ぶ。亀山陵といい、陵内に法華堂が建つ。亀山天皇は後嵯峨天皇第三皇子で、母は西園寺 ...
46. かめやまどのあと【亀山殿跡】京都市:右京区/天龍寺門前村地図
日本歴史地名大系
[現]右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町付近 後嵯峨上皇が亀山の麓に造営した仙居で、のち亀山上皇(後嵯峨天皇皇子)の仙洞ともなる。嵯峨殿ともいう。「百錬抄」建長七年(一 ...
47. 亀山殿五首歌合/文永二年(著作ID:819750)
新日本古典籍データベース
ん 院御歌合 文永二年九月十三夜亀山殿五首歌合 亀山院歌合 仙洞歌合/文永 仙洞五首歌合 後嵯峨天皇(ごさがてんのう) 一条実経(いちじょうさねつね) 等 歌合 ...
48. かめやまのみささぎ【亀山陵】 : 亀山天皇
国史大辞典
に竣功した。東側に同形の後嵯峨天皇陵が並んでいる。亀山天皇はかつて本願寺を庇護し勅願寺にしたという寺伝により、修陵の際、東本願寺が報恩のために、当陵と相並ぶ後嵯 ...
49. かんさついん【観察院】山口県:下関市/富任村
日本歴史地名大系
富任の北東部、蒲生野との境付近にある。臨済宗東福寺派で善光山と号し、本尊は善光寺如来。寺伝によれば、後嵯峨天皇の勅願で伝宗の開山といい、全国四八ヵ所に善光寺三尊 ...
50. 感身学正記 1 西大寺叡尊の自伝 141ページ
東洋文庫
金剛仏子叡尊感身学正記中後嵯峨天皇治天下四年寛元元年(癸卯)四十三歳二月、去年の約束によって、額安寺学春(善春房)の持仏堂において梵網経下巻古迩を講ず。この間、 ...
「後嵯峨天皇」の情報だけではなく、「後嵯峨天皇」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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舎人親王(日本大百科全書(ニッポニカ))
天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の娘新田部皇女。知太政官事穂積親王の亡きあとは皇親の長老として重んぜられ、新田部親王とともに皇太子首親王(聖武天皇)を輔翼する責務を負った
天皇(改訂新版・世界大百科事典)
日本国憲法に定める日本国および日本国民統合の象徴。天皇の歴史前近代の天皇オオキミとスメラミコト〈天皇〉は〈オオキミ〉とも〈スメラミコト〉とも呼ばれた。しかしこの二つの日本語は決して同義ではなく,むしろ両者の質の違い,それぞれの用いられる次元の相違に注目することが
皇位継承(改訂新版・世界大百科事典)
7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で
摂政(国史大辞典)
天皇に代わって万機を摂り行う者、または摂り行うことをいう。関白に類する職として関白とともに摂関といい、関白と同じく、摂ろく・執柄・博陸などの唐名があり、その地位に因んで一の人・一の所などと称され、殿下ともいわれた
関白(国史大辞典)
万機に関与する重職で摂政に類似する。したがって摂政と合わせて摂関・摂ろく・一の人・一の所などと称し、執柄・博陸・殿下などの唐名がある。関白の語は『漢書』霍公伝に、宣帝が諸事まず霍光に関白してから奏上せしめたとみえているが
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後朱雀天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇〇九-四五 一〇三六―四五在位。寛弘六年(一〇〇九)十一月二十五日、一条天皇の第三皇子として誕生。母は藤原道長の女彰子。諱は敦良。同七年正月十六日、親王宣下。寛仁元年(一〇一七)八月九日、敦明親王の皇太子辞意により、後一条天皇の皇太子
後冷泉天皇(国史大辞典・日本大百科全書・日本人名大辞典)
一〇二五-六八 一〇四五―六八在位。万寿二年(一〇二五)八月三日、東宮敦良親王(後朱雀天皇)の第一王子として誕生。母は藤原道長の女嬉子。諱は親仁。長元九年(一〇三六)十二月二十二日、親王宣下。長暦元年(一〇三七)七月二日、十三歳で元服
後三条天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇三四-七三 一〇六八―七二在位。諱は尊仁(たかひと)。長元七年(一〇三四)七月十八日、東宮敦良親王(後朱雀天皇)の第二王子として誕生。母は三条天皇の皇女禎子内親王(陽明門院)。同九年父親王の践祚後間もなく親王宣下をうけ
白河天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇五三-一一二九 一〇七二―八六在位。諱は貞仁。天喜元年(一〇五三)六月十九日、皇太子尊仁親王(後三条天皇)の第一王子として誕生。母は権中納言藤原公成の女、贈皇太后茂子である。茂子の養父で、関白藤原頼通の異母弟である春宮大夫能信の庇護のもとに成長し
堀河天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇七九-一一〇七 一〇八六―一一〇七在位。白河天皇の第二皇子。母は関白藤原師実の養女、皇后賢子(実父は右大臣源顕房)。承暦三年(一〇七九)七月九日誕生。同年十一月親王宣下あり、善仁と命名。応徳三年(一〇八六)十一月二十六日立太子
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