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  11. 後深草天皇

後深草天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『後深草天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
後深草天皇
ごふかくさてんのう
一二四三 - 一三〇四
一二四六―五九在位。後嵯峨天皇の第三皇子。母は太政大臣西園寺実氏の娘で中宮の〓子(大宮院)。寛元元年(一二四三)六月十日今出川殿で生まれ、二十八日久仁と命名、親王に立てられた。同四年正月四歳で践祚、父の後嵯峨上皇が院政を行なった。康元元年(一二五六)十一月母の妹公子(東二条院)が入内、翌正嘉元年(一二五七)正月中宮となった。在位十三年余で、正元元年(一二五九)十一月父の命によって弟の亀山天皇に譲位した。後嵯峨上皇は後深草天皇よりも亀山天皇を愛しており、後深草に皇子があるにもかかわらず、文永五年(一二六八)八月亀山の皇子世仁親王を皇太子とした。同九年二月、これまで院政を行なってきた後嵯峨法皇が没したが、その後の治天の君を後深草・亀山のいずれにするかについては、鎌倉幕府の決定に委ねる旨を遺命した。幕府は後嵯峨法皇の素意を大宮院に尋ね、その回答に従い、亀山天皇を治天の君と定め、天皇の親政が実現した。しかし後深草上皇はこの解決には不満であり、後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生まれる端緒となった。同十一年正月亀山天皇は世仁親王、すなわち後宇多天皇に譲位したが、不満の募る後深草上皇は、翌建治元年(一二七五)四月太上天皇の尊号および随身兵仗を辞して出家しようとした。関東申次であった権大納言西園寺実兼(実氏の孫)は後深草上皇のために奔走し、幕府の斡旋によって十一月後深草の皇子煕仁親王(母は左大臣洞院実雄の娘、玄輝門院〓子)が皇太子に立てられた。弘安十年(一二八七)十月煕仁は践祚して伏見天皇となり、後深草上皇が院政を行なったが、諸事は幕府と実兼の意向によって決まった。翌正応元年(一二八八)三月伏見天皇に皇子胤仁(母は参議藤原経氏の娘経子)が生まれたが、胤仁親王は中宮〓子(実兼の娘、永福門院)の猶子となり、翌二年四月皇太子に立てられた。同年十月には後深草上皇の皇子久明親王が征夷大将軍として鎌倉に迎えられるなど、時勢は持明院統に有利で、後深草・亀山の立場は以前とは逆転するに至り、これに不満を感じた亀山上皇は、同年九月に出家した。子孫が天皇・皇太子・将軍となったことに満足した後深草上皇も、翌三年二月には亀山殿で出家、法諱を素実と称した。当時の通例とは違って政務をも辞し、これまで執筆してきた日記の筆までも絶った。後深草上皇の院政はわずか二年余で終り、伏見天皇の親政となったが、その後も折にふれて天皇から政治の相談を受けている。後深草法皇は出家の翌四年十一月には東大寺で受戒した。永仁六年(一二九八)七月には胤仁親王が践祚して後伏見天皇となり、正安三年(一三〇一)正月後二条天皇(後宇多上皇の皇子)の践祚まで持明院統の治世が続いた。後深草法皇は嘉元二年(一三〇四)七月十六日富小路殿で没した。六十二歳。御陵は京都市伏見区深草坊町の深草北陵。日記に『後深草天皇宸記』がある。→深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)
[参考文献]
竜粛『鎌倉時代』下、三浦周行『日本史の研究』新輯一
(上横手 雅敬)

所領

建長三年(一二五一)二月、後白河天皇皇女宣陽門院から長講堂領を譲られたが、幼少のため父後嵯峨上皇が管領し、文永四年(一二六七)十月これを渡した。『梅松論』や『増鏡』によると、後深草上皇が長講堂領を譲られた際、後嵯峨上皇から子孫は永く在位の望みをたち、亀山天皇の子孫が皇位につき断絶してはならぬとの遺勅があったという。しかしそれが史実でないことは、八代国治が考証している。後深草上皇は後嵯峨法皇の処分で、播磨国衙領と肥前国神崎荘を譲られた。さらに建治元年(一二七五)二月後堀河天皇中宮鷹司院が崩御になると、鳥羽天皇皇女上西門院領の法金剛院領・熱田社領などを相伝した。そして後深草上皇は正安二年(一三〇〇)三月六日、中宮東二条院公子にあてて処分状を与えた。すなわち、嵯峨の北の地は将来必ず全部管領さすこと、長講堂領三荘と新御領および旧上西門院領の二荘などは東二条院の管領だが、将来はその女遊義門院(後宇多天皇皇后)に譲与することを予約した。この後深草天皇宸翰処分状は、京都嵯峨の大覚寺に襲蔵されている。さらに嘉元二年(一三〇四)七月八日に処分状を草し、長講堂領・播磨国衙領は伏見上皇に、法金剛院領は後伏見上皇に、後深草天皇中宮東二条院の旧領富小路亭・山城国伏見領・有栖川亭は遊義門院に譲与した。また天王寺遍照光院と摂津国葺屋荘・同堺荘などは伏見天皇中宮永福門院に譲った。この処分状は、徳治元年(一三〇六)三月鎌倉幕府執権北条師時がみている(中野忠太郎旧蔵『手鑑』)。
[参考文献]
帝室林野局編『御料地史稿』、八代国治『国史叢説』、中村直勝『吉野朝史』(『中村直勝著作集』三)
(奥野 高広)


日本大百科全書(ニッポニカ)
後深草天皇
ごふかくさてんのう
[1243―1304]

第89代天皇(在位1246~59)。名は久仁(ひさひと)。法名素実(そじつ)。常盤井(ときわい)殿また富小路院(とみのこうじいん)殿と称した。後嵯峨(ごさが)天皇の皇子。母は西園寺実氏(さいおんじさねうじ)の女(むすめ)大宮院姞子(おおみやいんきっし)。父天皇の譲を受け位についたが、父の命により1259年(正元1)位を弟亀山(かめやま)天皇に譲った。その後、子伏見(ふしみ)天皇、孫後伏見(ごふしみ)天皇の代に院政をとり、90年(正応3)出家し、嘉元(かげん)2年7月16日没。京都の深草北陵に葬る。後深草天皇は持明院(じみょういん)統の祖であり、北朝皇統の祖にもあたる。持明院、大覚寺(だいかくじ)両統の対立が激化した伏見天皇の代、浅原為頼(あさはらためより)の伏見天皇殺害未遂事件があった。後深草天皇は、33年間にわたり100巻に余る日記を記したと伝えられており、これを『水旱宸記(すいかんしんき)』とも称したが、今日ではそのほとんどが失われ、わずか10巻だけが伝存する。
[村田正志]



世界大百科事典
後深草天皇
ごふかくさてんのう
1243-1304(寛元1-嘉元2)

第89代に数えられる天皇。在位1246-59年。後嵯峨天皇の第2皇子,名は久仁。在位中は父上皇の院政で,1259年(正元1)上皇の命で弟亀山天皇に譲位し,以後皇統が亀山天皇の大覚寺統に相伝されそうになると,鎌倉幕府の斡旋で皇子伏見天皇の践祚を実現,みずからは院政をしいた。以後この皇統は持明院統と呼ばれ,両統迭立の基となった。陵所は京都市伏見区深草坊町にある(深草北陵)。
→両統迭立
[飯倉 晴武]

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検索ヒット数 264
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検索コンテンツ
1. 後深草天皇
日本大百科全書
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2. 後深草天皇
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1243-1304(寛元1-嘉元2) 第89代に数えられる天皇。在位1246-59年。後嵯峨天皇の第2皇子,名は久仁。在位中は父上皇の院政で,1259年(正元1 ...
3. ごふかくさ‐てんのう[‥テンワウ]【後深草天皇】
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4. ごふかくさてんのう【後深草天皇】画像
国史大辞典
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5. 後深草天皇(ごふかくさてんのう)
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7. 後深草天皇[文献目録]
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11. 納後深草天皇遺骨於安樂行院 (見出し語:後深草天皇)
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14. ごふかくさてんのうしんき【後深草天皇宸記】
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21. あきづきのしょう【秋月庄】徳島県:阿波郡
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22. あさごのしょう【朝来庄】兵庫県:朝来郡/山東町
日本歴史地名大系
らの妨げを永く停止されている(案、大徳寺文書)。長講堂領は、丹後局所生の宣陽門院に譲られ、後深草天皇が伝領、以後持明院統が伝領した。弘安八年(一二八五)の但馬国 ...
23. 排蘆小船(近世随想集) 376ページ
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24. 排蘆小船(近世随想集) 377ページ
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26. あらいむら【荒井村】兵庫県:高砂市
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28. 安楽行院
世界大百科事典
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32. いちじょうさねつね【一条実経】
国史大辞典
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33. いちのべっぷ【市別符】兵庫県:加西市/市村
日本歴史地名大系
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34. 五辻宮
世界大百科事典
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35. いまはやしりょう【今林陵】京都市:右京区/上嵯峨村地図
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納入することになっていたが、神祭神籬については「近年不勤之」とある。長講堂領は鷹司院を経て後深草天皇へと伝えられ、その後持明院統に伝えられていった。建長三年(一 ...
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