1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 社会
  6. >
  7. 政治
  8. >
  9. 天皇
  10. >
  11. 後深草天皇
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

ジャパンナレッジは約1500冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
国史大辞典
後深草天皇
ごふかくさてんのう
一二四三 - 一三〇四
一二四六―五九在位。後嵯峨天皇の第三皇子。母は太政大臣西園寺実氏の娘で中宮の〓子(大宮院)。寛元元年(一二四三)六月十日今出川殿で生まれ、二十八日久仁と命名、親王に立てられた。同四年正月四歳で践祚、父の後嵯峨上皇が院政を行なった。康元元年(一二五六)十一月母の妹公子(東二条院)が入内、翌正嘉元年(一二五七)正月中宮となった。在位十三年余で、正元元年(一二五九)十一月父の命によって弟の亀山天皇に譲位した。後嵯峨上皇は後深草天皇よりも亀山天皇を愛しており、後深草に皇子があるにもかかわらず、文永五年(一二六八)八月亀山の皇子世仁親王を皇太子とした。同九年二月、これまで院政を行なってきた後嵯峨法皇が没したが、その後の治天の君を後深草・亀山のいずれにするかについては、鎌倉幕府の決定に委ねる旨を遺命した。幕府は後嵯峨法皇の素意を大宮院に尋ね、その回答に従い、亀山天皇を治天の君と定め、天皇の親政が実現した。しかし後深草上皇はこの解決には不満であり、後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生まれる端緒となった。同十一年正月亀山天皇は世仁親王、すなわち後宇多天皇に譲位したが、不満の募る後深草上皇は、翌建治元年(一二七五)四月太上天皇の尊号および随身兵仗を辞して出家しようとした。関東申次であった権大納言西園寺実兼(実氏の孫)は後深草上皇のために奔走し、幕府の斡旋によって十一月後深草の皇子煕仁親王(母は左大臣洞院実雄の娘、玄輝門院〓子)が皇太子に立てられた。弘安十年(一二八七)十月煕仁は践祚して伏見天皇となり、後深草上皇が院政を行なったが、諸事は幕府と実兼の意向によって決まった。翌正応元年(一二八八)三月伏見天皇に皇子胤仁(母は参議藤原経氏の娘経子)が生まれたが、胤仁親王は中宮〓子(実兼の娘、永福門院)の猶子となり、翌二年四月皇太子に立てられた。同年十月には後深草上皇の皇子久明親王が征夷大将軍として鎌倉に迎えられるなど、時勢は持明院統に有利で、後深草・亀山の立場は以前とは逆転するに至り、これに不満を感じた亀山上皇は、同年九月に出家した。子孫が天皇・皇太子・将軍となったことに満足した後深草上皇も、翌三年二月には亀山殿で出家、法諱を素実と称した。当時の通例とは違って政務をも辞し、これまで執筆してきた日記の筆までも絶った。後深草上皇の院政はわずか二年余で終り、伏見天皇の親政となったが、その後も折にふれて天皇から政治の相談を受けている。後深草法皇は出家の翌四年十一月には東大寺で受戒した。永仁六年(一二九八)七月には胤仁親王が践祚して後伏見天皇となり、正安三年(一三〇一)正月後二条天皇(後宇多上皇の皇子)の践祚まで持明院統の治世が続いた。後深草法皇は嘉元二年(一三〇四)七月十六日富小路殿で没した。六十二歳。御陵は京都市伏見区深草坊町の深草北陵。日記に『後深草天皇宸記』がある。→深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)
[参考文献]
竜粛『鎌倉時代』下、三浦周行『日本史の研究』新輯一
(上横手 雅敬)

所領

 建長三年(一二五一)二月、後白河天皇皇女宣陽門院から長講堂領を譲られたが、幼少のため父後嵯峨上皇が管領し、文永四年(一二六七)十月これを渡した。『梅松論』や『増鏡』によると、後深草上皇が長講堂領を譲られた際、後嵯峨上皇から子孫は永く在位の望みをたち、亀山天皇の子孫が皇位につき断絶してはならぬとの遺勅があったという。しかしそれが史実でないことは、八代国治が考証している。後深草上皇は後嵯峨法皇の処分で、播磨国衙領と肥前国神崎荘を譲られた。さらに建治元年(一二七五)二月後堀河天皇中宮鷹司院が崩御になると、鳥羽天皇皇女上西門院領の法金剛院領・熱田社領などを相伝した。そして後深草上皇は正安二年(一三〇〇)三月六日、中宮東二条院公子にあてて処分状を与えた。すなわち、嵯峨の北の地は将来必ず全部管領さすこと、長講堂領三荘と新御領および旧上西門院領の二荘などは東二条院の管領だが、将来はその女遊義門院(後宇多天皇皇后)に譲与することを予約した。この後深草天皇宸翰処分状は、京都嵯峨の大覚寺に襲蔵されている。さらに嘉元二年(一三〇四)七月八日に処分状を草し、長講堂領・播磨国衙領は伏見上皇に、法金剛院領は後伏見上皇に、後深草天皇中宮東二条院の旧領富小路亭・山城国伏見領・有栖川亭は遊義門院に譲与した。また天王寺遍照光院と摂津国葺屋荘・同堺荘などは伏見天皇中宮永福門院に譲った。この処分状は、徳治元年(一三〇六)三月鎌倉幕府執権北条師時がみている(中野忠太郎旧蔵『手鑑』)。
[参考文献]
帝室林野局編『御料地史稿』、八代国治『国史叢説』、中村直勝『吉野朝史』(『中村直勝著作集』三)
(奥野 高広)


日本大百科全書(ニッポニカ)
後深草天皇
ごふかくさてんのう
[1243―1304]

第89代天皇(在位1246~59)。名は久仁(ひさひと)。法名素実(そじつ)。常盤井(ときわい)殿また富小路院(とみのこうじいん)殿と称した。後嵯峨(ごさが)天皇の皇子。母は西園寺実氏(さいおんじさねうじ)の女(むすめ)大宮院姞子(おおみやいんきっし)。父天皇の譲を受け位についたが、父の命により1259年(正元1)位を弟亀山(かめやま)天皇に譲った。その後、子伏見(ふしみ)天皇、孫後伏見(ごふしみ)天皇の代に院政をとり、90年(正応3)出家し、嘉元(かげん)2年7月16日没。京都の深草北陵に葬る。後深草天皇は持明院(じみょういん)統の祖であり、北朝皇統の祖にもあたる。持明院、大覚寺(だいかくじ)両統の対立が激化した伏見天皇の代、浅原為頼(あさはらためより)の伏見天皇殺害未遂事件があった。後深草天皇は、33年間にわたり100巻に余る日記を記したと伝えられており、これを『水旱宸記(すいかんしんき)』とも称したが、今日ではそのほとんどが失われ、わずか10巻だけが伝存する。
[村田正志]



世界大百科事典
後深草天皇
ごふかくさてんのう
1243-1304(寛元1-嘉元2)

第89代に数えられる天皇。在位1246-59年。後嵯峨天皇の第2皇子,名は久仁。在位中は父上皇の院政で,1259年(正元1)上皇の命で弟亀山天皇に譲位し,以後皇統が亀山天皇の大覚寺統に相伝されそうになると,鎌倉幕府の斡旋で皇子伏見天皇の践祚を実現,みずからは院政をしいた。以後この皇統は持明院統と呼ばれ,両統迭立の基となった。陵所は京都市伏見区深草坊町にある(深草北陵)。
→両統迭立
[飯倉 晴武]

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
タブレットやスマホからも利用できます。
後深草天皇の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 264
検索コンテンツ
1. 後深草天皇
日本大百科全書
院政をとり、90年(正応3)出家し、嘉元(かげん)2年7月16日没。京都の深草北陵に葬る。後深草天皇は持明院(じみょういん)統の祖であり、北朝皇統の祖にもあたる ...
2. 後深草天皇
世界大百科事典
1243-1304(寛元1-嘉元2) 第89代に数えられる天皇。在位1246-59年。後嵯峨天皇の第2皇子,名は久仁。在位中は父上皇の院政で,1259年(正元1 ...
3. ごふかくさ‐てんのう[‥テンワウ]【後深草天皇】
日本国語大辞典
第八九代天皇。後嵯峨天皇の皇子。母は大宮院〓子。名は久仁。寛元四年(一二四六)即位。在位一三年。父の意向によってやむなく弟亀山天皇 ...
4. ごふかくさてんのう【後深草天皇】画像
国史大辞典
予約した。この後深草天皇宸翰処分状は、京都嵯峨の大覚寺に襲蔵されている。さらに嘉元二年(一三〇四)七月八日に処分状を草し、長講堂領・播磨国衙領は伏見上皇に、法金 ...
5. 後深草天皇(ごふかくさてんのう)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 30ページ ...
6. ごふかくさてんのう【後深草天皇】
日本人名大辞典
1243−1304 鎌倉時代,第89代天皇。在位1246-60*。寛元元年6月10日生まれ。後嵯峨(ごさが)天皇の第3皇子。母は藤原 ...
7. 後深草天皇[文献目録]
日本人物文献目録
【図書】:0件 【逐次刊行物】:3件 『京都妙蓮寺蔵後深草天皇宸翰御消息に就いて』赤松俊秀『後深草天皇宸翰御消息に就いて』赤松俊秀『後深草天皇追善の供養経』近藤 ...
8. 後深草天皇・後深草上皇・後深草法皇
日本史年表
1259年〈正元元(3・26) 己未⑩〉 11・26 後深草天皇 ,恒仁親王(亀山天皇)に譲位(百練抄)。 1287年〈弘安10 丁亥〉 10・21 譲位,  ...
9. 後深草天皇龜山天皇兩統更立 (見出し語:後深草天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 288ページ ...
10. 後深草天皇諡 (見出し語:後深草天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 948ページ ...
11. 納後深草天皇遺骨於安樂行院 (見出し語:後深草天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 1000ページ ...
12. 後深草天皇花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
13. 後深草天皇 所領一覧[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
14. ごふかくさてんのうしんき【後深草天皇宸記】
国史大辞典
後深草天皇の日記。『水早宸記』ともいう。正嘉二年(一二五八)から正応三年(一二九〇)まで書かれ、百余巻あったと伝えるが、今は次の諸巻のみ伝わる。(一)「両院石 ...
15. 後深草天皇願文(著作ID:2671854)
新日本古典籍データベース
ごふかくさてんのうがんもん 後深草天皇御願文 仏教 正応五 ...
16. 後深草天皇宸筆御消息(著作ID:1055396)
新日本古典籍データベース
ごふかくさてんのうしんぴつごしょうそく 後深草院御文類 後深草天皇宸翰御消息 後深草天皇(ごふかくさてんのう) 文書  ...
17. 後深草院崩御以下記(著作ID:1055385)
新日本古典籍データベース
ごふかくさいんほうぎょいかのき 後深草天皇崩御以下記 西園寺公衡(さいおんじきんひら) 記録  ...
18. 龜山天皇後深草天皇兩統更立 (見出し語:龜山天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 288ページ ...
19. あおしまのしょう【青島庄】山梨県:西八代郡
日本歴史地名大系
正月に長子(鷹司院)に所領を譲与することを決めたが、その後変更して建長三年(一二五一)二月後深草天皇へと伝えられた。正応六年(一二九三)四月鷹司兼平から子基忠に ...
20. あかまのしよう【赤馬庄】福岡県:宗像市/旧宗像市地区
日本歴史地名大系
康元元年(一二五六)一一月二二日には姉小路顕朝が後深草天皇に当庄所職について奏聞しているように(「弾正少弼満俊書状」宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文一一)、当庄は鷹司 ...
21. あきづきのしょう【秋月庄】徳島県:阿波郡
日本歴史地名大系
門院に譲られ、承久の乱後幕府に一度没収されるものの、のち還付されて宣陽門院の養女鷹司院から後深草天皇に譲られて持明院統に伝領されることから、当庄の立庄は一二世紀 ...
22. あさごのしょう【朝来庄】兵庫県:朝来郡/山東町
日本歴史地名大系
らの妨げを永く停止されている(案、大徳寺文書)。長講堂領は、丹後局所生の宣陽門院に譲られ、後深草天皇が伝領、以後持明院統が伝領した。弘安八年(一二八五)の但馬国 ...
23. 排蘆小船(近世随想集) 376ページ
日本古典文学全集
佐渡、土佐に流され、配所で没した。「風」とあるべきところ。鎌倉後期、皇位や所領をめぐって皇統が後深草天皇の持明院統と亀山天皇系の大覚寺統の二つに分裂、対立し、そ ...
24. 排蘆小船(近世随想集) 377ページ
日本古典文学全集
開く。為藤に命じて『続後拾遺和歌集』を撰進せしめた。第九十二代天皇。名は煕仁。萩原上皇とも称。後深草天皇の第二皇子。母は玄輝門院愔子。文保元年没、五三歳。和歌を ...
25. あぶごりょう【阿武御領】山口県:阿武郡
日本歴史地名大系
阿武御領は他の長講堂領とともに伝領された。後白河上皇の後はその第六皇女宣陽門院勤子、鷹司院を経て後深草天皇に伝領、以降持明院統の御料としてその経済にあてられた。 ...
26. あらいむら【荒井村】兵庫県:高砂市
日本歴史地名大系
鎮守は荒井神社。浄土宗西山禅林寺派の利生寺・観音寺、浄土真宗本願寺派明覚寺がある。建長七年(一二五五)後深草天皇は教信寺(現加古川市)の伽藍を建立した際、浄土諸 ...
27. ありまおんせん【有馬温泉】兵庫県:神戸市/北区/湯山町
日本歴史地名大系
毎日二〇〇桶ずつ摂津吹田の別荘へ運ばせたこともあり(「明月記」寛喜三年九月一六日条など)、後深草天皇も有馬温泉の湯を取寄せている(「百錬抄」正元元年一〇月五日条 ...
28. 安楽行院
世界大百科事典
現在の京都市伏見区深草坊町にあったが,1894年廃寺。後深草天皇以後多くの天皇の分骨所。中世には深草法華堂と呼ばれ,寺名の初見は1500年(明応9)後土御門天皇 ...
29. あんらくぎょういん【安楽行院】
国史大辞典
。その際、安楽行院一宇が残り、やがて堂は現在の地に移された。これより先嘉元二年(一三〇四)後深草天皇がなくなった時、深草法華堂を造建してここに葬った。その後、伏 ...
30. あんらくぎよういんあと【安楽行院跡】京都市:伏見区/深草村地図
日本歴史地名大系
)一月後光厳没後泉涌寺で葬送され遺骨は深草法華堂に納められている。このように深草法華堂は、後深草天皇以後多くの天皇の分骨が納められる所であった。記録のうえでは安 ...
31. いそうのしょう【石負庄】兵庫県:氷上郡/氷上町/石負村
日本歴史地名大系
上皇の皇女で、宣陽門院は後白河上皇の皇女である。承久の乱で幕府に没収されたが、鷹司院を経て後深草天皇に伝えられ、以後持明院統に伝領された。これより先の文治元年( ...
32. いちじょうさねつね【一条実経】
国史大辞典
次兄良実は道家と不和であって、道家は実経を愛し、寛元四年(一二四六)正月、後嵯峨天皇が久仁親王(後深草天皇)に譲位の際、関白良実にかえて、左大臣・東宮傅であった ...
33. いちのべっぷ【市別符】兵庫県:加西市/市村
日本歴史地名大系
正安二年(一三〇〇)三月六日の後深草天皇譲状(大覚寺文書)に「はりまのいちの別符」とみえ、妃藤原相子に譲与されている。以後持明院統に伝領された。播磨国衙別納一〇 ...
34. 五辻宮
世界大百科事典
の将として各地に転戦した守良親王方の没落に伴い,熙明親王の子孫が宮号を襲封した。この一統は後深草天皇の皇孫であるのにちなみ,深草宮とも呼ばれ,代々伏見・花園院の ...
35. いまはやしりょう【今林陵】京都市:右京区/上嵯峨村地図
日本歴史地名大系
後宇多天皇の皇后遊義門院〓子内親王の陵。皇后は後深草天皇皇女で、母は東二条院公子。弘安八年(一二八五)後宇多天皇皇后となる。徳治二年(一三〇七)七月二四日 ...
36. いまばやしじゅごう【今林准后】
日本人名大辞典
。建久7年生まれ。四条隆衡(たかひら)の娘。四条天皇の乳母で,大宮院(後深草天皇,亀山天皇の生母),東二条院(後深草天皇の中宮)を生む。建長6年准三宮(じゅさん ...
37. いまばやしのみささぎ【今林陵】
国史大辞典
後深草天皇皇女尊称皇后にして後宇多天皇の後宮である遊義門院〓子内親王の陵。京都市右京区嵯峨大覚寺門前六道町にある。皇后は徳治二 ...
38. うさいだのしょう【菟田庄】大阪府:泉南市/兎田村
日本歴史地名大系
納入することになっていたが、神祭神籬については「近年不勤之」とある。長講堂領は鷹司院を経て後深草天皇へと伝えられ、その後持明院統に伝えられていった。建長三年(一 ...
39. えいようもんいん【永陽門院】
日本人名大辞典
1272−1346 鎌倉-南北朝時代,後深草天皇の皇女。文永9年生まれ。母は玄輝門院。正応(しょうおう)4年内親王となる。永仁(えいにん)2年院号をさずけられる ...
40. えんぷくじ【円福寺】
国史大辞典
深草流の四総本山の一つ。山・院号は深草山真宗院。建長三年(一二五一)深草流の祖円空立信が、後深草天皇の勅で山城の紀伊郡深草に創建し、深草山真宗院と称した。正元元 ...
41. えんぷくじちょう【円福寺町】京都市:中京区/竜池学区地図
日本歴史地名大系
もんまちの 三郎殿」は、当町付近と思われる。町名となった円福寺は、初め建長三年(一二五一)後深草天皇の勅願で紀伊郡深草の地に創立され浄土宗深草派の本寺となったが ...
42. えんぷくじまえちょう【円福寺前町】京都市:中京区/生祥学区地図
日本歴史地名大系
洛中絵図に「円福寺町」、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」で「円福寺前町」となる。町名は、後深草天皇の勅願寺である浄土宗円福寺が、何度かの移転を重ねて、天正一三 ...
43. えんまんいん【円満院】滋賀県:大津市/中部地域
日本歴史地名大系
知る最も古い史料である。円満院宸殿は正保四年(一六四七)明正天皇の旧御殿を譲受けたもので、紙本墨書の後深草天皇宸翰御消息断簡および同後光厳院宸翰御消息各一幅とと ...
44. おおしおむら【大塩村】兵庫県:姫路市/旧印南郡地区
日本歴史地名大系
経寺・浄土真宗本願寺派明泉寺・同派円龍寺・真宗大谷派養源寺などがある。建長七年(一二五五)後深草天皇は教信寺(現加古川市)の伽藍を建立した際、播磨の浄土諸寺に対 ...
45. おおみやいん【大宮院】
日本人名大辞典
西園寺実氏(さねうじ)の長女。仁治(にんじ)3年女御として入内(じゅだい)し,中宮となる。後深草天皇,亀山天皇らを生む。宝治(ほうじ)2年院号をうける。文永9年 ...
46. 改訂 京都民俗志 239ページ
東洋文庫
沢薬師と人のいったのが蛸薬師に変ったという. ⇔ 比叡山にあったとき、沢薬師といったのが元 である。⇔ 後深草天皇の建長年間に、同寺に善光という 僧があった。母 ...
47. 花押 13[別刷図版]画像
国史大辞典
鎌倉時代 皇族 221 後鳥羽天皇 222 後深草天皇(一) 223 後深草天皇(二) 224 後深草天皇(三) 225 伏見天皇(一) 226 伏見天皇(二) ...
48. かくひつ【角筆】
国史大辞典
う(以上『角筆記』)。その名称は、『篁(たかむら)日記』に「かくひち」、『江家次第』以下『後深草天皇宸記』などの古記録に読書始の用具として「角筆」とあり、『康富 ...
49. かすが‐りんじさい【春日臨時祭】
日本国語大辞典
〔名〕奈良の春日大社の臨時の祭礼。後深草天皇の勅願として正応年間(一二八八~九三)に始まる。祭日は二月中のことが多い。春日の臨時の祭。*勘仲記‐正応五年〔129 ...
50. かすごう【香須郷】長崎県:壱岐郡/勝本町
日本歴史地名大系
「経俊卿記」正元元年(一二五九)六月七日条に壱岐島香須郷とみえ、行昭が大宰府の妨げを停止するように後深草天皇に訴え、大宰帥藤原隆行も勅定に従うと答えたので、行昭 ...
「後深草天皇」の情報だけではなく、「後深草天皇」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る

後深草天皇と同じ天皇カテゴリの記事
舎人親王(日本大百科全書(ニッポニカ))
天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の娘新田部皇女。知太政官事穂積親王の亡きあとは皇親の長老として重んぜられ、新田部親王とともに皇太子首親王(聖武天皇)を輔翼する責務を負った
天皇(改訂新版・世界大百科事典)
日本国憲法に定める日本国および日本国民統合の象徴。天皇の歴史前近代の天皇オオキミとスメラミコト〈天皇〉は〈オオキミ〉とも〈スメラミコト〉とも呼ばれた。しかしこの二つの日本語は決して同義ではなく,むしろ両者の質の違い,それぞれの用いられる次元の相違に注目することが
皇位継承(改訂新版・世界大百科事典)
7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で
摂政(国史大辞典)
天皇に代わって万機を摂り行う者、または摂り行うことをいう。関白に類する職として関白とともに摂関といい、関白と同じく、摂ろく・執柄・博陸などの唐名があり、その地位に因んで一の人・一の所などと称され、殿下ともいわれた
関白(国史大辞典)
万機に関与する重職で摂政に類似する。したがって摂政と合わせて摂関・摂ろく・一の人・一の所などと称し、執柄・博陸・殿下などの唐名がある。関白の語は『漢書』霍公伝に、宣帝が諸事まず霍光に関白してから奏上せしめたとみえているが
天皇と同じカテゴリの記事をもっと見る


「後深草天皇」は天皇に関連のある記事です。
その他の天皇に関連する記事
後朱雀天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇〇九-四五 一〇三六―四五在位。寛弘六年(一〇〇九)十一月二十五日、一条天皇の第三皇子として誕生。母は藤原道長の女彰子。諱は敦良。同七年正月十六日、親王宣下。寛仁元年(一〇一七)八月九日、敦明親王の皇太子辞意により、後一条天皇の皇太子
後冷泉天皇(国史大辞典・日本大百科全書・日本人名大辞典)
一〇二五-六八 一〇四五―六八在位。万寿二年(一〇二五)八月三日、東宮敦良親王(後朱雀天皇)の第一王子として誕生。母は藤原道長の女嬉子。諱は親仁。長元九年(一〇三六)十二月二十二日、親王宣下。長暦元年(一〇三七)七月二日、十三歳で元服
後三条天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇三四-七三 一〇六八―七二在位。諱は尊仁(たかひと)。長元七年(一〇三四)七月十八日、東宮敦良親王(後朱雀天皇)の第二王子として誕生。母は三条天皇の皇女禎子内親王(陽明門院)。同九年父親王の践祚後間もなく親王宣下をうけ
白河天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇五三-一一二九 一〇七二―八六在位。諱は貞仁。天喜元年(一〇五三)六月十九日、皇太子尊仁親王(後三条天皇)の第一王子として誕生。母は権中納言藤原公成の女、贈皇太后茂子である。茂子の養父で、関白藤原頼通の異母弟である春宮大夫能信の庇護のもとに成長し
堀河天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一〇七九-一一〇七 一〇八六―一一〇七在位。白河天皇の第二皇子。母は関白藤原師実の養女、皇后賢子(実父は右大臣源顕房)。承暦三年(一〇七九)七月九日誕生。同年十一月親王宣下あり、善仁と命名。応徳三年(一〇八六)十一月二十六日立太子
天皇に関連する記事をもっと見る
ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額550万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る