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  11. 亀山天皇
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
亀山天皇
かめやまてんのう
一二四九 - 一三〇五
一二五九―七四在位。建長元年(一二四九)五月二十七日誕生。父は後嵯峨上皇、母は西園寺実氏の女の大宮院〓子。諱は恒仁。正嘉二年(一二五八)八月、兄後深草天皇の東宮にたつ、時に十歳。正元元年(一二五九)八月二十八日、十一歳で元服。同年十一月二十六日、父母のはからいで践祚、同十二月二十八日、即位。皇子世仁親王も文永五年(一二六八)二歳で東宮となる。同十一年正月二十六日、にわかに東宮(後宇多天皇)に譲位。天皇は性闊達英明で父母の寵愛深く、文永九年二月、後嵯峨法皇崩御後、天皇が「治天の君」とされたのも、大宮院が幕府に対して、後嵯峨の素意が亀山にあったと証言したことがきめてとなったのである。これが後の皇位継承をめぐる大覚寺・持明院両統対立の発端となる。親政開始後の天皇は、制符の制定、雑訴沙汰の改革、徳政興行にとりくむ。譲位後も上皇として政務をみ、評定衆以下の結番制、評定機関の分化と定日の設定のほか、『弘安礼節』も制定した。これらは「徳政興行」「厳密之沙汰」として好評であった。さらに自系の皇統の将来を配慮し、弘安六年(一二八三)に八条院領の相続、ついで室町院領半分の伝領に成功した。この亀山院政の背景には、皇位継承をめぐる持明院統への対抗意識、他方ではこの問題について、幕府より有利な解決を引きだそうとするねらいがある。また元寇の際には、身をもって国難に殉ぜんと伊勢神宮に祈願したといわれる。しかし同十年、後宇多天皇退位のあと、皇位は持明院統に移り、将軍には後深草上皇の皇子久明親王が迎えられた。亀山上皇は失意のあまり、正応二年(一二八九)九月、にわかに離宮禅林寺殿に出家、四十一歳。嘉元三年(一三〇五)九月十五日、離宮亀山殿に崩御、五十七歳。亀山殿法華堂に葬る。遺命により亀山院といい、禅林寺殿・文応皇帝ともいう。天皇は儒学を好み、弘安十年四月、院の評定所を聖堂にあてて講書を行なった。建治二年(一二七六)七月、藤原為氏に和歌の撰集を命じ(『続拾遺和歌集』)、また漢詩文を嗜み、管絃の秘曲も極めた。ために「文学紹隆」の時期と謳歌された。禅宗にも帰依し、東福寺円爾・普門を尊信、普門を請じて御願寺南禅寺の開山とす。かくて禅宗は公家社会に重んぜられるに至る。また浄土宗についても造詣あり、『極楽直道抄』の撰がある。
[参考文献]
竜粛『鎌倉時代』下、八代国治「蒙古襲来に就ての研究」(『国史叢説』所収)、平泉澄「亀山上皇殉国の御祈願」(『我が歴史観』所収)
(飯田 久雄)

亀山陵(かめやまのみささぎ)

 京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町(天竜寺域内庫裡北隣)にある。南面する宝形造の法華堂。嘉元三年(一三〇五)九月十七日夜亀山殿の後山にて火葬、御骨は遺言によって五箇の青瓷に納め、三箇は亀山殿封内の浄金剛院に、他の二箇は南禅寺と高野山金剛峯寺に納めた(『文応皇帝外記』)。前者はのちに法華堂を造って納め、天皇の本陵とした。中世には荒廃して所在を失ったが、幕末にその故址は天竜寺方丈の北、塔頭雲居庵の西にあたると考証し、当地を陵所と定めて修理し、慶応元年(一八六五)五月に竣功した。東側に同形の後嵯峨天皇陵が並んでいる。亀山天皇はかつて本願寺を庇護し勅願寺にしたという寺伝により、修陵の際、東本願寺が報恩のために、当陵と相並ぶ後嵯峨天皇陵との修理費を献じた。修陵のころ両陵を浄金剛院法華堂と称したが、のち亀山天皇陵を亀山殿法華堂と改め、さらに明治三十九年(一九〇六)に現陵名とした。分骨所は京都市左京区南禅寺福地町南禅寺内にあり、西面する宝形造の法華堂で、幕末修理の際に西本願寺がその費用を献じている。また、のちに後宇多天皇の遺言によって同天皇の蓮華峰寺陵(五輪塔)にも分骨された。高野山に納められたものは不明である。火葬塚は、後嵯峨・後伏見両天皇と同所であって、京都市右京区嵯峨亀ノ尾町亀山公園内にある。
[参考文献]
上野竹次郎『山陵』下
(中村 一郎)

所領

 文永九年(一二七二)正月後嵯峨法皇から六勝寺・鳥羽殿・冷泉殿・讃岐国・美濃国などを譲られた(『伏見宮御記録』元二所収「後嵯峨院処分状」)。同十一年に後宇多天皇に譲位後は院政をとる。(一)弘安三年(一二八〇)と正応二年(一二八九)の二回、順徳天皇皇子四辻宮善統親王から七条院領三十八所を譲られた。(二)弘安六年九月安嘉門院の死後、その知行した八条院領を伝えた。(三)正応四年(一二九一)ころ大宮院は、その所領を後宇多上皇に譲るが、亀山上皇の管領に属した。(四)正安二年(一三〇〇)室町院の死後、乾元元年(一三〇二)八月にその所領を伏見上皇と折半して伝領した。以上の合計は七条院領三十八、八条院領二百三十、室町院領五十三、後嵯峨天皇譲与分二国と七十余、大宮院譲与分四十一(別に筑前宗像社など多くの社寺領がある)、および祈願の社寺とその所領で、総計二国と四百三十以上である。この莫大な御領を統制し、大覚寺統領の基礎を確立した。なお亀山殿・花園殿以下の殿舎、禅林寺・紀伊歓喜寺・播磨朝光寺以下の祈願寺とその所領は含まない。嘉元三年(一三〇五)七月崩御前に御領を処分し(『亀山院御凶事記』)、大覚寺統領は後宇多上皇の管領に帰した。
[参考文献]
帝室林野局編『御料地史稿』、宗像神社復興期成会編『宗像神社史』下、八代国治「長講堂領の研究」(『国史叢説』所収)
(奥野 高広)


日本大百科全書(ニッポニカ)
亀山天皇
かめやまてんのう
[1249―1305]

鎌倉中期の天皇(在位1259~74)。名は恒仁(つねひと)。後嵯峨(ごさが)天皇の第3皇子。建長(けんちょう)元年5月27日生まれ。母は西園寺実氏(さいおんじさねうじ)の娘大宮院姞子(おおみやいんきっし)で、後深草(ごふかくさ)天皇の生母。後嵯峨上皇は兄後深草天皇よりも弟亀山天皇を愛し、後深草天皇の子を差し置いて亀山天皇の子(後宇多(ごうだ)天皇)を立太子させた。大覚寺(だいかくじ)・持明院(じみょういん)両統迭立の端緒である。亀山天皇は在位15年で皇位を後宇多天皇に譲り、院政(1274~87)を開始して朝政の実権を握った。文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役のあった緊迫した時期である。鎌倉幕府の弘安の改革に呼応して「徳政」を進め、評定(ひょうじょう)制を大改革するなどその院政は意欲的であった。出家後離宮を禅寺としたが、これが南禅寺(なんぜんじ)の起源である。嘉元(かげん)3年9月15日没。陵墓は京都・亀山陵。
[黒田弘子]



世界大百科事典
亀山天皇
かめやまてんのう
1249-1305(建長1-嘉元3)

第90代に数えられる天皇。在位1259-74年。後嵯峨天皇の第3皇子,名は恒仁。母は西園寺実氏の娘大宮院姞子。父天皇のはからいで兄後深草天皇の譲りをうけて即位し,ついで皇子(後宇多天皇)に位を譲って大覚寺統の皇統をひらき,持明院統との対立のもとをつくった。後宇多天皇の在位中は上皇として院政をしいた。この間1274年(文永11),81年(弘安4)にモンゴルの襲来があり,上皇は身をもって国難に殉ぜんとの祈願を伊勢神宮にささげた。87年鎌倉幕府は上皇が幕府に異心をいだいているということから,皇位を持明院統の伏見天皇にうつし,さらに89年(正応2)同天皇の皇子(後伏見天皇)を皇太子にしたことから,失意のあまり出家した。法名は金剛源(こんごうげん)といい,離宮を禅寺として南禅寺を創建し禅林寺殿とも呼ばれた。陵所は京都市右京区嵯峨天竜寺にある(亀山陵)。
→両統迭立(りょうとうてつりつ)
[飯倉 晴武]

[索引語]
金剛源 禅林寺殿
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