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後宇多天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『後宇多天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
後宇多天皇
ごうだてんのう
一二六七 - 一三二四
一二七四―八七在位。名は世仁。文永四年(一二六七)十二月一日、亀山天皇の第二皇子として土御門殿で誕生。母は左大臣藤原実雄の女の皇后佶子(京極院)。翌五年六月親王宣下、八月立太子。当時院政を行なっていた後嵯峨上皇が、同九年に没すると、鎌倉幕府は上皇の素志を尊重して亀山天皇を治天の君とし、亀山天皇の親政となった。やがて同十一年正月二十六日、八歳の後宇多天皇は、亀山の譲りを受けて高倉殿で践祚、三月には太政官庁で即位し、亀山は上皇として院政を行なった。この年十一月には、蒙古の兵が対馬・壱岐から北九州を襲い(文永の役)、さらに弘安四年(一二八一)にも再度の襲来があった(弘安の役)。さて亀山上皇が院政を行い、後宇多天皇が即位したことについては、亀山の兄の後深草上皇が不満を抱いており、ここに後深草系の持明院統と、亀山系の大覚寺統との対立を見るに至った。後深草に同情した幕府は、その皇子の煕仁を皇太子に立て、弘安十年十月、後宇多天皇は煕仁(伏見天皇)に譲位し、後深草上皇が院政を行うことになった。さらに永仁六年(一二九八)伏見は皇子胤仁(後伏見天皇)に譲位、上皇として院政をとり、持明院統の治世が続いたが、東宮には大覚寺統から後宇多上皇の皇子邦治が立てられた。大覚寺統側は幕府に強くはたらきかけ、ついに正安三年(一三〇一)正月、邦治(後二条天皇)が践祚し、後宇多上皇が院政を行うことになり、久方ぶりに大覚寺統の治世が復活した。延慶元年(一三〇八)八月、後二条天皇が没し、持明院統の花園天皇(伏見の皇子)が践祚すると、伏見上皇が院政を行なったが、文保二年(一三一八)二月、後醍醐天皇(後二条の弟)が践祚し、後宇多は再び院政を執った。後宇多上皇の院政は、後二条・後醍醐両天皇の時代、通算十一年余りに及んだが、元亨元年(一三二一)上皇は吉田定房を鎌倉に遣わし、幕府の同意を得て、ついに十二月九日、白河上皇以来二百余年に及んだ院政を停止、後醍醐天皇の親政とした。後宇多天皇は深く仏教に帰依し、さきに徳治二年(一三〇七)皇后の遊義門院が没すると、自身も七月二十六日、仁和寺の禅助を戒師とし、亀山殿の寿量院で出家した。法名は金剛性。出家後は大覚寺に住み、政務のかたわら密教を研究し、特に院政をやめてのちは密教に専念したが、正中元年(一三二四)六月二十五日、五十八歳で同寺で没した。遺詔によって後宇多院と追号された。御陵は大覚寺の東北方の蓮華峰寺陵。『新後撰和歌集』は後宇多上皇の命により、嘉元元年(一三〇三)藤原為世が撰したものであり、日記に『後宇多天皇宸記』がある。宸翰も比較的多く、教王護国寺(東寺)所蔵の「東寺興隆条々事書御添状」(徳治三年)、国立歴史民俗博物館所蔵の後宇多院宸記(文保三年)、醍醐寺所蔵の「当流紹隆教誡」(延慶二年)、大覚寺所蔵の「弘法大師伝」(正和四年(一三一五))、同所蔵「御手印遺告」は国宝に指定されている。
[参考文献]
三浦周行『鎌倉時代史』(『日本史の研究』新輯一)、竜粛『鎌倉時代』下
(上横手 雅敬)

蓮華峰寺陵(れんげぶじのみささぎ)

京都市右京区北嵯峨朝原山町にある後宇多天皇と生母京極院皇后藤原佶子の合葬陵。亀山天皇・遊義門院〓子内親王・後二条天皇の各分骨をも合葬する。『建立蓮華峰寺縁起』に、後宇多天皇は、広沢池の北、朝原山の麓に八角円堂を建立し、堂内に順逆五輪石塔を安置し、この石塔の地輪の両際に五円を彫り、中心の円にはみずからの遺骨を納めることを遺言し、四方の円中に、皇考・皇妣・皇后・皇子の各遺骨を安置して、蓮華峰寺と号した由を記すので、天皇は崩御の三日後、正中元年(一三二四)六月二十八日蓮華峰寺傍の山で火葬に付され、遺骨は同寺五輪塔の円中に納められたと考えられる。以来、大覚寺が陵を奉祠管理してきたが、文久三年(一八六三)江戸幕府は陵を修補し、陵号を蓮華峰寺傍山陵と定めたが、のち現陵号に改められた。陵は現在、林間に位置する木造本瓦葺宝形造の法華堂で、方三・六二メートル、南面する。堂の周囲は石垣で方形壇状に築き、縁に透塀をめぐらし、南面中央は高麗門がある。堂内は白砂敷きで、中央に高さ二・四二メートルの花崗岩の五輪塔一基、両側に小五輪塔各一基を安置する。中央の塔は、火輪に浮彫文様のある特殊な五輪塔である。堂の周囲には、かつて鎌倉・室町時代の石仏・石碑伝など五百余が散在し、堂を中心に浄土が形成されていたとも考えられるが、今は石垣区画の東外側に設けた安置所に移し、整然と安置されている。
[参考文献]
上野竹次郎『山陵』下、谷森善臣『山陵考』(『(新註)皇学叢書』五)
(石田 茂輔)

所領

弘安三年(一二八〇)と正応二年(一二八九)の二回、順徳天皇皇子四辻宮善統親王が伝えた修明門院領(もと七条院領)の譲与をうけ、正応五年九月後嵯峨天皇皇后大宮院の崩御により、亀山殿・浄金剛院領・筑前宗像社以下を譲られた。嘉元三年(一三〇五)七月、亀山上皇から冷泉殿文庫・北白川殿・薬草院・讃岐国・因幡国・八条院庁分・安楽寿院・歓喜光院・智恵光院・蓮華心院・万里小路殿・亀山殿・浄金剛院領などを譲られた。その九月亀山上皇の崩御後に、後宇多上皇は大覚寺統所領のすべてを管領する。翌徳治元年(一三〇六)六月十二日、上皇は所領のすべてを名目上同胞の昭慶門院に譲与した。その九月十五日門院は入道する。いずれも鎌倉幕府の猜疑の眼をそらそうとの目的である。延慶元年(一三〇八)八月、後二条天皇崩御、花園天皇践祚、後二条天皇弟尊治親王(後醍醐天皇)立太子。後宇多上皇は、閏八月同親王に所領のすべてを譲った(持明院統の花園天皇の写した譲状が京都御所東山御文庫に現存、『宸翰英華』)。文保二年(一三一八)後醍醐天皇が践祚すると、後宇多上皇はやがて幕府と交渉し、元亨元年(一三二一)から天皇親政が実現した。そして大覚寺統は持明院統と折半した室町院領を回収しようとして失敗。後宇多上皇領の多くは後醍醐天皇に伝領した。
[参考文献]
帝室林野局編『御料地史稿』、八代国治『国史叢説』、中村直勝『吉野朝史』(『中村直勝著作集』三)
(奥野 高広)


日本大百科全書(ニッポニカ)
後宇多天皇
ごうだてんのう
[1267―1324]

鎌倉時代後期の天皇(在位1274~87)。名は世仁(よひと)。亀山(かめやま)天皇の第2皇子。文永(ぶんえい)4年12月1日生まれ。母は左大臣藤原実雄(さねお)の娘京極院佶子(きょうごくいんきっし)。退位後、伏見(ふしみ)天皇、後伏見天皇と引き続き持明院(じみょういん)統が皇位を継承したのに抗議し、両統迭立(てつりつ)を行わせ、1301年(正安3)第1皇子(後二条(ごにじょう)天皇)を即位させ、自らはその間7年院政を行って朝政の実権を握った。18年(文保2)第2皇子(後醍醐(ごだいご)天皇)が即位するとふたたび院政をとったが、3年後の21年(元亨1)院政を廃して後醍醐天皇の親政とした。学問を好み、仏道の修行に熱心であった。出家して法号を金剛性という。日記に『後宇多天皇(院)宸記(しんき)』がある。元亨(げんこう)4年6月25日没。陵墓は京都・蓮華峰寺(れんげぶじ)陵。
[黒田弘子]



世界大百科事典
後宇多天皇
ごうだてんのう
1267-1324(文永4-正中1)

第91代に数えられる天皇。在位1274-87年。亀山天皇の第2皇子。母は左大臣洞院実雄の娘京極院佶子。名は世仁。大覚寺殿と称された。在位中は父亀山上皇の院政時代で,その間と退位後も学問に努めた。1301年(正安3)皇子の後二条天皇が即位すると院政をしき,熱心に政務をみた。07年(徳治2)寵妃姈子内親王が没すると,それをいたんで急に出家し,大覚寺を住いとした。法名は金剛性。晩年は大覚寺統と持明院統の皇統争いに悩まされた。学問に通じ,仏教に帰依,また《新後撰和歌集》を二条為世に撰進させた。陵所は京都市右京区北嵯峨朝原山町にある(〓華峯寺陵)。
→文保の和談
[飯倉 晴武]

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新嘗祭の翌日の辰日、および大嘗祭においては午日に、天皇が出御して行われる公儀の宴会。荷田在満『大嘗会儀式具釈』に「豊明トハ宴会ヲ云、古クハ宴会豊楽等ノ字ヲ直ニトヨノアカリト訓ズ、大嘗新嘗ノ後ニハ必宴会アリ、仍テ大嘗ノ豊明、新嘗ノ豊明ナドトハイヘド
文官分限令・文官懲戒令(日本大百科全書)
1899年(明治32)3月に第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣の手で公布された、一般文官の身分および職分の保障に関する規定と、懲戒に関する規定。前者では、官吏の身分保障、免官、休職、降任、休職中の俸給、復職などについての原則が規定され、官吏の身分
太上天皇(国史大辞典・日本国語大辞典)
譲位した天皇の称。「だいじょうてんのう」とも訓む。略して上皇あるいは太皇ともいい、また御在所を意味する院の称も用いられ、さらにその御在所を神仙の居所に擬して仙院・仙洞・藐姑射山(はこやのやま)・茨山(しざん)などとも称された。
上皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
譲位した天皇の尊称。正式には太上(だいじょう)天皇と称する。中国の太上皇(たいじょうこう)、太上皇帝の称に始まり、太上は最上または至上の意。日本では697年(文武天皇1)譲位した持統(じとう)天皇が初めて太上天皇と称し、大宝令(たいほうりょう)
昭和天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一九〇一 - 八九 一九二六―八九在位。明治三十四年(一九〇一)四月二十九日午後十時十分、東宮御所に生誕。皇太子明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)と皇太子妃節子(のちの貞明皇后)の第一皇子。五月五日明治天皇より裕仁(ひろひと)と命名され
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