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  11. 後村上天皇
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
後村上天皇
ごむらかみてんのう
一三二八 - 六八
一三三九―六八?在位。南朝第二代の天皇。後醍醐天皇の第七皇子。母は阿野公廉の女新待賢門院廉子。諱は義良(のりよし)、のちに憲良(のりよし)。嘉暦三年(一三二八)に生まれる。元弘三年(一三三三)後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼし、公家一統の新政を始めると、北畠顕家を陸奥守に任じ、父親房とともに奥羽に下向させたが、その時義良親王を伴わしめた。その後足利尊氏が反すると、親王は北畠父子とともに西上し、天皇の行在所叡山に至り、同地において元服し、陸奥太守に任じ、また奥羽に赴いた。その本拠多賀国府が敵襲をうけ危険になり、霊山に移った。延元二年(北朝建武四、一三三七)再度西上の途にのぼり、各地に転戦の後、吉野行宮に入った。顕家が和泉で戦死の後、翌三年(北朝暦応元)同親王は宗良親王とともに北畠親房・顕信父子、結城宗広らに奉ぜられて三たび奥羽に赴くため伊勢大湊を出港したが、途中船団は暴風に遭い、義良親王の乗船は吹き戻されて伊勢に上陸し、それより吉野に帰還、皇太子になった。同四年八月十五日父天皇の譲りをうけて践祚した。正平三年(北朝貞和四、一三四八)正月足利方の高師直が大軍をもって吉野に来攻し、行宮をやきはらったために、天皇は紀伊に難を避けたが、のちに大和賀名生に移った。同五年(北朝観応元)に至り、足利氏一族武将の間の内訌が激化し、武力争闘を展開することになったが、さきに尊氏の弟直義が南朝に降参し、ついで尊氏が同じく南朝に降参した。そこで同六年十一月七日南朝は北朝崇光天皇を廃位させ、ついに天下を一統し、足利氏追討の計略をすすめることになった。後村上天皇は同七年二月賀名生行宮を発して河内東条を経て摂津住吉に至り、閏二月男山に進み、まさに京都を回復するまでになった。ところが足利氏はまた南朝に反し、尊氏の子義詮は男山の行宮に攻撃を加え、五月ついにこれを陥れた。天皇は敵の重囲を辛うじて脱出、賀名生に帰還するを得た。その後同九年(北朝文和三)十月天皇は河内天野に移り、金剛寺を行宮にした。同所に数年滞在の後、同十四年(北朝延文四)十二月観心寺に移り、さらにその翌年九月住吉に移り、同二十三年(北朝応安元)三月十一日同所において崩御。年齢四十一歳。観心寺後山に葬り、これを檜尾陵と称する。天皇は幼少の時代、奥羽に赴くこと二度に及び、苦難を味わったが、天皇になってから後も南北朝の戦乱のために安住の時なく、行宮を転々移動せしめ、またたびたびの戦闘にも加わり、ことに男山合戦の際は矢石の間をくぐることさえあった。しかし天皇は一面和漢の学を好み、和歌にすぐれた文才があり、琵琶・箏の音楽にもふかく通達していた。天皇が神仏に信仰あつく、伊勢神宮に親拝したこと、また水無瀬御影堂・金剛峯寺・鰐淵寺に願文を納めたことなどの事蹟があるが、禅僧孤峯覚明を特に尊信したことも顕著なる事蹟である。天皇の宸翰の今日に伝存するものはかなりの数に達するが、それは大覚寺統伝統の唐様に和様を加味したすぐれた書蹟であり、書道にも秀でた技能をもっていたと考えられる。
[参考文献]
『大日本史料』六ノ二九 正平二十三年三月十一日条、木村武夫『後村上天皇の聖蹟』、村田正志「後村上天皇と三光国師」(『村田正志著作集』一所収)、同「村手重雄氏蔵後村上天皇宸翰の考証」(同一所収)、同「後村上天皇の琵琶秘曲相伝の史実」(同二所収)
(村田 正志)

檜尾陵(ひのおのみささぎ)

 大阪府河内長野市寺元にある。字名を檜尾といい、観心寺の裏山にあたる。観心寺境内より約二百二十段の石階を昇り、鬱蒼たる杉・檜に囲まれた所で、御陵は西面する小円丘にして、墳上には椿・檜・樫などが育生している。正平二十三年(北朝応安元、一三六八)天皇は住吉で崩じ、当所に葬られた。観心寺はかつて天皇の行宮であった所で、古来御陵を崇敬し、土地でも椿樹は天皇の頭の位置と伝えていた。近世になって『前王廟陵記』などや地誌類も当所を御陵と記し、幕末には江戸幕府が御陵として修営した。なお同寺の境内に崩後間もなく天皇のために法華三昧堂が建立された。近世には阿弥陀堂・御魂屋と称され、明治五年(一八七二)ころまで存在していた。
[参考文献]
『大日本史料』六ノ二九 正平二十三年三月十一日条、上野竹次郎『山陵』下、川瀬一馬「(新発見の資料に拠る)新待賢門院御陵墓攷」(『日本書誌学之研究』所収)
(中村 一郎)


日本大百科全書(ニッポニカ)
後村上天皇
ごむらかみてんのう
[1328―1368]

南北朝時代初期の(南朝第2代)天皇(在位1339~68)。名は義良(のりよし)(「のりなが」とも読む)。後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。母は阿野廉子(あのれんし)(新待賢門院(しんたいけんもんいん))。1333年(元弘3・正慶2)北畠顕家(きたばたけあきいえ)に奉じられて陸奥(むつ)に下向し、奥州将軍府によって東北地方を統治した。35年(建武2)、37年(延元2・建武4)の二度にわたって、建武(けんむ)新政に反旗を翻した足利尊氏(あしかがたかうじ)追討のため上洛(じょうらく)、激戦ののち吉野に入り、三たび東国に下ろうとしたが果たせず、39年(延元4・暦応2)吉野で即位。48年(正平3・貞和4)賀名生(あのう)に逃れ、その後も各地で転戦したが、ついに京都に戻ることなく、正平(しょうへい)23年3月11日摂津国住吉の行宮(あんぐう)で没した。陵墓は大阪府河内(かわち)長野市観心寺後山の檜尾(ひのお)陵。
[黒田弘子]



世界大百科事典
後村上天皇
ごむらかみてんのう
1328-68(嘉暦3-正平23・応安1)

第97代に数えられる天皇。在位1339-68年。後醍醐天皇の第8皇子。名は初め憲良,のち義良。母は新待賢門院阿野廉子。父天皇の天下一統の戦いに参加し,はじめ北畠顕家とともに東北経営に従い,いったん吉野に戻り,38年(延元3・暦応1)再び東国に向かう途中,暴風で帰還,まもなく父天皇のあとをうけて践祚した。以後,吉野や金剛寺,河内東条にあって京都回復,天下一統のための戦いに終始した。《新葉和歌集》に御製十数首がある。68年摂津住吉の行宮で没した。陵所は大阪府河内長野市にある(檜尾陵)。
[飯倉 晴武]

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1. 後村上天皇
日本大百科全書
南北朝時代初期の(南朝第2代)天皇(在位1339~68)。名は義良(のりよし)(「のりなが」とも読む)。後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。母は阿野廉子(あのれんし) ...
2. 後村上天皇
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1328-68(嘉暦3-正平23・応安1) 第97代に数えられる天皇。在位1339-68年。後醍醐天皇の第8皇子。名は初め憲良,のち義良。母は新待賢門院阿野廉子 ...
3. ごむらかみ‐てんのう[‥テンワウ]【後村上天皇】
日本国語大辞典
第九七代南朝の天皇。後醍醐天皇の皇子。母は新待賢門院廉子。名は義良(のりよし)。元弘三年(一三三三)北畠顕家とともに陸奥に赴いて、東北の鎮護にあたった。南北朝分 ...
4. ごむらかみてんのう【後村上天皇】画像
国史大辞典
正平二十三年三月十一日条、木村武夫『後村上天皇の聖蹟』、村田正志「後村上天皇と三光国師」(『村田正志著作集』一所収)、同「村手重雄氏蔵後村上天皇宸翰の考証」(同 ...
5. 後村上天皇(ごむらかみてんのう)
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6. ごむらかみてんのう【後村上天皇】
日本人名大辞典
1328−1368 南北朝時代,第97代(南朝第2代)天皇。在位1339-68。嘉暦(かりゃく)3年生まれ。後醍醐(ごだいご)天皇の第7(または第8)皇子。母は ...
7. 後村上天皇[文献目録]
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林屋辰三郎『後村上天皇と三光国師』村田正志『後村上天皇と三光国師』村田正志『後村上天皇の継述の御精神』久保田収『正平七年の後村上天皇八幡行幸に就いて』木村武夫『 ...
8. 義良親王・後村上天皇
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南朝】正平12 丁酉⑦〉 5・‐ 後村上天皇 ,河内観心寺に行幸(観心寺文書)。 1359年〈【北朝】延文4・【南朝】正平14 己亥〉 12・23 後村上天皇  ...
9. 後村上天皇住吉神社行幸 (見出し語:後村上天皇)
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10. 後村上天皇山陵 (見出し語:後村上天皇)
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11. 後村上天皇諡 (見出し語:後村上天皇)
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12. 後村上天皇花押[図版]画像
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 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
13. 後村上天皇御系(著作ID:2684017)
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14. あいぜんどう【愛染堂】和歌山県:伊都郡/高野町/高野山
日本歴史地名大系
勤行が遅れる羽目となり、「早退一類張行、可全両ケ之御願」との南朝綸旨が出され、正平九年(一三五四)二月には後村上天皇からも高野山寺領を安堵すべき旨の綸旨が出され ...
15. あかさかじょう【赤坂城】
国史大辞典
らに率いられた鎌倉幕府軍の攻撃をうけ、食糧も尽きて陥落した。文和元年(正平七、一三五二)、後村上天皇が賀名生(あのう)を出て、この城に立ち寄り、摂津住吉に向かっ ...
16. あがたほ【英田保】石川県:河北郡
日本歴史地名大系
が領家に居住したという伝承が記載されている。南英田保は、正平九年(一三五四)一一月二二日の後村上天皇綸旨(水無瀬神宮文書)に「南県庄」とみえ、地頭職が水無瀬神宮 ...
17. あきづきのしょう【秋月庄】徳島県:阿波郡
日本歴史地名大系
延元三年(一三三八)一二月六日の後醍醐天皇綸旨(愛洲文書)、興国二年(一三四一)四月八日の後村上天皇綸旨(同文書)によれば、それぞれ愛洲七郎左衛門尉憲俊に当庄地 ...
18. あさどの【阿佐殿】
日本人名大辞典
−? 南北朝時代,後亀山(ごかめやま)天皇の中宮(ちゅうぐう)。応安4=建徳2年(1371)後村上天皇の女御(にょうご)嘉喜(かき)門院に紅葉ひと枝を献じ,その ...
19. あしかがたかうじ【足利尊氏】画像
国史大辞典
ここに北朝は同年八月、尊氏を征夷大将軍に任命、南軍不振のうちに、翌二年後醍醐天皇も吉野の行宮で世を去り、後村上天皇が践祚した。尊氏・直義はこれを悼み、その百箇日 ...
20. あしかがよしあきら【足利義詮】画像
国史大辞典
奉じた。ついで尊氏は兵を東国に進めて直義を討ち、義詮は京都を守ったが、南北の講和によって南朝の後村上天皇が男山に進出すると、義詮は南軍の強くなることを恐れてこれ ...
21. あじろのしょう【足代庄】大阪府:東大阪市/旧布施市地区/東足代村
日本歴史地名大系
西足代村(現生野区)辺りを領域とした庄園。網代庄とも記す。正平五年(一三五〇)七月一一日の後村上天皇綸旨案(妙心寺文書)に「河内国網代庄領家職」とみえる。この綸 ...
22. あぜかわじょうあと【阿瀬川城跡】和歌山県:有田郡/清水町/中原村
日本歴史地名大系
拠点であった。正平三年(一三四八)正月、北朝方高師直の吉野行宮焼討(「太平記」ほか)以後、後村上天皇は湯浅党の勢力下にある当地に潜幸、阿瀬川城を一時行宮としたが ...
23. あそうごう【麻生郷】大阪府:貝塚市
日本歴史地名大系
後醍醐天皇綸旨(同文書)をもって丹生明神社に麻生郷知行を安堵した。しかし興国二年(一三四一)五月二八日の後村上天皇綸旨(同文書)で丹生明神社には麻生郷にかえて和 ...
24. あつただいぐうじまさよし【熱田大宮司昌能】
国史大辞典
建武三年(延元元、一三三六)五月の後醍醐天皇山門行幸および十月の京都還幸に供奉、側近として奉仕した。後村上天皇の時代になってもかわることなく、文和元年(正平七、 ...
25. あつみのしょう【厚見庄】大阪府:羽曳野市
日本歴史地名大系
しかしこの公文職をめぐっては幸盛と西琳寺の間に相論が起こり、興国四年(一三四三)四月四日の後村上天皇綸旨、同日の近衛三位中将家御教書案、同月二二日の楠木正行施行 ...
26. あてがわのしょう【阿〓河庄】和歌山県:有田郡/清水町
日本歴史地名大系
・立神・井谷(文永四年五月一〇日「上庄在家綿注文案」同集)、湯河(正平一五年一一月一三日「後村上天皇綸旨」上山文書)などが知られ、有田川・湯川川合流点付近が、上 ...
27. あの【阿野】
日本国語大辞典
興したことにはじまる。鎌倉後期にでた実廉は、後醍醐天皇の後宮に仕えた廉子(新待賢門院)とは兄弟で、廉子が後村上天皇をはじめ恒良親王らを生んだことから、実廉はもと ...
28. あのう[あなふ]【穴生】
日本国語大辞典
【一】〔一〕奈良県吉野郡西吉野村の古地名。後村上天皇が北朝の吉野攻略の難を避けて皇居を置いてからは、賀名生と表記した。*太平記〔14C後〕二六・芳野炎上事「今夜 ...
29. 賀名生
世界大百科事典
2月26日条に〈伝聞,今上皇帝令出穴太此間改名於賀名生宸居,令赴住吉給〉とあり,今上皇帝(後村上天皇)がこの時期以前,賀名生に在住していたことがわかる。〈穴太此 ...
30. あのう【賀名生】奈良県:吉野郡/西吉野村
日本歴史地名大系
天皇の阿那宇入御から二八日吉野山へ潜幸までと(「禅恵奥書」天野山金剛寺文書)、正平三年秋頃後村上天皇が吉野山の戦火を避けて賀名生に逃れてから(「太平記」巻二六の ...
31. あのうのあんぐう【賀名生行宮】
国史大辞典
はっきりは定め難い。貞和四年(正平三、一三四八)足利方の将高師直によって吉野行宮が攻撃された際、後村上天皇は、逃れて賀名生に移り、文和元年(正平七、一三五二)二 ...
32. あのけ【阿野家】画像
国史大辞典
実直の孫に公廉、公廉の女に廉子があり、後醍醐天皇の後宮となり、新待賢門院号を宣下せられ、その腹に後村上天皇・恒良親王・成良親王らが生まれた。その関係から以後の一 ...
33. 阿野廉子
世界大百科事典
後醍醐天皇の寵愛をうけ,25年(正中2)に恒良(のち東宮),翌26年(嘉暦1)に成良,28年に義良(のち後村上天皇)の3親王の誕生をみ,ほかに2人の皇女を生んだ ...
34. あの-れんし【阿野廉子】
日本人名大辞典
正安(しょうあん)3年生まれ。阿野公廉の娘。洞院公賢(きんかた)の養女。天皇の寵愛(ちょうあい)をうけ,後村上天皇,恒良(つねよし)親王,成良(なりよし)親王ら ...
35. あまの【天野】
日本国語大辞典
【一】大阪府河内長野市の北部の地名。後村上天皇の皇居となった金剛寺がある。*太平記〔14C後〕三四・和田楠軍評定事「此の比(ころ)吉野の新帝は、河内の天野(アマ ...
36. あまの【天野】大阪府:河内長野市地図
日本歴史地名大系
状(淡輪文書)にも同一九日の天野合戦が記される。南北朝期、金剛寺は南朝との結び付きが深く、後村上天皇の行在所となっている。楠木正儀の築城と考えられる仁王山城の地 ...
37. あまのさんこんごうじ【天野山金剛寺】大阪府:河内長野市/天野山村地図
日本歴史地名大系
和田庄三分の一は勅免とされたが(同年四月一七日付後村上天皇綸旨)、この問題は同九年まで続いた。なお後村上天皇によって、正平九年に備中草壁庄西方地頭職(同年一二月 ...
38. あまのしょう【阿万庄】兵庫県:三原郡/南淡町
日本歴史地名大系
)にも馳せ参じたが(「太平記」巻一七)、暦応三年(一三四〇)四月には「安間・志知」両氏らが後村上天皇の命で伊予に下向する途中に武島(沼島)に着いた脇屋義助を、船 ...
39. あまののあんぐう【天野行宮】
国史大辞典
剛寺に入り、観蔵院を御座所にして数年を過ごした。ところが男山合戦に敗れて賀名生に退いた南朝後村上天皇も、同三年十月二十八日当寺に入り、摩尼院に滞留し、食堂を政庁 ...
40. あまむら【安満村】大阪府:高槻市地図
日本歴史地名大系
在地武士として南朝側にあった芥河右馬允信真も、安満右馬允を名乗っている(興国二年一二月二四日「後村上天皇綸旨」紀伊性応寺文書)。安満縄手は現南松原町にあたる字高 ...
41. ありもとごう【有本郷】和歌山県:和歌山市/河南地区/有本村
日本歴史地名大系
郷地頭職」に日前国懸宮神主の紀国造家が任じられている。また正平六年(一三五一)五月一〇日付後村上天皇綸旨(同文書)では紀国造家の「日前・国懸両大神宮領当国南方有 ...
42. あわのしょう・ひろせのしょう・やまだありまるのしょう【阿波庄・広瀬庄・山田有丸庄】三重県:阿山郡/大山田村
日本歴史地名大系
弘恵に交付している(「室町幕府御教書案」東大寺文書)。一方この頃、伊賀山田郡の地頭職を南朝後村上天皇が綸旨をもって安村丹後守頼直に与えているが(「良訓補忘集」法 ...
43. いいだむら【飯田村】香川県:高松市/旧香川郡地区
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44. いかがごう【伊香賀郷】大阪府:枚方市/伊加賀村
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て、正平六年(一三五一)九月二一日に河内国守口(現守口市)で戦い、翌年二月の京中合戦には、後村上天皇の軍勢に代人として子息泰宗・信宗を遣わし(正平六年一一月日・ ...
45. いがのつぼね【伊賀局(1)】
日本人名大辞典
る。貞和(じょうわ)4=正平(しょうへい)3年高師直(こうの-もろなお)の吉野攻めにより,後村上天皇や廉子が賀名生(あのう)(奈良県南部)にのがれたとき,局は巨 ...
46. いしぜほ【石瀬保】富山県:高岡市/旧射水郡小矢部川右岸地区
日本歴史地名大系
切られていたものの、川口保・塚原保と連続していた国衙領の一。興国二年(一三四一)四月八日の後村上天皇綸旨(南狩遺文)により、石瀬保地頭職が勲功の賞として成田四郎 ...
47. いしどうよりふさ【石塔頼房】画像
国史大辞典
一三五一)に至る間伊勢国守護。この間、高師直と対立した直義に勧め、ともに南朝に帰順し、観応元年十一月、後村上天皇の詔を奉じて生駒山に挙兵、ついで男山に拠って京都 ...
48. いずしじんじゃ【出石神社】兵庫県:出石郡/出石町/宮内村
日本歴史地名大系
職(後藤上村五郎左衛門尉跡)を寄進している(神床氏古文書纂)。ところで正平六年六月七日付の後村上天皇綸旨(出石神社文書)によって出石神社の領家号が停止されている ...
49. いずみのくに【和泉国】大阪府地図
日本歴史地名大系
正平二年(一三四七)一二月に吉野に登り、後村上天皇らに授戒したが、その頃、覚明は大鳥郡内に大雄寺(跡地は現高石市)を創建、その開堂にあたって後村上天皇が臨席した ...
50. いちれんじ【一蓮寺】山梨県:甲府市/甲府城下/一蓮寺地内町
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たことをうかがわせるもので、八世までの住職は武田一族出自であったとされる。ただし五世は南朝後村上天皇の子尊観法親王で、法阿は副住を務めている(一蓮寺過去帳)。文 ...
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