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  11. 長慶天皇

長慶天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『長慶天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
長慶天皇
ちょうけいてんのう
一三四三 - 九四
一三六八―八三在位。南朝第三代の天皇。名寛成。後村上天皇の皇子。興国四年(北朝康永二、一三四三)生まれる。母は嘉喜門院と考定される。晩年出家して覚理と号したらしく、同天皇の称号長慶院は禅宗寺院の一坊たる長慶院に住したことに基づくものと考えられる。また同天皇を慶寿院と称したことも確実であるが、これは同天皇の崩御後、皇子海門承朝によって、菩提供養のためにつくられた寺院名による称号と解すべきである。同天皇は後村上天皇のあとをうけて践祚したが、正平二十三年(北朝応安元、一三六八)三月十一日後村上天皇の崩御直後か、あるいは崩御をさかのぼる若干年前か明確にしがたい。ただし正平二十三年春のころにはすでに在位の事実が認められる。この当時から南朝は著しく衰退したので、同天皇の事蹟もあまり明らかでないが、践祚の当初は摂津住吉に行宮があり、間もなく大和吉野に移り、ついで河内天野の金剛寺に移り、天授五年(北朝康暦元、一三七九)のころ大和栄山寺に住した。弘和三年(北朝永徳三、一三八三)十月末、十一月初めのころまで在位は確実であるが、同年末か、翌元中元年(北朝至徳元、一三八四)閏九月前の間に譲位した。譲位後しばらく院政を行なった証拠があり、翌二年九月十日高野山に宸筆願文を納めた。出家後の晩年の状況はほとんど判明せず、その住処も不明であるが、和泉の長慶院なる禅院に居住したことが推測される。しかして応永元年(一三九四)八月一日崩じた。五十二歳と伝える。天皇の生涯は戦乱の世に終始したが、『仙源抄』の著作があり、和歌に秀いで、天授元年(北朝永和元)『五百番歌合』、同二年『千首和歌』(二百四首のみ現存)があり、『新葉和歌集』には御製五十三首が収録されている。同天皇の在位・非在位の問題は、江戸時代から諸家の間に異論があり、『新葉和歌集作者部類』の著者榊原忠次や『大日本史』編者徳川光圀は在位説を、塙保己一は『花咲松』を以て非在位説を唱えた。明治に至り、正統史学者はおおむね在位説であったが、谷森善臣は『嵯峨野之露』を以て非在位説を論じた。大正に至り、古写本『耕雲千首』奥書の発見があり、八代国治・武田祐吉の有力なる在位論説の発表があり、特に八代の『長慶天皇御即位の研究』は決定的な在位説として評価された。そこで大正十五年(一九二六)十月二十一日長慶天皇の皇統加列についての詔書発布があり、ここに同天皇在位の事実が承認された。またその後同天皇の御陵に関する調査研究が行われ、村田正志の「長慶天皇と慶寿院」の発表があり、昭和十九年(一九四四)二月十一日同天皇の嵯峨東陵の決定を見るに至った。
[参考文献]
『大日本史料』六ノ二九 正平二十三年三月十一日条、同七ノ一 応永元年八月一日条、村田正志「長慶天皇と慶寿院」(『村田正志著作集』一所収)
(村田 正志)

嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)

京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町にある。天皇の晩年の行動を伝える資料はないので、陵墓の調査・管理を行う宮内省が京都府・大阪府・奈良県・和歌山県などを主として寺社旧家や、有力な伝説地などの調査を行なったが、陵墓関係の資料は発見できなかった。しかし天皇の皇子・近親者が晩年は地方を引き上げて入洛していることから天皇も最終時にはまた入洛したことが推定される。天皇の別称を「慶寿院」というが、これは皇子の海門承朝(相国寺三十世・嘉吉三年(一四四三)五月九日寂)が止住した嵯峨天竜寺の塔頭慶寿院によるものである。当時天皇の称号はその在所によって呼ばれたから、当院は天皇が住んだとも思われ、崩後は、その供養所であったと思われる。したがって当所は天皇にとって最も由緒深い所と考えられるので、その跡地を整備して陵所とし、昭和十九年(一九四四)二月十一日首記の陵号を定め、同時に域内に承朝の墓も定められた。
[参考文献]
『大日本史料』七ノ一 応永元年八月一日条、村田正志「長慶天皇と慶寿院」(『村田正志著作集』一所収)
(中村 一郎)


日本大百科全書(ニッポニカ)
長慶天皇
ちょうけいてんのう
[1343―1394]

第98代天皇(在位1368~83)。名は寛成(ゆたなり)。法名覚理。長慶院また慶寿(けいじゅ)院とも称する。後村上(ごむらかみ)天皇の第1皇子。母は未詳。父天皇の後を受けて皇位につき、住吉、吉野、栄山(えいざん)寺などの行宮(あんぐう)に居住。譲位後数年間は院政を行ったらしいが、のち出家して仏門に帰した。長慶天皇の在位、非在位についての議論は、江戸時代以来の史学上の大問題で、『大日本史』は在位説を、塙保己一(はなわほきいち)は非在位説を唱えた。大正年間になり、在位を確証する『耕雲千首奥書』などの有力な史料が発見され、また八代国治(やしろくにじ)(1873―1924)が『長慶天皇御即位の研究』を発表するに及んで在位説は確実となり、1926年(大正15)10月21日に皇統加列の詔書が発布された。応永(おうえい)元年8月1日に崩じたことはほぼ確実であるが、崩御の地は明らかでない。同天皇の別称慶寿院は京都郊外の嵯峨(さが)にあった禅宗寺院に基づくが、天皇が晩年ここに居住したように解するのは誤りで、これは皇子海門承朝(かいもんじょうちょう)が亡父天皇の菩提(ぼだい)のために建立したものと考えられる。御陵は1944年(昭和19)2月11日慶寿院址に決定、嵯峨東陵と名づけられた。なお、長慶天皇は戦乱の世にあって学芸にも心を用い、『源氏物語』についての研究書たる『仙源抄』が今日に伝存する。また1376年(天授2・永和2)千首和歌会を行い、自らも千首をつくったが、その完本は伝存せず、そのうち204首の抄本が存在する。
[村田正志]



世界大百科事典
長慶天皇
ちょうけいてんのう
1343-94(興国4・康永2-応永1)

第98代に数えられる天皇。在位1368-83年。南朝第3代。後村上天皇の皇子。名は寛成。母は嘉喜門院藤原氏。1368年(正平23・応安1)3月住吉行宮で践祚,以後吉野,河内国天野山,大和国栄山寺に移った。94年8月1日死去。その前に落飾,法名を金剛理と称した。南朝不振のころで事跡の伝わること少なく,在位も疑問視されていたが,八代国治らの研究により在位が確定し,1926年歴代皇統に列せられた。著書に《源氏物語》の注釈書《仙源抄》がある。陵は京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町の嵯峨東陵。
[飯倉 晴武]

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1. 長慶天皇
日本大百科全書
栄山(えいざん)寺などの行宮(あんぐう)に居住。譲位後数年間は院政を行ったらしいが、のち出家して仏門に帰した。長慶天皇の在位、非在位についての議論は、江戸時代以 ...
2. 長慶天皇
世界大百科事典
1343-94(興国4・康永2-応永1) 第98代に数えられる天皇。在位1368-83年。南朝第3代。後村上天皇の皇子。名は寛成。母は嘉喜門院藤原氏。1368年 ...
3. ちょうけい‐てんのう【長慶天皇】
デジタル大辞泉
[1343~1394]第98代の天皇。在位1368~1383。後村上天皇の第1皇子。名は寛成。南朝側のため在位不明であったが、大正15年(1926)皇統譜に加え ...
4. ちょうけい‐てんのう[チャウケイテンワウ]【長慶天皇】
日本国語大辞典
第九八代天皇。後村上天皇の皇子。南北朝時代の南朝側のため、在位を証する史料に乏しく、大正一五年(一九二六)一〇月二一日の詔書で、後村上天皇の次として皇代に列せら ...
5. ちょうけいてんのう【長慶天皇】
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八代国治・武田祐吉の有力なる在位論説の発表があり、特に八代の『長慶天皇御即位の研究』は決定的な在位説として評価された。そこで大正十五年(一九二六)十月二十一日長 ...
6. ちょうけいてんのう【長慶天皇】
日本人名大辞典
1343−1394 南北朝時代,第98代(南朝第3代)天皇。在位1368-83。康永2=興国4年生まれ。後村上天皇の第1皇子。母は嘉喜門院。父のあと即位し,同母 ...
7. 長慶天皇[文献目録]
日本人物文献目録
星野恒『長慶天皇御即位の研究』八代国治『長慶天皇紀略』三輪義熙『国史研究長慶天皇御紀伝』笹原助『集説長慶天皇御事蹟並びに其の取扱』堀尾義根『長慶天皇山陵攷』音代 ...
8. 長慶天皇・長慶法皇
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安6・【南朝】文中2 癸丑⑩〉 8・10 細川氏春・楠木正儀ら幕府軍,河内天野行宮を攻略, 長慶天皇 ,吉野に退去(後愚昧記)。 1394年〈応永元(7・5)  ...
9. Chōkei, Emperor 【長慶天皇】
Encyclopedia of Japan
1343−1394 The 98th sovereign (tenno) in the traditional count (which includes s ...
10. ちょうけいてんのうりょう【長慶天皇陵】京都市:右京区/天龍寺門前村地図
日本歴史地名大系
[現]右京区嵯峨天龍寺角倉町 臨川寺の東隣、長寿院の旧地にあり、正式には長慶天皇嵯峨東陵という。後村上天皇第一皇子で、正平二三年(一三六八)摂津住吉の行宮で践祚 ...
11. 長慶天皇考(著作ID:4365622)
新日本古典籍データベース
ちょうけいてんのうこう  ...
12. あべ-ぶんすけ【阿部文助】
日本人名大辞典
明治-大正時代の神職。天保(てんぽう)10年4月2日生まれ。明治11年青森県浪岡八幡宮祠官となる。博学多才で,長慶天皇陵伝承地を調査したほか,抱山(かかえやま) ...
13. あまのさんこんごうじ【天野山金剛寺】大阪府:河内長野市/天野山村地図
日本歴史地名大系
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14. 淡路国
世界大百科事典
駆逐し,73年(文中2・応安6)には〈南方退治大将〉として淡路の国人を率いて畿内に渡り,南朝長慶天皇の河内国天野の行宮を占拠した。師氏,氏春の子孫は守護職を世襲 ...
15. あわづむら【粟津村】石川県:珠洲市
日本歴史地名大系
の弟子正徹により、正中二年(一三二五)に開創したと伝える。開基にかかわって順徳天皇第七皇子・長慶天皇など諸所伝を残すが、いずれも方上保ゆかりの貴族が当地に隠棲し ...
16. いずみあなしじんじゃ【泉穴師神社】大阪府:泉大津市/豊中村地図
日本歴史地名大系
と思われ、当社を氏神とする人々が開発した地域に当社祭神を分祀した結果であろう。南北朝時代には長慶天皇が王子誕生時の祈祷を謝し、正平二五年四月二二日付で綸旨(社蔵 ...
17. いずみいのうえじんじゃ【泉井上神社】大阪府:和泉市/府中村地図
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倉幕府追加法)は、高札に記されこの市場に立てられたという。正平二五年(一三七〇)一月二六日に長慶天皇から祈祷を謝す白紙綸旨(社蔵)が下されており(泉大津市の泉穴 ...
18. いたのぐん【板野郡】徳島県
日本歴史地名大系
日置庄の熊野新宮(天授五年三月二一日「長慶天皇綸旨」熊野新宮文書)が知られる。日置庄は細川氏の阿波での本拠秋月庄と、同氏が地頭を勤める板西下庄に挟まれており、長 ...
19. 一休和尚年譜 1 16ページ
東洋文庫
ことではなく、一介の僧が皇胤であることを嫌うというのであれば、中世の禅僧で皇胤であった人は、長慶天皇皇子海門承朝、崇光天皇皇子用健周乾、明江宗叡などがいる。 『 ...
20. 一休和尚年譜 1 27ページ
東洋文庫
になっている人が多いことに注目された。後村上天皇の皇子竺源慧梵(師成親王)は絶海中津の門人、長慶天皇の皇子海門承朝(憲明王)は空谷明応の弟子、玉川宮の末裔梵仲・ ...
21. 一休和尚年譜 2 222ページ
東洋文庫
二)に行幸して津守国夏の館に入り、住江殿を行宮として、同二十三年三月にここで崩御した。ついで長慶天皇が住吉社で践祚、同年十二月まで行宮とした。津守氏は卓然宗立以 ...
22. いのうえよりくに【井上頼〓画像
国史大辞典
青山墓地に葬られた。著書の主なものには『都々古別神社考証』『越洲考』『皇統略記』『古史対照年表』『長慶天皇御即位論』『後宮制度沿革考』などがある。また愛書家とし ...
23. 今治[市]
世界大百科事典
渓流に沿う鈍川(にぶかわ)温泉を中心に今治市背後の観光地として発展した。楢原山一帯には南朝の長慶天皇の遷幸伝説が残り,山頂には同天皇などをまつる奈良原神社がある ...
24. いわさきむら【岩崎村】青森県:西津軽郡
日本歴史地名大系
当地の発展は南北朝頃と考えられ、南朝方の落人や諸国流人が開拓したという伝承がある。文中二年(一三七三)長慶天皇が津軽外ヶ浜に来たとか、後亀山天皇の皇孫タカヒロ王 ...
25. 岩手(県)画像
日本大百科全書
れよう。後者は、平泉以後の生存を語る「義経伝説」が、陸中海岸沿いに濃厚に分布している。南朝の長慶天皇のいわゆる「ながされ王」とそれにまつわる足利方や北畠顕家(き ...
26. うちぐん【宇智郡】
国史大辞典
ついで南北朝動乱時代には吉野の玄関として南朝が確保し、牧・二見・宇野・坂合部らの地侍らが活躍し、長慶天皇の栄山寺行宮が知られる。応永二年(一三九五)、室町将軍家 ...
27. 栄山寺
世界大百科事典
本尊とする本堂や阿弥陀堂などが再興された。寺の北方には武智麻呂の墓である後阿陀墓がある。南北朝の戦乱期には一時長慶天皇の行宮となった。八角堂は簡素な構造であるが ...
28. えいざんじ【栄山寺】画像
国史大辞典
寛治五年(一〇九一)に別当実経が堂舎を建て、円堂を葺き替え法華八講を修したと伝える。南北朝時代、長慶天皇の行宮に宛てられ、天文二十三年(一五五四)十二月、八角堂 ...
29. えいざんじのあんぐう【栄山寺行宮】
国史大辞典
奈良県五条市小島町栄山寺に置かれた長慶天皇の行宮。その存置期間をはっきり示す文献はないが、宮内庁書陵部所蔵の『朱孟』の奥書に、天授第五暦(一三七九)林鐘(六月 ...
30. えいとく【永徳】
日本国語大辞典
北朝の後円融天皇、後小松天皇の代の年号。康暦三年(一三八一)二月二四日辛酉革命により改元。南朝の長慶天皇、後亀山天皇の弘和年間にあたる。永徳四年(一三八四)二月 ...
31. えいわ【永和】
日本国語大辞典
北朝の後円融天皇の代の年号。応安八年(一三七五)二月二七日改元。南朝の長慶天皇の文中四年から天授五年にあたる。永和五年(一三七九)三月二二日康暦(こうりゃく)と ...
32. おおかたののしょう【大交野庄】大阪府:枚方市
日本歴史地名大系
され、当庄が八幡善法寺に伝領されたことがわかる。南北朝時代の文中元年(一三七二)九月一六日の長慶天皇綸旨(石清水文書)によると、当時大交野庄は八幡宮の「毎日御供 ...
33. おおくいむら【大杙村】鳥取県:鳥取市/旧法美郡地区
日本歴史地名大系
ほかに玉川八幡宮・長慶院があったとされる。玉川八幡宮は嘉吉三年(一四四三)に因幡に逃れてきた長慶天皇の皇子玉川宮を祀っていたと伝え、長慶院は玉川宮の娘が観音堂を ...
34. おおばのせきあと【大庭関跡】大阪府:守口市/大庭
日本歴史地名大系
建徳二年(一三七一)南朝は当関に替えて中振関(現枚方市)を観心寺に寄進している(同年三月二八日「長慶天皇綸旨」観心寺文書)。その後享徳二年(一四五三)に奈良春日 ...
35. おおぼりむら【大堀村】大阪府:松原市地図
日本歴史地名大系
この文書は正平二四年(一三六九)頃のものと考えられ、文中に「綸旨如此」とあるので、年号推定が正しければ長慶天皇から寄進されたものである。これ以外同庄の記録はない ...
36. おおむかいむら【大向村】青森県:三戸郡/南部町
日本歴史地名大系
高さ約六尺、周囲一六間で、上中下の三層をなし、四方に堀跡もあったと伝える。南朝三代長慶天皇の陵墓伝説があり、長慶天皇は北奥の南朝勢力の中心の根城南部氏を頼って当 ...
37. おかのやしげざね【岡谷繁実】画像
国史大辞典
県などの地方官を歴任。七年に内務省七等出仕、同九年に内務少丞。十一年には修史館御用掛となり、長慶天皇の事蹟調査や金沢文庫の再興に尽力した。三十四年に鎌倉宮宮司、 ...
38. おがわむら【小川村】三重県:一志郡/嬉野町
日本歴史地名大系
寺伝によれば慶安元年(一六四八)潮誉林海が私財を投じて創建したという(嬉野町史)。花園に御渡寺跡があり、長慶天皇の行在所になったと伝える(同書)。 ...
39. おばでらむら【大庭寺村】大阪府:堺市地図
日本歴史地名大系
州志補遺)。大鳥郡に属する。村内に深田・野田尾の小字がある。文中元年(一三七二)一二月九日の長慶天皇綸旨(岩崎小弥太氏所蔵文書)によると、河西卿房に対し「若松庄 ...
40. 恩賜賞受賞者
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化学的研究木下季吉 研究題目:放射線に関する研究第14回(1924年度)八代国治 研究題目:長慶天皇御即位の研究佐々木隆興 研究題目:蛋白質及び之を構成するアミ ...
41. かいもん-じょうちょう【海門承朝】
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1374−1443 室町時代の僧。応安7=文中3年生まれ。長慶天皇の皇子。臨済(りんざい)宗。空谷明応(くうこく-みょうおう)に師事してその法をつぐ。京都の相国 ...
42. かき‐もんいん【嘉喜門院】
デジタル大辞泉
南北朝時代の歌人。後村上天皇の女御(にょうご)。長慶天皇と後亀山天皇の生母。琵琶(びわ)と和歌にすぐれる。家集「嘉喜門院集」。生没年未詳。  ...
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後村上天皇の女御。藤原勝子。長慶天皇、後亀山天皇の母。家集に「嘉喜門院集」がある。生没年未詳。〓[モ] ...
44. かきもんいん【嘉喜門院】
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閑院流阿野家と深い関係があり、二条師基の猶子として後村上天皇の女御となったという推測が有力。長慶天皇の母の可能性は高い。正平二十三年(北朝応安元、一三六八)後村 ...
45. かきもんいん【嘉喜門院】
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?−? 南北朝時代,後村上天皇の女御。長慶天皇,後亀山天皇の生母とされる。後村上天皇の死後に出家。後亀山天皇(在位1383-92)の即位により皇太后となり,院号 ...
46. かこうじあと【河合寺跡】奈良県:吉野郡/天川村/川合村
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当寺の造営料所は天下一統の際に寄付することを伝えており、天授三年(一三七七)一一月一八日には長慶天皇が河合寺焼失を聞き、天川三村に先例に任せて早く造作するよう命 ...
47. かざんいんながちか【花山院長親】画像
国史大辞典
宮内庁書陵部所蔵(佐佐木信綱旧蔵)の古写本には元中六年および応永二十二年(一四一五)書写の長親奥書があり、長慶天皇の在位を証明する有力なる史料として著聞する。ま ...
48. かながわむら【金川村】愛媛県:川之江市
日本歴史地名大系
「西条誌」に「此文字ニより考れバ、天子寝陵の跡なるべきかと疑ふ、然ども、事実伝はらず」とある。長慶天皇の陵であるとの伝承があり、御陵墓運動が起こったこともあると ...
49. かなづかい【仮名遣】
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分けが仮名遣の項目に加わることになった。定家仮名遣に対する疑問も、すでに室町時代初期の成俊や長慶天皇(『仙源抄』跋文)によって提出されていたが、これを正面から批 ...
50. 仮名遣い
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定家が定めた〈お〉は低く,〈を〉は高いアクセントによるという原理は一般の人々に理解されなくなり,南北朝時代の長慶天皇は《仙源抄(せんげんしよう)》で定家仮名遣い ...
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