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光厳天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『光厳天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
光厳天皇
こうごんてんのう
一三一三 - 六四
一三三一―三三在位。正和二年(一三一三)七月九日、持明院統の後伏見天皇の第一皇子として一条内経の一条邸で生誕。母は前左大臣西園寺公衡の女寧子(のちの広義門院)。名は量仁。大覚寺統の後醍醐天皇の皇太子には、同統の邦良親王が立てられていたが、嘉暦元年(一三二六)三月、邦良親王が没すると、鎌倉幕府の支持により、七月、量仁親王が皇太子となった。元弘元年(一三三一)後醍醐天皇の討幕計画が発覚し(元弘の乱)、天皇が笠置にのがれると、九月二十日、幕府の推戴により量仁親王(光厳天皇)が践祚し、後伏見上皇が院政を行なった。践祚に際しては、先帝が新帝に剣璽を授ける剣璽渡御を行う例であるが、先帝が笠置にいたため、剣璽渡御のない異例の践祚となり、幕府側が後醍醐天皇を捕えてのち、十月六日になって光厳天皇は剣璽の引き渡しを受けた。後醍醐天皇は隠岐に流されたが、各地の武士が討幕の兵をあげ、元弘三年、千種忠顕・足利高氏(のち尊氏)らは六波羅を攻略した。六波羅探題の北条仲時・時益は、光厳天皇と後伏見・花園両上皇を奉じて東国にのがれようとしたが、時益まず戦死し、ついで仲時らも近江の番場で敗死し、天皇・両上皇は捕われ、五月十七日、後醍醐天皇の詔により、光厳天皇は廃された。しかし、やがて後醍醐天皇の建武新政は失敗し、建武二年(一三三五)足利尊氏は叛旗をひるがえした。翌三年、尊氏は都に攻め上り、敗れて九州にのがれたが、途中で光厳上皇の院宣を得て、朝敵となることを免れた。尊氏はやがて勢力を回復、再び京に攻め上り、八月十五日、光厳上皇は弟の豊仁親王(光明天皇)を践祚させ、院政を始めた。ここに大覚寺統の後醍醐天皇と持明院統の光明天皇とが並立することになり、南北両朝分立の端緒となった。光厳上皇の院政は光明・崇光(光厳の皇子)の二代、十五年に及んだが、足利氏の内紛によって一時南朝方の勢力が強まり、正平六年(一三五一)南朝の後村上天皇は北朝の崇光天皇を廃し、さらに翌七年には光厳・光明・崇光の三上皇を京都から南朝の根拠地に移した。すなわち三上皇は、同年河内の東条に、さらに大和の賀名生(あのう)に、同九年には河内の金剛寺に移された。かねてから光厳上皇は夢窓疎石に帰依していたが、幽囚の生活の中で、禅をはじめとする仏道への関心はさらに深まり、正平七年八月八日、賀名生で出家し、法名を勝光智と称した。金剛寺に移ってのちは孤峯覚明を尊信し、禅衣を授けられ、法名を光智と改めた。延文二年(一三五七)二月、京都に帰り、深草の金剛寿院に入った。この間京都では、足利氏が後光厳天皇(崇光上皇の弟)を擁立していたが、光厳法皇は世俗を断って禅に精進し、清渓通徹・春屋妙葩に師事した。晩年は丹波山国(京都府北桑田郡京北町)の常照寺(常照皇寺)で禅僧としての日々を送り、無範和尚と号していたが、貞治三年(一三六四)七月七日、同寺で死去。五十二歳。その後ろの山に葬られた。これを山国陵という。
[参考文献]
『大日本史料』六ノ二五 貞治三年七月七日条、『光厳天皇遺芳』、中村直勝『光厳天皇』(『中村直勝著作集』六)、赤松俊秀「光厳天皇について」(『京都寺史考』所収)
(上横手 雅敬)

山国陵(やまくにのみささぎ)

京都府北桑田郡京北町大字井戸字丸山の常照皇寺内にあり、南南西に面し、域内に後花園天皇陵・後土御門天皇分骨所と後花園天皇後宮嘉楽門院(藤原信子)の分骨塔と伝える塔がある。光厳天皇崩御の翌日、貞治三年(一三六四)七月八日住庵の後山にあたる当所で火葬、そのまま陵とし、遺命により、陵上には石塔を置かず、楓・柏・椿を三、四株植えたという。常照皇寺は天皇開基の寺のため、同寺が陵を篤く祭祀してきたが、幕末修陵の際に山国陵と称して大いに修補を加えた。なお光厳天皇の分骨所(宝塔)が大阪府河内長野市の金剛寺に、髪塔(五輪塔)が京都市右京区嵯峨天竜寺北造路町の金剛院内にある。
[参考文献]
『大日本史料』六ノ二五 貞治三年七月八日条、上野竹次郎『山陵』下
(中村 一郎)

所領

元弘三年(一三三三)六月後醍醐天皇は隠岐から帰洛すると、後伏見上皇に対し、後伏見・花園両上皇および永福門院の所領を安堵させ、八月には播磨国を光厳上皇の所領と定めた。しかし建武三年(一三三六)六月、足利尊氏が光厳上皇を奉じて上洛すると、八月光厳上皇に長講堂領・法金剛院領・熱田社領・室町院領半分などを進上した。またその十月、光厳上皇は仁和寺法守法親王に法勝寺円堂の寺務職を管領させた(『仁和寺文書』)。さらに康永二年(一三四三)四月、同上皇は、皇太子興仁親王に因幡国と法金剛院領・熱田社領を譲り管領した(『椿葉記』所収「光厳院御処分状案」)。正平六年(一三五一)南北両朝が合一しても、後村上天皇は長講堂領・法金剛院領を安堵し、熱田社は官社とした。上皇は延文二年(一三五七)二月天野行宮から帰京すると、長講堂領などを管領するが、貞治二年(一三六三)四月これを崇光院に譲り、置文を定めた(『椿葉記』所収「光厳院御置文案」)。
[参考文献]
帝室林野局編『御料地史稿』、八代国治『国史叢説』、岩橋小弥太『花園天皇』(『人物叢書』九九)
(奥野 高広)

日本大百科全書(ニッポニカ)
光厳天皇
こうごんてんのう
[1313―1364]

北朝第1代の天皇(在位1331~33)。名は量仁(ときひと)。法名勝光智、のちに光智。後伏見(ごふしみ)天皇の第1皇子。母は広義門院寧子(やすこ)。元弘(げんこう)の変中鎌倉幕府の推戴(すいたい)によって皇位についたが、まもなく形勢が逆転し、六波羅探題(ろくはらたんだい)北条氏一族に奉ぜられて東国に逃れる途中、官軍に敗れて帰京した。その間に後醍醐(ごだいご)天皇から廃位せしめられた。建武中興(けんむのちゅうこう)が崩壊して弟の光明(こうみょう)天皇が位につくと、院政の主として政務をとった。しかしながらその後足利(あしかが)氏の内訌(ないこう)によって南朝が優勢となり、北朝が廃せられると、光明、崇光(すこう)両上皇らとともに幽閉の身となり、南朝の根拠地たる大和(やまと)(奈良県)の賀名生(あのう)および河内(かわち)(大阪府)天野(あまの)の金剛寺に幽居の数年を過ごし、その間に出家を遂げた。光厳天皇は先に夢窓疎石(むそうそせき)を尊信して禅宗に帰依(きえ)したが、のちに孤峯覚明(こほうかくみょう)を深く尊信し、また清渓通徹(せいけいつうてつ)や春屋妙葩(しゅんおくみょうは)にも師事した。金剛寺から京都郊外の伏見に帰ってからは世俗を絶って光厳院に居住し、晩年には丹波山国(たんばやまぐに)(京都市右京(うきょう)区井戸)の常照寺(じょうしょうじ)に隠棲(いんせい)して禅道に参入し、貞治(じょうじ)3年7月7日同所に崩御。御陵は同寺の後山の山国(やまぐに)陵。
[村田正志]



世界大百科事典
光厳天皇
こうごんてんのう
1313-64(正和2-正平19・貞治3)

北朝第1代の天皇。在位1331-33年。後伏見天皇の第3皇子。名は量仁,母は広義門院寧子。祖父伏見上皇の意向で持明院統の正嫡として,1326年(嘉暦1)後醍醐天皇の皇太子となった。31年(元弘1)後醍醐天皇の討幕挙兵失敗後,幕府の要請で践祚した。33年後醍醐天皇の隠岐よりの還幸によって退位,太上天皇の号を贈られた。36年(延元1・建武3)足利尊氏が後醍醐天皇に離反して,光明天皇を擁立し,上皇に院政を奏請したので,以後北朝において崇光天皇の代まで院政をしいた。51年(正平6・観応2)足利尊氏・義詮の一時南朝降伏により,賀名生(あのう)・河内金剛寺に幽閉され,57年還京した。その間に出家し,帰還後は丹波国山国荘の常照寺に隠棲した。幼時より花園天皇に輔育され,帝王教育を受けながら,波乱万丈の生涯を送った。陵所は京都市の旧京北町にある(山国陵)。
[飯倉 晴武]

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