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光明天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『光明天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
光明天皇
こうみょうてんのう
一三二一 - 八〇
一三三六―四八北朝在位。元亨元年(一三二一)十二月二十三日後伏見天皇の皇子として誕生。母は西園寺公衡の女広義門院藤原寧子である。翌二年二月親王宣下あり、豊仁(とよひと)と命名。建武三年(延元元、一三三六)六月、足利尊氏が楠木正成らを破って入京するや、後醍醐天皇は難を延暦寺に避けたので、尊氏は光厳上皇に奏請して、その同母弟豊仁親王を皇位につけた。一方、後醍醐天皇は再起を期していったん京都に還幸したので、光明天皇はこれに太上天皇の尊号をたてまつり、その皇子成良親王を皇太子に立てた。しかし後醍醐天皇は同年十二月ひそかに京都を脱して吉野に遷幸し、半世紀にわたる南北両朝の対立が始まった。そこで光明天皇は皇太子成良親王を廃し、暦応元年(一三三八)八月兄上皇の皇子益仁(のち興仁と改名)親王を皇太子に立て、貞和四年(一三四八)十月これに皇位を譲って上皇となった。上皇は早くから仏教を信じ、夢窓疎石に帰依したが、正平六年(一三五一)十一月尊氏・義詮父子が南朝に降伏し、北朝が停廃されるに及び、その十二月にわかに落飾して仏門に入り、法号を真常恵と称した。ついで翌七年三月光厳・崇光両上皇らとともに、南朝の手によって河内東条に移され、さらに六月吉野の賀名生(あのう)に幽居の身となったが、文和三年(一三五四)三月河内の天野金剛寺に遷り、翌四年八月洛南の伏見に帰還、同地の保安寺に入った。その後は深草の金剛寿院や伏見の大光明寺に住し、さらに各地を遍歴して仏道の修業に精進したが、康暦二年(一三八〇)六月二十四日大和国長谷寺の庵室において崩御、波瀾に富んだ生涯をとじた。時に年六十。追号は遺勅により光明院と定められ、遺骨は伏見大光明寺に納められた。現在の大光明寺陵である。京都御所東山御文庫には、康永元年(一三四二)・貞和元年の自筆日記各一巻が伝蔵されている。→大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ)
(橋本 義彦)


日本大百科全書(ニッポニカ)
光明天皇
こうみょうてんのう
[1321―1380]

北朝第2代の天皇(在位1336~48)。名は豊仁(とよひと)。法名真常恵。後伏見(ごふしみ)天皇の第2皇子。母は広義門院寧子(やすこ)。光厳(こうごん)天皇の弟で、その猶子(ゆうし)となった。建武中興(けんむのちゅうこう)崩壊ののち、足利(あしかが)氏に擁せられて皇位につき、のちこれを崇光(すこう)天皇に譲った。1351年(正平6・観応2)における南朝後村上(ごむらかみ)天皇の天下一統に際して出家し、幽閉の身となり、光厳、崇光両上皇らとともに南朝根拠地の大和(やまと)(奈良県)賀名生(あのう)および河内(かわち)(大阪府)天野(あまの)の金剛寺に数年間を過ごした。のち京都郊外の伏見に帰還、同地の保安寺、金剛寿院また大光明寺に居住し、その後所々を経、晩年大和の長谷(はせ)寺に居住し、康暦(こうりゃく)2年6月24日摂津の勝尾(かちお)寺で崩御。御陵は京都市伏見区桃山の大光明寺陵。
[村田正志]



世界大百科事典
光明天皇
こうみょうてんのう
1321-80(元亨1-天授6・康暦2)

北朝第2代の天皇。在位1336-48年。後伏見天皇の第9皇子。名は豊仁。1336年(延元1・建武3)後醍醐天皇に反した足利尊氏に擁立された。実際の政務は兄光厳上皇の院政によって行われ,48年(正平3・貞和4)に上皇の皇子崇光天皇に譲位した。51年(正平6・観応2)足利尊氏・義詮が南朝に降伏し,崇光天皇が廃されると,世の無常さから出家した。その後,南朝により賀名生(あのう)・金剛寺に幽閉され,55年(正平10・文和4)帰京,洛南の深草金剛寿院に住んだ。以後仏道を深く修め,80年大和国長谷寺で没した。陵所は京都市伏見区桃山町にある(大光明寺陵)。
[飯倉 晴武]

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検索コンテンツ
1. 光明天皇
日本大百科全書
北朝第2代の天皇(在位1336~48)。名は豊仁(とよひと)。法名真常恵。後伏見(ごふしみ)天皇の第2皇子。母は広義門院寧子(やすこ)。光厳(こうごん)天皇の弟 ...
2. 光明天皇
世界大百科事典
1321-80(元亨1-天授6・康暦2) 北朝第2代の天皇。在位1336-48年。後伏見天皇の第9皇子。名は豊仁。1336年(延元1・建武3)後醍醐天皇に反した ...
3. こうみょう‐てんのう[クヮウミャウテンワウ]【光明天皇】
日本国語大辞典
北朝の第二代天皇。後伏見天皇の第二皇子。名は豊仁(とよひと)。建武三=延元元年(一三三六)足利尊氏に擁立され践祚(せんそ)し、翌年即位。在位一二年で譲位し、院政 ...
4. こうみょうてんのう【光明天皇】画像
国史大辞典
その同母弟豊仁親王を皇位につけた。一方、後醍醐天皇は再起を期していったん京都に還幸したので、光明天皇はこれに太上天皇の尊号をたてまつり、その皇子成良親王を皇太子 ...
5. 光明天皇(こうみょうてんのう)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 34ページ ...
6. こうみょうてんのう【光明天皇】
日本人名大辞典
1322*−1380 南北朝時代,北朝第2代天皇。在位1336-48。元亨(げんこう)元年12月23日生まれ。後伏見天皇の皇子。母は藤原寧子(広義門院)。光厳( ...
7. 豊仁親王・光明天皇・光明法皇
日本史年表
1336年〈【北朝】建武3・【南朝】延元元(2・29) 丙子〉 8・15 豊仁親王(光明天皇) ,尊氏の奏請により践祚(洞院家記)。 1380年〈【北朝】康暦 ...
8. 光明天皇花押[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
9. こうみょうてんのうしんき【光明天皇宸記】
国史大辞典
南北朝時代の北朝第二代光明天皇の日記。現在、康永元年(一三四二)正月より十一月に至る一巻と、貞和元年(一三四五)四月より十二月に至る一巻の自筆日記をはじめ、建 ...
10. 後光明天皇
日本大百科全書
第110代天皇(在位1643~54)。名は紹仁(つぐひと)。素鵞宮(すがのみや)と称す。後水尾(ごみずのお)天皇の子。実母は贈左大臣園基任(そのもととう)の女( ...
11. 後光明天皇
世界大百科事典
1633-54(寛永10-承応3) 第110代に数えられる天皇。在位1643-54年。後水尾天皇の皇子で名は紹仁。剛毅な性格で学問を好んだ。はじめ和歌には興味を ...
12. ごこうみょう‐てんのう[ゴクヮウミャウテンワウ]【後光明天皇】
日本国語大辞典
第一一〇代天皇。後水尾天皇の第三皇子。母は壬生院藤原光子。名は紹仁(つぐひと)。寛永二〇年(一六四三)即位。在位一二年。儒学を好み、漢詩にすぐれ、御集「鳳啼集」 ...
13. ごこうみょうてんのう【後光明天皇】画像
国史大辞典
詩文部所収)に収めて伝えられている。→月輪陵(つきのわのみささぎ) [参考文献]三浦周行「後光明天皇の御好学と朝山意林庵」(『史学雑誌』二三ノ四、二九ノ一一)  ...
14. 後光明天皇(ごこうみょうてんのう)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 38ページ ...
15. ごこうみょうてんのう【後光明天皇】
日本人名大辞典
1633−1654 江戸時代前期,第110代天皇。在位1643-54。寛永10年3月12日生まれ。後水尾天皇の第4皇子。母は藤原光子(壬生(みぶ)院)。異母姉明 ...
16. 後光明天皇[文献目録]
日本人物文献目録
【逐次刊行物】:4件 『後光明天皇と朝山意林庵』三浦周行『正保野史 2冊』矢野玄道, 森磯吉(編)『後光明天皇の御好学と朝山意林庵』三浦周行『後光明天皇の御最期 ...
17. 後光明天皇花押[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
18. 後光明天皇外記(著作ID:972792)
新日本古典籍データベース
ごこうみょうてんのうがいき 伝記  ...
19. 後光明天皇行幸絵巻(著作ID:4400655)
新日本古典籍データベース
ごこうみょうてんのうぎょうこうえまき 絵巻  ...
20. 後光明天皇御即位次第草(著作ID:4400471)
新日本古典籍データベース
ごこうみょうてんのうごそくいしだいそう 九条道房(くじょうみちふさ) 記録  ...
21. 後光明天皇御名字勘文(著作ID:4401173)
新日本古典籍データベース
ごこうみょうてんのうごみょうじかんもん 東坊城長維(ひがしぼうじょうながこれ) 寛永一九 ...
22. 後光明天皇宣旨写(著作ID:4401174)
新日本古典籍データベース
ごこうみょうてんのうせんじうつし  ...
23. 後光明天皇崩御記(著作ID:4400973)
新日本古典籍データベース
ごこうみょうてんのうほうぎょき 源利長(みなもととしなが) 記録  ...
24. 後光明院御製詩集(著作ID:2799)
新日本古典籍データベース
ごこうみょういんぎょせいししゅう 後光明帝御製詩集 後光明天皇御製詩集 鳳啼集 後光明天皇(ごこうみょうてんのう) 漢詩  ...
25. 後光明天皇信〓 (見出し語:後光明天皇)
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26. 後光明天皇再興大神宮例幣 (見出し語:後光明天皇)
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27. 後光明天皇即位 (見出し語:後光明天皇)
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28. 後光明天皇好學 (見出し語:後光明天皇)
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29. 後光明天皇患痘瘡 (見出し語:後光明天皇)
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31. 葬後光明天皇 (見出し語:後光明天皇)
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32. あさやま‐いりんあん【朝山意林庵】
日本国語大辞典
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33. あさやまいりんあん【朝山意林庵】
国史大辞典
寛文四年(一六六四)九月二十一日没。七十六歳。京都長講堂に葬る。承応二年(一六五三)二月二日後光明天皇の勅により、布衣にして参内、『中庸』を講じたという。詩文集 ...
34. あさやま-いりんあん【朝山意林庵】
日本人名大辞典
府中藩主の徳川忠長につかえた。この間朝鮮使節李文長に朱子学をまなぶ。承応(じょうおう)2年後光明天皇に「中庸」を講義した。寛文4年9月21日死去。76歳。京都出 ...
35. 朝山意林庵[文献目録]
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36. 足利尊氏画像
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37. 足利尊氏
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を受けて大義名分を得,態勢をたて直して再挙東上し,湊川で楠木正成軍を破って入京,光厳上皇の弟光明天皇を立て,建武式目を発布して室町幕府の開設を宣言した。後醍醐天 ...
38. あしかが‐たかうじ【足利尊氏】
日本国語大辞典
賜わって尊氏と称した。元弘の変で六波羅を攻め落として建武の新政に貢献するが、のち背いて持明院統の光明天皇を立てて建武五年(一三三八)八月征夷大将軍となり、室町幕 ...
39. あしかがたかうじ【足利尊氏】画像
国史大辞典
完全に撃破した。七月光厳上皇の弟豊仁(ゆたひと)親王は即位して光明天皇となり、後醍醐天皇は花山院に軟禁され、十一月神器を光明天皇に引き渡し、十二月、吉野に脱出し ...
40. あしかが-たかうじ【足利尊氏】
日本人名大辞典
天皇方に敗れて一時九州にのがれるが,建武3=延元元年楠木正成(まさしげ)をやぶって京にはいり,光明天皇(北朝)を擁立。建武式目を制定,室町幕府をひらいた。2年後 ...
41. あしかがたかうじ【足利尊氏】
日本架空伝承人名事典
を受けて大義名分を得、態勢をたて直して再挙東上し、湊川で楠木正成軍を破って入京、光厳上皇の弟光明天皇を立て、建武式目を発布して室町幕府の開設を宣言した。後醍醐天 ...
42. あしかがただよし【足利直義】画像
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直義に委譲したといわれる点(いずれも『梅松論』)が注目される。翌年九州から東上した尊氏・直義は持明院統の光明天皇を践祚させ、十一月幕府を発足させる。叡山に逃れて ...
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49. 榎本弥左衛門覚書 近世初期商人の記録 282ページ
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一~ニキ・西側を通る新道沿いに移転さ せたもの。 八 内裏様廿弐歳にて崩御 『徳川実紀』によれば、後光明天皇、承応三年九月二十日崩御の知 らせがあった。一、 ...
50. えんげん【延元】
日本国語大辞典
二九日改元。後村上天皇の即位により、延元五年(一三四〇)四月二八日、次の興国に代わる。北朝は光明天皇が延元元年の八月に即位。延元三年に暦応と改元。将軍は足利尊氏 ...
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