NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1700冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 社会
  6. >
  7. 政治
  8. >
  9. 天皇
  10. >
  11. 後光厳天皇

後光厳天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『後光厳天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・日本人名大辞典のサンプルページ

国史大辞典
後光厳天皇
ごこうごんてんのう
一三三八 - 七四
一三五二―七一北朝在位。暦応元年(一三三八)三月二日光厳天皇の第二皇子として誕生。母は三条公秀の女陽禄門院藤原秀子。諱は弥仁(いやひと)。仏門に入る予定で日野資名に養育されたが、政局の急変によりにわかに皇位についた。すなわち正平七年(一三五二)三月、足利尊氏・義詮父子の南朝降伏によってもたらされた正平の天下一統が破れたため、後村上天皇は光厳・光明・崇光三上皇および前皇太子直仁親王を伴って吉野の賀名生(あのう)に遷幸した。そこで京都を回復した義詮らは、光厳上皇の第二皇子を擁立して北朝を再興せんとし、同年八月十七日皇子は持明院殿より土御門内裏に入り、元服して弥仁と命名、親王宣下のこともなく直ちに践祚したのである。時に年十五。しかしその後も室町幕府の内紛は絶えず、それに呼応する南朝軍の京都進攻におびやかされて、文和二年(一三五三)から康安元年(一三六一)までの九年間に三度も天皇は難を近江あるいは美濃に避けねばならなかった。しかしその後は南朝の勢力もいちだんと衰え、両朝講和の議も起り、また応安元年(一三六八)十二月には、足利義満が前年死去した義詮のあとをうけて征夷大将軍となり、幕府の体制も漸く安定し始めた。そこで天皇は年来の希望を果たすため、応安四年三月二十三日皇子緒仁親王に譲位し、形式的ながら院政を開いたが、同七年正月疱瘡にかかり、その二十九日柳原殿において崩御、即刻落飾して法名を光融と称した。時に年三十七。二月二日追号を後光厳院と定め、その夜泉涌寺において火葬に付し、翌三日遺骨を深草法華堂に納めた。現在の深草北陵である。天皇の日記のいまに伝わるものは、貞治四年(一三六五)七月の「光厳院崩後諒闇終記」と、応安三年・同四年記のみであるが、応安三年記には、天皇の譲位を前にして、崇光上皇が皇子栄仁親王の践祚のため幕府に働きかけた経緯など、興味深い記事を載せている。→深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)
(橋本 義彦)


日本大百科全書(ニッポニカ)
後光厳天皇
ごこうごんてんのう
[1338―1374]

北朝第4代の天皇(在位1352~71)。名は弥仁(いやひと)。法名光融。光厳天皇の第2皇子。母は陽禄門院(ようろくもんいん)秀子。南朝後村上(ごむらかみ)天皇の天下一統が破れ、足利(あしかが)氏がふたたび北朝を樹立することになり、その要請により、親王宣下(せんげ)もなく、また神器もなくして、広義門院(こうぎもんいん)(後伏見(ごふしみ)天皇の女御)の院宣で皇位についた。その在位中、南朝軍に攻められ、美濃(みの)(岐阜県)小島(こじま)、近江(おうみ)(滋賀県)武佐(むさ)などに難を避けた。その後南朝に幽居中の兄崇光(すこう)上皇が帰還し、後光厳天皇がその皇子に譲位したことから、兄弟の間に深刻な不和が生まれたが、足利氏の支持によって、以後この天皇の子孫が4代を相続した。天皇は父兄とともに書に優れ、その遺品は諸方に多く伝存する。応安(おうあん)7年正月29日崩御。37歳。御陵は京都の深草北陵。
[村田正志]



日本人名大辞典
後光厳天皇
ごこうごんてんのう
1338−1374
南北朝時代,北朝第4代天皇。在位1352-71。
建武(けんむ)5=延元3年3月2日生まれ。光厳(こうごん)天皇の第2皇子。母は藤原秀子(陽禄門院)。崇光天皇の同母弟。室町幕府内の紛争で北朝の天皇,皇太子が廃され(正平(しょうへい)一統),北朝の天皇が不在となるが,足利義詮(よしあきら)によって親王宣下も神器もなく,後伏見天皇妃(広義門院)の命令という異常な方法で即位した。在位20年の間,南北両朝の抗争のためしばしば京都を脱出した。応安7=文中3年1月29日死去。37歳。墓所は深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)(京都市伏見区)。諱(いみな)は弥仁(いやひと)。法名は光融。歌集に「後光厳院百首和歌」,日記に「後光厳院御記」。
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


後光厳天皇の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 362
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 後光厳天皇
日本大百科全書
近江(おうみ)(滋賀県)武佐(むさ)などに難を避けた。その後南朝に幽居中の兄崇光(すこう)上皇が帰還し、後光厳天皇がその皇子に譲位したことから、兄弟の間に深刻な ...
2. 後光厳天皇
世界大百科事典
1338-74(延元3・暦応1-文中3・応安7) 北朝第4代の天皇。在位1352-71年。光厳天皇の皇子。名は弥仁。1351年(正平6・観応2)兄崇光天皇が南朝 ...
3. ごこうごん‐てんのう[ゴクヮウゴンテンワウ]【後光厳天皇】
日本国語大辞典
北朝の第四代天皇。光厳天皇の第二皇子。母は陽祿門院秀子。名は彌仁(いやひと)。法名、光融。文和元年(一三五二)足利尊氏らに擁立されて践祚(せんそ)し、翌年即位。 ...
4. ごこうごんてんのう【後光厳天皇】画像
国史大辞典
一三三八―七四 一三五二―七一北朝在位。暦応元年(一三三八)三月二日光厳天皇の第二皇子として誕生。母は三条公秀の女陽禄門院藤原秀子。諱は弥仁(いやひと)。仏門 ...
5. 後光嚴天皇(ごこうごんてんのう)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 35ページ ...
6. ごこうごんてんのう【後光厳天皇】
日本人名大辞典
1338−1374 南北朝時代,北朝第4代天皇。在位1352-71。建武(けんむ)5=延元3年3月2日生まれ。光厳(こうごん)天皇の第2皇子。母は藤原秀子(陽禄 ...
7. 後光厳天皇・後光厳院・後光厳上皇
日本史年表
直冬,桃井直常らが京都に迫り,尊氏,後光厳天皇を奉じて近江武佐寺に逃れる(柳原家記録)。 1355年〈【北朝】文和4・【南朝】正平10 乙未〉 3・28 後光厳 ...
8. 後光嚴天皇即位 (見出し語:後光嚴天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 260ページ ...
9. 後光嚴天皇御諱 (見出し語:後光嚴天皇)
古事類苑
姓名部 洋巻 第1巻 588ページ ...
10. 後光嚴天皇行幸近江國 (見出し語:後光嚴天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 678ページ ...
11. 後小松天皇遺勅不絶後光嚴天皇一流之事 (見出し語:後光嚴天皇)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 409ページ ...
12. 納後光嚴天皇遺骨於所所寺院 (見出し語:後光嚴天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 1004ページ ...
13. 葬後光嚴天皇 (見出し語:後光嚴天皇)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 66ページ ...
14. 後光厳天皇花押[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
15. 後光厳天皇御琵琶始並御伝受記(著作ID:4400033)
新日本古典籍データベース
ごこうごんてんのうおんびわはじめならびにごでんじゅき 音楽  ...
16. 後光厳天皇御譲位記(著作ID:2598052)
新日本古典籍データベース
ごこうごんてんのうごじょういき 譲位記 東坊城秀長(ひがしぼうじょうひでなが) 記録 応安四 ...
17. 後光厳天皇践祚部類記(著作ID:2598085)
新日本古典籍データベース
ごこうごんてんのうせんそぶるいき 部類記 観応三 ...
18. 後光嚴天皇行幸近江國 (見出し語:近江國【篇】)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 678ページ ...
19. 足利高氏・足利尊氏
日本史年表
回復(鶴岡社務記録)。 1353年〈【北朝】文和2・【南朝】正平8 癸巳〉 9・21 尊氏 ・ 義詮 ,後光厳天皇を奉じて入京(園太暦)。 1358年〈【北朝】 ...
20. あしかがよしあきら【足利義詮】画像
国史大辞典
が男山に進出すると、義詮は南軍の強くなることを恐れてこれを破り、天皇を賀名生に追い、北朝の後光厳天皇を擁立した。ときに文和元年(正平七、一三五二)八月である。し ...
21. 足利義詮
日本史年表
回復(祇園執行日記)。 1353年〈【北朝】文和2・【南朝】正平8 癸巳〉 9・21 尊氏 ・ 義詮 ,後光厳天皇を奉じて入京(園太暦)。 1361年〈【北朝】 ...
22. あしかがよしみつ【足利義満】画像
国史大辞典
所執事伊勢貞継の邸で生まれ、幼名を春王という。康安元年(一三六一)十二月南軍入京し、義詮は後光厳天皇を奉じて近江に奔ったが、時に義満は四歳。建仁寺大竜庵に逃れ、 ...
23. 排蘆小船(近世随想集) 378ページ
日本古典文学全集
延文五年没、六八歳。叔父為藤の跡を継いで『続後拾遺和歌集』を奏覧し、のち足利氏にも接近し、後光厳天皇の命によって『新千載和歌集』を撰進した。北朝第四代天皇。名は ...
24. 排蘆小船(近世随想集) 379ページ
日本古典文学全集
その執奏により『新拾遺和歌集』の撰者となる。第十九番目の勅撰集。貞治二年、将軍義詮の執奏により後光厳天皇の撰進の命が為明に下る。五条烏丸に和歌所を構え、頓阿、経 ...
25. あつみのしょう【厚見庄】大阪府:羽曳野市
日本歴史地名大系
幸盛の濫妨が止められている。なお、本所はそのときも泉涌寺で、文和三年(一三五四)一二月九日の後光厳天皇綸旨(泉涌寺文書)によれば、泉涌寺の僧全皎を東寺大勧進職に ...
26. あづちちょう【安土町】滋賀県:蒲生郡
日本歴史地名大系
して発展、一六世紀には「石寺新市」も設けられている。南北朝期には繖山の観音寺(観音正寺)に後光厳天皇が、享禄年中(一五二八―三二)には同山西麓の桑実寺に将軍足利 ...
27. あわづはしもとのみくりや【粟津橋本御厨】滋賀県:大津市/中部地域/粟津
日本歴史地名大系
た(「室町准后尊融寄進状」同重書案)。文和二年(一三五三)にも安堵されているが(三月五日「後光厳天皇綸旨」同重書案)、同寺領の実質は失われたと思われる。〔粟津供 ...
28. いくはべなんじようごう【的部南条郷】兵庫県:神崎郡/香寺町
日本歴史地名大系
を京都天龍寺へ遺贈し、粥飯料に充てるよう求めている。朝廷(北朝)は同月二九日にこれを認め(後光厳天皇綸旨案・光厳上皇院宣案)、上皇が七月七日に丹波国山国(現京都 ...
29. いしぐろのしょう【石黒庄】富山県:西礪波郡/福光町
日本歴史地名大系
いとの円宗寺法華堂からの訴えに基づき、下地を禅衆らに付けるよう命ずる綸旨が出されている(「後光厳天皇綸旨案」三宝院文書)。給主は院林郷と同じとも考えられるが未詳 ...
30. いなぐちむら【稲口村】岐阜県:関市
日本歴史地名大系
)によれば、稲口庄領家方下地が長福寺代官に交付されている。延文元年(一三五六)六月一六日の後光厳天皇綸旨や文明一〇年(一四七八)四月三日の足利義政御教書(ともに ...
31. いぬやまし【犬山市】愛知県
日本歴史地名大系
南北朝期に入ると土岐氏の一族高山伊賀守が侵入しはじめた。そこで文和二年(一三五三)にそれを止めるよう後光厳天皇綸旨(海蔵院文書)が足利義詮宛に発せられた。至徳二 ...
32. いはらのしょう【井原庄】兵庫県:氷上郡/山南町/井原村
日本歴史地名大系
当庄は大覚寺統に伝領されたが、南北朝期には幕府に没収され北朝が管領した(文和二年一二月二九日「後光厳天皇綸旨案」早稲田大学蔵祇園社文書)。建武三年(一三三六)足 ...
33. いぶきのしょう【伊吹庄】滋賀県:坂田郡/伊吹町
日本歴史地名大系
利義詮御判御教書」菅浦文書など)。翌年六月七日、当庄や柏原庄などが京極導誉に安堵された(「後光厳天皇綸旨案」佐々木文書)。なお同二年一〇月の伊吹社雑掌右宗の言上 ...
34. いやひとしんのう【弥仁親王】
日本人名大辞典
後光厳天皇(ごこうごんてんのう) ...
35. いりえ【入江】京都市:上京区/中立学区/元真如堂町地図
日本歴史地名大系
また入江とも称し入江の名がこの地に残ることになる。次いで崇光天皇の御所が営まれ、入江殿とよばれ、後光厳天皇の皇女見子内親王に譲られて入江御所と称した。足利義満女 ...
36. うえもんのすけのつぼね【右衛門佐局(1)】
日本人名大辞典
?−? 南北朝時代,後光厳天皇の女官。文和(ぶんな)4=正平(しょうへい)10年(1355)亮仁入道親王,貞治(じょうじ)2=正平18年(1363)覚増法親王を ...
37. 浮世親仁形気(浮世草子集) 541ページ
日本古典文学全集
唱える日蓮宗のことをいう。日蓮の言に「念仏無間」という。後文には「無間業因の念仏」とある。日蓮は北朝の後光厳天皇(在位一三五二~七一)より「大菩薩」の称号をたま ...
38. うしじまむら【牛島村】石川県:能美郡/寺井町
日本歴史地名大系
伊勢神宮遷宮にあたり牛島村を含む加賀国南禅寺領の伊勢内宮役夫工米が免除され(同年九月三〇日後光厳天皇綸旨)、貞治六年(一三六七)一〇月二日には、牛島村地頭職を含 ...
39. うだがわのしょう【宇多河庄】鳥取県:西伯郡/淀江町
日本歴史地名大系
院領の当庄に対する金持弾正の乱妨停止の訴えが、梶井宮門跡(恒鎮法親王)を通じてなされた(「後光厳天皇綸旨」柳原家記録)。なお年月日未詳の大原来迎院領等内検用途注 ...
40. うちのむら【内野村】静岡県:浜北市
日本歴史地名大系
兼信に同郷を安堵している。花山院兼信は文和二年(一三五三)一二月二七日後光厳天皇からも同郷を安堵されている(「後光厳天皇綸旨」同文書)。応永六年(一三九九)九月 ...
41. えいげんじ【永源寺】
国史大辞典
また弟子の知庵元周は備後に永聖寺を開創し、永聖の一派を立てた。朝廷・幕府の寂室への帰崇厚く、後光厳天皇は寂室に円応禅師と勅諡し、足利義満はこの寺を祈願所となし、 ...
42. えいじょにゅうどうしんのう【永助入道親王】
日本人名大辞典
1362−1437 南北朝-室町時代,後光厳天皇の第5皇子。康安2=正平(しょうへい)17年3月29日生まれ。母は崇賢門院。応安5=文中元年親王となり,翌年真言 ...
43. えさかごう【榎坂郷】大阪府:吹田市
日本歴史地名大系
求めているが、その結末は不明のまま、二年後に光真は京都地蔵院に寄進した(応安元年一二月七日「後光厳天皇綸旨案」柳原家記録・同三年二月五日「光真寄進状」地蔵院文書 ...
44. えなこごう・まつはしごう【江名子郷・松橋郷】岐阜県:高山市/江名子村
日本歴史地名大系
認められている(「後光厳天皇綸旨案」同文書)。応安元年(一三六八)一〇月二二日両郷に関する教言の訴えが認められ、守護家人垣見宗源らの押妨排除が命ぜられているが( ...
45. 円観
世界大百科事典
か円戒に関する著述が多く,円戒を地方に広めた功績は大きい。弟子に光宗,惟賢らがあり,没後,後光厳天皇から慈威の諡(おくりな)を贈られた。大隅 和雄 慧(恵)鎮  ...
46. えんかん【円観】画像
国史大辞典
また西教寺を復興したとの伝えもある。延文元年(一三五六)三月一日没。七十六歳。貞治元年(一三六二)後光厳天皇から慈威の諡をおくられた。著書として自伝である『閻浮 ...
47. 円覚寺(神奈川県)
日本大百科全書
)天皇の宸筆(しんぴつ)。山門は江戸中期の作で、江戸形式の傑作といわれる。「瑞鹿山」の額は後光厳天皇(あるいは後小松(ごこまつ)天皇)の宸筆と伝えられる。東方の ...
48. えんぶん【延文】
日本国語大辞典
北朝の後光厳天皇の代の年号。文和五年(一三五六)三月二八日改元。延文六年(一三六一)三月二九日に至り次の康安に代わる。将軍は足利尊氏、義詮(よしあきら)。南朝で ...
49. えんぶん【延文】
国史大辞典
後光厳天皇の時の年号(一三五六―六一)。文和五年三月二十八日改元。兵革による。文章博士藤原忠光の勘申。出典は『漢書』儒林伝「延〓文学儒者 ...
50. 延文百首(著作ID:114329)
新日本古典籍データベース
えんぶんひゃくしゅ 延文御百首 後光厳天皇(ごこうごんてんのう)  ...
「後光厳天皇」の情報だけではなく、「後光厳天皇」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

後光厳天皇と同じ天皇カテゴリの記事
舎人親王(日本大百科全書(ニッポニカ))
天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の娘新田部皇女。知太政官事穂積親王の亡きあとは皇親の長老として重んぜられ、新田部親王とともに皇太子首親王(聖武天皇)を輔翼する責務を負った
天皇(改訂新版・世界大百科事典)
日本国憲法に定める日本国および日本国民統合の象徴。天皇の歴史前近代の天皇オオキミとスメラミコト〈天皇〉は〈オオキミ〉とも〈スメラミコト〉とも呼ばれた。しかしこの二つの日本語は決して同義ではなく,むしろ両者の質の違い,それぞれの用いられる次元の相違に注目することが
皇位継承(改訂新版・世界大百科事典)
7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で
摂政(国史大辞典)
天皇に代わって万機を摂り行う者、または摂り行うことをいう。関白に類する職として関白とともに摂関といい、関白と同じく、摂ろく・執柄・博陸などの唐名があり、その地位に因んで一の人・一の所などと称され、殿下ともいわれた
関白(国史大辞典)
万機に関与する重職で摂政に類似する。したがって摂政と合わせて摂関・摂ろく・一の人・一の所などと称し、執柄・博陸・殿下などの唐名がある。関白の語は『漢書』霍公伝に、宣帝が諸事まず霍光に関白してから奏上せしめたとみえているが
天皇と同じカテゴリの記事をもっと見る


「後光厳天皇」は天皇に関連のある記事です。
その他の天皇に関連する記事
豊明節会(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
新嘗祭の翌日の辰日、および大嘗祭においては午日に、天皇が出御して行われる公儀の宴会。荷田在満『大嘗会儀式具釈』に「豊明トハ宴会ヲ云、古クハ宴会豊楽等ノ字ヲ直ニトヨノアカリト訓ズ、大嘗新嘗ノ後ニハ必宴会アリ、仍テ大嘗ノ豊明、新嘗ノ豊明ナドトハイヘド
文官分限令・文官懲戒令(日本大百科全書)
1899年(明治32)3月に第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣の手で公布された、一般文官の身分および職分の保障に関する規定と、懲戒に関する規定。前者では、官吏の身分保障、免官、休職、降任、休職中の俸給、復職などについての原則が規定され、官吏の身分
太上天皇(国史大辞典・日本国語大辞典)
譲位した天皇の称。「だいじょうてんのう」とも訓む。略して上皇あるいは太皇ともいい、また御在所を意味する院の称も用いられ、さらにその御在所を神仙の居所に擬して仙院・仙洞・藐姑射山(はこやのやま)・茨山(しざん)などとも称された。
上皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
譲位した天皇の尊称。正式には太上(だいじょう)天皇と称する。中国の太上皇(たいじょうこう)、太上皇帝の称に始まり、太上は最上または至上の意。日本では697年(文武天皇1)譲位した持統(じとう)天皇が初めて太上天皇と称し、大宝令(たいほうりょう)
昭和天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一九〇一 - 八九 一九二六―八九在位。明治三十四年(一九〇一)四月二十九日午後十時十分、東宮御所に生誕。皇太子明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)と皇太子妃節子(のちの貞明皇后)の第一皇子。五月五日明治天皇より裕仁(ひろひと)と命名され
天皇に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1700冊以上(総額750万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶