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後花園天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『後花園天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・日本人名大辞典のサンプルページ

国史大辞典
後花園天皇
ごはなぞのてんのう
一四一九 - 七〇
一四二八―六四在位。名、彦仁(ひこひと)。応永二十六年(一四一九)六月十八日生まれる。父は、早世した兄治仁(はるひと)王のあとを継いで伏見宮第三代となった貞成(さだふさ)親王(後崇光院)。母は、右近衛少将庭田経有の娘幸子(敷政門院)。経有の妹資子は、北朝崇光天皇の典侍となり、伏見宮初代の栄仁(よしひと)親王を生んでいる。持明院統の後小松天皇は、応永十九年位をみずからの皇子(称光天皇)に譲り、上皇として院政をとった。これに対して、大覚寺統の皇胤や貴族は、南北朝合体の条件であった両統迭立の約束が反故にされたことに憤り、各地で兵を挙げたが、平定された。しかし称光天皇には皇子がなく、上皇の残されたもう一人の皇子(小川宮)も応永三十二年若死したため、上皇は急ぎ皇嗣を決定しなければならなくなった。正長元年(一四二八)七月、大覚寺統の小倉宮は、この機を狙って伊勢へ下向し、北畠満雅を頼って挙兵した。そこで上皇は、皇嗣に充てるため伏見宮の彦仁を上皇の御所に迎え取って、親王宣下のないまま、みずからの猶子とし不測の事態に備えた。まもなく称光天皇が病死したため、七月二十八日彦仁が践祚し、翌永享元年(一四二九)十二月二十七日即位して後花園天皇となった。後花園天皇は、はじめの数年間は上皇の院政をうけたが、上皇の崩後三十一年間は親政で臨んだ。寛正五年(一四六四)七月十九日、皇子(後土御門天皇)に譲位し、東洞院の上皇の御所で左大臣足利義政を院執事にして院政をとった。応仁元年(一四六七)九月二十日、戦乱中の仮御所泉殿で俄かに出家。法名円満智。文明二年(一四七〇)十二月二十七日、中風のため同御所で崩じた。五十二歳。戦乱のため泉涌寺が戦陣になり、寺僧らも離散してしまっていたため、翌三年正月三日、悲田院で遺体を火葬し本堂前に埋骨、その上に山茶花を植えたが、まもなく丹波国山国の常照皇寺に分骨され、ここを山陵と定めた(後山国陵)。はじめ、後文徳院と追号されたが、昔の天皇の諡号(文徳)に後字を加える追号例はかつてないとする反対が出て、後花園院と改められた。父貞成親王は、後花園天皇が即位すると、皇位が持明院統のなかでも庶流の後光厳院流から嫡流である崇光院流に戻ったことを喜び、またこれが永く自流の子孫に伝えられることを願って、『椿葉記(ちんようき)』を著わし、天皇に君徳の涵養を訓した。天皇も父の期待に応え、「近来の聖主」と称えられた。天皇が皇子(後土御門天皇)に同様の趣旨を訓したのが、『後花園院御消息』(『群書類従』消息部)である。天皇の日記は、『親長卿記』文明五年三月十七日条の記事によれば、かつては存在したことがわかるが、今は伝わらない。和歌には『後花園院御集』三巻(『列聖全集』御製集四)、『後花園院五十首』(同)、『後花園院御百首』(同・『続群書類従』和歌部)、連歌には『後花園院御独吟百韻』(『列聖全集』御製集四・『続群書類従』連歌部ほか)などの作品がある。
[参考文献]
『大日本史料』八ノ三 文明二年十二月二十七日条
(益田 宗)

後山国陵(のちのやまくにのみささぎ)

京都府北桑田郡京北町大字井戸字丸山の常照皇寺内にある。光厳天皇陵・後土御門天皇分骨所と同域。天皇は文明三年(一四七一)正月三日、応仁・文明の乱の騒擾のうちに悲田院にて火葬、同九日拾骨、火葬の地には土を封じて植樹し、二月五日御骨(歯および仏舎利一粒を加える)を常照寺に賜わった。天皇は生前光厳天皇を慕い、崩後灰骨を祖堂に安置せよとの遺志によったもので、同寺では御骨を光厳天皇陵側に蔵め、上に宝篋印塔を建てた。御陵は光厳天皇陵とともに常照寺によって祭祀されてきた。幕末修陵の際は、光厳天皇・後花園天皇両陵を山国陵と称したが、明治二年(一八六九)当陵を後山国陵と改称した。天皇の分骨所は京都市上京区般舟院前町の贈皇太后源朝子の般舟院陵内に、火葬塚は同上京区扇町大応寺境内にある。なお文明三年二月十一日に分骨を大原法華堂の側にも納めているが、現在の後鳥羽天皇陵である十三重の石塔をこれにあてる説もある。
[参考文献]
『大日本史料』八ノ四、文明三年正月三日・九日・二月五日条、上野竹次郎『山陵』下
(中村 一郎)


日本大百科全書(ニッポニカ)
後花園天皇
ごはなぞのてんのう
[1419―1470]

第102代天皇(在位1428~64)。名は彦仁(ひこひと)。法名円満智。後文徳(ごもんとく)院と称した。後崇光(ごすこう)院貞成(さだなる)親王の第1皇子。実母は庭田経有(にわたつねあり)の女(むすめ)敷政門院(ふせいもんいん)幸子。養母は日野資国(すけくに)の女光範門院資子。室町時代の初め、称光(しょうこう)天皇には後嗣(こうし)がなく、その死によって後光厳(ごこうごん)天皇流の皇統は断絶することになった。そこで父後小松(ごこまつ)上皇の意志により、貞成親王の第1皇子が、上皇の猶子(ゆうし)として迎えられて位についたのが後花園天皇である。そこで血統上、皇位は持明院(じみょういん)統嫡流たる崇光(すこう)天皇流に復帰した。1464年(寛正5)位を皇子後土御門(ごつちみかど)天皇に譲り、67年(応仁1)応仁(おうにん)の乱を憂えて出家、文明(ぶんめい)2年12月27日没。丹波(たんば)後山国(のちのやまぐに)陵に葬る。
[村田正志]



日本人名大辞典
後花園天皇
ごはなぞのてんのう
1419−1471*
室町時代,第102代天皇。在位1428-64。
応永26年6月18日生まれ。伏見宮貞成(ふしみのみや-さだふさ)親王(後崇光院(ごすこういん))の第1王子。母は源幸子(こうし)(敷政門院)。後小松上皇の猶子となり,称光天皇の病死で皇位をつぐ。8代将軍足利義政の時代で,永享の乱,嘉吉(かきつ)の乱,各地の土一揆(どいっき),寛正(かんしょう)の大飢饉(ききん)などがあった。在位37年で皇子の後土御門(ごつちみかど)天皇に譲位し,院政をしく。上皇時代には応仁(おうにん)の乱がおきた。文明2年12月27日死去。52歳。墓所は後山国陵(のちのやまくにのみささぎ)(京都府京北町)。諱(いみな)は彦仁(ひこひと)。法名は円満智。別名に後文徳院。歌集に「後花園院御集」,日記に「後花園院御記」。
【格言など】残民争いて採る首陽の蕨(わらび)処々炉(ろ)を閉じ竹扉(ちくひ)を鎖(とざ)す 詩興の吟は酣(たけなわ)なり春二月 満城の紅緑誰がために肥ゆる(「新撰長禄寛正記」)
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検索ヒット数 357
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検索コンテンツ
1. 後花園天皇
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25. 足利義教
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26. 足利義政
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