NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1700冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 社会
  6. >
  7. 政治
  8. >
  9. 天皇
  10. >
  11. 後水尾天皇

後水尾天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『後水尾天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
後水尾天皇
ごみずのおてんのう
一五九六 - 一六八〇
一六一一―二九在位。慶長元年(一五九六)六月四日後陽成天皇の第三皇子として誕生。母は関白近衛前久の女前子(中和門院)。諱は政仁(ことひと、初訓「ただひと」)。同五年十二月二十一日親王宣下、同十六年三月二十七日父天皇の譲りを受けて践祚し、四月十二日即位礼を挙げた。この後、元和六年(一六二〇)六月将軍徳川秀忠の女和子を納れて女御とし、ついで寛永元年(一六二四)十一月久しく絶えていた立后の儀が行われた。在位十九年にして、同六年十一月八日俄かに皇后所生の女一宮興子内親王(明正天皇)に譲位し、爾来院にあること五十二年、その間慶安四年(一六五一)五月落飾して法名を円浄と称したが、延宝八年(一六八〇)八月十九日八十五歳をもって崩御。追号は遺詔によって後水尾院といい、陵は京都泉涌寺山内にあって、月輪陵と称する。天皇の在位時は、徳川幕府の創業期にあたり、時に新しい朝幕関係の確立を目指した徳川幕府は、元和元年七月『禁中并公家諸法度』を定めて朝廷抑制の方針を制度化したが、さらに四辻季継らの配流や紫衣事件のごとき朝廷の内政・特権に対する露骨な干渉も相ついで行われた。このため天皇は憤懣抑えがたく、あえて幕府に諮ることなく譲位を決行したのであった。いま東山御文庫に伝存する天皇宸筆の御教訓書に、特に武家専権の世であることに言及して、この時世にあっては〓心をつつしむことが肝要であると説いているのは、体験にもとづく訓戒として意義深いものがある。天皇の在世時はまた文芸復興の機運にみちた時代で、朝廷にあっても文学・芸術にすぐれた公家衆が輩出した。天皇も深く文芸を好み、みずから『源氏物語』その他の古典を侍臣に講ずるとともに、宮中に学問講と称する学芸稽古の式日を設けて、廷臣の講習を奨励した。また和歌・連歌・漢詩・書道をはじめ、茶道・華道・香道あるいは絵画などにも長じ、ことに和歌・書道については、戯れに「手も少しは書く、歌も相応にはよむ」(『槐記』)と自讃している。勅版『皇朝類苑』の刊行もまた天皇の好学の一端を示すものである。さらに朝儀の復興にも意を用い、踏歌節会・殿上淵酔などの儀を復する一方、『当時年中行事』のごとき朝儀公事に関する著作も遺している。天皇は譲位の後、幕府に対する憤懣を仏道の研鑽に転じ、特に心を禅宗に留め、一絲文守・沢庵宗彭・愚堂東寔・竜渓性潜などに帰依して大いに参究の功を積んだ。竜渓の語録『宗統録』の出版に際して勅序を賜わったことをはじめ、修道に関する逸事も少なくない。なお、修学院離宮が天皇の計画・設計になることは著名である。御製は千数百首の多数に及び、御集を『鴎巣集』という。また御撰の著作は四十余をかぞえる。→紫衣事件(しえじけん),→月輪陵(つきのわのみささぎ)
[参考文献]
和田英松『皇室御撰之研究』、帝国学士院編『宸翰英華』二、熊倉功夫『後水尾院』(『朝日評伝選』二六)、辻善之助「後水尾天皇の御信仰」(『日本仏教史之研究』続編所収)
(武部 敏夫)


日本大百科全書(ニッポニカ)
後水尾天皇
ごみずのおてんのう
[1596―1680]

第108代の天皇(在位1611~29)。名を政仁(ことひと)、幼称を三宮といい、法名を円浄という。母は太政(だいじょう)大臣近衛前久(このえさきひさ)の娘、中和門院藤原前子(さきこ)で、後陽成(ごようぜい)天皇の第3皇子として生まれる。1600年(慶長5)親王宣下、1610年元服、翌年16歳で即位した。1620年(元和6)2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の娘和子(かずこ)を女御(にょうご)とし、1624年(寛永1)皇后宣下して中宮(ちゅうぐう)に冊立。武家出身の中宮は、平清盛(きよもり)の娘徳子(建礼門院)以来の異例のできごとであった。こうした幕権を背景とした徳川氏の朝廷抑圧は、「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」(禁中并公家中諸法度)の制定や、紫衣(しえ)事件などを通してしだいに激しくなっていった。これを不満として、1629年わずか7歳の興子(おきこ)内親王(明正(めいしょう)天皇)に位を譲り、自らは院政を敷いた。その期間は明正、後光明(ごこうみょう)、後西(ごさい)、霊元(れいげん)の4代51年に及んでいる。また、天皇は学問・芸術にも関心深く、さまざまな文化活動を行った。俳名を玉露といい、詩歌・連歌をよくした。御集に『鴎巣(おうそう)集』がある。このほか、天皇の造営にかかる洛北(らくほく)の修学院(しゅがくいん)離宮は日本屈指の名園。延宝(えんぽう)8年8月19日、85歳で没。陵は京都市東山区今熊野泉山町の月輪陵。
[佐々悦久]



世界大百科事典
後水尾天皇
ごみずのおてんのう
1596-1680(慶長1-延宝8)

第108代に数えられる天皇。在位1611-29年。諱(いみな)は政仁(ことひと)。後陽成天皇の第3皇子。母は中和門院近衛前子。1611年(慶長16)後陽成天皇のあとをうけて即位。20年(元和6)将軍徳川秀忠の女和子(まさこ)を女御とし,24年(寛永1)中宮とした。のちの東福門院がこれで,外戚となった徳川氏は皇居を造営し,1623年には新たに1万石の御料を進める(〈新御料〉)など尊崇の意を表しながらも,禁中並公家諸法度(1615制定)や所司代,付武家などを通して種々の干渉を加えた。ことに27年の紫衣(しえ)事件は朝廷の面目を完全につぶすものであったのみならず,29年には将軍家光の乳母福(春日局)が無位無官の身で拝謁するという前例のないことが敢行され,積年の幕府に対する天皇の不満を爆発させる契機となり,同年11月8日,突如,和子所生の興子内親王(明正天皇)に譲位。在位18年,明正・後光明・後西・霊元の4天皇,51年にわたり院政をしいた。51年(慶安4)剃髪。法名は円浄。学問を好み,智仁親王,烏丸光広,中院通村らに《伊勢物語》《源氏物語》《古今和歌集》《詠歌大概》などを進講させ,ときにみずからも廷臣に講義し,《伊勢物語御抄》などを著作。1621年には勅して《皇宗(こうそう)事宝類苑》を刊行させ廷臣や学者らに与えた。和歌,連歌を好み,古今伝授を智仁親王より受け,歌集を《鷗巣(おうそう)集》といい,俳名を玉露と称する。修学院離宮の造営でも知られる。
[橋本 政宣]

上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


後水尾天皇の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 701
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 後水尾天皇画像
日本大百科全書
第108代の天皇(在位1611~29)。名を政仁(ことひと)、幼称を三宮といい、法名を円浄という。母は太政(だいじょう)大臣近衛前久(このえさきひさ)の娘、中和 ...
2. 後水尾天皇[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
後水尾天皇画像 賛」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分) ©東京大学史料編纂所 ...
3. 後水尾天皇
世界大百科事典
1596-1680(慶長1-延宝8) 第108代に数えられる天皇。在位1611-29年。諱(いみな)は政仁(ことひと)。後陽成天皇の第3皇子。母は中和門院近衛前 ...
4. ごみずのお‐てんのう[ゴみづのをテンワウ]【後水尾天皇】
日本国語大辞典
第一〇八代天皇。後陽成天皇の皇子。母は中和門院前子(さきこ)。幼名三宮、のち政仁(ことひと)。慶長一六年(一六一一)即位。在位一八年。禁中並公家諸法度の制定・紫 ...
5. ごみずのおてんのう【後水尾天皇】
国史大辞典
研究』、帝国学士院編『宸翰英華』二、熊倉功夫『後水尾院』(『朝日評伝選』二六)、辻善之助「後水尾天皇の御信仰」(『日本仏教史之研究』続編所収) (武部 敏夫)  ...
6. 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 38ページ ...
7. ごみずのおてんのう【後水尾天皇】
日本人名大辞典
1596−1680 江戸時代前期,第108代天皇。在位1611-29。文禄(ぶんろく)5年6月4日生まれ。後陽成(ごようぜい)天皇の第3皇子。母は藤原前子(さき ...
8. ごみずのおてんのう【後水尾天皇】
日本架空伝承人名事典
第一〇八代に数えられる天皇。在位一六一一‐二九年。諱(いみな)は政仁(ことひと)。後陽成天皇の第三皇子。母は関白近衛前久の女前子(中和門院(ちゅうわもんいん)) ...
9. 後水尾天皇[文献目録]
日本人物文献目録
ついて』中島卯三郎『後水尾天皇が王政復興に於ける御事』西萃居士『後水尾天皇御譲位考』池田晃淵『後水尾天皇御譲位の事』内藤耻叟『後水尾天皇宸筆東照宮縁起』勝野隆信 ...
10. 後水尾天皇・後水尾法皇
日本史年表
1629年〈寛永6 己巳②〉 11・8 後水尾天皇 、紫衣事件などに不満を抱き、興子内親王に譲位(続史愚抄)。 1680年〈延宝8 庚申⑧〉 8・19 没。  ...
11. 後水尾天皇俳諧 (見出し語:後水尾天皇)
古事類苑
文學部 洋巻 第1巻 1186ページ ...
12. 後水尾天皇勅令類題和歌集 (見出し語:後水尾天皇)
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 396ページ ...
13. 後水尾天皇國忌 (見出し語:後水尾天皇)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 1285ページ ...
14. 後水尾天皇建法常寺 (見出し語:後水尾天皇)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 867ページ ...
15. 後水尾天皇御諱 (見出し語:後水尾天皇)
古事類苑
姓名部 洋巻 第1巻 589ページ ...
16. 後水尾天皇讓位 (見出し語:後水尾天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 565ページ ...
17. 納後水尾天皇遺骨於安樂行院 (見出し語:後水尾天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 1008ページ ...
18. 後水尾天皇以来皇年代記補(著作ID:2683207)
新日本古典籍データベース
ごみずのおてんのういらいこうねんだいきほ 年代記  ...
19. 後水尾天皇行幸騎置馬覚(著作ID:4400394)
新日本古典籍データベース
ごみずのおてんのうぎょうこうきちうまのおぼえ 中院通村(なかのいんみちむら) 三条西実条(さんじょうにしさねえだ) 記 記録  ...
20. 後水尾天皇宸翰(著作ID:4365188)
新日本古典籍データベース
ごみずのおてんのうしんかん 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)  ...
21. 後水尾天皇宸筆和歌御勘(著作ID:1130365)
新日本古典籍データベース
ごみずのおてんのうしんぴつわかぎょかん 後水尾天皇(ごみずのおてんのう) 歌学  ...
22. 後水尾天皇二条亭行幸方一会之記(著作ID:2683296)
新日本古典籍データベース
ごみずのおてんのうにじょうていぎょうこうかたいちえのき 平田職忠(ひらたもとただ) 等 記録 寛永三 ...
23. 一絲和尚へ遣はさるゝ硯の銘(著作ID:4358385)
新日本古典籍データベース
いっしおしょうへつかわさるるすずりのめい 後水尾天皇の御硯を永源寺一原和尚へ給はる御歌の序 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)  ...
24. あおいろのほう【青色袍】
国史大辞典
極臈の蔵人の料を麹塵の袍と呼んで区別するのが例となった。京都の広隆寺所蔵の歴代天皇贈進の束帯のうち、後水尾天皇寄進という青色の袍残欠は、極臈の料と同じ尾長鳥唐草 ...
25. あかつか-うんあん【赤塚芸庵】
日本人名大辞典
伏原賢忠(ふしはら-かたただ)に儒学を,冷泉為景(れいぜい-ためかげ)に和歌をまなぶ。寛永4年朝廷に出仕し,後水尾天皇に「孟子(もうし)」を進講した。元禄(げん ...
26. あきこじょおう【明子女王】
日本人名大辞典
寛永15年生まれ。池田光政の娘。母は松平忠直の娘寧子。高松宮好仁(よしひと)親王の養女となる。慶安4年後水尾天皇の第6皇子高松宮良仁(ながひと)親王と結婚。承応 ...
27. あきこないしんのう【昭子内親王】
日本人名大辞典
1625−1651 江戸時代前期,後水尾天皇の第3皇女。寛永2年9月13日生まれ。母は東福門院。明正(めいしょう)天皇の妹。女二宮とよばれた。関白近衛尚嗣(この ...
28. 昭子内親王[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:1件 『後水尾天皇皇女昭子内親王に就いて』芝葛盛 ...
29. あきこないしんのう【顕子内親王】
日本人名大辞典
1629−1675 江戸時代前期,後水尾天皇の第4皇女。寛永6年8月27日生まれ。母は東福門院。女三宮とよばれた。寛永14年内親王となる。岩倉に新殿をたててすみ ...
30. 排蘆小船(近世随想集) 364ページ
日本古典文学全集
後水尾法皇にもまなばせ給ふよしなり」。『新題林和歌集』。近世前期の類題集。釣月編。一六巻。正徳六年刊。後水尾天皇、霊元天皇およびその周辺の廷臣歌人の九四一九首を ...
31. 排蘆小船(近世随想集) 384ページ
日本古典文学全集
田辺城へ光広、実条らと共に八条宮智仁親王が出向いて、幽斎より伝授を受け、のち寛永二年に親王から後水尾天皇に伝授された。第百八代天皇。名は政仁。後陽成天皇の第三皇 ...
32. 排蘆小船(近世随想集) 387ページ
日本古典文学全集
『三玉集』の一つとして刊行され、近世の堂上地下の歌人万般に甚大な影響を及ぼした。『資慶卿口授』には後水尾天皇が『雪玉集』を推賞したことが記されるが、霊元天皇もも ...
33. 排蘆小船(近世随想集) 389ページ
日本古典文学全集
ながら、なほ自分の歌には分量に過ぎたることままみえて、少し風体の悪しきことあり。優れたる歌どもは、為家時分の歌よりも細やかにして、優美に心深き処も添ひて、みるに ...
34. あすかいまさあき【飛鳥井雅章】
国史大辞典
同十年まで武家伝奏の職にあり、延宝五年(一六七七)従一位に叙せらる。家学の和歌を能くして、後水尾天皇より古今伝授を受け、同家では雅親以来の名手と評せられている。 ...
35. あすかいまさつね【飛鳥井雅庸】
国史大辞典
に任ぜらる。家業の和歌・蹴鞠二道を受けついで世に著われ、昭高院准后道澄より古今伝授を受け、後水尾天皇の蹴鞠師範を奉仕した。また書道を能くし、藤木成定より入木道伝 ...
36. 阿茶局
日本大百科全書
下ろさなかった。1620年、秀忠の五女和子(かずこ・まさこ)(東福門院(とうふくもんいん))が後水尾天皇(ごみずのおてんのう)のもとに入内したときは、和子の母代 ...
37. 阿茶局
世界大百科事典
りや23年の皇女(明正天皇)誕生のおりの生母和子への近侍,また家光時代の26年(寛永3)の後水尾天皇二条城行幸に際して,送迎・饗応の万般に関与した。北原 章男  ...
38. あちゃのつぼね【阿茶局】
日本人名大辞典
統制し,大坂冬の陣では徳川方の和議の使者となった。徳川秀忠(ひでただ)の娘和子(東福門院)の後水尾天皇への輿(こし)入れに母代わりをつとめ,のち従一位をさずけら ...
39. 阿府志[文献解題]徳島県
日本歴史地名大系
庫ほか 解説 赤堀良亮は徳島藩の鷹匠。内容は阿波国中の神社の由緒(巻一・巻二)、神代から後水尾天皇までの歴代天皇の事歴に阿波の国司・守護の補任、大名の事歴を加 ...
40. 有栖川宮
世界大百科事典
その称は親王の養母新上東門院の居所高松殿に由来する。世襲親王家の一つ。好仁親王には嗣子がなく,後水尾天皇の皇子良仁親王が第2代を相続して花町宮と称したが,のち皇 ...
41. ありすがわのみやけ【有栖川宮家】画像
国史大辞典
二年(一六二五)十月、高松宮の称号を賜わって一家を創立したのに始まる。親王には王子がなく、後水尾天皇の皇子良仁親王(のちの後西天皇)が相続して花町宮・桃園宮とも ...
42. 有栖川宮家 系図[図版]画像
国史大辞典
後陽成天皇 後水尾天皇 好仁親王 良仁親王 (後西天皇) 幸仁親王 正仁親王 音仁親王 霊元天皇 職仁親王 織仁親王 韶仁親王 幟仁親王 熾仁親王 威仁親王 栽 ...
43. あわたぐちしんめい【粟田口神明】
国史大辞典
勢神宮を勧請、荒廃後慶長十九年(一六一四)伊勢の神職野呂左衛門尉宗光が霊夢により再興した。後水尾天皇以来禁中よりたびたび御供寄進の事があった。『康富記』宝徳三年 ...
44. 井伊靱負へ下さるゝ硯の銘(著作ID:4358170)
新日本古典籍データベース
いいゆげいへくださるるすずりのめい 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)  ...
45. 池坊専好(2代)
日本大百科全書
寛永6年七夕(たなばた)に催された「紫宸殿御立華(ししんでんごりっか)」会はとくに名高く、後水尾天皇以下諸公卿(くぎょう)の出瓶(しゅっぺい)があり、前者の会は ...
46. いけのぼうせんこう【池坊専好】
国史大辞典
たという。しかし、一般に専好といえば二代目専好のことで、立花の大成者である。江戸時代初期、後水尾天皇を中心とした立花を愛好する機運にのって専好はすぐれた立花の技 ...
47. いけのぼう-せんこう【池坊専好(2代)】
日本人名大辞典
−1658 江戸時代前期の華道家。天正(てんしょう)3年?生まれ。京都頂法寺(六角堂)の僧。後水尾天皇の花会などで活躍し,法橋位をあたえられる。立花の大成者で, ...
48. いけばな画像
世界大百科事典
のものとなる。立花(りつか)を大成させたのは2世専好で,ことに寛永期(1624-44)には後水尾天皇の庇護を受け,立花を特に愛し,その心得もあった天皇によって, ...
49. いけばな
国史大辞典
自然のままにいけることを強調した。江戸時代初期、不世出の名人といわれる池坊専好の出現と相まって、後水尾天皇を中心にした人々の立花を愛好する機運が立花の画期的な発 ...
50. いけ花画像
日本大百科全書
『土御門泰重卿記(つちみかどやすしげきょうき)』にもみられるとおり、あまりにできばえがすばらしかったので、後水尾天皇から見にくるように招請があったほど、当時評判 ...
「後水尾天皇」の情報だけではなく、「後水尾天皇」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

後水尾天皇と同じ天皇カテゴリの記事
舎人親王(日本大百科全書(ニッポニカ))
天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の娘新田部皇女。知太政官事穂積親王の亡きあとは皇親の長老として重んぜられ、新田部親王とともに皇太子首親王(聖武天皇)を輔翼する責務を負った
天皇(改訂新版・世界大百科事典)
日本国憲法に定める日本国および日本国民統合の象徴。天皇の歴史前近代の天皇オオキミとスメラミコト〈天皇〉は〈オオキミ〉とも〈スメラミコト〉とも呼ばれた。しかしこの二つの日本語は決して同義ではなく,むしろ両者の質の違い,それぞれの用いられる次元の相違に注目することが
皇位継承(改訂新版・世界大百科事典)
7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で
摂政(国史大辞典)
天皇に代わって万機を摂り行う者、または摂り行うことをいう。関白に類する職として関白とともに摂関といい、関白と同じく、摂ろく・執柄・博陸などの唐名があり、その地位に因んで一の人・一の所などと称され、殿下ともいわれた
関白(国史大辞典)
万機に関与する重職で摂政に類似する。したがって摂政と合わせて摂関・摂ろく・一の人・一の所などと称し、執柄・博陸・殿下などの唐名がある。関白の語は『漢書』霍公伝に、宣帝が諸事まず霍光に関白してから奏上せしめたとみえているが
天皇と同じカテゴリの記事をもっと見る


「後水尾天皇」は天皇に関連のある記事です。
その他の天皇に関連する記事
豊明節会(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
新嘗祭の翌日の辰日、および大嘗祭においては午日に、天皇が出御して行われる公儀の宴会。荷田在満『大嘗会儀式具釈』に「豊明トハ宴会ヲ云、古クハ宴会豊楽等ノ字ヲ直ニトヨノアカリト訓ズ、大嘗新嘗ノ後ニハ必宴会アリ、仍テ大嘗ノ豊明、新嘗ノ豊明ナドトハイヘド
文官分限令・文官懲戒令(日本大百科全書)
1899年(明治32)3月に第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣の手で公布された、一般文官の身分および職分の保障に関する規定と、懲戒に関する規定。前者では、官吏の身分保障、免官、休職、降任、休職中の俸給、復職などについての原則が規定され、官吏の身分
太上天皇(国史大辞典・日本国語大辞典)
譲位した天皇の称。「だいじょうてんのう」とも訓む。略して上皇あるいは太皇ともいい、また御在所を意味する院の称も用いられ、さらにその御在所を神仙の居所に擬して仙院・仙洞・藐姑射山(はこやのやま)・茨山(しざん)などとも称された。
上皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
譲位した天皇の尊称。正式には太上(だいじょう)天皇と称する。中国の太上皇(たいじょうこう)、太上皇帝の称に始まり、太上は最上または至上の意。日本では697年(文武天皇1)譲位した持統(じとう)天皇が初めて太上天皇と称し、大宝令(たいほうりょう)
昭和天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一九〇一 - 八九 一九二六―八九在位。明治三十四年(一九〇一)四月二十九日午後十時十分、東宮御所に生誕。皇太子明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)と皇太子妃節子(のちの貞明皇后)の第一皇子。五月五日明治天皇より裕仁(ひろひと)と命名され
天皇に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1700冊以上(総額750万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶