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孝明天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『孝明天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
孝明天皇
こうめいてんのう
一八三一 - 六六
一八四六―六六在位。天保二年(一八三一)六月十四日仁孝天皇の第四皇子として誕生。母は贈左大臣正親町実光の女雅子(新待賢門院)。諱は統仁(おさひと)、幼称は煕(ひろ)宮という。天保六年六月儲君治定、同年九月親王宣下、同十一年三月十四日立太子の儀があり、ついで弘化三年(一八四六)二月十三日、父天皇の崩御のあとをうけて践祚の儀をあげ、翌四年九月二十三日即位礼をあげた。在位二十一年を数え、慶応二年(一八六六)十二月二十五日痘瘡によって崩御。三十六歳。ついで孝明天皇と諡号を定め、京都泉涌寺の後山に葬る。陵は後月輪東山陵と称する。その在位の時代は幕末激動期にあたり、従来政治の圏外にあった朝廷が遽かに政権の中心に進出し、天皇は多難な国事にあたらなければならなかった。践祚後七年目の嘉永六年(一八五三)六月米艦の浦賀来航を見るに及び、鎖国体制は破綻し、江戸幕府は安政五年(一八五八)正月日米修好通商条約調印の勅許を奏請するに至った。天皇は当時の大多数の公家衆と同様に開国は神州を汚すものと憂慮したので勅許を見合わせ、調印の可否は諸大名の衆議をもってすべきことを命じた。ところが幕府では、同年六月勅許を待たずに調印したのみならず、さらに蘭・露・英の諸国とも条約を締結するという事態になったため、天皇は激怒して譲位を決意し、また勅諚を幕府および水戸藩に下して、国事を誤ることのないよう再議を求め、叡旨の貫徹を図った。時に将軍継嗣問題をめぐる紛争もこれにからまって国論が沸騰したが、幕府は、調印は武備充実までの一時便宜の措置であると釈明に努める一方、反対派の抑圧を始めたため、天皇は不満ながらその釈明をいれた。この後万延元年(一八六〇)三月大老井伊直弼が暗殺されると(桜田門外の変)、幕府は低下した勢威を回復するため公武の融和を図ることを策し、公武合体の証として、皇妹和宮の将軍徳川家茂への婚嫁を奏請した。天皇は和宮の不同意を知って、この請をしりぞけたが、再三の懇請を拒否しがたく、公武一和をもって武備の充実を図り、鎖国の旧制に復するとの幕府の誓約をとり、ついにこれを勅許した。この婚嫁を契機として朝廷は幕府に対して優位に立ち、公武合体の施策を進めるため薩長二藩等に国事周旋を命じたが、その間朝廷内外の攘夷派の勢力は長州藩の支援をうけてすこぶる強大となった。そして文久三年(一八六三)に至り、天皇は攘夷の成功を祈願するため、三月賀茂社に、四月石清水社に行幸あり、また幕府は攘夷実行期日を五月十日と定め、同日長州藩によって下関海峡通航の外船の砲撃が決行された。かくて勢いにのった攘夷派の廷臣・志士は攘夷親征を企図して大和行幸の廟議を定めるに至ったが、天皇は攘夷即行を無謀の挙とするとともに、討幕へと突き進む情勢を深く憂い、密かに中川宮尊融親王(朝彦親王)をしてその阻止を謀らしめた。その結果、八月十八日朝廷は大和行幸を中止し、薩摩・会津等の藩兵をもって宮門を固めた上、激派廷臣の参朝停止と長州藩の宮門警固罷免を令した。この政変(八月十八日の政変)を発端として、政局は禁門の変・長州征伐と目まぐるしく推移し、天皇は依然公武合体・鎖国攘夷の基本方針を堅持した。しかし内外の情勢は次第に天皇の素志と反対の方向に進み、慶応元年十月には英・米・仏・蘭四国公使共同の要求によって、ついに条約の勅許を見、また翌二年正月には討幕を目的として薩長両藩の盟約が成り、ついで八月第二次長州征伐が失敗すると、政局は討幕に向けて一路進展する様相を示し始めたのである。この時にあたって天皇はたまたま痘瘡に罹って癒えず、国事に心労を重ねた一生を終えた。天皇は和歌を能くし、近衛邸の花宴の感興を詠んだ懐紙(「糸桜の宸翰」と称する)や、内裏炎上の際に移徙道中の情景を詠んだ御幸記は、ことに著名である。また雅号に因んで『此花詠集』と題する宸筆御製集十三冊が京都御所東山御文庫に伝存する。なお日記は、弘化二・四、安政五、万延元、文久元年の記事若干が伝えられる。
[参考文献]
宮内省編『孝明天皇紀』、帝国学士院編『宸翰英華』二、吉田常吉「孝明天皇崩御をめぐっての疑惑」(『日本歴史』一六)
(武部 敏夫)

後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)

京都市東山区今熊野泉山町にあり、径約四五メートルの三段に築かれた円丘で、墳頂に巨石を据え、北側に隣接する孝明天皇女御夙子(あさこ、英照皇太后)の後月輪東北陵と兆域を同じくする。江戸時代の陵制は承応三年(一六五四)後光明天皇の葬送の際に従来の火葬を改めて土葬に復したが、葬儀はその後もなお火葬の儀を用いて泉涌寺内の一隅に埋葬、九重の石塔を以て山陵に擬することが慣例とされていた。孝明天皇崩御するや山陵奉行戸田忠至は、火葬の儀を廃して高塚式の古制に復すことを建言した。朝議はこれを採用して慶応三年(一八六七)正月三日その旨を布達、ついで後月輪陵の東にあたる泉涌寺後山の山腹に陵所を点定、陵号を後月輪東山陵と定め、同月二十七日夜泉涌寺において葬儀を行い、翌日未明に至り埋葬を終えた。山陵の造営は戸田忠至が担当し、同年十月二十九日竣工した。
[参考文献]
上野竹次郎『山陵』下
(戸原 純一)


日本大百科全書(ニッポニカ)
孝明天皇
こうめいてんのう
[1831―1866]

江戸末期の天皇(在位1846~66)。仁孝(にんこう)天皇第4皇子。天保(てんぽう)2年6月14日生まれ。名は統仁(おさひと)。1846年(弘化3)2月、16歳で践祚(せんそ)、翌年9月即位式をあげる。46年8月、対外関係が急迫の度を強めたため、幕府に対して海防を厳重にするよう沙汰書(さたしょ)を出した。その後も幕府に外交問題で遺憾(いかん)のないようにとの指示を与え、幕府も朝廷の意向を無視できなくなった。58年(安政5)日米修好通商条約の締結にあたって、幕府が事前の了解を求めた際にこれを拒否、井伊直弼(いいなおすけ)の決断による調印を「専断」と非難した。退位の意向も示したが、攘夷(じょうい)強硬派の公卿(くぎょう)に動かされ、8月水戸藩に幕府改革を求める密勅を発した。60年(万延1)井伊暗殺後、幕府は朝廷との妥協によって実権を回復しようとし、天皇も、攘夷の維持のためには公武の合体による国内一致が急務であると判断、妹和宮(かずのみや)の江戸降嫁(こうか)を認めた。62年(文久2)には、将軍家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)を求め、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、松平慶永(よしなが)の登用による幕政改革を指示、さらに攘夷の布告発布を迫り、翌63年「攘夷断行」を幕府から上奏させるなど、かねてからの攘夷の立場で幕府を強く指導した。しかし、「文久(ぶんきゅう)三年八月十八日の政変」(1863)にあたっては、攘夷派公卿とたもとを分かち、三条実美(さんじょうさねとみ)ら七卿と長州藩兵を京都から追放した。一橋慶喜、松平慶永、山内容堂(ようどう)ら雄藩藩主を中心とする公武合体を目ざし、岩倉具視(ともみ)ら一部公卿の王政復古倒幕論には批判的であった。66年(慶応2)7月、第二次長州征伐中に将軍家茂が死去すると、天皇は征長の停止を幕府に指示し、幕府の統制力の崩壊は決定的となったが、第15代将軍慶喜の就任直後の12月25日急死した。強硬な尊攘派公卿、とくに岩倉具視らが京都回復をねらい、薩長(さっちょう)による武力倒幕の動きが具体化していたときだけに、陰謀による毒殺との説が有力視された。享年36歳。墓所は京都東山(ひがしやま)泉涌寺(せんにゅうじ)の後月輪(のちのつきのわ)東山陵。
[河内八郎]



世界大百科事典
孝明天皇
こうめいてんのう
1831-66(天保2-慶応2)

第121代に数えられる天皇。在位1847-66年。仁孝天皇第4皇子。名は統仁(おさひと)。1846年践祚。条約勅許問題以降,積極的に政治に関与。その政治的立場は,強硬な攘夷主義と公武合体論。58年日米修好通商条約の締結に際して,幕府はその勅許を要請したが,調印に強く反対。幕府が独断で条約に調印するや,それに抗議して譲位の意を示す。ここに朝幕の対立は頂点に達したが,桜田門外の変ののち,幕府が公武一体を方針とし,将来の攘夷の実行を約して,皇妹和宮と将軍徳川家茂との婚姻を要請すると,周囲の反対をおしてこれに同意。62-63年に高揚する尊攘運動には批判的で,中川宮や京都守護職松平容保(かたもり)と結んで,尊攘派を京都から追放(文久3年8月18日の政変)。一橋慶喜を信任し,攘夷に期待をかけたが,66年条約をついに勅許。この年疱瘡(ほうそう)を病み逝去。病状が回復しつつあったときの急死のため毒殺の可能性が高い。
[羽賀 祥二]

[索引語]
統仁
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31. 朝彦親王
世界大百科事典
協力してこれを阻止し,その勢力を京都から一掃した(文久3年8月18日の政変)。この後ますます孝明天皇の信任が厚く,公武合体派の重鎮として活躍した。維新後,反政府 ...
32. あさひこしんのう【朝彦親王】
国史大辞典
文久二年(一八六二)四月幕府の内奏により、永蟄居を赦され、青蓮院門跡に還補した。親王に対する孝明天皇の親任は厚く、同年十二月国事御用掛の新設とともにこの職につき ...
33. あつたじんぐう【熱田神宮】愛知県:名古屋市/熱田区/宮宿
日本歴史地名大系
宮司領が与えられたが、経済的には厳しい時期であった。日本の近海に黒船が出没するようになると、孝明天皇は全国の大社に「夷狄降服」の祈請をしたが、当宮に対しても嘉永 ...
34. あねがこうじきんとも【姉小路公知】
国史大辞典
この時はじめて従来の勅使待遇法が改められた。十二月国事御用掛に補され、翌三年二月国事参政に転じた。三月孝明天皇の攘夷祈願のための賀茂社行幸に、四月には石清水社行 ...
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ヒコの誤聞である。おそらく翌年(元治元年)七月における禁門の変と混同したものであろう。したがって、孝明天皇が御所を出て難を避けられたという事実もない。肥後藩その ...
38. アメリカ彦蔵自伝 2 64ページ
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39. アメリカ彦蔵自伝 2 69ページ
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筆をなめて毒死した、というようなこと はない。もっとも、そういう「うわさ」 は、孝明天皇の死去に関してささやかれ ...
40. アメリカ彦蔵自伝 2 104ページ
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るのは、 一 八六七年六月二十六日(慶応三年五月二 十五日)のことである。すでに孝明天皇 は崩じて、明治天皇の治世となっており、 将軍も ...
41. アメリカ彦蔵自伝 2 282ページ
東洋文庫
ヒコ到着ごろの神奈川は、イギリスの報復を恐れて大騒動を呈していた。◇将軍家茂は入京し(四・一δ)、孝明天皇に謁して攘夷の実行を約束する(手先)。◇時に旧五月十日 ...
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44. あんせい【安政】
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45. あんせい【安政】
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孝明天皇の時の年号(一八五四―六〇)。嘉永七年十一月二十七日改元。内裏炎上、近畿地震、異国船渡来等の変異による。前権大納言菅原聡長の勘申。出典は『群書治要』三 ...
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