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  11. 北里柴三郎

北里柴三郎

ジャパンナレッジで閲覧できる『北里柴三郎』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
北里柴三郎
きたさとしばさぶろう
一八五二 - 一九三一
明治・大正時代の細菌学者。嘉永五年(一八五二)十二月二十日肥後国阿蘇郡小国郷北里村に生まれた。父は惟信、母は加藤海助の女貞子、柴三郎はその長男である。明治二年(一八六九)熊本藩の藩校時習館に入ったが、同四年の廃藩置県とともに時習館も閉鎖された。同年熊本の医学所病院に入学し、オランダ医官マンスフェルトの指導を受けた。五年医学所病院は熊本医学校と改称され、その塾監となる。七年マンスフェルトの辞任とともに退校して東京にでた。八年東京医学校に入学したが、十年東京医学校は東京大学医学部と改称され、十六年同学を卒業した。同年卒業に先立ち男爵松尾臣善の次女乕と結婚した。十七年内務省御用掛に任ぜられ判任待遇となった。十八年十一月渡欧の途につき、十九年一月よりロベルト=コッホに師事した。二十二年はじめて破傷風病原菌の純培養に成功した。翌二十三年には破傷風毒素を発見し、さらにベーリングと協力して破傷風の抗毒素による血清療法を発見した。二十四年医学博士の学位を受け、翌二十五年五月帰国した。同年十一月芝公園内に新設された大日本私立衛生会伝染病研究所の所長となった。二十七年伝染病研究所は芝愛宕町に移転し、さらに三十二年には大日本衛生会より内務省に移管されたが、北里は終始所長として伝染病の研究に従事した。その間同二十七年の香港におけるペスト流行の際、同地に行き、フランス人エルザンと相前後して独立にペスト菌を発見した。大正三年(一九一四)大隈内閣は伝染病研究所を内務省より文部省に移管したが、この際北里の意志が無視されたため、辞任して新たに私立の北里研究所設立に着手し、翌四年発足とともに所長となった。同六年には慶応義塾大学医学部設置に尽力し、開学とともに学部長となり、昭和三年(一九二八)まで勤めた。大正十三年には男爵受位。昭和六年六月十三日東京麻布の自宅にて死去。八十歳。同日勲一等旭日大綬章を授けられた。墓は青山墓地にある。細菌学関係の独文・英文・邦文の多数の論文がある。
[参考文献]
宮島幹之助編『北里柴三郎伝』
(大塚 恭男)


日本大百科全書(ニッポニカ)
北里柴三郎
きたさとしばさぶろう
[1852―1931]

細菌学者。肥後国(ひごのくに)北里村(熊本県阿蘇(あそ)郡小国(おぐに)町)の総庄屋(そうしょうや)北里帷信の長男に生まれる。1871年(明治4)熊本の医学所病院(のち熊本医学校)で蘭医(らんい)マンスフェルトに師事、その指示により東京医学校に入り、苦学勉励し、1883年東京大学医学部(東京医学校の後身)を卒業。行政官を志し内務省衛生局に入り、局長長与専斎(ながよせんさい)の細菌学導入計画に加わり、1884年2月ドイツ留学より帰った東大教授緒方正規(おがたまさのり)が兼務する衛生試験所細菌室で学んだ。約10か月後、緒方の紹介を得てドイツに留学、1885年1月コッホの研究室に入り、ここで水素ガスを用いてウシの嫌気性菌・気腫疽菌(きしゅそきん)の純培養に成功し、ついで破傷風菌の純培養に成功、破傷風毒素・破傷風免疫の研究に進む。1890年ジフテリアの免疫研究者E・ベーリングと共著で「ジフテリアおよび破傷風の血清治療について」という免疫血清治療発見の論文を発表、北里の名は全世界に広がった。ベーリングはこの研究を発展させ第1回ノーベル医学生理学賞(1901)を受賞することになる。
北里は、コッホのツベルクリン研究修得のため皇室内帑金(ないどきん)によって留学期間を延長、プロイセン政府よりプロフェソールの称号を受け、1892年に帰国した。しかし国内には彼の研究すべき場がなく、これを知った福沢諭吉が、東京芝公園内に北里のために伝染病研究所を建て、大日本私立衛生会の管理とした。1894年、官命により香港(ホンコン)のペスト流行を調査しペスト菌を発見、これは独立的に同時発見したエルサンと並ぶ功績である。この年、研究所は動物舎や病室を備えた新研究所になり、北里は治療用免疫血清・予防用ワクチン製造と後進の育成に努めた。1899年伝染病研究所が内務省管轄となり、以後北里は伝染病研究所所長として防疫指導にあたった。この間、各国政府、学会から名誉会員などの栄を受け、1906年(明治39)帝国学士院会員となった。しかるに1914年(大正3)10月大隈重信(おおくましげのぶ)内閣が突如、伝染病研究所を東京帝国大学の組織下に移すことを発表、北里は反対し、彼と全職員が辞職した。そして私財をもって北里研究所を創立、生涯所長を務めた。1917年慶応義塾大学医学部創設に際し医学科長に就任。貴族院議員、大日本私立衛生会会頭、日本医師会会長、第6回極東医学会会頭などを歴任、1924年男爵に叙せられた。昭和6年6月13日、脳出血により急逝した。
[藤野恒三郎]



世界大百科事典
北里柴三郎
きたざとしばさぶろう
1852-1931(嘉永5-昭和6)

明治・大正期の細菌学者。肥後国阿蘇郡北里村に生まれ,1869年(明治2)藩校時習館に学び,熊本医学所を経て75年東京医学校に入学,同校後身の東京大学医科大学を83年に卒業し,翌年内務省衛生局東京試験所に勤務。85年ドイツに留学。R.コッホに師事し細菌学の研究に専念し,89年破傷風菌の純培養に成功,翌年E.vonベーリングとともにジフテリアおよび破傷風の抗毒素を発見し,血清療法の基礎を築いた。この業績に対し欧米諸国から招聘(しようへい)が相次いだが辞して92年帰国。しかし国内には彼を受け入れる機関がなく,福沢諭吉の援助で芝公園内に伝染病研究室が設けられ,同年11月大日本私立衛生会の所属として日本で最初の伝染病研究所(伝研と略称)が創立され,翌年愛宕町に新築移転した。この研究所は,所員に秦佐八郎や志賀潔を擁し,世界的にも屈指の研究所とされた。94年香港に発生したペスト病調査に派遣され,現地にてペスト菌発見の報を公表したが,この北里菌をめぐって99年まで論争がつづく。伝研は99年国立の研究機関となり内務省の所管のもとにおかれたが,1914年さらに文部省の監督下に移り,東京大学の付属機関となるにおよんで,北里所長以下全職員が辞職し,私立北里研究所(芝白金三光町)を興した。17年慶応義塾大学医学科が創設されると医学科長に招かれ,官学に対する独自の学風を築いた。1906年帝国学士院会員,17年貴族院議員に勅選,23年日本医師会創立とともに会長に推され大きな影響力をもった。24年男爵を授けられた。
[松田 武]

[索引語]
伝染病研究所 伝研 北里研究所
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17. 医学
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19. エルサン
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20. 遠藤滋
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23. 緒方正規
世界大百科事典
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24. 小国(町)(熊本県)画像
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