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  11. 田中正造
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
田中正造
たなかしょうぞう
一八四一 - 一九一三
明治時代の政治家、社会運動家。天保十二年(一八四一)十一月三日、下野国安蘇郡小中村(栃木県佐野市小中町)に生まれる。父は名主役富蔵、母サキ、幼名兼三郎。少年期赤尾小四郎塾で学ぶ。安政四年(一八五七)十七歳で父の割元昇進に伴い小中村名主に選ばれる。のち主家六角家改革運動に挺身,獄に投ぜられる。明治二年(一八六九)出獄。翌年江刺県(岩手県)の下級官吏として花輪分局に勤務。同四年上役暗殺の嫌疑を受け投獄され、七年無罪釈放され郷里に帰る。同十年ごろより民権運動に志し、十二年『栃木新聞』を創刊、編集長となり民権思想を鼓吹する。翌十三年栃木県会議員に当選、以後二十三年まで議席をしめる。同年安蘇郡有志を中心に民権政社中節社を結成、その会長に選ばれるとともに、同社の国会開設建白書を元老院に提出する。その後中節社を中心に巡回演説・討論会などを開き民権運動を展開、政党結成にあたっては都市民権派と地方政社の統一による立憲政党の結成を説いたが容れられず、のちに立憲改進党に入党、栃木に一大改進党勢力を築く。十七年栃木県令三島通庸の道路開発に反対し逮捕される。十九年栃木県会議長に選ばれ、二十三年県会議員辞任まで勤める。同年第一回総選挙で栃木三区より衆議院議員に当選、以後三十四年議員辞職まで毎回当選を果たし、立憲改進党に所属する。二十四年第二議会で足尾銅山鉱毒問題につき政府に質問書を提出し、政府の責任を厳しく追及する。二十九年八月渡良瀬川に大洪水が起り、鉱毒被害は深刻化する。田中正造はこの問題を沿岸被害民の人権問題として、以後ほとんどこの問題に生涯をかけることになる。同年十月被害地の中央に位置する群馬県邑楽郡渡瀬(わたらせ)村(館林市)の雲竜寺に鉱毒事務所を設け、足尾銅山鉱業停止請願運動を呼びかけ、議会においても鉱業停止を政府に再三要求する。正造の活動もあって新聞や演説会など、鉱毒事件に対する世論が厳しくなり、政府は三十年足尾銅山鉱毒事件調査委員会を設置して古河鉱山に鉱毒予防命令をだす。しかし鉱毒被害はいっそう深刻となる。その間被害民は三回にわたり大挙請願行動(押出し)を行うも解決せず、正造は政府・政党に対し次第に絶望を深めていく。三十三年二月、被害民の第四回押出しに対し憲兵・警察は群馬県川俣において大弾圧を加え百名ちかい指導者を逮捕する(川俣事件)。正造は政府に「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国」と題する質問書を提出、政府の態度を厳しく批判する。川俣事件被告のために大弁護団を組織し、その救援にあたったが、同年十一月の公判廷で検事論告に憤り大欠伸をして官吏侮辱罪に問われ、のちに四十日間の重禁錮、罰金五円の実刑に処せられる。三十四年十月、議会・政党に絶望し、議員を辞職。同年十二月、鉱毒世論の喚起の意図もあって議会開院式帰途の明治天皇に直訴する。翌年三月内閣に再び鉱毒調査委員会が設置され、この調査会で鉱毒処理のために栃木県下都賀郡谷中村(藤岡町)の貯水池化計画が浮上し、栃木県会もこれに賛成する。正造はこれを鉱毒問題を治水問題にすりかえるものとして、三十七年七月谷中村問題に専念するため同村に寄留、以後、この問題に専念、演説・パンフレット・ビラなどにより社会に訴える。四十年六月、土地収用法適用により谷中残留民十六戸の家屋強制破壊に立ちあい、その後も水村谷中に残留民とともに「自治村谷中村の復活」を唱えて抵抗をつづけたが、大正二年(一九一三)九月四日、渡良瀬川沿岸の足利郡吾妻村(佐野市)で倒れ、同所で胃癌のため没した。七十三歳。佐野市惣宗寺ほか四ヵ所に分骨埋葬されている。晩年はキリスト教に深く学ぶとともに、真の治水とは何かを求めて河川調査を行い自然と人間の共生に思索をこらし、また鉱毒事件をつうじて人権と自治の思想を深めた。三十六年以来、陸海軍全廃・無戦の思想も一貫していた。『田中正造全集』全十九巻、別巻一がある。→足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)
[参考文献]
林竹二『田中正造の生涯』(『講談社現代新書』四四二)、由井正臣『田中正造』(『岩波新書』黄二七四)
(由井 正臣)


日本大百科全書(ニッポニカ)
田中正造
たなかしょうぞう
[1841―1913]

明治期の政治家、社会運動家。下野(しもつけ)国安蘇(あそ)郡小中(こなか)村(栃木県佐野市小中町)の名主富蔵の長男として生まれる。17歳で小中村名主に選ばれ、主家六角(ろっかく)家の苛政(かせい)に反抗し、改革を試み投獄される。維新後の1870年(明治3)上京し、江刺(えさし)県(岩手県)の属吏となり、花輪分局に勤務。翌年上役殺害の嫌疑を受けて投獄され、1874年ようやく無罪釈放となり帰郷。この間『西国立志編(さいごくりっしへん)』などを読み、西欧思想に触れる。1879年『栃木新聞』を創刊、国会開設の急務を説く。翌年安蘇郡選出の県会議員となり、以後1890年衆議院議員に選出されるまで在職、1886年からは議長を務めた。この間、1880年安蘇郡に民権結社中節社(ちゅうせつしゃ)を組織し、国会開設建白書を元老院に提出、また嚶鳴社(おうめいしゃ)社員を招き各地に演説会を開き、民権思想の普及に努めた。翌年の自由党結成大会に出席し、都市知識人と地方有志の結合による一大立憲政党の結成を説いたがいれられず、結局、翌1882年立憲改進党に入党、栃木県に全国有数の改進党勢力を築いた。1884年県令三島通庸(みしまみちつね)の土木政策に反対し一時投獄される。1890年の第1回総選挙に栃木3区(安蘇、足利(あしかが))から衆議院議員に当選、以後1901年(明治34)まで毎回当選を果たす。この間、独自の憲法解釈をもって藩閥政府を批判。ことに1891年の第二議会では当時顕在化した渡良瀬(わたらせ)川沿岸の足尾銅山(あしおどうざん)鉱毒被害を取り上げ、政府に質問書を提出、以後一貫してこの問題を追及。1896年には群馬県渡瀬(わたらせ)村雲龍寺(うんりゅうじ)に栃木・群馬両県鉱毒事務所を設け、ついで東京事務所も設置、足尾銅山鉱業停止の要求を掲げて、被害民を組織し、議会での質問演説で集中的にこの問題を取り上げ、新聞社などに働きかけ世論の喚起に努めた。1900年の第4回被害民大挙請願を憲兵・警官が抜剣、暴行して阻止した川俣事件(かわまたじけん)が起こると、議会で「亡国演説」を行い、政府の責任を激しく追及するとともに、憲政本党を脱党して、自己の立場が党派的利害に出るものでないことを明らかにした。それ以前から議会、政党に絶望しつつあった田中は、1901年10月議員を辞職、同年12月には天皇に直訴を行い、社会に衝撃を与えた。この事件を契機に、ジャーナリズム、学生、キリスト教徒、仏教徒らの被害民支持は高まった。しかし、翌1902年内閣に設置の鉱毒調査委員会は、鉱毒問題の根本解決を避けて谷中(やなか)村に貯水池を設けて渡良瀬川の治水を図るという計画をたてた。1904年水没の危機にさらされた谷中村に居を移し、谷中村強制買収に反対した。1907年栃木県は谷中残留16戸を強制破壊したが、「谷中村復活」によって日本を亡国の淵(ふち)から救済することを唱えて最後まで抵抗した。その抵抗は「破憲破道」(憲法破壊、人道破壊)に対し憲法を抵抗のよりどころとし、キリスト教の人道主義に基づくものであった。しかし谷中村復活を果たさないまま、大正2年9月4日、胃癌(いがん)のため没した。その遺骨は、佐野の惣宗寺(そうしゅうじ)をはじめ、谷中残留民の住む栃木市藤岡町藤岡(田中霊祠(れいし))、生地の佐野市小中町など5か所に分骨埋葬されている。
[由井正臣]



世界大百科事典
田中正造
たなかしょうぞう
1841-1913(天保12-大正2)

足尾銅山鉱毒反対運動の指導者,政治家。下野国安蘇郡小中村(現,佐野市)に生まれ,19歳で名主。領主六角家の改革運動に成功したが,入牢,追放処分を受ける。30歳のとき江刺県の分局(現,秋田県鹿角市)の下級官吏となるが,上司暗殺の冤罪(えんざい)事件で2年間投獄される。嫌疑晴れて帰郷,近在の青年教育に尽力。1878年39歳のとき《栃木新聞》を創刊,79年県会議員に当選,同年栃木県の自由民権運動の中心的役割を果たした〈中節社〉を組織,82年立憲改進党に入党,86年県会議長となる。90年の第1回総選挙で栃木県第3区衆議院議員に当選(その後6回連続当選)。91年12月の第2議会で最初の足尾鉱毒問題についての質問を行う一方,北海道炭礦鉄道会社問題など内政,外交両面にわたり藩閥政府を痛烈に批判。日清戦争後鉱毒被害の拡大,激化にともない,被害農民の〈押出し〉(大挙上京請願運動)と議会活動とを結合して政治闘争を展開。1901年権力の大弾圧(川俣事件)によって退潮した鉱毒反対運動を活性化するため,議員を辞職し12月10日天皇に直訴(直訴状の執筆は幸徳秋水に依頼)。04年以降は谷中村の遊水池化に抵抗するため孤立した谷中村に入り,谷中自治村の復活に〈亡国日本〉の再生をかけた。その過程で非戦論,社会主義,キリスト教への理解を深めつつ,国家廃絶,個人の自由を根幹にした独特の自治思想に到達した。さらに11年〈下野治水要道会〉をおこすなど,終生,利根,渡良瀬両川の治水問題に献身。13年9月4日河川調査の帰途死亡。栃木県栃木市の旧藤岡町に正造を祀った〈田中霊祠〉があり,毎年4月4日に例祭が行われる。《田中正造全集》がある(全17巻,別巻1)。
→足尾鉱毒事件
[菅井 益郎]

[索引語]
中節社 足尾鉱毒事件 押出し(近代史) 谷中村 田中霊祠
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24. 沖縄[県]画像
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雨中いずれも濡れねfみ鼠となりて、宇都宮に護送せられたり。このとき時子は、田中正造氏と連繋せられたりしと。田中正造氏 田中正造(一八四一-一九=二)といえぱ、足 ...
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朝野新聞」は、「栃木県十傑」の投票結果を掲げているが、民権家としては、田中正造が記されている。また、三宅雪嶺は、「田中正造という議員が衆議院にいたことは、衆議院 ...
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時は乱掘により荒廃、同大戦後は製錬が主になり、昭和四八年銅山は閉鎖された。同銅山は川俣事件や田中正造、谷中村(現下都賀郡藤岡町)の強制廃村、松木村(現足尾町)廃 ...
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業停止を陳情した。国会でも田中正造により鉱毒問題が議論され、政府は栃木県下都賀郡谷中村に遊水池をつくった。川辺・利島村民は正造翁の功労をたたえるため、昭和四年田 ...
34. きんだい【近代】画像
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36. くずうまち【葛生町】栃木県:安蘇郡/葛生町
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37. 黒沢酉蔵
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農民たちを抑制し多数の負傷者と逮捕者が出た〈川俣事件〉も起こっている。栃木県選出の衆議院議員田中正造がこの行動を支援し,議会でとり上げるとともに01年には明治天 ...
41. 鉱害
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結成するが即日禁止される。7月内村鑑三(かんぞう)らと萬朝報社内に理想団を結成。12月足尾鉱毒問題で奔走する田中正造(しょうぞう)の依頼で直訴文を起草する。03 ...
43. 幸徳秋水
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党を結成,7月人心の腐敗防止をめざした理想団の形成に参加,さらに12月足尾鉱毒事件に奔走する田中正造の依頼で直訴文を起草するなど,多彩な活動を展開する。社会変革 ...
44. こうとくしゅうすい【幸徳秋水】
国史大辞典
結成、同月二十日、治安妨害の理由で解散を命じられた。同年十二月九日、足尾銅山鉱毒事件について田中正造のため直訴文を起草する。三十六年、『社会主義神髄』を上梓、同 ...
45. こう‐どく[クヮウ‥]【鉱毒】
日本国語大辞典
人畜または植物に及ぼす害毒。*朝野新聞‐明治二五年〔1892〕五月二五日「足尾銅山鉱毒の儀に付質問。(田中正造氏提出)〈略〉同山より流出する鉱毒は〈略〉巨万の損 ...
46. こなかむら【小中村】栃木県:佐野市
日本歴史地名大系
り、文政四年(一八二一)田中正造の父富蔵らの世話で赤尾鷺洲秀実が光照院阿弥陀堂に家塾(赤尾塾)を開いた。のち同塾は当村荒宿の神明山西麓に移された(佐野市史)。田 ...
47. 佐野(市)画像
日本大百科全書
る城山公園、名水百選に選ばれた弁天池、関東三薬師の一つ佐野厄除け大師(さのやくよけだいし)、田中正造旧宅などがある。面積356.04平方キロメートル、人口11万 ...
48. 佐野[市]
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に指定されており,上羽田町の竜江院にはオランダ船リーフデ号船首の木造エラスムス立像,小中には田中正造邸が残る。村上 雅康 歴史 保元の乱(1156)の結果,藤原 ...
49. さのし【佐野市】栃木県
日本歴史地名大系
めての操業停止を求める上申書が県知事に提出された。同二四年帝国議会で鉱毒問題を最初に取上げた田中正造は、天保一二年に旧小中村の名主の子として生れている。明治三〇 ...
50. 質問[国会]
イミダス 2018
質問はいずれの国の議会も整備している制度であり、各国では本会議での口頭質問が一般的で、帝国議会でも口頭質問は田中正造の足尾銅山鉱毒問題の追及などの成果を生んだ。 ...
「田中正造」の情報だけではなく、「田中正造」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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連歌(小学館 全文全訳古語辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
〔名詞〕短歌の上の句(五七五)と下の句(七七)とを、二人が応答してよむ詩歌の一種。平安時代に発生し、はじめは、二人の唱和で一首とする「短連歌」であったが、中世以降、二人以上(時には一人)で、五七五と七七の句を交互に長く続ける「長連歌」
俳諧集(新編 日本古典文学全集)
俳諧集(扉) 哥いづれの巻(貞徳翁独吟百韻自註)(扉) 作品解説・作者解説 哥いづれ小町おどりや伊勢踊 紅梅やの巻(紅梅千句)(扉) 作品解説・作者解説 梅 第一 蚊柱はの巻(蚊柱百句)(扉) 作品解説・作者解説 そもそもいきとしいけるもの
吉田茂(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八五 - 一九五四 大正・昭和時代の内務官僚、政治家。明治十八年(一八八五)九月二日大分県北海部郡臼杵町(臼杵市)に生まれる。父は銀行員。父の転勤により上京。同四十四年東京帝国大学法科大学独法科卒業。内務省に入り地方官を経て神社局第二課長、同第一課長を歴任
マッカーサー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八〇 - 一九六四 アメリカ合衆国軍人、日本占領連合国最高司令官(昭和二十年(一九四五)―二十六年)。一八八〇年一月二十六日アーカンソー州リトル=ロックに生まれる。父親アーサー=マッカーサーは陸軍中将。一九〇三年陸軍士官学校卒業後
山本五十六(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
[1884―1943]昭和期の海軍軍人。明治17年4月4日新潟県生まれ。海軍兵学校32期、海軍大学校14期卒業。第一次世界大戦後の3回にわたる在米勤務ののち、いち早く航空機の将来性に着目。1930年(昭和5)航空本部技術部長、1935年航空本部長。航空兵力を主体とした対米迎撃戦を構想し
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