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西園寺公望

ジャパンナレッジで閲覧できる『西園寺公望』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
西園寺公望
さいおんじきんもち
一八四九 - 一九四〇
明治から昭和時代前期にかけての政治家。最後の元老。嘉永二年(一八四九)十月二十三日公家の清華の家柄である右大臣徳大寺公純(きんいと)の次男として京都に生まれる。母は宇佐八幡宮神主正親盛澄の娘斐子。徳大寺実則の実弟。幼名は美丸、また望一郎と号す。号は陶庵・不読・竹軒など。嘉永五年同じ清華家の西園寺師季の養子となった。安政四年(一八五七)十月元服して昇殿を許され右少将に任ぜられた。文久元年(一八六一)右近衛権中将となり近習として宮中に出仕。少年時代から進取の気性で知られた。慶応三年(一八六七)十二月王政復古後まもなく新政府の参与に任官。明治元年(一八六八)山陰道鎮撫総督・東山道第二軍総督・北国鎮撫使・越後口大参謀などとして戊辰戦争に従軍、同年十月新潟府知事。同二年戊辰の戦功により三百石を永世下賜された。三年十二月フランス留学を命ぜられ、アメリカ・イギリス経由で渡仏。四年二月―十三年九月フランスに滞在し、パリでエミール=アコラスの私塾やソルボンヌ大学に学び、また若き日のクレマンソーやフランス文人たちと交際を持ち、自由主義思想に触れた。その間、パリ=コンミューンの騒乱を実地に見聞した。明治十三年十月帰国。翌年三月フランス滞在中に知り合った中江兆民らとともに『東洋自由新聞』の創刊に参画し、同社長となったが、内勅により退社。十四年十一月参事院議官補となり、十五年三月伊藤博文に随行してヨーロッパに渡り、憲法調査にあたった。翌年八月帰国。十七年七月華族令の制定とともに侯爵を授けられた。参事院議官を経て、オーストリア駐在日本公使(十八―十九年)、ドイツ駐在日本公使兼ベルギー公使(二十―二十四年)を歴任の後、二十四年帰朝して賞勲局総裁となり、そのかたわら、民法商法施行取調委員長・法典調査会副総裁として法典取調べにあたった。また、二十三年帝国議会開設当初から貴族院議員であったが、二十六年第五議会には副議長を勤めた。伊藤博文の知遇を得、二十七年枢密顧問官を経て、同年十月第二次伊藤内閣の文部大臣として入閣し、科学教育の充実、英語教育の普及、女子教育の奨励などを唱えた。また同内閣で病気の陸奥宗光に代わって一時外務大臣臨時代理をつとめ、陸奥辞任後は外相を兼任した。二十九年九月第二次伊藤内閣総辞職により辞任。三十一年一月第三次伊藤内閣成立とともに再び文部大臣に返り咲いたが、四月病気のため辞任した。三十三年八月―九月、伊藤を助けて立憲政友会の創立に参画し、創立委員の一人となり、同会発足後は総務委員となった。同年十月枢密院議長に就任。同年から翌年にかけて議長在職のまま、第四次伊藤内閣(立憲政友会内閣)の内閣総理大臣臨時代理、または同臨時兼任を勤めた。三十六年七月枢密院議長を辞任し、伊藤の推薦と党協議員会の決定により、伊藤に次いで第二代の立憲政友会総裁に就任。原敬・松田正久らの補佐によって党内を統率し、柱太郎との間でいわゆる「情意投合」を進め、日露戦争中から戦後にかけて、桂と交代で政権を担当して「桂園時代」をきずいた。すなわち、まず三十九年一月、桂内閣退陣の後を継いで組閣の大命を受け、第一次西園寺内閣を組織した。そして、日露戦争後の諸懸案の処理にあたったが、財政難や社会主義運動の取締りが不十分だったことなどから元老山県有朋の不評を買い、四十一年七月退陣した。ついで四十四年八月、第二次桂内閣の後を受けて再び首相となり第二次内閣を組織したが、財政整理の必要から大正二年(一九一三)度の予算案作成にあたって陸軍の要求する二個師団増設案を認めなかったため、陸軍の反対にあって大正元年十二月退陣した。翌年二月憲政擁護運動が高まり、立憲政友会による第三次桂内閣打倒の動きが激化すると、大正天皇の御沙汰の意を体して事態の鎮静化をはかったが、党内を抑え切れず総裁を辞任し、三年六月原敬にその地位を譲った。再度の首相退陣後は元老の一人として政治的影響力を保持した。七年九月寺内内閣退陣後、三たび組閣の大命を受けたが拝辞し、原を推薦、原内閣成立に一役買った。八年一月パリ平和会議の全権委員として渡仏、同年六月ベルサイユ条約に調印し、翌年九月その功により公爵を授けられた。その後、山県有朋(十一年二月)・松方正義(十三年七月)の死去によりただ一人の元老となり、キャビネット=メーカーとして政界に重きをなした。彼は昭和三年(一九二八)の張作霖爆死事件に際して、軍法会議による犯人処罰と軍紀維持を田中義一首相に進言したり、同五年ロンドン海軍軍縮条約締結に際して浜口内閣を後援したりするなど、終始、英米協調外交を支持した。また内政面にあっては、イギリス流の立憲君主主義と穏健な自由主義的議会政治を理想とし、衆議院に勢力ある政党指導者を首相に奏請することにより、大正末期から昭和初期にかけて政党政治を「憲政の常道」として定着させることに貢献した。しかし、六年九月の満洲事変勃発のころになると、協調外交と政党政治の打破をめざす軍部など革新派から「現状維持派」の中心人物とみなされて排撃された。七年五月、五・一五事件で犬養内閣が崩壊すると、陸軍の強い反対にあって政党内閣存続を断念し、穏健派の海軍大将斎藤実を後継首相に奏請した。軍部の台頭により西園寺の政治的影響力は後退し、日本は彼の意図と逆行する方向に進んだ。十一年三月、二・二六事件後の首相奏請を最後に、実質上その発言力はほとんど失われた。彼は聡明で広い国際的視野を持った穏健な自由主義者であり、和漢洋の学問や詩文にも造詣が深く、多趣味で洗練された文化人であった。またいわゆる貴族的気質に富み、過度に物事に熱中することに乏しく、権力・富・名誉などにも恬淡たる性格で、その点、政治家としては気力・意欲に欠ける嫌があったことは否定できない。昭和十五年十一月二十四日静岡県の別邸坐漁荘(清水市興津清見寺町)で死去。九十二歳。同年十二月五日東京日比谷公園において国葬が行われた。墓は東京世田谷の西園寺家墓地にある。→桂園時代(けいえんじだい)
[参考文献]
原田熊雄『西園寺公と政局』、竹越与三郎『西園寺公』、小泉策太郎『随筆西園寺公』(『小泉三申全集』三)、木村毅『西園寺公望』、同編『西園寺公望自伝』、岡義武『近代日本の政治家』
(鳥海 靖)


日本大百科全書(ニッポニカ)
西園寺公望
さいおんじきんもち
[1849―1940]

近代の政治家、元老。嘉永(かえい)2年10月23日、京都の公家(くげ)、徳大寺公純(とくだいじきんずみ)の次男として生まれる。兄実則(さねのり)は長く内大臣、侍従長として明治天皇に近侍、弟友純(ともずみ)は住友家を継ぐ。幼名美丸(よしまる)、3歳ごろ公望を称す。号は陶庵(とうあん)。4歳のとき西園寺家を継ぐ。孝明(こうめい)天皇に近侍。王政復古の際参与(さんよ)、その識見は岩倉具視(いわくらともみ)をして賞賛せしめた。1868年(明治1)山陰道鎮撫総督(ちんぶそうとく)となり諸藩を朝廷に帰順させ、のち北国鎮撫使、会津征討越後口(えちごぐち)大参謀などとして北陸、会津の戦争に参加した。1871年よりフランスに留学、ソルボンヌ大学に入り、法学者アコラスに師事し、クレマンソーや中江兆民(なかえちょうみん)らと交遊、自由思想を身につけ1880年帰国。1881年兆民らと『東洋自由新聞』を創刊、社長となり自由民権運動の一翼を担ったが、勅命により退職した。翌1882年伊藤博文(いとうひろぶみ)の憲法調査に随行渡欧、皇室制度の調査にあたる。帰国後1884年侯爵、1885年オーストリア公使、1887年ドイツ公使兼ベルギー公使。1891年帰国し賞勲局総裁、1893年法典調査会副総裁、同年貴族院副議長、1894年枢密顧問官、賞勲局総裁。同年第二次伊藤博文内閣の文相、のち外相を兼ね、1898年第三次伊藤内閣の文相、1900年(明治33)10月枢密院議長となる。同年伊藤の立憲政友会創立に尽力し、10月第四次伊藤内閣成立時は首相病気のため首相臨時代理、伊藤の辞表提出後も臨時代理兼任首相、ついで伊藤から後継首班に推されたが謝絶。1903年7月伊藤が枢密院議長となると第2代政友会総裁となり、松田正久(まつだまさひさ)、原敬(はらたかし)の補佐を受け、動揺する政友会の復興に努力し、ポーツマス講和条約には全国的反対に抗して賛意を表した。1906年1月と1911年8月に桂太郎(かつらたろう)内閣の後を受け西園寺内閣を組織し、いわゆる桂園(けいえん)時代を現出した。憲政擁護運動では天皇より政友会鎮撫の沙汰(さた)を受けたが成功せず、責任を感じて総裁辞任。事後復職を求められたが謝絶し、1914年(大正3)原敬を総裁に推した。総裁、首相としての西園寺は、やや党内事情に暗く、また指導力、決断力においても欠けるところがあり、門地、声望と松田正久、原敬の補佐により任務を遂行したといえよう。以後は元老の一員となり、1919年パリ講和会議の全権として渡欧したが、目だった活動はなかった。
1920年公爵。山県有朋(やまがたありとも)、ついで松方正義(まつかたまさよし)の死去により、最後の元老として後継首班奏請の全権を握った。要人が西園寺の意向を打診するため訪れた、いわゆる「西園寺(興津(おきつ))詣(もう)で」は有名。この間1924年の護憲三派内閣以後1932年(昭和7)までいわゆる「憲政の常道」の慣行をつくり、政党内閣の黄金時代を維持した。しかし政党の権威はしだいに失墜し、五・一五事件以後軍部の進出に対してもその横暴を断固抑えるのではなく、一時の変調とみなし、斎藤実(さいとうまこと)、ついで岡田啓介(おかだけいすけ)を首相としてファッショ化の波を抑え、政党内閣の復活を図ろうとしたが成功せず、逆に軍部や右翼によって宮中グループの隠然たる大御所と目された。また近衛文麿(このえふみまろ)や木戸幸一(きどこういち)らに希望を託したが成功せず、後継首班推薦の方式もしだいに内大臣を中心とした重臣との協議に切り換え、ファッショ化を憂いつつ92歳の高齢をもって昭和15年11月24日、興津の別邸で死去、国葬をもって遇せられた。娘のしん子に養嗣子(ようしし)として迎えた毛利家の八郎が後を継いだ。西園寺は高雅な文化人として、また桂太郎と対比して脱俗の人として知られた。静岡県興津の坐漁荘(ざぎょそう)は明治村に、京都の清風荘は京都大学の管理下にある。
[山本四郎]



世界大百科事典
西園寺公望
さいおんじきんもち
1849-1940(嘉永2-昭和15)

明治,大正,昭和3代にわたり首相,元老として天皇制政権の中枢にあり,立憲主義の確立,維持に努めた公卿出身の政治家。右大臣徳大寺公純の次男で,幼時に西園寺家を継いだ。ともに摂家につぐ清華の家柄である。王政復古にあたり参与に任じられ,戊辰戦争では山陰道鎮撫総督,会津口征討大参謀となり,越後府知事となった。まもなく辞職して名も平民風に望一郎と改め,京都の邸内に家塾立命館を開いた。1870年(明治3)パリに留学し,法学者アコラスÉmile Acollasに学んで自由思想の洗礼をうけ,パリの自由な生活を楽しんだ。80年に帰国すると,社会,人民の進歩を図るため教育,文化を重視し,明治法律学校(明治大学の前身)の創設に加わり,81年には中江兆民,松田正久らと《東洋自由新聞》を発刊して社長兼主筆となり,自由民権を唱えた。政府は退社を画策したが西園寺は拒絶し,天皇の内勅でやむなく辞職した。明治14年の政変(1881)に際し参事院がおかれ,参議伊藤博文が同議長を兼ねると,西園寺は同議官補となり,82年には伊藤の憲法取調べに随行して渡欧した。84年の華族令で侯爵となり,オーストリア,ドイツ各公使,貴族院副議長等を歴任した。伊藤と協力して近代的国家体制を整備する役割に転じたのである。日清戦争中から伊藤の第2次,ついで第3次内閣の文相となり,世界主義の教育方針を唱え,産業社会の発展に対処して上下のみならず対等の関係を尊重する新道徳をおこすべきだとして,第2の教育勅語の発布を考えた。96年には陸奥宗光,竹越与三郎らと雑誌を創刊し,《世界之日本》と名づけた。陶庵と号し,首相となってからの1907年6月には森鷗外,田山花袋,幸田露伴らの文士を東京駿河台の本邸に招いて雨声会と名づけた雅会を開き,これは数年間続いた。

西園寺は1900年の伊藤の立憲政友会創立に参画したが,その直後に枢密院議長となり,一時は臨時首相も務めた。03年に伊藤が山県有朋らの策謀で枢密院議長にまつりこまれると,第2代政友会総裁となり,松田正久と原敬とを総務として党勢立直しに当たらせた。日露戦争に際しても文明国の立場を説き,盲目的な排外心を戒めた。日露戦争後の06年1月に桂太郎から政権を受け継ぎ,以後交代に政権を担当して桂園時代と呼ばれた。08年の総選挙で政友会は絶対多数を占めたが,その直後に社会主義者の取締りが手ぬるいとの山県の上奏で辞職した。また,西園寺は政権に恬淡(てんたん)で原の不満を買っていた。11年に第2次内閣を作ったが,翌12年末には陸軍の倒閣策謀で辞任し,その際元老に加えられた。ついで第3次桂内閣ができると護憲運動が広がり政友会が内閣不信任案を出すと,大正天皇は西園寺を呼んで政争回避を命じたが,西園寺は総裁辞任を上奏し,政友会は方針を変えず,桂は内閣を投げ出した。後継内閣は山本権兵衛の準政友会内閣となった。西園寺は慰留を拒み,原が第3代政友会総裁となったが,1918年の米騒動後の政変では原への大命降下に尽力し,最初の政党内閣を作らせた。19年にはパリ講和会議の首席全権となり,その功で20年に公爵となった。西園寺は国際連盟を重視し英米と協調して日本が世界の文明国として発展することを望み,皇太子裕仁の外遊にも尽力した。いわば先進帝国主義国への仲間入りを望んだのである。

大正末期からは最後の元老として後継首相推薦の重責を双肩に担い,興津の別邸坐漁荘には政客たちが絶えず,〈興津詣で〉と呼ばれた。元老としては当初総選挙を公平に行わせようと中間内閣を推したが,1924年の護憲三派運動以後は政党内閣を推す慣行となり,〈憲政の常道〉と呼ばれた。さらに立憲政治確立のため宮中や枢密院の人選にも配慮したが,政党とくに政友会は政権獲得のため特権勢力とも結託して西園寺を嘆かせた。大恐慌の渦中で満州事変がおこり軍部ファシズムの嵐が広がると,国民の不満を皇室に向けないように意を用い,五・一五事件後には重臣と協議して中間内閣を作らせ,事態の鎮静を期待した。だが二・二六事件で軍部が実権をにぎり宇垣一成の組閣も阻止されると,西園寺は元老辞退の意を強め,後継首相の推薦も逐次内大臣中心の方式に改められた。第1次近衛文麿内閣のもとで日中戦争がおこりファシズム体制が進むと,彼は批判を強め,40年の第2次近衛内閣の成立に際しては同意を拒んだ。ついで日独伊三国同盟が結ばれるなかで西園寺は91歳の生涯を閉じ,国葬をもって葬られた。
[今井 清一]

[索引語]
東洋自由新聞 陶庵 雨声会 政友会 坐漁荘
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37. うまじむら【馬路村】京都府:亀岡市
日本歴史地名大系
のうち馬路村以下四ヵ村二千一〇〇石)の代官にも登用されている。明治維新の際、山陰道鎮撫総督西園寺公望が丹波に入るや両苗の士は率先して迎え、桑田・船井両郡弓箭組二 ...
38. えちごふ【越後府】画像
国史大辞典
三島・古志・蒲原・岩船・沼垂各郡を支配下とした。九月二十一日越後府を改めて新潟府とし、水原に府庁をおき西園寺公望が新潟府知事となった。しかし翌二年二月八日、越後 ...
39. えんげきかいりょうかい【演劇改良会】
国史大辞典
大麓・森有礼・渋沢栄一・依田学海・福地桜痴・井上馨、賛成員に伊藤博文・岩倉具定・大隈重信・西園寺公望・三井養之助・大倉喜八郎など、官・学・財界の巨頭が名を連ねた ...
40. おいれむら【追入村】兵庫県:篠山市/旧丹南町地区
日本歴史地名大系
村はづれより登る。登十丁余難所也」と記される。慶応四年(一八六八)戊辰戦争で山陰道鎮撫総督となった西園寺公望一行も篠山城下を経て追入で休息している(園田家文書) ...
41. 大村益次郎[文献目録]
日本人物文献目録
の橋立』横山健堂『近世名将言行録 1』近世名将言行録刊行会(編)『近世二十傑 大村益次郎・西園寺公望』伊藤痴遊『類聚伝記大日本史 14』-『近代軍制の創始者 大 ...
42. 岡田啓介
世界大百科事典
田中義一内閣の海相となったのちロンドン軍縮会議では浜口雄幸内閣と海軍との間を斡旋して条約成立にこぎつけ,元老西園寺公望の信任を得た。次いで斎藤実内閣の海相となっ ...
43. おかだないかく【岡田内閣】画像
国史大辞典
五・一五事件以来の非常時局を担当した斎藤実内閣は帝人事件によって総辞職の止むなきに至ったが、元老西園寺公望と斎藤は、その後継内閣として同質の中間内閣を存続せしめ ...
44. おかべ-ながし【岡部長】
日本人名大辞典
越前(えちぜん)福井藩士。代々福井藩の家老をつとめ,慶応4年の会津(あいづ)攻めには軍事総奉行として参加。西園寺公望(きんもち)にみとめられ参謀となった。かつて ...
45. 興津(静岡県)画像
日本大百科全書
岐、交通の要衝であった。江戸時代中~後期には興津川流域で生産される和紙の集散地。明治以降、西園寺公望(さいおんじきんもち)の坐漁荘(ざぎょそう)はじめ、井上馨( ...
46. おきつ【興津】
国史大辞典
数えた。明治になるとここの風光明媚さと気候の温暖さから、明治の元勲たちが別荘を営み、なかでも西園寺公望の坐漁荘のあったことは有名である。またここでとれる興津鯛は ...
47. 尾崎行雄画像
日本大百科全書
経て1909年に復党した。また1903年東京市長となり1912年まで在職。1912年(大正1)12月第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣が倒れると、国民党 ...
48. かいがいりゅうがくせい【海外留学生】
国史大辞典
同五年、学制が制定されると規則はそのうちに編入された。皇族では明治三年の華頂宮博経親王、華族では西園寺公望らがはやく留学した。政府の奨励で六年には計三百七十三名 ...
49. かさまつけんご【笠松謙吾】
国史大辞典
遊説中、計画が洩れ同志村松藩七士は捕われ、謙吾は仙台へ逃げ岡鹿門に匿われた。明治戊辰戦争には西園寺公望に従い軍功を賞された。明治四年(一八七一)柏崎県に建言して ...
50. かすがおんせん【春日温泉】富山県:上新川郡/大沢野町/春日村
日本歴史地名大系
飛越線(現JR高山本線)沿線では有名であった。また電力事業に関係したアメリカ人技術者が投宿したり、西園寺公望も来遊した。昭和一六年(一九四一)の太平洋戦争勃発前 ...
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
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ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
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本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
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