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  11. 犬養毅
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
犬養毅
いぬかいつよし
一八五五 - 一九三二
明治から昭和時代にかけての政党政治家。号は木堂。安政二年(一八五五)四月二十日、岡山藩士犬養源左衛門の次子として生まる。明治八年(一八七五)上京、『郵便報知新聞』に寄稿しながら慶応義塾に学んだ。同十年西南戦争に記者として従軍、戦地からの直報を送り名声を博した。同十三年慶応義塾を中退し、岩崎家の支援により豊川良平とともに『東海経済新報』を発刊して保護貿易主義を主張して田口卯吉の『東京経済雑誌』との間に論争を行なった。またこの年交詢社創立に参加、『交詢雑誌』の編輯にも従事。十四年大隈重信と福沢諭吉との関係から統計院権少書記官に任ぜられたが、同年十月の政変で大隈傘下の同志とともに連袂辞職し、翌十五年矢野文雄・藤田茂吉・箕浦勝人・尾崎行雄らと東洋議政会を組織し、ついで同年四月、この仲間とともに立憲改進党の結成に参加した。また同年東京府議。党機関紙に改組された『郵便報知新聞』の共有者の一人となった。翌十六年『秋田日報』主筆、十七年東京府会常置員、十九年報知社を辞し朝野新聞社入社。二十年大同団結運動に参加し、丁亥倶楽部幹事、二十二年大同倶楽部を結成して常議員となった。二十三年第一回総選挙で当選、以後十七回連続当選。改進党院内団体議員集会所所属。日刊新聞『民報』創刊。二十六年以降対外硬六派の中心人物の一人として活躍、二十九年対外硬派を基礎に組織された進歩党常議員、三十一年憲政党総務委員。中国人居留民子弟教育のための大同学校(横浜)の名誉校長、この前後から中国人との交遊関係を深めた。またこの年近衛篤麿を会長とする東亜同文会の組織に参画した。この年成立した隈板内閣で共和演説事件で辞任した尾崎行雄文相のあとをうけて入閣。憲政党の分裂にあたっては憲政本党に属し、三十二年総務委員。またフィリピン独立運動を援助した。三十六年党院内総務、三十八年日露講和問題では軟弱外交反対の立場をとった。三十九年以降党内に大石正己を首領とする改革派がおこり、犬養を中心とする非改革派との間ではげしく対立、四十三年非政友合同により立憲国民党を結成し、同党総務となる。四十四年南北朝正閏問題、大逆事件で政府を追及、また中国第一革命にあたり革命軍援助のため頭山満らとともに中国に渡った。大正元年(一九一二)・二年のいわゆる大正政変にあたって「閥族打破・憲政擁護」の運動の先頭に立ち尾崎とともに「憲政の神様」と称せられたが、立憲国民党は五領袖以下が脱党して桂新党(立憲同志会)に参加したため、少数党となった。三年四月第二次大隈内閣成立し入閣を求められたが謝絶。四年対華二十一箇条問題で大隈内閣の対中国政策の失敗を攻撃。六年寺内内閣の臨時外交調査委員に就任、国民党総理となる。七年普通選挙意見を発表、以後数年にわたって国民党から普選案を提出。また九年ごろから政界革新運動を起し、十一年には軍備縮小(経済的軍備改革)決議案を提出し、また国民党を中心に革新倶楽部を組織するなど第一次大戦後の新しい民衆運動の吸収を試みた。十二年第二次山本内閣に普選を条件として逓相として入閣。十三年清浦内閣の成立に対し、高橋是清政友会総裁、加藤高明憲政会総裁と会合、いわゆる護憲三派の提携を行い、同年六月加藤高明内閣の成立とともに逓相として入閣。十四年革新倶楽部を政友会と合同させ、みずからは逓相および衆議院議員を辞任し、以後しばらく政界の表面から隠退した。昭和四年(一九二九)田中義一政友会総裁が病没したあとをうけて政友会総裁に推戴されて就任。五年・六年総裁として民政党内閣を攻撃したが、六年十二月第二次若槻内閣崩壊のあと大命降下し内閣を組織した。翌七年五月十五日、首相官邸において海軍青年将校らに襲撃され殺害された(五・一五事件)。七十八歳。墓は東京都港区の青山墓地にある。犬養は一貫した反官僚派であり政党政治家であったが、「憲政の神様」ないし民衆運動のリーダーとしての側面と同時に、対外硬・アジア主義者であり、かつしばしば策士と評せられたような側面(薩派と密接なつながりがあったこと、後藤新平・伊東巳代治との三角同盟など)を合わせもつ複雑な性格の政治家であったことに注目する必要があろう。→憲政擁護運動(けんせいようごうんどう),→五・一五事件(ご・いちごじけん)
[参考文献]
木堂先生伝記刊行会編『犬養木堂伝』、鷲尾義直編『犬養木堂書簡集』
(伊藤 隆)


日本大百科全書(ニッポニカ)
犬養毅
いぬかいつよし
[1855―1932]

明治~昭和期の政党政治家。号は木堂(ぼくどう)。安政(あんせい)2年4月20日備中国(びっちゅうのくに)(岡山県)の大庄屋(おおじょうや)犬飼家に次男として生まれる。1868年(明治1)14歳のとき父が急死した。21歳で上京、『郵便報知新聞』に寄稿し、その原稿料で慶応義塾に学んだ。1877年西南戦争に際し報知社より特派され、従軍記者として活躍した。1880年豊川良平(とよかわりょうへい)らと東海社を設立し『東海経済新報』を創刊、主幹として編集を担当した。1881年先輩矢野文雄の勧めにより尾崎行雄(おざきゆきお)らとともに統計院に入る。このときの関係から以後30余年にわたり大隈重信(おおくましげのぶ)の陣営に属することとなった。明治十四年の政変による大隈の失脚で同院を退官、翌1882年立憲改進党の創立に参加し、東京府会議員に芝区より選出された。以後50年にわたり政党活動を続けることになった。1887年後藤象二郎(ごとうしょうじろう)の大同団結運動に参加、1890年最初の総選挙に岡山県より立候補して当選、その後17回行われた総選挙に毎回当選を果たした。政党の離合集散に伴い1895年進歩党、1898年憲政党、憲政本党、1910年(明治43)立憲国民党に所属した。1896年には松方正義(まつかたまさよし)と大隈の提携のために奔走し、松隈内閣(しょうわいないかく)を実現させ、1898年の隈板内閣(わいはんないかく)では尾崎行雄の辞任のあと文相に就任した。これらの時期を除けば、その所属する政党はつねに野党でしかも少数派であり、藩閥政府攻撃の一勢力として議会で活躍、雄弁家として知られた。1912年(大正1)第一次護憲運動では先頭にたって活動し、尾崎行雄とともに「憲政の神様」と称せられることとなった。また対中国政策にも深い関心をもち、孫文(そんぶん)の革命派の亡命を援助したり、中国人居留民子弟の教育機関大同学校(横浜)の校長にも就任した。1918年寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣が設置した臨時外交調査会に参加、これが政権接近への一つの転機となり、1923年第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣、1924年護憲三派内閣に逓相(ていしょう)として入閣し普通選挙法の実現に努めた。一方、1922年には立憲国民党を解党し、中野正剛(なかのせいごう)、尾崎行雄らと革新倶楽部(くらぶ)を結成した。1925年普通選挙法が実現するや革新倶楽部を立憲政友会と合同させ、自らは政界引退を決意して逓相、議員を辞任したが、再選され議席に復帰。1929年(昭和4)政友会総裁に就任し、1930年浜口雄幸(はまぐちおさち)民政党内閣のロンドン海軍軍縮条約締結に対し議会で激しい政府攻撃を展開した。1931年民政党内閣の瓦解(がかい)を受けて犬養内閣を組織した。長い政治生活の大半を反藩閥、立憲政治実現のため活動したが、晩年にあっては、むしろ親軍勢力に妥協し、軍部など非立憲的勢力の強化をもたらした。昭和7年5月15日、軍部政権樹立をねらう海軍青年将校らによって暗殺された(五・一五事件)。
[芳井研一]
岡山市にある犬養毅の生家は19世紀の建築として重要文化財に指定されている。
[編集部]



世界大百科事典
犬養毅
いぬかいつよし
1855-1932(安政2-昭和7)

政党政治家。備中国(岡山県)庭瀬藩の郷士の家に生まれる。通称は仙次郎,木堂と号した。1875年上京,翌年慶応義塾に入学。《郵便報知新聞》記者として西南戦争に従軍した。慶応義塾を中退し,80年朝吹英二,豊川良平とともに《東海経済新報》を発刊,保護貿易論を唱え,自由貿易論の《東京経済雑誌》と対抗した。81年統計院権少書記官となったが,いわゆる明治14年の政変により,大隈重信に従って下野し,再び《郵便報知新聞》記者となった。82年立憲改進党の結成に参加,86年《朝野新聞》に移り,大同団結運動で活動した。90年第1回総選挙に岡山県第3区から立候補当選,以後第18回総選挙まで連続当選し,42年間にわたって衆議院に議席を保持した。96年進歩党の結成に参加,長州閥・自由党に対抗するため薩摩閥に接近し,第2次松方正義内閣と提携した。98年自由・進歩両党が憲政党に合同し隈板(わいはん)内閣が成立すると,尾崎行雄辞任後の文相となった。憲政党分裂後は憲政本党筆頭総務に就任し,いわゆる桂園時代を野党の闘士として送り,山県系官僚と結んで政権接近を策す改革派に対し,非改革派を率いて抗争を重ねた。この間,日本に亡命した金玉均,孫文らを庇護し,中国革命同盟会結成を援助するなど,大陸問題への強い関心ぶりを示した。1910年立憲国民党を結成し,大正政変に際しては桂太郎の新党に党員の過半を奪われたが,政友会の尾崎行雄らと提携して護憲運動の先頭に立ち,尾崎とともに〈憲政の神様〉と併称された。しかし第1次山本権兵衛内閣には好意をよせ,シーメンス事件にもあいまいな態度をとり,17年寺内内閣の臨時外交調査会に参加して人気を落とした。18年以降普通選挙を唱え,22年革新俱楽部を結成し,翌年第2次山本内閣の逓相となった。24年憲政会,政友会と結んで第2次護憲運動を推進し,護憲3派内閣の逓相となったが,25年普選法が成立すると革新俱楽部を政友会へ合同させ,政界を引退した。しかし後援者の要請でみずからの欠員による補欠選挙に当選,29年田中義一急死後の政友会総裁に迎えられ,ロンドン条約問題では軍部,政友会に呼応して浜口内閣の統帥権干犯を攻撃した(統帥権干犯問題)。31年12月政友会内閣を組織し,金輸出再禁止をおこない,軍部に同調しつつも満州事変の収拾をはかったが成功せず,議会政治擁護の主張が軍部急進派の攻撃の的となり,五・一五事件で射殺された。犬養内閣は第2次大戦前最後の政党内閣であった。
[江口 圭一]

[索引語]
犬養木堂 東海経済新報 国民党(日本) 護憲運動 憲政の神様 統帥権干犯問題
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29. 岩瀬忠震[文献目録]
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31. うえはら-えつじろう【植原悦二郎】
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当時の政界人物評論界では見方の鋭い点で優れていた。同二十九年以来犬養毅に師事した。昭和九年(一九三四)十月二十八日没。六十二歳。著書は『朝野の五大閥』『犬養毅伝 ...
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文化・時局演説は大衆啓蒙(けいもう)の講演会に形を変えていった。名演説家としては、島田三郎、犬養毅(いぬかいつよし)、尾崎行雄(ゆきお)、永井柳太郎、鶴見祐輔( ...
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憲政党分裂後、憲政本党に属し政務委員・常議員など歴任。その間「改革」=非政友合同を主張し「非改革」派の犬養毅と対立したが、のち妥協、四十三年ともに立憲国民党を創 ...
38. 大石正巳
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野党の立場にあった憲政本党の幹部として活躍、日露戦争後は非政友合同を画策して官僚派に接近、民党主義をとる犬養毅(いぬかいつよし)と対立した。1910年(明治43 ...
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により、憲政党の分裂、内閣の総辞職に追いつめられた。十月二十七日に尾崎文相の後任に旧進歩党の犬養毅が任命されると旧自由党は同月二十九日に単独で憲政党大会を開き、 ...
41. 大島貞益
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明治時代の経済学者。とくに犬養毅(いぬかいつよし)とともに保護貿易論者の双璧(そうへき)として有名。弘化(こうか)2年2月27日但馬(たじま)国養父(やぶ)郡大 ...
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43. 岡崎邦輔
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で星逓相の官房長をつとめた。また,憲政党,立憲政友会の政務に関与し策士として有名。1912年犬養毅,尾崎行雄らと護憲運動を起こし,25年第1次加藤高明内閣の農相 ...
44. おかざき-くにすけ【岡崎邦輔】
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ミシガン大に留学。24年衆議院議員となり,自由党,憲政党,政友会に属した(当選10回)。大正元年犬養毅,尾崎行雄らと第1次護憲運動をおこす。のち加藤高明内閣の農 ...
45. 岡山(県)画像
日本大百科全書
この間の人材としては、経済界ではビール王の馬越(まごし)恭平、銀行・保険の矢野恒太(つねた)、政界では犬養毅(いぬかいつよし)、宇垣一成(うがきかずしげ)、平沼 ...
46. 緒方貞子[アフガニスタン復興支援国際会議議長を務めた政府代表]
イミダス 2018
長最終文書が発表された。日本は2年半で5億ドルを拠出する。 1927年、東京都出身。曾祖父(犬養毅)は首相、祖父(芳沢謙吉)は外相、父(中村豊一)は元フィンラン ...
47. 尾崎行雄画像
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職。1912年(大正1)12月第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣が倒れると、国民党の犬養毅(いぬかいつよし)とともに第一次憲政擁護運動の先頭にたって活躍 ...
48. 尾崎行雄
世界大百科事典
されて辞職。1900年立憲政友会の創立に参加。03-12年東京市長。13年第1次護憲運動には犬養毅とともに桂太郎内閣打倒の陣頭に立ち〈護憲の神〉とうたわれた。桂 ...
49. おざきゆきお【尾崎行雄】
国史大辞典
属したが四十二年再び政友会に入党した。大正元年(一九一二)憲政擁護運動がおこると立憲国民党の犬養毅とともに運動の先頭に立ち、議会では桂首相を鋭く糾弾して内閣総辞 ...
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22年(大正11)11月8日に結成された。党首を置かず、党議拘束制を廃止したが、最高指導者は犬養毅(いぬかいつよし)であった。普通選挙と政党内閣制の実現、軍部大 ...
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幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
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連歌(小学館 全文全訳古語辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
〔名詞〕短歌の上の句(五七五)と下の句(七七)とを、二人が応答してよむ詩歌の一種。平安時代に発生し、はじめは、二人の唱和で一首とする「短連歌」であったが、中世以降、二人以上(時には一人)で、五七五と七七の句を交互に長く続ける「長連歌」
俳諧集(新編 日本古典文学全集)
俳諧集(扉) 哥いづれの巻(貞徳翁独吟百韻自註)(扉) 作品解説・作者解説 哥いづれ小町おどりや伊勢踊 紅梅やの巻(紅梅千句)(扉) 作品解説・作者解説 梅 第一 蚊柱はの巻(蚊柱百句)(扉) 作品解説・作者解説 そもそもいきとしいけるもの
吉田茂(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八五 - 一九五四 大正・昭和時代の内務官僚、政治家。明治十八年(一八八五)九月二日大分県北海部郡臼杵町(臼杵市)に生まれる。父は銀行員。父の転勤により上京。同四十四年東京帝国大学法科大学独法科卒業。内務省に入り地方官を経て神社局第二課長、同第一課長を歴任
マッカーサー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八〇 - 一九六四 アメリカ合衆国軍人、日本占領連合国最高司令官(昭和二十年(一九四五)―二十六年)。一八八〇年一月二十六日アーカンソー州リトル=ロックに生まれる。父親アーサー=マッカーサーは陸軍中将。一九〇三年陸軍士官学校卒業後
山本五十六(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
[1884―1943]昭和期の海軍軍人。明治17年4月4日新潟県生まれ。海軍兵学校32期、海軍大学校14期卒業。第一次世界大戦後の3回にわたる在米勤務ののち、いち早く航空機の将来性に着目。1930年(昭和5)航空本部技術部長、1935年航空本部長。航空兵力を主体とした対米迎撃戦を構想し
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