NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1700冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 犬養毅

犬養毅

ジャパンナレッジで閲覧できる『犬養毅』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
犬養毅
いぬかいつよし
一八五五 - 一九三二
明治から昭和時代にかけての政党政治家。号は木堂。安政二年(一八五五)四月二十日、岡山藩士犬養源左衛門の次子として生まる。明治八年(一八七五)上京、『郵便報知新聞』に寄稿しながら慶応義塾に学んだ。同十年西南戦争に記者として従軍、戦地からの直報を送り名声を博した。同十三年慶応義塾を中退し、岩崎家の支援により豊川良平とともに『東海経済新報』を発刊して保護貿易主義を主張して田口卯吉の『東京経済雑誌』との間に論争を行なった。またこの年交詢社創立に参加、『交詢雑誌』の編輯にも従事。十四年大隈重信と福沢諭吉との関係から統計院権少書記官に任ぜられたが、同年十月の政変で大隈傘下の同志とともに連袂辞職し、翌十五年矢野文雄・藤田茂吉・箕浦勝人・尾崎行雄らと東洋議政会を組織し、ついで同年四月、この仲間とともに立憲改進党の結成に参加した。また同年東京府議。党機関紙に改組された『郵便報知新聞』の共有者の一人となった。翌十六年『秋田日報』主筆、十七年東京府会常置員、十九年報知社を辞し朝野新聞社入社。二十年大同団結運動に参加し、丁亥倶楽部幹事、二十二年大同倶楽部を結成して常議員となった。二十三年第一回総選挙で当選、以後十七回連続当選。改進党院内団体議員集会所所属。日刊新聞『民報』創刊。二十六年以降対外硬六派の中心人物の一人として活躍、二十九年対外硬派を基礎に組織された進歩党常議員、三十一年憲政党総務委員。中国人居留民子弟教育のための大同学校(横浜)の名誉校長、この前後から中国人との交遊関係を深めた。またこの年近衛篤麿を会長とする東亜同文会の組織に参画した。この年成立した隈板内閣で共和演説事件で辞任した尾崎行雄文相のあとをうけて入閣。憲政党の分裂にあたっては憲政本党に属し、三十二年総務委員。またフィリピン独立運動を援助した。三十六年党院内総務、三十八年日露講和問題では軟弱外交反対の立場をとった。三十九年以降党内に大石正己を首領とする改革派がおこり、犬養を中心とする非改革派との間ではげしく対立、四十三年非政友合同により立憲国民党を結成し、同党総務となる。四十四年南北朝正閏問題、大逆事件で政府を追及、また中国第一革命にあたり革命軍援助のため頭山満らとともに中国に渡った。大正元年(一九一二)・二年のいわゆる大正政変にあたって「閥族打破・憲政擁護」の運動の先頭に立ち尾崎とともに「憲政の神様」と称せられたが、立憲国民党は五領袖以下が脱党して桂新党(立憲同志会)に参加したため、少数党となった。三年四月第二次大隈内閣成立し入閣を求められたが謝絶。四年対華二十一箇条問題で大隈内閣の対中国政策の失敗を攻撃。六年寺内内閣の臨時外交調査委員に就任、国民党総理となる。七年普通選挙意見を発表、以後数年にわたって国民党から普選案を提出。また九年ごろから政界革新運動を起し、十一年には軍備縮小(経済的軍備改革)決議案を提出し、また国民党を中心に革新倶楽部を組織するなど第一次大戦後の新しい民衆運動の吸収を試みた。十二年第二次山本内閣に普選を条件として逓相として入閣。十三年清浦内閣の成立に対し、高橋是清政友会総裁、加藤高明憲政会総裁と会合、いわゆる護憲三派の提携を行い、同年六月加藤高明内閣の成立とともに逓相として入閣。十四年革新倶楽部を政友会と合同させ、みずからは逓相および衆議院議員を辞任し、以後しばらく政界の表面から隠退した。昭和四年(一九二九)田中義一政友会総裁が病没したあとをうけて政友会総裁に推戴されて就任。五年・六年総裁として民政党内閣を攻撃したが、六年十二月第二次若槻内閣崩壊のあと大命降下し内閣を組織した。翌七年五月十五日、首相官邸において海軍青年将校らに襲撃され殺害された(五・一五事件)。七十八歳。墓は東京都港区の青山墓地にある。犬養は一貫した反官僚派であり政党政治家であったが、「憲政の神様」ないし民衆運動のリーダーとしての側面と同時に、対外硬・アジア主義者であり、かつしばしば策士と評せられたような側面(薩派と密接なつながりがあったこと、後藤新平・伊東巳代治との三角同盟など)を合わせもつ複雑な性格の政治家であったことに注目する必要があろう。→憲政擁護運動(けんせいようごうんどう),→五・一五事件(ご・いちごじけん)
[参考文献]
木堂先生伝記刊行会編『犬養木堂伝』、鷲尾義直編『犬養木堂書簡集』
(伊藤 隆)


日本大百科全書(ニッポニカ)
犬養毅
いぬかいつよし
[1855―1932]

明治~昭和期の政党政治家。号は木堂(ぼくどう)。安政(あんせい)2年4月20日備中国(びっちゅうのくに)(岡山県)の大庄屋(おおじょうや)犬飼家に次男として生まれる。1868年(明治1)14歳のとき父が急死した。21歳で上京、『郵便報知新聞』に寄稿し、その原稿料で慶応義塾に学んだ。1877年西南戦争に際し報知社より特派され、従軍記者として活躍した。1880年豊川良平(とよかわりょうへい)らと東海社を設立し『東海経済新報』を創刊、主幹として編集を担当した。1881年先輩矢野文雄の勧めにより尾崎行雄(おざきゆきお)らとともに統計院に入る。このときの関係から以後30余年にわたり大隈重信(おおくましげのぶ)の陣営に属することとなった。明治十四年の政変による大隈の失脚で同院を退官、翌1882年立憲改進党の創立に参加し、東京府会議員に芝区より選出された。以後50年にわたり政党活動を続けることになった。1887年後藤象二郎(ごとうしょうじろう)の大同団結運動に参加、1890年最初の総選挙に岡山県より立候補して当選、その後17回行われた総選挙に毎回当選を果たした。政党の離合集散に伴い1895年進歩党、1898年憲政党、憲政本党、1910年(明治43)立憲国民党に所属した。1896年には松方正義(まつかたまさよし)と大隈の提携のために奔走し、松隈内閣(しょうわいないかく)を実現させ、1898年の隈板内閣(わいはんないかく)では尾崎行雄の辞任のあと文相に就任した。これらの時期を除けば、その所属する政党はつねに野党でしかも少数派であり、藩閥政府攻撃の一勢力として議会で活躍、雄弁家として知られた。1912年(大正1)第一次護憲運動では先頭にたって活動し、尾崎行雄とともに「憲政の神様」と称せられることとなった。また対中国政策にも深い関心をもち、孫文(そんぶん)の革命派の亡命を援助したり、中国人居留民子弟の教育機関大同学校(横浜)の校長にも就任した。1918年寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣が設置した臨時外交調査会に参加、これが政権接近への一つの転機となり、1923年第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣、1924年護憲三派内閣に逓相(ていしょう)として入閣し普通選挙法の実現に努めた。一方、1922年には立憲国民党を解党し、中野正剛(なかのせいごう)、尾崎行雄らと革新倶楽部(くらぶ)を結成した。1925年普通選挙法が実現するや革新倶楽部を立憲政友会と合同させ、自らは政界引退を決意して逓相、議員を辞任したが、再選され議席に復帰。1929年(昭和4)政友会総裁に就任し、1930年浜口雄幸(はまぐちおさち)民政党内閣のロンドン海軍軍縮条約締結に対し議会で激しい政府攻撃を展開した。1931年民政党内閣の瓦解(がかい)を受けて犬養内閣を組織した。長い政治生活の大半を反藩閥、立憲政治実現のため活動したが、晩年にあっては、むしろ親軍勢力に妥協し、軍部など非立憲的勢力の強化をもたらした。昭和7年5月15日、軍部政権樹立をねらう海軍青年将校らによって暗殺された(五・一五事件)。
[芳井研一]
岡山市にある犬養毅の生家は19世紀の建築として重要文化財に指定されている。
[編集部]



世界大百科事典
犬養毅
いぬかいつよし
1855-1932(安政2-昭和7)

政党政治家。備中国(岡山県)庭瀬藩の郷士の家に生まれる。通称は仙次郎,木堂と号した。1875年上京,翌年慶応義塾に入学。《郵便報知新聞》記者として西南戦争に従軍した。慶応義塾を中退し,80年朝吹英二,豊川良平とともに《東海経済新報》を発刊,保護貿易論を唱え,自由貿易論の《東京経済雑誌》と対抗した。81年統計院権少書記官となったが,いわゆる明治14年の政変により,大隈重信に従って下野し,再び《郵便報知新聞》記者となった。82年立憲改進党の結成に参加,86年《朝野新聞》に移り,大同団結運動で活動した。90年第1回総選挙に岡山県第3区から立候補当選,以後第18回総選挙まで連続当選し,42年間にわたって衆議院に議席を保持した。96年進歩党の結成に参加,長州閥・自由党に対抗するため薩摩閥に接近し,第2次松方正義内閣と提携した。98年自由・進歩両党が憲政党に合同し隈板(わいはん)内閣が成立すると,尾崎行雄辞任後の文相となった。憲政党分裂後は憲政本党筆頭総務に就任し,いわゆる桂園時代を野党の闘士として送り,山県系官僚と結んで政権接近を策す改革派に対し,非改革派を率いて抗争を重ねた。この間,日本に亡命した金玉均,孫文らを庇護し,中国革命同盟会結成を援助するなど,大陸問題への強い関心ぶりを示した。1910年立憲国民党を結成し,大正政変に際しては桂太郎の新党に党員の過半を奪われたが,政友会の尾崎行雄らと提携して護憲運動の先頭に立ち,尾崎とともに〈憲政の神様〉と併称された。しかし第1次山本権兵衛内閣には好意をよせ,シーメンス事件にもあいまいな態度をとり,17年寺内内閣の臨時外交調査会に参加して人気を落とした。18年以降普通選挙を唱え,22年革新俱楽部を結成し,翌年第2次山本内閣の逓相となった。24年憲政会,政友会と結んで第2次護憲運動を推進し,護憲3派内閣の逓相となったが,25年普選法が成立すると革新俱楽部を政友会へ合同させ,政界を引退した。しかし後援者の要請でみずからの欠員による補欠選挙に当選,29年田中義一急死後の政友会総裁に迎えられ,ロンドン条約問題では軍部,政友会に呼応して浜口内閣の統帥権干犯を攻撃した(統帥権干犯問題)。31年12月政友会内閣を組織し,金輸出再禁止をおこない,軍部に同調しつつも満州事変の収拾をはかったが成功せず,議会政治擁護の主張が軍部急進派の攻撃の的となり,五・一五事件で射殺された。犬養内閣は第2次大戦前最後の政党内閣であった。
[江口 圭一]

[索引語]
犬養木堂 東海経済新報 国民党(日本) 護憲運動 憲政の神様 統帥権干犯問題
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


犬養毅の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 339
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 犬養毅画像
日本大百科全書
昭和7年5月15日、軍部政権樹立をねらう海軍青年将校らによって暗殺された(五・一五事件)。芳井研一岡山市にある犬養毅の生家は19世紀の建築として重要文化財に指定 ...
2. 犬養毅[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©小学館ライブラリー ...
3. 犬養毅
世界大百科事典
1855-1932(安政2-昭和7) 政党政治家。備中国(岡山県)庭瀬藩の郷士の家に生まれる。通称は仙次郎,木堂と号した。1875年上京,翌年慶応義塾に入学。《 ...
4. いぬかい‐つよし【犬養毅】
日本国語大辞典
政治家。号は木堂。備中(岡山県)の人。初め、新聞記者。明治二三年(一八九〇)第一回選挙から衆議院議員連続当選一七回。国民党、さらに革新倶楽部を結成。のち、政友会 ...
5. いぬかいつよし【犬養毅】
国史大辞典
一八五五―一九三二 明治から昭和時代にかけての政党政治家。号は木堂。安政二年(一八五五)四月二十日、岡山藩士犬養源左衛門の次子として生まる。明治八年(一八七五 ...
6. 犬養毅
日本史年表
1929年〈昭和4 己巳〉 10・12 犬養毅 、第6代の政友会総裁に就任。 1932年〈昭和7 壬申〉 5・15 海軍青年将校・陸軍士官学校生徒ら、首相官邸 ...
7. いぬかい-つよし【犬養毅】画像
日本人名大辞典
1855−1932 明治-昭和時代前期の政治家。安政2年4月20日生まれ。明治15年立憲改進党の結成にくわわり,東京府会議員。23年衆議院議員(当選19回)。4 ...
8. 犬養毅[文献目録]
日本人物文献目録
【逐次刊行物】:21件 『犬養毅』清水仁三郎『木堂政論集』川崎克(編)『木堂清話』犬養毅犬養毅とロイドジョージ』植原悦二郎『木堂政論集』岸田友治(編)『木堂談 ...
9. 犬養毅内閣画像
日本大百科全書
(1931.12.13~1932.5.26 昭和6~7)第二次世界大戦前期最後の政党内閣となった、犬養毅を首班とした政友会内閣。浜口雄幸(はまぐちおさち)、第二 ...
10. 犬養毅内閣[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
※(臨兼)は臨時兼務、(兼)は兼任。一つの職名に複数の人名がある場合は順次後任を示す ©Shogakukan ...
11. アイルランド問題
世界大百科事典
日本の問題とのつながりは示唆されていない。(2)保護貿易政策の論拠としてのアイルランド問題。犬養毅,東海散士らは,イギリスとの自由貿易がかつてアイルランド経済を ...
12. 青山霊園画像
日本大百科全書
た。面積約27万平方メートル。霊園には大久保利通(としみち)、後藤新平、森有礼(ありのり)、犬養毅(つよし)、浜口雄幸(おさち)らの政治家、尾崎紅葉、国木田独歩 ...
13. 秋田魁新報
世界大百科事典
77年日刊となる。80年代に入ると自由民権運動に関する記事が多くなり改進党色を強め,83年には犬養毅が主筆として一時在社したが,政府の弾圧により,党勢が衰えると ...
14. あきたさきがけしんぽう【秋田魁新報】
国史大辞典
革新派秋田改進党の政党新聞時代に変わる。菊四倍判八頁、発行秋田改進党事務所。同十六年四月には木堂犬養毅を主筆に迎える。同十七年七月改進党奥羽大会が秋田で開かれた ...
15. 荒木貞夫画像
日本大百科全書
反共主義的言動が右翼や青年将校に支持され、十月事件では首相候補に擬せられた。1931年(昭和6)犬養毅(いぬかいつよし)内閣の陸相、翌1932年五・一五事件後の ...
16. 荒木貞夫
世界大百科事典
て参加した。27年中将,教育総監部本部長になり,十月事件ではクーデタ内閣の首相に予定された。犬養毅内閣の陸相に就任,観念的・精神主義的な革新論と反ソ反共論を饒舌 ...
17. 石井桃子[「ノンちゃん雲に乗る」や「クマのプーさん」の児童文学者、死去]
イミダス 2018
日本女子大学文学部英文科卒。文藝春秋から新潮社に移り、山本有三編の「日本少国民文庫」の編集の後、犬養毅元首相の蔵書整理などを経験するうちに、A・A・ミルンの「ク ...
18. いぬかいけきゅうたく【犬養家旧宅】岡山県:岡山市/旧賀陽郡地区/川入村
日本歴史地名大系
[現]岡山市川入 山陽新幹線の南、足守川左岸近くにある。元首相犬養毅(木堂)の生家。主屋・土蔵の二棟からなり、国指定重要文化財。敷地は県指定史跡。犬飼(犬養)家 ...
19. 犬養健
日本大百科全書
政治家。犬養毅(つよし)の実子として東京に生まれる。学習院高等科卒業、東京帝国大学哲学科中退。学生時代に白樺(しらかば)派の影響を受ける。『一つの時代』『南京( ...
20. いぬかいたける【犬養健】
国史大辞典
一八九六―一九六〇 大正・昭和時代の作家、政治家。明治二十九年(一八九六)七月二十一日、政治家犬養毅の子として東京で生まれた。学習院を経て東京帝大哲学科を中退、 ...
21. いぬかい-たける【犬養健】画像
日本人名大辞典
1896−1960 大正-昭和時代の小説家,政治家。明治29年7月28日生まれ。犬養毅(つよし)の次男。白樺(しらかば)派の作家として活動ののち,昭和5年衆議院 ...
22. 犬養内閣
日本大百科全書
犬養毅内閣 ...
23. いぬかいないかく【犬養内閣】画像
国史大辞典
立憲政友会総裁犬養毅を首相とした第二次世界大戦前最後の政党内閣。昭和六年(一九三一)立憲民政党の第二次若槻内閣は満洲事変と経済不況への対処をめぐって動揺し、安 ...
24. 犬養内閣
日本史年表
1931年〈昭和6 辛未〉 12・13 犬養毅政友会内閣 成立(蔵相高橋是清、陸相荒木貞夫).犬養内閣、初閣議で 金輸出再禁止 を決定(金本位制停止、管理通貨 ...
25. いぬかい-ぼくどう【犬養木堂】
日本人名大辞典
犬養毅(いぬかい-つよし) ...
26. いぬかい-みちこ【犬養道子】
日本人名大辞典
1921− 昭和後期-平成時代の評論家。大正10年4月20日生まれ。犬養毅(つよし)の孫。犬養健(たける)の長女。津田英学塾(現津田塾大)を中退して欧米の大学で ...
27. いまかねちよう【今金町】北海道:檜山支庁
日本歴史地名大系
、西部は西蝦夷地フトロ場所に含まれた。明治初年から瀬棚村のうち。明治二四年(一八九一)政治家犬養毅ら七名が北海道庁から後志利別川中流域の未開地二千万坪余の貸付け ...
28. いるまし【入間市】埼玉県地図
日本歴史地名大系
同一二年には豊岡公会堂が完成、同一四年から豊岡大学が開講され、昭和一二年まで二二回にわたって犬養毅・新渡戸稲造・尾崎行雄らを招聘して講座が開かれた。昭和八年に宮 ...
29. 岩瀬忠震[文献目録]
日本人物文献目録
『岩瀬鷗処』川崎紫山『岩瀬肥後守』福地源一郎『近世百傑伝』干河岸貫一『匏庵遺稿』栗本鋤雲『人物と遭遇』犬養毅『巌瀬鷗所君墓碑』永井介堂『岩瀬忠震』太田熊太郎『岩 ...
30. うえはらえつじろう【植原悦二郎】
国史大辞典
サイエンスの学位を得て翌年帰国、明治大学教授となる。大正六年(一九一七)四月総選挙にあたり、犬養毅に求められて国民党に入り、長野県より立候補して当選。以後、革新 ...
31. うえはら-えつじろう【植原悦二郎】
日本人名大辞典
1877−1962 大正-昭和時代の政治家。明治10年5月15日生まれ。明大などの教授をつとめ,のち犬養毅(いぬかい-つよし)の要請で国民党にはいり,大正6年衆 ...
32. うざきろじょう【鵜崎鷺城】
国史大辞典
当時の政界人物評論界では見方の鋭い点で優れていた。同二十九年以来犬養毅に師事した。昭和九年(一九三四)十月二十八日没。六十二歳。著書は『朝野の五大閥』『犬養毅伝 ...
33. うざき-ろじょう【鵜崎鷺城】
日本人名大辞典
明治6年11月1日生まれ。「東京日日新聞」の従軍・政治記者として活躍。明治43年立憲国民党にくわわり,犬養毅をささえる。のち「日本及日本人」「中央公論」などに軍 ...
34. うよくうんどう【右翼運動】画像
国史大辞典
いる。五・一五事件は、この血盟団事件の延長であり、かつ大川が関係し、海軍士官と愛郷塾生による犬養毅首相射殺事件であった。これと神兵隊事件で、右翼の国家改造運動の ...
35. 右翼系統図 1(全体図)[別刷図版]画像
国史大辞典
H5 石原莞爾 D4,D5 磯部浅一 D5,D6,E6 板垣征四郎 D5 井戸川辰三 A7 犬養毅 B2 井上日召 C8,E5,F4,F5 今泉定助 D7,G4 ...
36. 演説
日本大百科全書
文化・時局演説は大衆啓蒙(けいもう)の講演会に形を変えていった。名演説家としては、島田三郎、犬養毅(いぬかいつよし)、尾崎行雄(ゆきお)、永井柳太郎、鶴見祐輔( ...
37. おおいしまさみ【大石正己】
国史大辞典
憲政党分裂後、憲政本党に属し政務委員・常議員など歴任。その間「改革」=非政友合同を主張し「非改革」派の犬養毅と対立したが、のち妥協、四十三年ともに立憲国民党を創 ...
38. 大石正巳
日本大百科全書
野党の立場にあった憲政本党の幹部として活躍、日露戦争後は非政友合同を画策して官僚派に接近、民党主義をとる犬養毅(いぬかいつよし)と対立した。1910年(明治43 ...
39. おおくまないかく【大隈内閣】画像
国史大辞典
により、憲政党の分裂、内閣の総辞職に追いつめられた。十月二十七日に尾崎文相の後任に旧進歩党の犬養毅が任命されると旧自由党は同月二十九日に単独で憲政党大会を開き、 ...
40. おおくまないかく【大隈内閣】 : 大隈内閣/〔第一次〕
国史大辞典
により、憲政党の分裂、内閣の総辞職に追いつめられた。十月二十七日に尾崎文相の後任に旧進歩党の犬養毅が任命されると旧自由党は同月二十九日に単独で憲政党大会を開き、 ...
41. 大島貞益
日本大百科全書
明治時代の経済学者。とくに犬養毅(いぬかいつよし)とともに保護貿易論者の双璧(そうへき)として有名。弘化(こうか)2年2月27日但馬(たじま)国養父(やぶ)郡大 ...
42. おおた-おさむ【太田収】
日本人名大辞典
1890−1938 大正-昭和時代前期の経営者。明治23年1月12日生まれ。犬養毅(つよし)の勧めで小池合資(のちの山一証券)に入社。昭和10年山一証券社長とな ...
43. 岡崎邦輔
世界大百科事典
で星逓相の官房長をつとめた。また,憲政党,立憲政友会の政務に関与し策士として有名。1912年犬養毅,尾崎行雄らと護憲運動を起こし,25年第1次加藤高明内閣の農相 ...
44. おかざき-くにすけ【岡崎邦輔】
日本人名大辞典
ミシガン大に留学。24年衆議院議員となり,自由党,憲政党,政友会に属した(当選10回)。大正元年犬養毅,尾崎行雄らと第1次護憲運動をおこす。のち加藤高明内閣の農 ...
45. 岡山(県)画像
日本大百科全書
この間の人材としては、経済界ではビール王の馬越(まごし)恭平、銀行・保険の矢野恒太(つねた)、政界では犬養毅(いぬかいつよし)、宇垣一成(うがきかずしげ)、平沼 ...
46. 緒方貞子[アフガニスタン復興支援国際会議議長を務めた政府代表]
イミダス 2018
長最終文書が発表された。日本は2年半で5億ドルを拠出する。 1927年、東京都出身。曾祖父(犬養毅)は首相、祖父(芳沢謙吉)は外相、父(中村豊一)は元フィンラン ...
47. 尾崎行雄画像
日本大百科全書
職。1912年(大正1)12月第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣が倒れると、国民党の犬養毅(いぬかいつよし)とともに第一次憲政擁護運動の先頭にたって活躍 ...
48. 尾崎行雄
世界大百科事典
されて辞職。1900年立憲政友会の創立に参加。03-12年東京市長。13年第1次護憲運動には犬養毅とともに桂太郎内閣打倒の陣頭に立ち〈護憲の神〉とうたわれた。桂 ...
49. おざきゆきお【尾崎行雄】
国史大辞典
属したが四十二年再び政友会に入党した。大正元年(一九一二)憲政擁護運動がおこると立憲国民党の犬養毅とともに運動の先頭に立ち、議会では桂首相を鋭く糾弾して内閣総辞 ...
50. 革新倶楽部
日本大百科全書
22年(大正11)11月8日に結成された。党首を置かず、党議拘束制を廃止したが、最高指導者は犬養毅(いぬかいつよし)であった。普通選挙と政党内閣制の実現、軍部大 ...
「犬養毅」の情報だけではなく、「犬養毅」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

犬養毅と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「犬養毅」は人物に関連のある記事です。
その他の人物に関連する記事
ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
人物に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1700冊以上(総額750万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶