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  11. 吉田茂

吉田茂

ジャパンナレッジで閲覧できる『吉田茂』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
吉田茂
よしだしげる

(一)

一八八五 - 一九五四
大正・昭和時代の内務官僚、政治家。明治十八年(一八八五)九月二日大分県北海部郡臼杵町(臼杵市)に生まれる。父は銀行員。父の転勤により上京。同四十四年東京帝国大学法科大学独法科卒業。内務省に入り地方官を経て神社局第二課長、同第一課長を歴任、明治神宮の造営の任にあたった。大正十二年(一九二三)東京市助役、復興局官房文書課長・監理課長として帝都復興に尽力。内務省神社局長を経て、昭和四年(一九二九)社会局長官に就任、同六年五月協調会常務理事となり、労資協調や農村更生など社会政策を進めた。九年十月岡田内閣の書記官長、ついで十年五月―十一年十二月内閣調査局長官をつとめ革新官僚の中心として総合国策の立案にあたった。十二年一月貴族院議員に勅選。十五年一月米内内閣に厚生大臣として入閣。同七月内閣総辞任により退任。福岡県知事を経て十九年十二月―二十年四月小磯内閣の軍需大臣をつとめた。敗戦後の二十一年一月公職追放、二十六年八月追放解除。晩年は神社本庁事務総長、国学院大学理事、日本文化放送理事などをつとめた。昭和二十九年十二月九日食道癌のため慶応病院で没。六十九歳。墓は東京都新宿区榎町の済松寺にある。
[参考文献]
吉田茂伝記刊行編輯委員会編『吉田茂』
(鳥海 靖)

(二)

一八七八 - 一九六七
明治から昭和時代にかけての外交官・政治家。特に第二次世界大戦における日本の敗北後、サンフランシスコ講和条約調印前後までの再建期の指導者として功績があった。明治十一年(一八七八)九月二十二日、旧土佐藩士で自由民権運動(のち自由党)の志士として活躍していた竹内綱の五男として生まれた。三歳の時、実父の親友である貿易商の吉田健三の養子となる。明治二十二年養父の死去に伴い遺産五十万円を相続したがその事業は継がなかった。学習院に学び大学部にまで進むが在学中院長近衛篤麿の死去のため大学部が閉鎖されたので東京帝国大学法科大学政治科に転学、明治三十九年に卒業。同年九月外交官及領事官試験に合格し、以後外交官としての途を進む。最初の任地は天津で領事官補として在勤、間もなく奉天在勤に転じ、さらにロンドン在勤となる。明治四十二年、牧野伸顕の長女雪子と結婚、同年大使館三等書記官としてローマに赴任。大正元年(一九一二)から四年余り安東領事をつとめたほか、済南領事・天津総領事・奉天総領事など若いころは中国大陸の勤務が多かった。同期に入省した十一名の仲間の中できわ立っていた広田弘毅をはじめ武者小路公共・林久治郎などと比べても、外交官としてはさして目立つ存在ではなかった。そのなかで、牧野全権の随員として第一次世界大戦後のパリ講和会議に参加したこと、および昭和三年(一九二八)田中義一首相兼外相と直談判して外務次官に就任したことが目立っている。しかし、直情径行的な人柄や思い切った行動様式を示すエピソードは当時においても少なくなかった。その点、上司として接したこともある実直で確実な幣原(しではら)喜重郎とは対照的であり、当時二人の仲はあまり良くなかった。政策的にも、幣原の唱える中国に対する政治的不介入政策に現地にいた吉田はあきたらず、より積極的な政策を信奉していた。人脈的にも民政党系の幣原と政友会系の吉田とは対照的であった。こうした吉田の中国政策についての態度は、奉天総領事時代に彼が唱導した京奉線遮断案に最もよく現われていた。吉田の中国政策はしかし彼の親英主義と矛盾するものではなかった。外務次官をやめたあとイタリア大使やイギリス大使を歴任する。駐英大使時代は、彼一流のやり方で日英提携を画策したが成功はしなかった。その間、昭和十一年、二・二六事件直後、広田内閣の成立に際して外務大臣候補となったが、陸軍の反対により実現を阻まれた。昭和十四年に依願退官するまでの職業外交官としての経歴において吉田は概して志を遂げる場に恵まれなかった。退官後は近衛文麿らの宮中勢力に接近し、終戦工作に従事したことが知れて憲兵隊に拘束されたこともある。敗戦後、東久邇内閣・幣原内閣の外相をつとめたあと、追放処分を受けた鳩山一郎の依頼により自由党総裁に就任、昭和二十一年五月第一次吉田内閣を組織した。以後、片山・芦田両内閣を経て政権に復帰、昭和二十九年十二月に総辞職するまで五次にわたって内閣を組織した。その間、サンフランシスコ講和条約締結による日本の国際社会復帰に心血を注いだほか、自由党を拠点に戦後の新しい政治家たちを養成した。昭和四十二年十月二十日没。八十九歳。戦後初の国葬を以て葬られ、大勲位菊花章頸飾を贈られた。墓は東京都港区の青山墓地にある。→吉田内閣(よしだないかく)
[参考文献]
吉田茂『回想十年』、猪木正道『評伝吉田茂』、高坂正堯『宰相吉田茂』(『中公叢書』)、J・ダワー『吉田茂とその時代』(大窪愿二訳)、吉田茂記念事業財団編『人間吉田茂』、渡辺昭夫・宮里政玄編『サンフランシスコ講和』
(渡辺 昭夫)


世界大百科事典
吉田茂
よしだしげる
1878-1967(明治11-昭和42)

第2次大戦後の占領体制下における日本の保守政治を代表する政治家。土佐自由党の士竹内綱(たけのうちつな)の五男として東京に生まれる。幼時に貿易商吉田健三の養子となる。自由民権の志士であり自由党の幹部であった竹内綱が実父であったこと,イギリスと関係の深い貿易商である吉田健三が養父であったこと,宮廷を背景とする政界の黒幕である牧野伸顕が岳父であったこと,これらの生活環境が吉田茂に儒教的・英米派的・実業的政治感覚を植えつけた。1906年東京帝国大学政治科を卒業し,外務省に入る。27年奉天総領事として田中義一内閣の東方会議に出席する。36年広田弘毅内閣の外相就任は,陸軍の反対にあってつぶされる。39年駐英大使を最後に外務省を退官した。外交官としての吉田は,二十一ヵ条要求に反対する若き外交官であったが,満州(現,中国東北部)経営に積極的姿勢を示す老獪(ろうかい)な外交官でもあった。日米戦争について開戦当初から日本の敗戦を予告する目をもっていたが,日本の戦時体制が共産主義体制への接近をもたらすと天皇に警告する目ももっていた。第2次大戦中は親英米派としてにらまれ,憲兵隊に逮捕されたりもした。45年9月東久邇宮稔彦(なるひこ)内閣の外相となり,幣原喜重郎内閣にも留任した。公職追放となった鳩山一郎の後を受けて日本自由党総裁となり,46年8月から54年にいたる期間に内閣を5次にわたり組織した。1946年から47年にかけての第1次吉田内閣において,経済安定本部の発足や傾斜生産方式の検討などへの取組みをみせたが,占領政策としての計画経済的方向には積極的な姿勢を示すことができなかった。占領政策の転換,とくに1949年に設定された自由主義的均衡策としてのドッジ・ラインに吉田は積極的な対応をみせ,経済復興から経済成長へ転化していく戦後日本の経済政策の基本路線をここで確定した。また,第3次吉田内閣中に,アメリカ,イギリスなどを主要対象国とする講和条約を成立させ,51年,首席全権委員としてサンフランシスコ講和会議に出席した。占領体制から脱出した日本の保守政治は,55年に保守合同を成立させ,自由民主党を誕生させたが,この段階で吉田の指導性は瓦解し,自民党の領袖としては,公職追放を解除された鳩山一郎や岸信介が選ばれるようになった。反動的再編成の開始である。1953年3月,反吉田の気運が高まり,首相懲罰動議の可決,衆議院解散(〈バカヤロー解散〉)という国政上,類例のない事態を招いた。

吉田内閣は第2次大戦後の日本経済の復興課題に取り組むため,経済テクノクラートを閣僚として迎える必要に迫られていた。そのために保守党の資金を党人派にゆだねつつ,官僚機構とその人的要素に保守党の政策展開を依存するという形を採ってきた。この戦後型保守党運営は吉田茂によって確立されたものであった。また,日本の安全保障をアメリカとの軍事ブロック化の方向に見いだし,そのうえでアメリカの再軍備要請に適当に対応しながら日本経済の復興を図ったその商人国家的発想は,高度経済成長段階において評価を受けることになった。池田勇人内閣や佐藤栄作内閣段階に代表的に示された保守本流の政治路線の原点は吉田内閣にあるとされ,池田,佐藤などの官僚出身政治家は〈吉田学校〉の出身者とされている。その死は国葬をもって遇せられている。
[高橋 彦博]

[索引語]
バカヤロー解散
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1. 吉田茂画像
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2. 吉田茂[百科マルチメディア]画像
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3. 吉田茂
世界大百科事典
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4. よしだ‐しげる【吉田茂】
日本国語大辞典
外交官、政治家。東京出身。竹内綱の五男。吉田家の養子。外務省にはいり、駐英大使などを歴任。昭和二一年(一九四六)自由党総裁に就任。のち五期にわたって首相をつとめ ...
5. よしだしげる【吉田茂】
国史大辞典
[参考文献]吉田茂『回想十年』、猪木正道『評伝吉田茂』、高坂正堯『宰相吉田茂』(『中公叢書』)、J・ダワー『吉田茂とその時代』(大窪愿二訳)、吉田茂記念事業財 ...
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7. 吉田茂〔元首相〕
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8. よしだ-しげうじ【吉田茂氏】
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9. よしだ-しげたけ【吉田茂武】
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10. よしだ-しげなお【吉田茂直】
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11. よしだ-しげまさ【吉田茂雅】
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12. よしだ-しげる【吉田茂(1)】
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13. よしだ-しげる【吉田茂(2)】
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16. 吉田茂(元厚相)[文献目録]
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17. 吉田茂内閣画像
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18. 吉田茂八[文献目録]
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19. 旧吉田茂邸[新語流行語]
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21. あいちきいち【愛知揆一】
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22. あしだないかく【〓田内閣】画像
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