NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1700冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 吉田茂

吉田茂

ジャパンナレッジで閲覧できる『吉田茂』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
吉田茂
よしだしげる

(一)

一八八五 - 一九五四
大正・昭和時代の内務官僚、政治家。明治十八年(一八八五)九月二日大分県北海部郡臼杵町(臼杵市)に生まれる。父は銀行員。父の転勤により上京。同四十四年東京帝国大学法科大学独法科卒業。内務省に入り地方官を経て神社局第二課長、同第一課長を歴任、明治神宮の造営の任にあたった。大正十二年(一九二三)東京市助役、復興局官房文書課長・監理課長として帝都復興に尽力。内務省神社局長を経て、昭和四年(一九二九)社会局長官に就任、同六年五月協調会常務理事となり、労資協調や農村更生など社会政策を進めた。九年十月岡田内閣の書記官長、ついで十年五月―十一年十二月内閣調査局長官をつとめ革新官僚の中心として総合国策の立案にあたった。十二年一月貴族院議員に勅選。十五年一月米内内閣に厚生大臣として入閣。同七月内閣総辞任により退任。福岡県知事を経て十九年十二月―二十年四月小磯内閣の軍需大臣をつとめた。敗戦後の二十一年一月公職追放、二十六年八月追放解除。晩年は神社本庁事務総長、国学院大学理事、日本文化放送理事などをつとめた。昭和二十九年十二月九日食道癌のため慶応病院で没。六十九歳。墓は東京都新宿区榎町の済松寺にある。
[参考文献]
吉田茂伝記刊行編輯委員会編『吉田茂』
(鳥海 靖)

(二)

一八七八 - 一九六七
明治から昭和時代にかけての外交官・政治家。特に第二次世界大戦における日本の敗北後、サンフランシスコ講和条約調印前後までの再建期の指導者として功績があった。明治十一年(一八七八)九月二十二日、旧土佐藩士で自由民権運動(のち自由党)の志士として活躍していた竹内綱の五男として生まれた。三歳の時、実父の親友である貿易商の吉田健三の養子となる。明治二十二年養父の死去に伴い遺産五十万円を相続したがその事業は継がなかった。学習院に学び大学部にまで進むが在学中院長近衛篤麿の死去のため大学部が閉鎖されたので東京帝国大学法科大学政治科に転学、明治三十九年に卒業。同年九月外交官及領事官試験に合格し、以後外交官としての途を進む。最初の任地は天津で領事官補として在勤、間もなく奉天在勤に転じ、さらにロンドン在勤となる。明治四十二年、牧野伸顕の長女雪子と結婚、同年大使館三等書記官としてローマに赴任。大正元年(一九一二)から四年余り安東領事をつとめたほか、済南領事・天津総領事・奉天総領事など若いころは中国大陸の勤務が多かった。同期に入省した十一名の仲間の中できわ立っていた広田弘毅をはじめ武者小路公共・林久治郎などと比べても、外交官としてはさして目立つ存在ではなかった。そのなかで、牧野全権の随員として第一次世界大戦後のパリ講和会議に参加したこと、および昭和三年(一九二八)田中義一首相兼外相と直談判して外務次官に就任したことが目立っている。しかし、直情径行的な人柄や思い切った行動様式を示すエピソードは当時においても少なくなかった。その点、上司として接したこともある実直で確実な幣原(しではら)喜重郎とは対照的であり、当時二人の仲はあまり良くなかった。政策的にも、幣原の唱える中国に対する政治的不介入政策に現地にいた吉田はあきたらず、より積極的な政策を信奉していた。人脈的にも民政党系の幣原と政友会系の吉田とは対照的であった。こうした吉田の中国政策についての態度は、奉天総領事時代に彼が唱導した京奉線遮断案に最もよく現われていた。吉田の中国政策はしかし彼の親英主義と矛盾するものではなかった。外務次官をやめたあとイタリア大使やイギリス大使を歴任する。駐英大使時代は、彼一流のやり方で日英提携を画策したが成功はしなかった。その間、昭和十一年、二・二六事件直後、広田内閣の成立に際して外務大臣候補となったが、陸軍の反対により実現を阻まれた。昭和十四年に依願退官するまでの職業外交官としての経歴において吉田は概して志を遂げる場に恵まれなかった。退官後は近衛文麿らの宮中勢力に接近し、終戦工作に従事したことが知れて憲兵隊に拘束されたこともある。敗戦後、東久邇内閣・幣原内閣の外相をつとめたあと、追放処分を受けた鳩山一郎の依頼により自由党総裁に就任、昭和二十一年五月第一次吉田内閣を組織した。以後、片山・芦田両内閣を経て政権に復帰、昭和二十九年十二月に総辞職するまで五次にわたって内閣を組織した。その間、サンフランシスコ講和条約締結による日本の国際社会復帰に心血を注いだほか、自由党を拠点に戦後の新しい政治家たちを養成した。昭和四十二年十月二十日没。八十九歳。戦後初の国葬を以て葬られ、大勲位菊花章頸飾を贈られた。墓は東京都港区の青山墓地にある。→吉田内閣(よしだないかく)
[参考文献]
吉田茂『回想十年』、猪木正道『評伝吉田茂』、高坂正堯『宰相吉田茂』(『中公叢書』)、J・ダワー『吉田茂とその時代』(大窪愿二訳)、吉田茂記念事業財団編『人間吉田茂』、渡辺昭夫・宮里政玄編『サンフランシスコ講和』
(渡辺 昭夫)


日本大百科全書(ニッポニカ)
吉田茂
よしだしげる
[1878―1967]

政治家。第二次世界大戦後の占領下から独立回復期にかけて5次、計7年の間、首相として戦後日本政治の方向を定めた。土佐自由党の指導者竹内綱(たけのうちつな)の五男として東京に生まれ、横浜の貿易商吉田健三の養子となる。養母士子(ことこ)の家系から儒学の影響を受け、杉浦重剛(すぎうらしげたけ)の日本中学で学んだことから、漢学の素養、国士風の思想、ブルジョア趣味とが混じり合って、のちに「ワンマン」といわれる個性が生まれた。学習院を経て1906年(明治39)東京帝国大学政治学科を卒業、外務省に入る。同期に後の首相広田弘毅(ひろたこうき)がいた。妻は明治の元勲大久保利通(おおくぼとしみち)の二男で内大臣の牧野伸顕(まきののぶあき)の娘雪子。中国勤務が長くとくに奉天総領事として日本の権益拡張を図った。1928年(昭和3)田中義一(たなかぎいち)内閣に自薦して外務次官となるが、翌1929年浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣のリベラル外相幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)の手で駐伊大使に転出。1936年広田内閣に外相か内閣書記官長として入閣のはずが、「親英米派」を理由に軍部が反対、駐英大使となる。日独防共協定に終始反対したこと、また太平洋戦争末期に近衛文麿(このえふみまろ)元首相らと和平工作を企て陸軍刑務所に収監されたことで、戦後に和平主義者として復活した。東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)、幣原両内閣の外相を務め、GHQ(連合国最高司令部)との交渉役としてマッカーサー総司令官と知り合う。1946年(昭和21)5月組閣直前に自由党総裁鳩山一郎(はとやまいちろう)が追放された後を受けて、第一次吉田内閣を組閣、外相を兼ねた。憲法改正など占領改革のほとんどに反対であったが「良き敗者」としてマッカーサーに協力。翌1947年二・一ゼネスト禁止後の総選挙で社会党が第一党となると、いさぎよく下野した。1948年10月芦田均(あしだひとし)内閣が汚職で総辞職したあと第二次吉田内閣を組織、経済復興に力点を移した米占領政策に忠実に、経済安定九原則の実施と大幅な行政整理を行い、朝鮮戦争が始まる(1950)と、警察予備隊創設による日本再軍備、レッド・パージと「逆コース」に協力した。また「吉田学校」に集う旧官僚の政界進出を図り、池田勇人(いけだはやと)、佐藤栄作両首相につながる保守本流路線を確立した。1951年全面講和論を退けて自由主義諸国と対日講和条約を結び、さらに日米安全保障条約の締結によって軽軍備による経済発展を目ざしたことは、アメリカの冷戦戦略に日本を組み込むこととなり、外交の自主性を失ったという批判は絶えない。1954年党内外の非難を浴び退陣したが、引退後も元老として影響力を持ち続け、高度経済成長の仕掛け人として死後に評価が高まっている。
[袖井林二郎]



世界大百科事典
吉田茂
よしだしげる
1878-1967(明治11-昭和42)

第2次大戦後の占領体制下における日本の保守政治を代表する政治家。土佐自由党の士竹内綱(たけのうちつな)の五男として東京に生まれる。幼時に貿易商吉田健三の養子となる。自由民権の志士であり自由党の幹部であった竹内綱が実父であったこと,イギリスと関係の深い貿易商である吉田健三が養父であったこと,宮廷を背景とする政界の黒幕である牧野伸顕が岳父であったこと,これらの生活環境が吉田茂に儒教的・英米派的・実業的政治感覚を植えつけた。1906年東京帝国大学政治科を卒業し,外務省に入る。27年奉天総領事として田中義一内閣の東方会議に出席する。36年広田弘毅内閣の外相就任は,陸軍の反対にあってつぶされる。39年駐英大使を最後に外務省を退官した。外交官としての吉田は,二十一ヵ条要求に反対する若き外交官であったが,満州(現,中国東北部)経営に積極的姿勢を示す老獪(ろうかい)な外交官でもあった。日米戦争について開戦当初から日本の敗戦を予告する目をもっていたが,日本の戦時体制が共産主義体制への接近をもたらすと天皇に警告する目ももっていた。第2次大戦中は親英米派としてにらまれ,憲兵隊に逮捕されたりもした。45年9月東久邇宮稔彦(なるひこ)内閣の外相となり,幣原喜重郎内閣にも留任した。公職追放となった鳩山一郎の後を受けて日本自由党総裁となり,46年8月から54年にいたる期間に内閣を5次にわたり組織した。1946年から47年にかけての第1次吉田内閣において,経済安定本部の発足や傾斜生産方式の検討などへの取組みをみせたが,占領政策としての計画経済的方向には積極的な姿勢を示すことができなかった。占領政策の転換,とくに1949年に設定された自由主義的均衡策としてのドッジ・ラインに吉田は積極的な対応をみせ,経済復興から経済成長へ転化していく戦後日本の経済政策の基本路線をここで確定した。また,第3次吉田内閣中に,アメリカ,イギリスなどを主要対象国とする講和条約を成立させ,51年,首席全権委員としてサンフランシスコ講和会議に出席した。占領体制から脱出した日本の保守政治は,55年に保守合同を成立させ,自由民主党を誕生させたが,この段階で吉田の指導性は瓦解し,自民党の領袖としては,公職追放を解除された鳩山一郎や岸信介が選ばれるようになった。反動的再編成の開始である。1953年3月,反吉田の気運が高まり,首相懲罰動議の可決,衆議院解散(〈バカヤロー解散〉)という国政上,類例のない事態を招いた。

吉田内閣は第2次大戦後の日本経済の復興課題に取り組むため,経済テクノクラートを閣僚として迎える必要に迫られていた。そのために保守党の資金を党人派にゆだねつつ,官僚機構とその人的要素に保守党の政策展開を依存するという形を採ってきた。この戦後型保守党運営は吉田茂によって確立されたものであった。また,日本の安全保障をアメリカとの軍事ブロック化の方向に見いだし,そのうえでアメリカの再軍備要請に適当に対応しながら日本経済の復興を図ったその商人国家的発想は,高度経済成長段階において評価を受けることになった。池田勇人内閣や佐藤栄作内閣段階に代表的に示された保守本流の政治路線の原点は吉田内閣にあるとされ,池田,佐藤などの官僚出身政治家は〈吉田学校〉の出身者とされている。その死は国葬をもって遇せられている。
[高橋 彦博]

[索引語]
バカヤロー解散
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


吉田茂の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 415
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 吉田茂画像
日本大百科全書
政治家。第二次世界大戦後の占領下から独立回復期にかけて5次、計7年の間、首相として戦後日本政治の方向を定めた。土佐自由党の指導者竹内綱(たけのうちつな)の五男と ...
2. 吉田茂[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©小学館ライブラリー ...
3. 吉田茂
世界大百科事典
であったこと,宮廷を背景とする政界の黒幕である牧野伸顕が岳父であったこと,これらの生活環境が吉田茂に儒教的・英米派的・実業的政治感覚を植えつけた。1906年東京 ...
4. よしだ‐しげる【吉田茂】
日本国語大辞典
外交官、政治家。東京出身。竹内綱の五男。吉田家の養子。外務省にはいり、駐英大使などを歴任。昭和二一年(一九四六)自由党総裁に就任。のち五期にわたって首相をつとめ ...
5. よしだしげる【吉田茂】
国史大辞典
[参考文献]吉田茂『回想十年』、猪木正道『評伝吉田茂』、高坂正堯『宰相吉田茂』(『中公叢書』)、J・ダワー『吉田茂とその時代』(大窪愿二訳)、吉田茂記念事業財 ...
6. 吉田茂〔元厚生・軍需大臣〕
日本史年表
1954年〈昭和29 甲午〉 12・9 没。  ...
7. 吉田茂〔元首相〕
日本史年表
第1回生存者叙勲 を発令. 吉田茂 に大勲位菊花大綬章)。 1967年〈昭和42 丁未〉 10・20 没。 1967年〈昭和42 丁未〉 10・31 日本武道館 ...
8. よしだ-しげうじ【吉田茂氏】
日本人名大辞典
1588−1644 江戸時代前期の弓術家。天正(てんしょう)16年生まれ。吉田業茂(なりしげ)の3男。加賀金沢藩主前田利常(としつね)につかえ,大坂の陣で功をた ...
9. よしだ-しげたけ【吉田茂武】
日本人名大辞典
1575−1629 織豊-江戸時代前期の弓術家。天正(てんしょう)3年生まれ。吉田業茂(なりしげ)の長男。父について吉田流の射術をきわめた。はじめ豊臣秀次(ひで ...
10. よしだ-しげなお【吉田茂直】
日本人名大辞典
?−1678 江戸時代前期の弓術家。加賀金沢藩士。正保(しょうほ)元年藩主の命で,吉田茂氏の養子となり絶家となっていた吉田流大蔵派の跡目をつぐ。延宝6年死去。本 ...
11. よしだ-しげまさ【吉田茂雅】
日本人名大辞典
1732−1776 江戸時代中期の弓術家。享保(きょうほう)17年生まれ。加賀金沢藩士。吉田流大蔵派の射術にすぐれ,安永のころ矢弓頭となる。学問もこのんだ。安永 ...
12. よしだ-しげる【吉田茂(1)】
日本人名大辞典
1878−1967 明治-昭和時代の外交官,政治家。明治11年9月22日生まれ。竹内綱(たけのうち-つな)の5男。吉田健三の養子。岳父は牧野伸顕。駐英大使などを ...
13. よしだ-しげる【吉田茂(2)】
日本人名大辞典
1885−1954 大正-昭和時代の官僚,政治家。明治18年9月2日生まれ。内務省にはいり,神社局長,社会局長官などをへて,昭和10年内閣調査局長官。新官僚の国 ...
14. 吉田茂(元首相)[文献目録]
日本人物文献目録
るべし』岩淵辰雄『吉田茂』-『吉田茂』加瀬俊一『吉田茂を裸にす』天野貞祐等『吉田茂検挙事件』黒崎貞明『吉田茂・この権臣の椅子』吉原公一郎『吉田茂氏との好日』今日 ...
15. 吉田茂(教育)[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:1件 【逐次刊行物】:0件 『故吉田茂先生追悼録』畠山清身 ...
16. 吉田茂(元厚相)[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:1件 『同姓同名物語』吉田茂 ...
17. 吉田茂内閣画像
日本大百科全書
吉田茂を首班とし、合計7年間続いた保守党政権。荒 敬第一次(1946.5.22~1947.5.24 昭和21~22)1946年4月総選挙で自由党は第一党となった ...
18. 吉田茂八[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:1件 【逐次刊行物】:0件 『輝く双つの人間像』広野喜代次(著刊) ...
19. 旧吉田茂邸[新語流行語]
イミダス 2018
神奈川県大磯町の、吉田茂元首相(在任1946~54年)が住んでいた邸宅。吉田茂(1878年~1967年没)は第2次世界大戦後から首相を務め、ワンマン宰相などの ...
20. 東奔政走 「吉田茂超え」でも視界不良 しぼむ衆参ダブル選挙説=人羅格
週刊エコノミスト 2018-19
抱えながらも、「安倍1強」状態は続く。 首相は2月23日、通算在職日数が2617日となり、吉田茂元首相を抜いて歴代3位となった。再来年11月まで総裁任期をまっ ...
21. あいちきいち【愛知揆一】
国史大辞典
部を卒業。大蔵省に入って、順調に官房長、銀行局長へ昇進したが、占領軍との財閥解体交渉の手腕を吉田茂首相に見込まれて政界に転じ、二十五年の参議院選挙に自由党から全 ...
22. あしだないかく【〓田内閣】画像
国史大辞典
衆議院が三十六票差で片山内閣の外相であった芦田均を指名したのに対して、参議院では二票差で自由党総裁吉田茂を指名し、結局憲法六七条の規定が適用されて芦田が次期首相 ...
23. 芦田均内閣
日本大百科全書
を要求、民主・社会・国協各党内の対立も絡み、複雑な多数派工作のすえ、衆議院が芦田を、参議院が吉田茂(日本自由党)を指名、両院協議会でもまとまらず、憲法第67条2 ...
24. あそう-たかきち【麻生太賀吉】
日本人名大辞典
麻生セメントの各社長。九州電力会長,日本石炭協会会長などをつとめ,昭和24年衆議院議員(当選3回,自由党)。吉田茂の娘婿。3女信子は三笠宮寛仁(みかさのみや-と ...
25. 麻生太郎
日本大百科全書
政治家、実業家。福岡県生まれ。母方の祖父は元首相吉田茂、父親は衆議院議員麻生太賀吉(たかきち)という政治家一族の生まれ。また妻は元首相鈴木善幸の三女。1963年 ...
26. あそう-たろう【麻生太郎】
日本人名大辞典
第3次安倍内閣でも副総理,財務相に留任し,内閣府特命担当相(金融),デフレ脱却担当。祖父(母方)は吉田茂。義父は鈴木善幸。妹信子は三笠宮寛仁親王妃。昭和51年に ...
27. 麻生太郎内閣(麻生内閣)[内閣]画像
イミダス 2018
下してしまった。麻生首相は、1940年9月20日生まれ。父は麻生太賀吉元代議士、母方の祖父は吉田茂という名門の生まれである。79年に衆議院福岡2区から出馬して初 ...
28. 天野貞祐
日本大百科全書
。教育刷新委員会委員として教育基本法制定にもかかわった。1950年(昭和25)5月から第三次吉田茂内閣の文相となり、道徳教育の重要性を強調、自ら「国民実践要領」 ...
29. あまのていゆう【天野貞祐】
国史大辞典
同二十二年からは教育刷新委員会委員として教育政策の決定に参加。日本育英会会長を経て、同二十五年に吉田茂の懇請により、第三次吉田内閣の文部大臣となる(二十七年まで ...
30. アメリカ彦蔵自伝 2 265ページ
東洋文庫
の地に退去を命ぜられた。尾崎行雄、星亨、中島信行、中江兆民、竹内綱(吉田茂の父)も、このなかにはいっていた。 一 八 章  ...
31. 有沢広巳
日本大百科全書
1938年(昭和13)教授グループ事件に連座、休職。敗戦後、東大に復帰し経済学部の再建にあたるかたわら、吉田茂の経済ブレーンとして、乏しい資材を石炭、鉄鋼に重点 ...
32. 淡路画像
日本大百科全書
ある。また2000年に行われた淡路花博の跡地に国営明石海峡公園(淡路地区)がつくられている。吉田茂樹 ...
33. 淡路島画像
日本大百科全書
おおはし)が開通した。本州と四国を連絡する神戸淡路鳴門(なると)自動車道が島を縦断している。吉田茂樹自然島の中央部から北部にかけて津名丘陵が広がり、おもに花崗岩 ...
34. 淡路平野
日本大百科全書
淡路人形発祥地で園芸農業、酪農業、養豚業の中心地で温州(うんしゅう)ミカンの産地南あわじ市がある。吉田茂樹 ...
35. 阿波丸事件
日本大百科全書
ところが、1949年4月、保守党議員の提案による賠償請求権放棄の国会決議がなされると、当時の吉田茂内閣は、占領下におけるアメリカからの直接間接の「援助」に感謝す ...
36. あんどうまさずみ【安藤正純】
国史大辞典
鳩山派の中心人物の一人として、三木武吉らとともに自由党内に民主化同盟を結成して委員長となり、吉田茂総裁を批判したが、翌二十八年の鳩山派の分党には参加せず、五月に ...
37. いけだしげあき【池田成彬】
国史大辞典
かためさせた。二十年十二月A級戦犯容疑者に指定されたが、翌年五月には解除された。その後は首相吉田茂の背後にあって相談役の役目を果たした。人格清廉、古武士の風格が ...
38. いけだないかく【池田内閣】画像
国史大辞典
三十九年八月に承認、また一方で三十九年四月に日中新聞記者交換を実現させながら、他方では首相の意をうけた吉田茂元首相が五月の蒋介石あて書簡で、輸出入銀行などの資金 ...
39. いけだないかく【池田内閣】 : 池田内閣/〔第三次〕
国史大辞典
三十九年八月に承認、また一方で三十九年四月に日中新聞記者交換を実現させながら、他方では首相の意をうけた吉田茂元首相が五月の蒋介石あて書簡で、輸出入銀行などの資金 ...
40. 池田勇人
日本大百科全書
1947年(昭和22)大蔵事務次官となる。1949年の総選挙で衆議院議員(広島2区)に当選し、第三次吉田茂内閣の蔵相に抜擢(ばってき)されドッジ・ラインによる財 ...
41. 池田勇人
世界大百科事典
47年事務次官となる。49年,広島から衆議院議員に当選,ただちに第3次吉田茂内閣の蔵相に就任,50年通産相を兼任。吉田茂直系の政治家としてGHQが示した〈経済九 ...
42. いけだ‐はやと【池田勇人】
日本国語大辞典
政治家。大蔵官僚を経て、吉田茂に見込まれ自由党に入党。蔵相、通産相などを歴任。昭和三五年(一九六〇)自民党総裁となり、三たび内閣を組織。所得倍増計画を発表し、高 ...
43. 池田勇人[文献目録]
日本人物文献目録
『風雪の愛はひとすじに 夫と妻の記録』中島力『池田勇人その生と死』伊藤昌哉『池田君の庭つくり』吉田茂『池田時代の遺産』萩原延寿『池田蔵相論 「空樽」財政を批判す ...
44. 池田‐ロバートソン会談
日本大百科全書
で中古品を押し付けようとし、日本は自主的な軍需生産を主張した。1953年(昭和28)10月、吉田茂首相の特使として自由党政調会長池田勇人(はやと)は、ワシントン ...
45. いけだ・ロバートソンかいだん【池田・ロバートソン会談】
国史大辞典
昭和二十八年(一九五三)十月吉田茂首相の特使池田勇人(自由党政務調査会長)とアメリカの国務省極東担当国務次官補ロバートソンWalter Spencer Rob ...
46. 石川一郎
日本大百科全書
経済諸団体の組織化に努め、1948年(昭和23)経済団体連合会(現、日本経済団体連合会)初代会長に就任し、吉田茂(首相)、一万田尚登(いちまだひさと)(日銀総裁 ...
47. いしだ-ひろひで【石田博英】画像
日本人名大辞典
「中外商業新報」(現「日本経済新聞」)の政治記者をへて,昭和22年衆議院議員(当選14回,自民党)。吉田茂の側近政治を批判。31年石橋内閣実現のために活躍し,内 ...
48. 石橋湛山画像
日本大百科全書
展開した「金解禁論争」は有名。戦後、自由党に入り、1946年(昭和21)総選挙に出馬したが落選。第一次吉田茂内閣の蔵相に就任し、生産復興第一主義を中心とした積極 ...
49. 石橋湛山
世界大百科事典
った。46年第1次吉田茂内閣蔵相としてケインズ流の積極財政を展開,翌年代議士に当選直後,占領軍との対立により公職追放となる。52-63年代議士に返り咲き,鳩山一 ...
50. 石橋湛山[文献目録]
日本人物文献目録
リズムの再評価 石橋湛山論』長幸男『鳩山と石橋』有竹修二『人としての石橋権大僧正』柴田義久『吉田茂と石橋湛山』桑島健一 ...
「吉田茂」の情報だけではなく、「吉田茂」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

吉田茂と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「吉田茂」は人物に関連のある記事です。
その他の人物に関連する記事
ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
人物に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1700冊以上(総額750万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶