政治家。第二次世界大戦後の占領下から独立回復期にかけて5次、計7年の間、首相として戦後日本政治の方向を定めた。土佐自由党の指導者竹内綱(たけのうちつな)の五男として東京に生まれ、横浜の貿易商吉田健三の養子となる。養母士子(ことこ)の家系から儒学の影響を受け、杉浦重剛(すぎうらしげたけ)の日本中学で学んだことから、漢学の素養、国士風の思想、ブルジョア趣味とが混じり合って、のちに「ワンマン」といわれる個性が生まれた。学習院を経て1906年(明治39)東京帝国大学政治学科を卒業、外務省に入る。同期に後の首相広田弘毅(ひろたこうき)がいた。妻は明治の元勲大久保利通(おおくぼとしみち)の二男で内大臣の牧野伸顕(まきののぶあき)の娘雪子。中国勤務が長くとくに奉天総領事として日本の権益拡張を図った。1928年(昭和3)田中義一(たなかぎいち)内閣に自薦して外務次官となるが、翌1929年浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣のリベラル外相幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)の手で駐伊大使に転出。1936年広田内閣に外相か内閣書記官長として入閣のはずが、「親英米派」を理由に軍部が反対、駐英大使となる。日独防共協定に終始反対したこと、また太平洋戦争末期に近衛文麿(このえふみまろ)元首相らと和平工作を企て陸軍刑務所に収監されたことで、戦後に和平主義者として復活した。東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)、幣原両内閣の外相を務め、GHQ(連合国最高司令部)との交渉役としてマッカーサー総司令官と知り合う。1946年(昭和21)5月組閣直前に自由党総裁鳩山一郎(はとやまいちろう)が追放された後を受けて、第一次吉田内閣を組閣、外相を兼ねた。憲法改正など占領改革のほとんどに反対であったが「良き敗者」としてマッカーサーに協力。翌1947年二・一ゼネスト禁止後の総選挙で社会党が第一党となると、いさぎよく下野した。1948年10月芦田均(あしだひとし)内閣が汚職で総辞職したあと第二次吉田内閣を組織、経済復興に力点を移した米占領政策に忠実に、経済安定九原則の実施と大幅な行政整理を行い、朝鮮戦争が始まる(1950)と、警察予備隊創設による日本再軍備、レッド・パージと「逆コース」に協力した。また「吉田学校」に集う旧官僚の政界進出を図り、池田勇人(いけだはやと)、佐藤栄作両首相につながる保守本流路線を確立した。1951年全面講和論を退けて自由主義諸国と対日講和条約を結び、さらに日米安全保障条約の締結によって軽軍備による経済発展を目ざしたことは、アメリカの冷戦戦略に日本を組み込むこととなり、外交の自主性を失ったという批判は絶えない。1954年党内外の非難を浴び退陣したが、引退後も元老として影響力を持ち続け、高度経済成長の仕掛け人として死後に評価が高まっている。
第2次大戦後の占領体制下における日本の保守政治を代表する政治家。土佐自由党の士竹内綱(たけのうちつな)の五男として東京に生まれる。幼時に貿易商吉田健三の養子となる。自由民権の志士であり自由党の幹部であった竹内綱が実父であったこと,イギリスと関係の深い貿易商である吉田健三が養父であったこと,宮廷を背景とする政界の黒幕である牧野伸顕が岳父であったこと,これらの生活環境が吉田茂に儒教的・英米派的・実業的政治感覚を植えつけた。1906年東京帝国大学政治科を卒業し,外務省に入る。27年奉天総領事として田中義一内閣の東方会議に出席する。36年広田弘毅内閣の外相就任は,陸軍の反対にあってつぶされる。39年駐英大使を最後に外務省を退官した。外交官としての吉田は,二十一ヵ条要求に反対する若き外交官であったが,満州(現,中国東北部)経営に積極的姿勢を示す老獪(ろうかい)な外交官でもあった。日米戦争について開戦当初から日本の敗戦を予告する目をもっていたが,日本の戦時体制が共産主義体制への接近をもたらすと天皇に警告する目ももっていた。第2次大戦中は親英米派としてにらまれ,憲兵隊に逮捕されたりもした。45年9月東久邇宮稔彦(なるひこ)内閣の外相となり,幣原喜重郎内閣にも留任した。公職追放となった鳩山一郎の後を受けて日本自由党総裁となり,46年8月から54年にいたる期間に内閣を5次にわたり組織した。1946年から47年にかけての第1次吉田内閣において,経済安定本部の発足や傾斜生産方式の検討などへの取組みをみせたが,占領政策としての計画経済的方向には積極的な姿勢を示すことができなかった。占領政策の転換,とくに1949年に設定された自由主義的均衡策としてのドッジ・ラインに吉田は積極的な対応をみせ,経済復興から経済成長へ転化していく戦後日本の経済政策の基本路線をここで確定した。また,第3次吉田内閣中に,アメリカ,イギリスなどを主要対象国とする講和条約を成立させ,51年,首席全権委員としてサンフランシスコ講和会議に出席した。占領体制から脱出した日本の保守政治は,55年に保守合同を成立させ,自由民主党を誕生させたが,この段階で吉田の指導性は瓦解し,自民党の領袖としては,公職追放を解除された鳩山一郎や岸信介が選ばれるようになった。反動的再編成の開始である。1953年3月,反吉田の気運が高まり,首相懲罰動議の可決,衆議院解散(〈バカヤロー解散〉)という国政上,類例のない事態を招いた。
吉田内閣は第2次大戦後の日本経済の復興課題に取り組むため,経済テクノクラートを閣僚として迎える必要に迫られていた。そのために保守党の資金を党人派にゆだねつつ,官僚機構とその人的要素に保守党の政策展開を依存するという形を採ってきた。この戦後型保守党運営は吉田茂によって確立されたものであった。また,日本の安全保障をアメリカとの軍事ブロック化の方向に見いだし,そのうえでアメリカの再軍備要請に適当に対応しながら日本経済の復興を図ったその商人国家的発想は,高度経済成長段階において評価を受けることになった。池田勇人内閣や佐藤栄作内閣段階に代表的に示された保守本流の政治路線の原点は吉田内閣にあるとされ,池田,佐藤などの官僚出身政治家は〈吉田学校〉の出身者とされている。その死は国葬をもって遇せられている。
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