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ジャパンナレッジで閲覧できる『田楽』の国史大辞典・新版 能 狂言事典・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ
能・狂言事典
田楽[歴史・史料・役]
でんがく
広義には稲作に関する芸能の総称として用いるが、狭義には田楽躍を本芸とする職業芸能者が演じる芸能をいう。また田植の囃しや田楽躍に用いる太鼓を称する場合もある。広義の田楽は、(1)田植を囃す楽、(2)職業芸能者である田楽法師による芸能、(3)風流田楽の三つに分けて考えるのが便利であるが、日本の民俗芸能分類の用語としての田楽には、予祝の田遊やその派生芸能を含めることが多い。
[田植を囃す楽]
稲作の諸工程のうち、田植に囃しや歌を奏するのは日本固有の儀礼ではなく、広く照葉樹林文化圏の特色であったらしい。『類聚国史』貞観八年(八六六)閏三月一日条の清和天皇行幸の記事に「覧耕田、農夫田婦雑楽皆作」とあるのや、『栄華物語』御裳着巻に一〇二三年(治安三)五月のこととして見える情景がそれである。藤原道長が土御門殿で大宮藤原彰子のために催したこのおりの田植では、〈でむがく〉と呼ぶ腰太鼓、鼓、笛、すりささらなどで囃し、田植歌がうたわれている。また田主と称する翁が、破れ大傘をさし、斑化粧をした女とかまけ技を見せている。都近くではすでにこのころには田植行事が観賞の対象とされ、芸能化しているが、もともとは信仰を背景とした民俗行事であったはずである。『長秋記』大治四年(一一二九)五月一〇日条に記される田植では、田主を専門の猿楽芸能者である弘延がつとめたのをはじめ、苗を植える早乙女が二〇人、それに懸鼓、佐々良、笛などの囃し方を田楽者と呼んで、その華やかなようすを記しているが、別に職業芸能者の田楽法師の一団も参加しており、貴族御覧の田植が一段と芸能化していたことが知られる。
このようなにぎやかな田植行事は、その後神社の神田などを植える神事として各地に伝承されるが、その代表的なものが大阪市住吉大社の御田植神事(現在六月一四日)で、近世まで専業の猿楽者・田楽者が参勤して、田の畦を舞台に芸能を演じていた。一方、一般の田植でも民俗信仰行事として田植を囃すことは各地に伝えられた。とくに中国地方の山間部や、四国の一部では近年まで盛んに行われ、囃子田、田植囃子、花田植などの名で知られる。現在も広島県西部や島根県の山間部では民俗芸能として伝承されている。
[田楽法師による芸能]
社寺の祭礼などに、田楽躍を中心に奉納芸能を演じた芸能者集団は、法師形をしていたことから、田楽法師の名で呼ばれた。びんざさら(編木)・腰太鼓を打ちつつ躍る者各四、五人を中心に、花笠で飾った笛役、鼓、銅子などの奏者を加えた十数名が一座を成す。ささら、太鼓、鼓、笛などの構成楽器が田植を囃す楽と一見同じに見えるところから、(2)を(1)の芸能化したものという見解がなされたが、実態は別種の芸能で、びんざさらが数十枚の木片を並べて上部をひもで固定し、両手で打ち合わせて独自の音を出すのに対し、ささらは鋸歯状の刻み目を入れた棒(ささらこ)を、竹の先をはけ状に割ったささら竹でこすって音を出す。太鼓も締太鼓であることは共通するが、田植の太鼓は胴が厚く、田楽躍のものは胴が薄い独自の形態をもつ。芸態も別種で、田楽躍が躍り手が楽器を奏しつつ互いに位置を替え、軽快に動く変化の面白さを主眼とした大陸系のシンメトリックな動きを特色とするのに対し、田植を囃す楽は歌謡をともない、一種の伴奏楽で動きも少ない。両者の発生は別系統と思われる。
なお田楽躍には高足、刀玉、弄丸など習練を必要とする大陸伝来の散楽系曲技が加わるのも特色である。この専業者による田楽が文献に見える最初は、文書に疑問はあるが九二二年(延喜二二)の〈和泉国大鳥大明神五社流記帳〉(『平安遺文』)で、十烈や細男とともに祭礼芸能として記されている。また『日本紀略』長保一年(九九九)四月一〇日条には、京都松尾社の祭礼に山崎の津人による田楽が恒例として演じられ、このとき大がかりな喧嘩のあったことが記されている。淀川河原の山崎津は、芸能者などの集まる散所の一つといわれ、この田楽は専業芸能者の所演であったと思われる。
当時、祭礼奉仕の職業芸能者は座を結成して社寺への勤仕権を確保するのが通例であったが、田楽においても同様で、平安時代末期には複数の田楽座が結成されていた。本座を称した宇治白河(白川)田楽、新座を称した奈良田楽や弥座などの名が史料に散見するが、ほかにも九州太宰府を中心に活躍した美麗田楽など、地方にも群小の座があったに違いない。京都の祇園御霊会、宇治の離宮祭(宇治神社)、奈良春日若宮御祭をはじめ、延暦寺、園城寺、東大寺など大社寺の祭礼にはかならず田楽座が出勤している。田楽の座衆が法師形をなしていた初見は、前述の『長秋記』の田植御覧の記事で〈田楽法師等十余人〉とある。
田楽躍の芸態は、まず演者の一人一人が担当楽器を持って中央に進み、独演してみせる《中門口》にはじまり、続いて全員の惣田楽に移る。惣田楽は動きの変化により多くの曲目があったらしく、弘長二年(一二六二)四月一日付の〈陸奥中尊毛越両寺座主下知状写〉(『鎌倉遺文』)には、《道行》《三曲》《三草》《三多衆利》《鳥飢》《獅子飢》《三足遍》《一足双》《具郎舞》《密越沢》《越身》《竹林堂》《大舞》《小舞》《順之輪》《清地》《六方四角舞》《浮深楽》《万物気神楽》《感応楽》《延命楽》の二一曲の曲名を挙げている。また現在伝承されている田楽躍のうち、最も古形が残ると思われる和歌山県那智勝浦町那智大社の那智田楽躍では、《乱声》《鋸歯》《八拍子》《遶道》《二拍子》《三拍子》《本座駒引》《新座駒引》《拍板の舞》《太鼓起こす》《撥下》《肩組む》《タラリ行道》《入り組む》《本座水車》《新座水車》《本座鹿子躍》《面の現像》《新座鹿子躍》《大足》《打居皆集会》《シテテンの舞》を伝える。とくに最後の《シテテンの舞》は鼓役の童児二人による演技で、鼓役に子どもを当て、それを四天子、シッテイなどと呼ぶ例は多い。田楽衆が大社寺の祭礼に出勤する場合、その費用を負担する頭役を差定する制度があり、奈良春日若宮の御祭などでは中世前期から盛大に行われていた。とくに祭礼前に必要な諸道具をさげ渡す行事を装束賜と称し、『大乗院寺社雑事記』などに詳しい記録が残る。
田楽座の本芸とされた田楽躍や曲技の間にも、見物の笑いを誘う芸が演じられたようであるが、鎌倉時代中期以降、猿楽衆(猿楽)が能を演じて人気を得ると、田楽の座でも猿楽の能を演じた。これが田楽能と呼ばれて発展し、南北朝から室町期にかけて猿楽者と芸を競った。田楽能の名人として一忠、喜阿弥、増阿弥などの名が知られるが、室町中期以降は大和猿楽の隆盛に押されて衰微した。田楽能の芸態的特色は不明な点が多い。
[風流田楽]
平安時代後期、貴族御覧の田植行事や職業的な田楽芸能者が世に迎えられると、都の貴賤がその姿をまねて練り歩くことが爆発的に流行した。当時の政情不安や、末法思想などの社会不安を背景に、一〇九六年(永長一)を頂点として短期間流行した特殊な芸能現象である。そのようすは『中右記』や『古事談』『洛陽田楽記』に詳しく、永長の大田楽の名でも呼ばれる。
芸能者は殿上人をはじめ下級の青侍などにいたるまで、高足・一足・腰鼓・振鼓・銅子・編木・殖女・舂女(『洛陽田楽記』)、懸鼓・小鼓・銅拍子・左々良・笛・田主・一足・二足(『中右記』)などの姿が見える。これは田植を囃す一団と職業田楽者の姿を合わせたもので、職業田楽者も加わった田植御覧のおりの華やかさを、そのまま模倣して都大路を練り歩いたわけである。この現象はさして長くは続かず、やがて政情の安定とともに消えるが、後に祇園御霊会に参勤した宮廷の文殿衆によって演じられた文殿田楽は、その遺風であった可能性がある。
[現状]
職業田楽の座は近世末期まで春日若宮の御祭に出勤して残存したほか、地方の祭礼に伝承された所も多い。前述の那智大社や春日の御祭をはじめ、岩手県平泉町毛越寺、秋田県鹿角市小豆沢大日堂(大日堂舞楽)、東京都浅草神社、長野県阿南町新野伊豆神社(雪祭)、愛知県南設楽郡鳳来町鳳来寺(鳳来寺田楽)、同北設楽郡設楽町高勝寺観音堂(田峯の田楽)、京都府福知山市御勝八幡宮、同京丹後市弥栄町八坂神社、島根県隠岐郡西ノ島町美田八幡社などにいずれも形態の整った田楽躍を残すほか、全国には六〇余ヵ所に田楽躍が残存する。なお、静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家、西浦の観音堂には田楽の名で総称される一種の修正会が伝えられるが、この行事には田遊や田楽躍のほかに独特の芸態を残す能が〈はね能〉の名で伝承されている。
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国史大辞典
田楽
でんがく
農耕儀礼に伴う芸能に、散楽芸が結びついたもの。豊作予祝のため、田植えのとき歌舞する田遊びを、それがある程度まで標準演技の形成された段階で、散楽者が固有の芸に採りこみ、新しいジャンルとしたのであろう。後世に残った田楽までも、刀玉
(かたなだま)・品玉
(しなだま)・輪鼓
(りゅうご)・高足
(たかあし)・一足
(いっそく)など、散楽の演目が含まれており、楽器にも編木
(ささら)や腰鼓など、外来めいたものが使われたからである。これら散楽の固有芸は、かなり高度の訓練を要するので、農民が本業のかたわら習得し、かれらの芸に採りこんだとは考えにくい。田遊び風の芸を得意とする散楽者が多くなり、やがて専業の田楽者が生まれたのであろう。田楽の初見記事として『三代実録』貞観八年(八六六)閏三月一日条の「天皇(中略)御
東門
覧
耕田
、農夫田婦、雑楽皆作」が知られるけれども、田楽といえるものだったか否かはわからない。明らかな記事としては、延喜二十二年(九二二)の『和泉国大鳥大明神五社流記帳』にみえる田楽がいちばん早い。ついでは、山崎の者が松尾社の祭で田楽を演じたという記事で(『日本紀略』長徳四年(九九八)四月十日条)、その芸態は『栄花物語』御裳着に治安三年(一〇二三)の田楽見物を記した条から、ある程度まで推察できる。その盛行は院政期に入ってからのことらしく、十一世紀後葉ごろ以後に田楽の記事が多くみられる。大江匡房の『洛陽田楽記』(『朝野群載』三)には、永長元年(一〇九六)夏の田楽(永長の大田楽)を詳述するが、これは田楽というよりも、街上を華美・異風の扮装で練り歩く行事すなわち風流
(ふりゅう)に田楽の芸態を持ちこんだもので、当時、貴賤を問わず大流行した。職芸田楽者の芸を素人がまねたのは、職芸者の間でそれ以前に模倣可能なところまで田楽が定型化されていたことを示すと考えられる。素人にまで模倣された田楽は、もはや農耕儀礼との結びつきを失い、娯楽的な芸能へ変性していったと考えられる。それは、地方の社寺などで、神事や仏会の余興として田楽がひろく行われるようになった原因でもあったろう。田楽が娯楽化した段階で、在来の芸だけでなく、いっそう魅力的な芸を採りこむことが必要とされたらしい。十三世紀中葉ごろから、歌唱と舞踊をマイムふうの芸に結合した「能」が猿楽者によって考案され、おそらく好評だったからであろう、田楽者もこれらを採り入れた。両者を区別するため、それぞれ「猿楽の能」「田楽の能」とよぶ。しかし、田楽のほうに名手が多く出たようで、十四世紀初葉には、田楽の能が猿楽の能よりも優位に立ち、北条高時は田楽能の熱心な愛好者であった。足利尊氏もそうだったし、世人が田楽能に熱狂したことは、桟敷が崩れて多数の死傷者を出した貞和五年(一三四九)の京都四条河原における勧進田楽によってわかる(『太平記』二七)。このときに出演していた一忠や、奈良田楽の亀阿弥は、いずれも名人とうたわれた。ところが、猿楽能のほうで観阿弥清次が活躍するようになったころから、次第に形勢は逆転し、十五世紀中葉より後は田楽能が衰退して、能といえば猿楽能をさすのが普通となる。しかし、田楽能が行われなくなっても、本来の田楽芸は地方に残存し、現在においても六十ヵ所内外は命脈を保っている。春日若宮・那智大社・毛越
(もうつう)寺などが代表的であり、『江戸名所図会』に出ている浅草三社祭や王子権現祭の田楽も参考となる。
[参考文献]
芸能史研究会編『田楽・猿楽』(『日本庶民文化史料集成』二)、高野辰之『歌舞音曲考説』、能勢朝次『能楽源流考』、本田安次『田楽・風流(一)』(『日本の民俗芸能』二)、林屋辰三郎『中世芸能史の研究』
(小西 甚一)
©Yoshikawa kobunkan Inc.
世界大百科事典
田楽
でんがく
広義には稲作に関する芸能の総称として用いるが,狭義には田楽躍(おどり)を本芸とする職業芸能者が演じる芸能をいう。また田植の囃しや田楽躍に用いる太鼓を称する場合もある。広義の田楽は,(1)田植を囃す楽,(2)職業芸能者である田楽法師による芸能,(3)風流(ふりゆう)田楽の三つに分けて考えるのが便利であるが,日本の民俗芸能分類の用語としての田楽には,予祝の田遊(たあそび)やその派生芸能を含めることが多い。
田植を囃す楽
稲作の諸工程のうち,田植に囃しや歌を奏するのは日本固有の儀礼ではなく,広く照葉樹林文化圏の特色であったらしい。《類聚国史》貞観8年(866)閏3月1日条の清和天皇行幸の記事に〈覧耕田,農夫田婦雑楽皆作〉とあるのや,《栄華物語》御裳着(みもぎ)巻に1023年(治安3)5月のこととして見える情景がそれである。藤原道長が土御門殿で大宮藤原彰子のために催したこのおりの田植では,〈でむがく〉と呼ぶ腰太鼓,鼓,笛,すりささらなどで囃し,田植歌がうたわれている。また田主(たあるじ)と称する翁(おきな)が,破れ大傘をさし,斑(まだら)化粧をした女とかまけ技(わざ)を見せている。都近くではすでにこのころには田植行事が観賞の対象とされ,芸能化しているが,もともとは信仰を背景とした民俗行事であったはずである。《長秋記》大治4年(1129)5月10日条に記される田植では,田主を専門の猿楽芸能者である弘延(こうえん)がつとめたのをはじめ,苗を植える早乙女が20人,それに懸鼓,佐々良(ささら),笛などの囃し方を田楽者と呼んで,その華やかなようすを記しているが,別に職業芸能者の田楽法師の一団も参加しており,貴族御覧の田植が一段と芸能化していたことが知られる。このようなにぎやかな田植行事は,その後神社の神田などを植える神事として各地に伝承されるが,その代表的なものが大阪市住吉大社の御田植神事(現在6月14日)で,近世まで専業の猿楽者・田楽者が参勤して,田の畦(あぜ)を舞台に芸能を演じていた。一方,一般の田植でも民俗信仰行事として田植を囃すことは各地に伝えられた。とくに中国地方の山間部や,四国の一部では近年まで盛んに行われ,囃子田(はやしだ),田植囃子,花田植などの名で知られる。現在も広島県西部や島根県の山間部では民俗芸能として伝承されている。
田楽法師による芸能
社寺の祭礼などに,田楽躍を中心に奉納芸能を演じた芸能者集団は,法師形をしていたことから,田楽法師の名で呼ばれた。びんざさら(編木)・腰太鼓を打ちつつ躍る者各4,5人を中心に,花笠で飾った笛役,鼓,銅鈸子(どびようし)などの奏者を加えた十数名が一座を成す。ささら,太鼓,鼓,笛などの構成楽器が田植を囃す楽と一見同じに見えるところから,(2)を(1)の芸能化したものという見解がなされたが,実態は別種の芸能で,びんざさらが数十枚の木片を並べて上部をひもで固定し,両手で打ち合わせて独自の音を出すのに対し,ささらは鋸歯状の刻み目を入れた棒(ささらこ)を,竹の先をはけ状に割ったささら竹でこすって音を出す。太鼓も締太鼓であることは共通するが,田植の太鼓は胴が厚く,田楽躍のものは胴が薄い独自の形態をもつ。芸態も別種で,田楽躍が躍り手が楽器を奏しつつ互いに位置を替え,軽快に動く変化の面白さを主眼とした大陸系のシンメトリックな動きを特色とするのに対し,田植を囃す楽は歌謡をともない,一種の伴奏楽で動きも少ない。両者の発生は別系統と思われる。なお田楽躍には高足(たかあし),刀玉(かたなだま),弄丸(ろうがん)など習練を必要とする大陸伝来の散楽(さんがく)系曲技が加わるのも特色である。この専業者による田楽が文献に見える最初は,文書に疑問はあるが922年(延喜22)の〈和泉国大鳥大明神五社流記帳〉(《平安遺文》)で,十烈(とおつら)や細男(せいのお)とともに祭礼芸能として記されている。また《日本紀略》長保元年(999)4月10日条には,京都松尾社の祭礼に山崎の津人による田楽が恒例として演じられ,このとき大がかりな喧嘩のあったことが記されている。淀川河原の山崎津(やまさきのつ)は,芸能者などの集まる散所(さんじよ)の一つといわれ,この田楽は専業芸能者の所演であったと思われる。当時,祭礼奉仕の職業芸能者は座を結成して社寺への勤仕権を確保するのが通例であったが,田楽においても同様で,平安時代末期には複数の田楽座が結成されていた。本(ほん)座を称した京都白河(川)田楽,新(しん)座を称した奈良田楽や弥座などの名が史料に散見するが,ほかにも群小の座があったに違いない。京都の祇園御霊会(ごりようえ),宇治の離宮祭(宇治神社),奈良春日若宮御祭(おんまつり)をはじめ,延暦寺,園城寺,東大寺など大社寺の祭礼にはかならず田楽座が出勤している。田楽の座衆が法師形をなしていた初見は,前述の《長秋記》の田植御覧の記事で〈田楽法師等十余人〉とある。
田楽躍の芸態は,まず演者の一人一人が担当楽器を持って中央に進み,独演してみせる《中門口(ちゆうもんぐち)》にはじまり,続いて全員の惣田楽に移る。惣田楽は動きの変化により多くの曲目があったらしく,弘長2年(1262)4月1日付の〈陸奥中尊毛越両寺座主下知状写〉(《鎌倉遺文》)には,《道行》《三曲》《三草》《三多衆利》《鳥飢》《獅子飢》《三足遍》《一足双》《具郎舞》《密越沢》《越身》《竹林堂》《大舞》《小舞》《順之輪》《清地》《六方四角舞》《浮深楽》《万物気神楽》《感応楽》《延命楽》の21曲の曲名を挙げている。また現在伝承されている田楽躍のうち,最も古形が残ると思われる和歌山県那智勝浦町那智大社の那智田楽躍では,《乱声》《鋸歯》《八拍子》《遶道》《二拍子》《三拍子》《本座駒引》《新座駒引》《拍板の舞》《太鼓起こす》《撥下(ばちさげ)》《肩組む》《タラリ行道》《入り組む》《本座水車》《新座水車》《本座鹿子躍》《面の現像》《新座鹿子躍》《大足》《打居皆集会》《シテテンの舞》を伝える。とくに最後の《シテテンの舞》は鼓役の童児2人による演技で,鼓役に子どもを当て,それを四天子(してんじ),シッテイなどと呼ぶ例は多い。田楽衆が大社寺の祭礼に出勤する場合,その費用を負担する頭(とう)役を差定(さじよう)する制度があり,奈良春日若宮の御祭などでは中世前期から盛大に行われていた。とくに祭礼前に必要な諸道具をさげ渡す行事を装束賜(しようぞくたばり)と称し,《大乗院寺社雑事記》などに詳しい記録が残る。
田楽座の本芸とされた田楽躍や曲技の間にも,見物の笑いを誘う芸が演じられたようであるが,鎌倉時代中期以降,猿楽衆(猿楽)が能を演じて人気を得ると,田楽の座でも猿楽の能を演じた。これが田楽能と呼ばれて発展し,南北朝から室町期にかけて猿楽者と芸を競った。田楽能の名人として一忠(いつちゆう),喜阿弥(きあみ),増阿弥(ぞうあみ)などの名が知られるが,室町中期以降は大和猿楽の隆盛に押されて衰微した。田楽能の芸態的特色は不明な点が多い。
風流田楽
平安時代後期,貴族御覧の田植行事や職業的な田楽芸能者が世に迎えられると,都の貴賤がその姿をまねて練り歩くことが爆発的に流行した。当時の政情不安や,末法思想などの社会不安を背景に,1096年(永長1)を頂点として短期間流行した特殊な芸能現象である。そのようすは《中右記》や《古事談》《洛陽田楽記》に詳しく,永長の大田楽の名でも呼ばれる。芸能者は殿上人(てんじようびと)をはじめ下級の青侍などにいたるまで,高足・一足・腰鼓・振鼓・銅鈸子・編木・殖女・舂女(《洛陽田楽記》),懸鼓・小鼓・銅拍子・左々良(ささら)・笛・田主・一足・二足(《中右記》)などの姿が見える。これは田植を囃す一団と職業田楽者の姿を合わせたもので,職業田楽者も加わった田植御覧のおりの華やかさを,そのまま模倣して都大路を練り歩いたわけである。この現象はさして長くは続かず,やがて政情の安定とともに消えるが,後にも祇園御霊会などには,しろうとの田楽が参加することがあった。
現状
職業田楽の座は近世末期まで春日若宮の御祭に出勤して残存したほか,地方の祭礼に伝承された所も多い。前述の那智大社や春日の御祭をはじめ,岩手県平泉町毛越寺,秋田県鹿角市小豆沢大日堂(大日堂舞楽),東京都浅草神社,長野県阿南町新野(にいの)伊豆神社(雪祭),愛知県新城市の旧鳳来(ほうらい)町鳳来寺(鳳来寺田楽),同北設楽(きたしたら)郡設楽町高勝寺観音堂(田峯の田楽),京都府福知山市御勝(みかつ)八幡宮,同京丹後市の旧弥栄町八坂神社,島根県隠岐西ノ島町美田八幡社などにいずれも形態の整った田楽躍を残すほか,全国には60余ヵ所に田楽躍が残存する。なお,静岡県浜松市の旧水窪(みさくぼ)町西浦(にしうれ)の観音堂には田楽の名で総称される一種の修正会(しゆしようえ)が伝えられるが,この行事には田遊や田楽躍のほかに独特の芸態を残す能が〈はね能〉の名で伝承されている。
→田遊
[山路 興造]
[索引語]
田楽躍 田遊 栄華(花)物語 長秋記 御田植神事 囃子田 田植囃子 花田植 田楽法師 ささら(簓) びんざさら(編木) 山崎津 那智田楽躍 シテテンの舞 四天子 シッテイ 装束賜 田楽能 風流田楽 永長の大田楽 洛陽田楽記 はね能
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