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  11. 尾形光琳

尾形光琳

ジャパンナレッジで閲覧できる『尾形光琳』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
尾形光琳
おがたこうりん
一六五八 - 一七一六
江戸時代中期の代表的な画家。祖父宗柏の代から東福門院の御服所を勤めていた呉服商雁金(かりがね)屋の当主宗謙の次男として、万治元年(一六五八)に京都で生まれる。名は惟富・伊亮・方祝、通称は市之丞、号を光琳(はじめ浩臨)、別号を道崇・寂明・澗声といい、軒号を長江軒・青々斎などと号した。また日蓮宗に帰依して、元禄七年(一六九四)にはすでに日受の道号をもっている。『尾形流略印譜』によると、父宗謙は光悦流の書と狩野流の画、および能その他の諸芸を嗜んだため、少青年期は父のもとにあってその影響をうけ、また画は狩野派の山本素軒に師事したとある。天和三年(一六八三)兄藤三郎(のち助右衛門)が勘当を許されて家督を相続したので、翌貞享元年(一六八四)に弟乾山とともに財産を分譲され、間もなく多代と結婚して独立した。権門富商と交わる奢侈生活を行なったために、元禄末ごろにはほとんど家財を蕩尽してしまったようである。そして宝永四年(一七〇七)に江戸に下って酒井忠挙から十人扶持、翌年は二十人扶持を給せられたが、同六年の春には帰京し、さらに正徳元年(一七一一)末から翌年冬にかけても江戸に滞在していたが、八月にはすでに京都に戻っている。同三年長子寿市郎を京都銀座役人小西彦九郎の養子にしたために、今も残る『小西家文書』(大阪市立美術館蔵)の中に多数の光琳関係文書と画稿が伝わっている。なお次子勝之丞も同五年に没し、三子才次郎も大坂商人石井吉右衛門の養子となり、兄の藤三郎も江戸に移っていたので、光琳の晩年における家族生活は孤独であった。この光琳は元禄初年から没するまでの間、のちに関白になった二条綱平から特別な重用をうけたのは、おそらく父宗謙が綱平の父光平のもとに出入りしていた因縁によるのであろう。その二条家の推薦によって、元禄十四年に法橋に叙せられたのであろうし、また宝永元年に描いている「中村内蔵助像」(重要文化財、大和文華館蔵)の像主は、やはり銀座年寄であり、草花図を描いている「白地秋草模様小袖」(同、東京国立博物館蔵)は、江戸滞在中の外護者であった材木商冬木家の品であることなどからして、光琳の生活様式と意識とがほぼ推定できる。享保元年(一七一六)六月二日に五十九歳で没して、妙顕寺の興善院に葬られる。光琳の遺作は、大画面では「燕子花図」(国宝、根津美術館蔵)・「八ツ橋図」(メトロポリタン美術館蔵)・「紅白梅図」(国宝、熱海美術館蔵)・「呂尚垂釣図」(小倉家旧蔵)・「三十六歌仙図」などの屏風があり、小画面では「草花図巻」(中村房次郎蔵)・「躑躅図」(重要文化財、畠山記念館蔵)・「伊勢物語図」(東京国立博物館・五島美術館蔵)などの着色画と、水墨画や実用的な扇面図と団扇図などがあって、合計すると実に多く遺っているが、製作年代の明白なのは前記の「中村内蔵助像」と宝永二年の軸銘記がある「草花図巻」だけである。しかも落款はいずれも「光琳」であって、光琳を号したのは三十五歳直前からであるから、それ以前の製作と認定できる品はないばかりか、遺作の画法的推論によれば、ほとんど四十歳以後の後半世の作と考えられている。武家絵画の狩野派と、やはり武家化している土佐・住吉両家の大和絵に対して、富裕なる町人が理想とした生活感情を宗達的画法によって表現したところに光琳の価値がある。なお、弟乾山のために陶器画を描き、また漆工品の意匠にもすぐれていた。
[参考文献]
酒井抱一編『光琳百図』、池田孤村編『光琳新撰百図』、審美書院編『光琳派画集』、田中一松編『光琳』、山根有三『光琳関係資料とその研究』
(谷 信一)


日本大百科全書(ニッポニカ)
尾形光琳
おがたこうりん
[1658―1716]

江戸中期の画家。京都の呉服商の老舗(しにせ)、雁金(かりがね)屋の次男に生まれる。父は尾形宗謙(そうけん)、弟に陶芸家として名高い乾山(けんざん)がいる。名は惟富(これとみ)、幼名を市之丞(いちのじょう)といい、34歳ごろから光琳と名のる。方祝(まさとき)、寂明(じゃくみょう)、道崇(どうすう)、澗声(かんせい)、伊亮(これすけ)、青々堂などの号を用いた。
尾形家は桃山時代、道柏(どうはく)が本阿弥(ほんあみ)光悦の姉を妻に迎え本阿弥家と姻戚(いんせき)関係になり、また淀君(よどぎみ)、徳川秀忠(ひでただ)夫人らの呉服の御用を勤めて雁金屋全盛の基礎を築いた。由緒ある家系と経済的にも恵まれた環境に育った光琳は、幼いころから父と二条家に出入りし、能楽に興じる豊かな生活であった。地道な乾山とは対照的なはで好みの性格は、若い光琳を自由で遊蕩三昧(ゆうとうざんまい)の生活に駆り立てる。30歳で父の莫大(ばくだい)な遺産を継いだ彼は、数年でこれを使い果たし破局を迎えるが、本格的に画業を志したのはこのころとされている。絵は初め狩野(かのう)派の画家山本素軒(そけん)に学び、のちしだいに俵屋宗達(たわらやそうたつ)の絵画に傾倒し、その装飾画様式を新展開させて宗達光琳派(琳派)を大成させた。このような光琳の画家生活を支えた者として銀座役人、中村内蔵助(くらのすけ)の存在は大きい。彼は経済的に光琳を支援したばかりでなく、2人はさまざまな面で親しい間柄にあり、その交友関係は、内蔵助が貨幣改鋳に伴う罪を問われて流罪に処せられるまで続いた。
光琳は1701年(元禄14)44歳で法橋(ほっきょう)になるが、彼の遺品はこれ以後没するまでの十数年間につくられたものがほとんどである。法橋になってまもないころの作とみられる『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』(国宝・根津美術館)は、金地の上に対象を抽出し、簡潔な図案効果を強調した明快な意匠性を訴え、早い時期の光琳の作画をしのばせる。04年に描いた『中村内蔵助像』(大和(やまと)文華館)は光琳の珍しい肖像画であるが、観察の鋭さと写実描写の優れた筆技を物語る。この年、内蔵助は江戸に転勤するが、光琳も後を追うように下向し、数年間をこの地で過ごす。
江戸在住期間の生活は、自ら述懐しているように、格式張った大名家に赴いて作画を強いられるなど、けっして快いものではなかったようであるが、この環境の変化は彼の絵画活動にまたとない転機を与える結果となった。これまでの意匠を中心とした造形性への強い志向にかわって、自然をとらえる目には豊かな叙情性が備わり、湿潤な筆が画面を支配する。この時期の作とみられる冬木小袖(こそで)(東京国立博物館)に描きつけた秋草図は、その可憐(かれん)な姿に憂愁が漂い、『つつじ図』(畠山(はたけやま)記念館)も溌墨(はつぼく)風の潤んだ筆が深い情緒を奏でる。そして『波濤図(はとうず)屏風』(メトロポリタン美術館)は、波高い幽暗な海景に当時の光琳自身の感情がよく表されている。1712年(正徳2)に京に帰着した光琳は、正徳(しょうとく)6年6月2日に59歳で没するまでの4年間を晩年の創作活動に傾ける。この時期の代表作『紅白梅図屏風』(国宝、MOA美術館)は、春の陽光を浴びて咲き誇る紅白の梅樹と、図案的な流水文とを同一画面にみごとに統合させたもので、光琳の画業の集大成をみることができる。
このほかの遺品では、もと九条家の衝立(ついたて)であった『孔雀立葵図(くじゃくたちあおいず)屏風』、宗達の原画によった『風神雷神図屏風』(東京国立博物館)などが知られ、水墨画では『竹梅図屏風』(東京国立博物館)のほか、『維摩図(ゆいまず)』『蹴鞠布袋図(けまりほていず)』など軽妙な筆を生かした作品が多い。また工芸意匠の面にも優れた造形感覚を示し、「冬木小袖」のほか、八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)(東京国立博物館)、乾山焼の絵付(えつけ)の数々、さらに団扇(うちわ)、香包(こうづつみ)などにみごとなデザインを残している。また彼の子供(寿市郎)の養子先小西家に伝わった光琳資料一括のなかには、写生帖(ちょう)をはじめ、デッサン、下絵、工芸意匠の図案など重要な資料が多数含まれ、光琳芸術成立の裏面をうかがうことができて興味深い。
光琳以後その画風を慕った画家は多く、なかでも深江蘆舟(ろしゅう)、立林何帛(たてばやしかげい)、酒井抱一らは名高い。彼らは江戸を中心に活躍し、琳派の伝統をこの地に定着させた。
[村重 寧]



尾形光琳『波濤図屏風』[百科マルチメディア]
尾形光琳『波濤図屏風』[百科マルチメディア]

1704~1709年(宝永1~6)ころ 紙本金地着色 二曲一隻 メトロポリタン美術館所蔵


改訂新版 世界大百科事典
尾形光琳
おがたこうりん
1658-1716(万治1-享保1)

江戸中期の画家。名は惟富,通称は市之丞。35歳から用い始めた光琳のほか,方祝,積翠,〓声,道崇,青々,寂明などの別号がある。京都の高級呉服商雁金屋尾形宗謙の次男に生まれる。弟に尾形乾山がいる。1687年(貞享4)に没した父から,遺産のほぼ半分を譲渡されたが,放蕩生活のうちに使い果たし,39歳ころ画家として立つことを決意する。99年(元禄12)乾山は鳴滝に開窯,乾山焼として売り出すが,光琳はその絵付けを手伝う。また,染織や蒔絵の意匠図案にも従事する。44歳で法橋位を得る。この叙任には,庇護を受けていた公卿二条綱平の推挙があったと推定されている。画は最初父から手ほどきを受けたようだが,その後狩野派の山本素軒(1706没)に就いて本格的に学んだ。素軒画の模写ものこされている。光琳の曾祖父道柏は本阿弥光悦の姉を妻とし,祖父宗柏も光悦周辺の文化人の一人であったため,尾形家には光悦や宗達の作品ものこされていた。これを契機として光琳は宗達画風へ転向,独自の様式形成へと向かうことになった。1704年(宝永1)光琳は初めて江戸へ下り,以後宝永年間(1704-11)に4,5回も京都と江戸を往復した。江戸では深川の富裕な材木商冬木家に寄寓し,津軽越中守邸に出入りし,あるいは酒井雅楽頭(うたのかみ)忠挙から扶持を受けた。多くの雪舟画を模写し,彼らのために制作したが,窮屈な江戸生活に心の安寧を得ることができなかったらしく,それを吐露した書簡(大和文華館)がのこされている。この東下りを,光琳が庇護を受けていた銀座商人中村内蔵助(くらのすけ)などと結託し,宝永期の貨幣改鋳に関し策動するためであったとみる説もある。11年(正徳1)京都新町通り二条下ルに新居を作り,以後そこで創作を続けた。14年銀座闕所(けつしよ)があり,中村内蔵助が家財没収のうえ追放になるという精神的打撃を受けたが,これを克服して画風を完成させた。

画風の特質は,宗達および宗達派を基礎とし,深い自然観照を盛り込みつつ,理知的な構成によって,斬新な意匠性と豊饒(ほうじよう)なる装飾性を発揮した点にある。《鳥獣写生帖》(文化庁)は,彼が写生に関心をもっていたことを示すものだが,これ自体は狩野探幽の模写であることが近年判明した。二大傑作は,法橋叙任後まもなく《伊勢物語》に取材し,型を使って描いたと推定される《燕子花(かきつばた)図屛風》(根津美術館)と,さまざまな美的要素を完璧に統一した最晩年の《紅白梅図屛風》(MOA美術館)である。そのほか《波濤図屛風》(メトロポリタン美術館),《孔雀立葵(くじやくたちあおい)図屛風》,《草花図巻》,《躑躅(つつじ)図》(畠山記念館),《中村内蔵助像》(1704,大和文華館)などがある。《竹梅図屛風》(文化庁),《維摩図》など水墨画にも優品が多い。光悦の伝統を引き継いで工芸作品にも天分を発揮し,《八ッ橋蒔絵硯箱》《冬木小袖》(ともに東京国立博物館)などのほか,彼が絵付けを行った乾山焼が多数のこされている。上記写生帖,遺印,画稿などは,〈小西家文書〉(文化庁,大阪市立美術館分蔵)としてのこり,光琳研究の貴重な資料となっている。
→琳派
[河野 元昭]

[索引語]
雁金屋 山本素軒 尾形道柏 本阿弥光悦 尾形宗柏 中村内蔵助 鳥獣写生帖 紅白梅図屛風 小西家文書
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日本国語大辞典
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32. かみごりょうなかのちょう【上御霊仲町】京都市:上京区/室町学区地図
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35. きたがわそうせつ【喜多川相説】
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生没年不詳 俵屋宗達と尾形光琳との間の画系を継ぐ江戸時代前期の宗達派(または光琳派)の画家。記録・文書にはその存在が確認されていないが、元禄―享保年間(一六八 ...
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37. 京焼
日本大百科全書
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38. きんこう‐せんにん[キンカウ‥]【琴高仙人】
日本国語大辞典
琴の名手で宋の康王の舎人となって仕え、鯉を巧みに乗りこなしたという。「琴高乗鯉」の画題で知られ、狩野元信、尾形光琳などの作がある。 ...
39. きんせい【近世】画像
国史大辞典
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40. 近世俳句集 237ページ
日本古典文学全集
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以て焼はじむ。鳴滝山は王城の乾(いぬひ)にあたれり。よって乾山(けんざん)を名とす。〈深省は尾形光琳の弟にして現在也〉」 ...
42. 元禄時代
世界大百科事典
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43. 元禄文化画像
日本大百科全書
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なお懐月堂安度らの華麗な立姿美人図はこの時代の肉筆浮世絵の代表である。さて京都町衆芸術の伝統をつぐ尾形光琳は「燕子花図屏風」「紅白梅図屏風」などに斬新豪華な装飾 ...
45. 江漢西遊日記 267ページ
東洋文庫
貝原益軒、新井白石、荻生徂徠、杉田玄白、本居宣長、三浦梅園、本多利明のような学者たちから、尾形光琳、平賀源内、上田秋成、與謝蕪村、菅茶山、池大雅、伊藤若沖、曾 ...
46. 好色一代女(井原西鶴集) 525ページ
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47. こうずけのくに【上野国】群馬県
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吾妻郡山田村(現中之条町)の町田延陵が寛政期(一七八九―一八〇一)の双璧とよばれた。絵画では尾形光琳の門下であった酒井抱一(前橋藩主酒井忠恭の弟)が出ているが、 ...
48. こうはくばい‐ず[‥ヅ]【紅白梅図】
日本国語大辞典
〔名〕紅梅、白梅二種を描いた絵。特に尾形光琳(おがたこうりん)筆の二曲一双(いっそう)の屏風は国宝で、中央上方から流れくる曲水をはさみ右に紅梅、左に白梅を配する ...
49. 光琳
日本大百科全書
尾形光琳 ...
50. 光琳
世界大百科事典
尾形光琳 ...
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尾形光琳と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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