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井上馨

ジャパンナレッジで閲覧できる『井上馨』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
井上馨
いのうえかおる
一八三五 - 一九一五
明治・大正時代の政治家。幼名勇吉、または友次郎、一時聞多と称した。号は世外。天保六年(一八三五)十一月二十八日、周防国吉敷郡湯田村(山口市湯田)の萩藩の地侍井上光亨の次男に生まれ、農耕に従事しながら幼少時代を過ごした。十七歳のとき、萩の藩校明倫館に学び、二十一歳のとき、二百五十石の藩士志道(しじ)家の養子となった。同年参勤交代に従って江戸にのぼり、蘭学を学び、江川太郎左衛門塾に砲術を学ぶなど、海防に目を向けた。万延元年(一八六〇)藩主の小性役となり、聞多の名を賜わった。以後、もっぱら藩主毛利敬親や藩世子定広の側近に侍して江戸と萩の間を往復した。一方では藩政府からイギリス海軍の研究を命ぜられたり、イギリス船の購入にあたったりしながら、他方では萩藩の尊王攘夷派青年藩士の中心人物の一人として活躍した。文久二年(一八六二)藩論が攘夷に決すると高杉晋作と外国公使襲撃を計画したが失敗。さらに江戸品川御殿山のイギリス公使館を焼き打ちした。同三年志道家を離別して井上姓に戻り、藩主の許しを得て、伊藤博文・井上勝・山尾庸三らとイギリス船でロンドンに渡ったが、途中早くも上海で開国論に転じ伊藤らを驚かせた。ロンドンで萩藩が攘夷を実行し外国船を砲撃したことを知り、伊藤とともに急遽帰国、藩主を前に会議で開国論を主張したがいれられなかった。しかし四国連合艦隊の下関砲撃で欧米軍事力の威力の前に攘夷の無謀なことを悟った藩政府により、高杉・伊藤とともに講和の使者に起用され、講和に成功した。第一次長州征伐にあたっては、藩内のいわゆる正義派を代表して武備恭順を主張し、俗論派と対立したが、元治元年(一八六四)九月二十五日の藩是を決する会議の帰途、刺客に襲われ、全身に瀕死の重傷を負ったが、奇蹟的に生命を取り止めた。翌慶応元年(一八六五)高杉が奇兵隊をはじめ諸隊を率いて藩政権奪取の反乱をおこしたとき、井上は諸隊の一つ鴻城軍の総督に推されて反乱に参加し、つづく第二次長州征伐も参謀として転戦した。以後主として外交にあたり、下関開港を計画したり、外国船や武器の購入などに任じた。幕末の志士時代は春山花輔・高田春太郎・山田新助などの変名を用いた。明治新政府成立後、新政府の参与となり、九州鎮撫総督参謀や長崎府判事を歴任、外交にあたるとともに浦上キリシタンの弾圧、いわゆる浦上四番崩れに関与した。明治二年(一八六九)大隈重信が大蔵大輔に任じ国内行財政の実権を握ると、そのもとで造幣頭、つづいて民部大丞兼大蔵大丞、翌三年大蔵少輔を歴任、参議木戸孝允を中心とした大隈・伊藤・井上らの大蔵省に依拠するいわゆる開明派グループを形成し、開化政策を推進した。廃藩置県後、大蔵大輔として強大な権限を握り、国立銀行の設置、三井などのいわゆる政商保護政策の展開を行なったが、西郷隆盛から「三井の番頭さん」と呼ばれ、また尾去沢鉱山の私有をめぐって司法卿江藤新平から追及を受けるなど内閣からの風当りが強く、同六年渋沢栄一とともに連袂辞職した。その後、益田孝らと先収会社(のちの三井物産)を設立して実業にたずさわったが、その間大阪会議を演出。まもなく政府に復帰して同九年特命副全権大使として日朝修好条規を締結、ついで渡欧帰国後、同十一年参議兼工部卿、翌十二年外務卿に就任。自由民権運動に対処するため、十四年一月のいわゆる熱海会議で伊藤・大隈とともに漸進主義の方針をとることを決したが、大隈の抜け駆けにあい、伊藤とともに薩派と結んでいわゆる明治十四年の政変を断行し大隈を追放した。外務卿から引き続いて第一次伊藤内閣の外務大臣となり、この間治外法権撤廃を中心とする条約改正交渉にあたり、そのために欧化政策を進めいわゆる鹿鳴館時代を現出したが、その条約改正案が日本の主権を著しく損うものとして国民の反対運動が高まり、二十年交渉を中止し辞職した。その後、二十一年七月から二十二年十二月まで黒田清隆内閣の農商務大臣、また二十五年八月から二十七年十月まで第二次伊藤内閣の内務大臣をつとめ、この間負傷した伊藤首相に代わって、二十五年十一月から二十六年二月まで首相臨時代理として第四議会に臨んだ。さらに日清戦争中は朝鮮駐在の特命全権公使、三十一年一月から六月まで第三次伊藤内閣の大蔵大臣となった。第三次伊藤内閣時代、地租増徴案をめぐってこれに反対する自由・進歩両党は合同して憲政党を結成し、衆議院の議席の大部分を占めるに至った。この動きに対抗するため伊藤と井上は従来の超然内閣主義を捨て、国民協会および財界有力者を網羅して政党を結成しようとし、井上のもとに政府党組織協議会の事務所を設置した。しかし、実際に動き始めてみると渋沢栄一をはじめ実業人が入党に消極的であり、元老山県有朋も反対したために結党は中止された。以後井上は政界第一線を退き、元老として活躍し、三十四年五月第四次伊藤内閣崩壊のあとを継いで組閣の大命を受けながらこれを拝辞した。この間十七年七月、華族に列せられて伯爵を授けられ、四十年九月侯爵となった。また財界では日本鉄道会社・日本郵船会社の設立に尽力し、また三井や藤田組などの財閥の大顧問として強力な発言権を持ったほか、貝島太市のような地方財閥や甥の鮎川義介を後見するなど、日本資本主義発達史上における財界最大の「黒幕」として強い影響力を持った。大正四年(一九一五)九月一日興津の別邸で病没。八十一歳。法名世外院殿無卿超然大居士。墓は東京都港区西麻布の長谷寺にある。→欧化主義(おうかしゅぎ),→条約改正(じょうやくかいせい)
[参考文献]
井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝』
(大江 志乃夫)


日本大百科全書(ニッポニカ)
井上馨
いのうえかおる
[1835―1915]

幕末の志士、明治時代の政治家。号は世外。天保(てんぽう)6年11月28日長州藩士の子として生まれる。幼名を勇吉と称し、のち同藩士志道(しじ)家の嗣子(しし)となり名も聞多(もんた)と改名、その後ふたたび生家に戻った。幕末期には木戸孝允(きどたかよし)、高杉晋作(たかすぎしんさく)らとともに長州藩倒幕派の中心人物として活躍、維新政権成立後には財政・外交面を中心に政府の主要官職を歴任し、大正4年9月1日80歳で没するまで、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山県有朋(やまがたありとも)とともに明治の三元老の一人として政界に君臨した。
1862年(文久2)高杉らと品川のイギリス公使館を襲撃したが、翌年イギリスへ洋行し、これを契機に尊王攘夷(そんのうじょうい)から尊王倒幕へと思想を転回させた。1864年8月、四か国連合艦隊の下関砲撃を知って急遽(きゅうきょ)帰国し、開国の必要を説くとともに、薩長(さっちょう)連合に尽力し倒幕運動を推進した。維新後、参与(さんよ)兼外国事務掛として政府入りし、1869年(明治2)通商司知事、1871年には大蔵大輔(おおくらたいふ)に就任したが、岩倉使節団の渡欧中に財政問題から辞職し、貿易会社先収(せんしゅう)会社(三井物産会社の前身の一つ)をおこした。1875年大阪会議を契機に元老院議官として政府に復帰。同年江華島(こうかとう)事件の特命副全権弁理大臣、1878年参議兼工部卿(こうぶきょう)、翌年外務卿、1884年の甲申(こうしん)政変後の特派全権大使などを歴任しながら、日本鉄道、日本郵船の設立や大農経営論を展開するなど殖産興業に尽力した。1885年内閣制度樹立後、第一次伊藤博文内閣の外務大臣、黒田清隆(くろだきよたか)内閣の農商務大臣、第二次伊藤内閣の内務大臣、総理臨時代理、第三次伊藤内閣の大蔵大臣などに就任した。外交面で特筆されるのは不平等条約改正のための欧化政策の採用である。1883年鹿鳴館(ろくめいかん)を建設し日夜各国公使らを招いて祝宴を張り、「鹿鳴館時代」を現出させ庶民の批判を浴びた。井上は財界との結び付きが強く、1899年には自ら有楽会(ゆうらくかい)を組織し、有力財界人との懇談の場を設けた。財界のなかでも三井との結び付きが強く、1900年(明治33)制定の三井家憲において三井家終身顧問としての地位を明記され、死去するまで三井の経営、人事に多大な影響を与えた。
[春日 豊]



世界大百科事典
井上馨
いのうえかおる
1835-1915(天保6-大正4)

幕末・維新から明治・大正初年にかけての政治家。財界とくに三井財閥との縁が深い。長州藩士の井上家は田地1町,畑4~5反をもつ100石の地侍であったが,彼は幕末期一時志道(しじ)家の養子となり,のち井上家に復帰。聞多の名は1860年(万延1),藩主毛利敬親(たかちか)の小姓役のとき藩主からもらったものである。号は世外。明倫館に学び,また蘭学,英学,砲術などを修業し,高杉晋作らと尊攘運動に参加した。63年(文久3),藩が馬関(下関)で攘夷実行を行うさなか,藩命で伊藤博文ら4名とともにロンドンへ密航したが,翌64年(元治1),四国連合艦隊の下関攻撃計画を知り,急きょ伊藤と帰国,幕府の長州征伐と連合艦隊攻撃のはざまにあった長州藩のために講和を周旋した。この間,反対派に襲われて重傷,母の看護で一命をとりとめた。65年(慶応1),奇兵諸隊の鴻城軍総督となり,以後長州藩討幕運動に参画,68年(明治1)以後の新政府にあっては,参与,外国事務掛,会計官判事,造幣頭,民部大輔などを経て大蔵大輔となり,73年,各省の政費増加を不可として渋沢栄一とともに辞職した。また,尾去沢銅山事件などに関与し,先収会社などをおこして実業に手をのばした。75年,元老院議官となり,また翌年,特命副全権弁理大使として日朝修好条規(江華条約)を結び,同年渡欧,78年帰国した。以後,参議兼工部卿,法制局長官,外務卿などになり,条約改正に尽力。85年の第1次伊藤博文内閣では外相として欧化政策をとり,批判をうけて辞職。その後,農商務,内務,大蔵の各大臣を歴任,1901年には組閣の命をうけたが失敗し,晩年は元老の一人として政界に臨んだ。
[田中 彰]

[索引語]
三井財閥 条約改正
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1. 井上馨画像
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幕末の志士、明治時代の政治家。号は世外。天保(てんぽう)6年11月28日長州藩士の子として生まれる。幼名を勇吉と称し、のち同藩士志道(しじ)家の嗣子(しし)とな
2. 井上馨[百科マルチメディア]画像
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世界大百科事典
1835-1915(天保6-大正4) 幕末・維新から明治・大正初年にかけての政治家。財界とくに三井財閥との縁が深い。長州藩士の井上家は田地1町,畑4~5反をもつ
4. いのうえ‐かおる【井上馨】
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政治家。長州藩出身。幼名勇吉。通称聞多。号世外。第一次伊藤内閣の外相となり、条約改正交渉のため欧化政策をすすめる。のち、農商務相、内相、蔵相などを歴任。天保六~
5. いのうえかおる【井上馨】
国史大辞典
墓は東京都港区西麻布の長谷寺にある。→欧化主義(おうかしゅぎ),→条約改正(じょうやくかいせい) [参考文献]井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝』 (大江 志乃
6. いのうえ-かおる【井上馨】画像
日本人名大辞典
1836*−1915 幕末-大正時代の武士,政治家。天保(てんぽう)6年11月28日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。文久3年伊藤博文らとイギリス
7. 井上馨[文献目録]
日本人物文献目録
談 3冊』沢田章『世外老侯』徳富猪一郎『井上馨侯元治の難』井上馨侯伝記編纂会(編刊)『伊藤博文・井上馨』伊藤痴遊『井上馨侯』渋沢栄一『大隈重信と井上馨侯』渡辺幾
8. いのうえかおるもんじょ【井上馨文書】
国史大辞典
文書は井上馨宛の来翰三千五百通、関係書類千三百点余からなる幕末・明治・大正期の政治史料である。書翰は三条実美・岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山県有
9. 青木周蔵
世界大百科事典
ち公・大使を含め23ヵ年のドイツ滞在歴をもち,ドイツの諸制度の日本への移植に尽力した。86年井上馨外相のもとで次官,ついで山県有朋,松方正義内閣の外相として条約
10. あおきしゅうぞう【青木周蔵】
国史大辞典
なる。同十年ドイツ貴族の娘エリザベットを妻とし、ドイツでの外交活動が有利となる。木戸の没後、井上馨の頭脳となりドイツから条約改正交渉の助言を行う。同十九年外務次
11. 青木周蔵自伝 12ページ
東洋文庫
長藩は既に数名の学生を欧洲に派遣したるも〔万延元年 北条源蔵、文久元年 杉孫七郎、文久三 年 井上馨、伊藤博文、遠藤謹助、井上勝、山尾庸三ら〕、此輩は孰れも兵
12. 青木周蔵自伝 73ページ
東洋文庫
第九回 イギリス公使パークスと条約改正について会談 予は、井上馨氏とは維新の当初より屡ζ相往来し、其の後欧洲に於て親交を訂せしを以て、明治十二年七、八
13. 青木周蔵自伝 78ページ
東洋文庫
内容とする不平等条約であった。明治政府は不平等条約改正を国家的課題として、歴代外務 卿・外相(寺島宗則・井上馨・大隈重信・青木周蔵・榎本武揚ら)が改正交渉を行な
14. 青木周蔵自伝 85ページ
東洋文庫
表示せるものなれば、伊藤氏も亦再び争ふこと能はざりし。 注 一 明治十五年十一月二十三日付、井上馨宛青木書翰写に、 別冊猟獲法律草案差出候間、御異見無
15. 青木周蔵自伝 87ページ
東洋文庫
智恵ヲ仮 リテ北京政府ヲ説得シ、是非々々ニケ条之請求ヲ可レ為レ致様」云々之御決意相顕申候。 (井上馨家文書)とある。
16. 青木周蔵自伝 115ページ
東洋文庫
日独親善を深める方策としてドイツからの輸入促進を政府に勧諭したが、明治十六年 八月二十三日付、井上馨宛書翰中に、 特二御注意ヲ乞度一事アリ、抑独政
17. 青木周蔵自伝 116ページ
東洋文庫
四人之骨折二起由セリ。併シ人民卜人民トノ交際 ハ廉ナリ潤ナリ、此段幾重も≧≧≧御含置可レ被レ下候。 (井上馨家文書) と軍艦・武器の輸入を懇請している。
18. 青木周蔵自伝 139ページ
東洋文庫
内閣制度発足により、井上馨は外務卿より、第一次伊藤博文内閣の外務大臣となる〕の説明により、以後減税の議は中止する旨を申出たり。 明治十九年(千八百八十六年)四月
19. 青木周蔵自伝 143ページ
東洋文庫
書を草し内閣に提出したり。 同年七月十八日、第二十七回会議に於て会頭〔井上馨)は、通商事項に関する取調の報告井に通商航海条約案及港則を審査委員より提出したる旨を
20. 青木周蔵自伝 232ページ
東洋文庫
井上毅らであった。宍 伊藤は第四帝国議会開会前、馬車より落ちて負傷したため、十二月一日、総理代理内相井上馨 が施政方針の覚書を朗読風に演説した中にある。モ 明
21. 青木周蔵自伝 245ページ
東洋文庫
発するに方り、一、二の閣僚と内閣に参集し、善後の策に就て協議しつつありしが〔五月十一日の御前会議〕、伯爵井上馨氏忽然其の席に来り日く、 大津の変は真に意外なり
22. 青木周蔵自伝 265ページ
東洋文庫
「青木の引責辞職は不可ではないが、松方首相の意見を聞いてからにすべきである」と答 えたという。又、井上馨は、五月二十五日付で伊藤に宛て、松方内閣総辞職によ
23. 青木周蔵自伝 266ページ
東洋文庫
に、元勲の指導性が発揮されている。なお、第一次松方内閣成立直前の二十四年五月二日の伊藤博文宛井上馨書翰によると、松方の意もあって井上は条約改正交渉の中止と青木外
24. 青木周蔵自伝 289ページ
東洋文庫
を料理すること能はず。椿山伯〔山県有朋の号〕よζζζζ、何卒深く此の辺に細意を注ぎ、世外伯〔井上馨の号〕と云々御示談有之度、千祈万祷不レ蕾候。国事を談ずるに方り
25. 青木周蔵自伝 299ページ
東洋文庫
に委ね、又は無経験なる三百代言者流に引渡す訳には「すっても顛んでも」難二相成一候間、世外伯〔井上馨〕と被二仰合一必ず御憤起有レ之度候。其の節は老生も、余命を貧ら
26. 青木周蔵自伝 301ページ
東洋文庫
保つことができる。 の四条件をもってイギリス政府と交渉し、助力を得るか打診を命じた。 三 井上馨は、明治二十七年十月十五日、駐朝鮮公使となり、京城に乗り込ん
27. 青木周蔵自伝 314ページ
東洋文庫
ならしめざる可らず云々との要領卑見は、之を手翰に記し、一昨夏〔明治二十四年夏〕、鳥居坂新館〔井上馨自邸)にて貴閲に付し、切に御決意を促し候事も御座候処、其の後第
28. 青木周蔵自伝 316ページ
東洋文庫
以て政府の注意を促したり。将又、先般衆議院に於て、製艦費の支出を否決するに方り、一月十七日老閣〔井上馨、臨理総理大臣、内務大臣〕は、同院に於て、 輔弼の責を塞ぐ
29. 青木周蔵自伝 324ページ
東洋文庫
文武官の俸給の一割を建艦費に当てる。 の詔勅を出させ、衆議院の予算削減を妥協させた。三 この書簡は、井上馨家文書中にあり、文中、増補・改訂が幾らかある。
30. 青木周蔵自伝 335ページ
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メリヵの新聞には、「黄禍論」まで飛出すほどであった。 一一一六月二十二日、元蔵相渡辺国武は、井上馨に宛て、派兵と財政について、 とても三千や五千のはし
31. 青木周蔵自伝 349ページ
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青木の一方的な尊敬でなく、木戸もまた青木を大いに嘱望していたことが判る。 木戸についで青木と親しかったのは井上馨である。青木にとって、木戸を慈父とすれば、井上は
32. 青木周蔵自伝 358ページ
東洋文庫
長門国厚狭郡小埴生村に、父三浦玄仲、母友子の長男(のちの青木周蔵)として生れる。幼名団七・木戸孝允十二歳、井上馨十歳、山県 有朋七歳、伊藤博文四歳、陸奥宗光 一
33. 青木周蔵自伝 360ページ
東洋文庫
ドイツより帰朝九月十六日、条約改正取調御用掛となる十二月十六日、長女ハγナ誕生十二月二十日、井上馨邸でパークスと懇談・九月十日、井上馨、外務卿となる五月二十二日
34. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 257ページ
東洋文庫
随行して渡欧。のち 日本政府に奉職、各種の遣外使節団に随行、とく に条約改正交渉に当り、外相井上馨の秘書として 貢献した。新見正興(伊勢守、豊前守)〔一八一三⊥
35. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 268ページ
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佐渡の人。文久三 年(天奎)父鷹之助に伴われ、小使の名義で池田 筑後守長発に随行して渡欧。維新後井上馨を識り 大蔵省に入ったが、明治六年、井上とともに辞職。 井
36. あしおどうざんあと【足尾銅山跡】栃木県:上都賀郡/足尾町/足尾村
日本歴史地名大系
据えた。この年の末に潤吉が病死すると、市兵衛の実子虎之助が数え年一九歳で社長になったが、実権は井上馨・原敬らが掌握していた。なお同三一年には、銅山で使う用材など
37. あだちけんぞう【安達謙蔵】
国史大辞典
の東学党の乱の際佐々の命で渡韓。室田釜山総領事のすすめで『朝鮮時報』の発刊の事にあたり、また井上馨公使の協力を得て京城に諺文新聞『漢城新報』を発刊。翌年、三浦梧
38. アメリカ彦蔵自伝 2 208ページ
東洋文庫
件iたとえば琉球の大使一行が訪問したことなど一が起こっている間に、大蔵省の大臣と次官〔大蔵卿井上馨と大丞渋沢栄一〕の連署した建白書が、日本の新聞に掲載された。そ
39. あゆかわよしすけ【鮎川義介】
国史大辞典
の総帥として著名。明治十三年(一八八〇)十一月六日長州藩士鮎川弥八の子に生まれる。鮎川家は、井上馨・貝島太助や三菱の木村久寿弥太・藤田伝三郎らとも姻戚であった。
40. ありまつひでよし【有松英義】
国史大辞典
日、備前国御野郡に生まれる。岡山藩士有松正義の長男。明治二十一年(一八八八)独逸協会学校卒。井上馨の自治党機関誌『自治新誌』の記者となる。のち、判事、司法省参事
41. あるが-ながふみ【有賀長文】
日本人名大辞典
明治-昭和時代前期の実業家。慶応元年7月7日生まれ。有賀長雄の弟。農商務省工務局長をつとめたのち,明治35年井上馨(かおる)の推薦で三井家同族会理事となる。のち
42. アーネスト・サトウ伝 177ページ
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。(6) 長州藩士の密出国 一八六三年(文久三年)六月、長州藩士伊藤俊輔(博文)、志道聞多(井上馨)、野村弥吉(井上勝)、遠藤謹助、山尾庸三の五名はイギリス人ト
43. アーネスト・サトウ伝 1ページ
東洋文庫
126アレン,A.L. 13阿波侯 86いイカラス号 88伊藤博文 46,52,59,93,132井上馨 48インドシナ 119うヴァイス大尉 30ヴァルデルゼ
44. イギリス画像
日本大百科全書
リスに対する認識を深めた。翌1863年長州藩は禁令を破って、後の伊藤博文(いとうひろぶみ)、井上馨(いのうえかおる)ら5人を密航させてイギリスに留学させた。一行
45. イギリス公使館焼打事件
日本大百科全書
起こしていた。長州藩でも、高杉晋作(しんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、志道聞多(しじもんた)(井上馨(かおる))、伊藤俊輔(しゅんすけ)(博文(ひろぶみ)
46. イギリス公使館焼打事件
世界大百科事典
1863年1月31日(文久2年12月12日)深夜,長州藩の高杉晋作,久坂玄瑞,志道聞多(井上馨),伊藤俊輔(博文)らが,江戸品川の御殿山に建築中のイギリス公使館
47. イギリスこうしかんやきうちじけん【イギリス公使館焼討ち事件】
国史大辞典
嶺内蔵太・伊藤俊輔(博文)・白井小輔・赤禰幹之丞・堀真五郎・福原乙之進・山尾庸三・志道聞多(井上馨)の十二人は品川の青楼相模屋に会して部署を定め、八ッ時(十三日
48. イザベラ・バード 極東の旅 2 365ページ
東洋文庫
其日国王ノ御病気ト云フヲ以テ延引相成候処近頃御病気モ略御全快ニ赴カレタル旨致伝聞候ニ付本官[井上馨]ヨリ当総理大臣ニ注意ヲ与ヘ該挙行ヲ相促シ候処愈…」。(84)
49. 維新史料編纂会
日本大百科全書
1911年(明治44)5月、文部省維新史料編纂会として発足し、『大日本維新史料』の編纂を行った会。同会は、前年の井上馨(かおる)の発起による彰明(しょうめい)会
50. いしんしりょう‐へんさんかい[ヰシンシレウヘンサンクヮイ]【維新史料編纂会】
日本国語大辞典
明治維新史料の収集・編纂機関。明治四四年(一九一一)に設立された。文部大臣の管轄。初代総裁井上馨。「大日本維新史料」「概観維新史」等を刊行したが、昭和二四年(一
「井上馨」の情報だけではなく、「井上馨」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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