1. 井上馨画像
日本大百科全書
幕末の志士、明治時代の政治家。号は世外。天保(てんぽう)6年11月28日長州藩士の子として生まれる。幼名を勇吉と称し、のち同藩士志道(しじ)家の嗣子(しし)とな
2. 井上馨[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©小学館ライブラリー
3. 井上馨
世界大百科事典
1835-1915(天保6-大正4) 幕末・維新から明治・大正初年にかけての政治家。財界とくに三井財閥との縁が深い。長州藩士の井上家は田地1町,畑4~5反をもつ
4. いのうえ‐かおる【井上馨】
日本国語大辞典
政治家。長州藩出身。幼名勇吉。通称聞多。号世外。第一次伊藤内閣の外相となり、条約改正交渉のため欧化政策をすすめる。のち、農商務相、内相、蔵相などを歴任。天保六~
5. いのうえかおる【井上馨】
国史大辞典
墓は東京都港区西麻布の長谷寺にある。→欧化主義(おうかしゅぎ),→条約改正(じょうやくかいせい) [参考文献]井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝』 (大江 志乃
6. いのうえ-かおる【井上馨】画像
日本人名大辞典
1836*−1915 幕末-大正時代の武士,政治家。天保(てんぽう)6年11月28日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。文久3年伊藤博文らとイギリス
7. 井上馨[文献目録]
日本人物文献目録
談 3冊』沢田章『世外老侯』徳富猪一郎『井上馨侯元治の難』井上馨侯伝記編纂会(編刊)『伊藤博文・井上馨』伊藤痴遊『井上馨侯』渋沢栄一『大隈重信と井上馨侯』渡辺幾
8. いのうえかおるもんじょ【井上馨文書】
国史大辞典
文書は井上馨宛の来翰三千五百通、関係書類千三百点余からなる幕末・明治・大正期の政治史料である。書翰は三条実美・岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山県有
9. 青木周蔵
世界大百科事典
ち公・大使を含め23ヵ年のドイツ滞在歴をもち,ドイツの諸制度の日本への移植に尽力した。86年井上馨外相のもとで次官,ついで山県有朋,松方正義内閣の外相として条約
10. あおきしゅうぞう【青木周蔵】
国史大辞典
なる。同十年ドイツ貴族の娘エリザベットを妻とし、ドイツでの外交活動が有利となる。木戸の没後、井上馨の頭脳となりドイツから条約改正交渉の助言を行う。同十九年外務次
11. 青木周蔵自伝 12ページ
東洋文庫
長藩は既に数名の学生を欧洲に派遣したるも〔万延元年 北条源蔵、文久元年 杉孫七郎、文久三 年 井上馨、伊藤博文、遠藤謹助、井上勝、山尾庸三ら〕、此輩は孰れも兵
12. 青木周蔵自伝 73ページ
東洋文庫
第九回 イギリス公使パークスと条約改正について会談 予は、井上馨氏とは維新の当初より屡ζ相往来し、其の後欧洲に於て親交を訂せしを以て、明治十二年七、八
13. 青木周蔵自伝 78ページ
東洋文庫
内容とする不平等条約であった。明治政府は不平等条約改正を国家的課題として、歴代外務 卿・外相(寺島宗則・井上馨・大隈重信・青木周蔵・榎本武揚ら)が改正交渉を行な
14. 青木周蔵自伝 85ページ
東洋文庫
表示せるものなれば、伊藤氏も亦再び争ふこと能はざりし。 注 一 明治十五年十一月二十三日付、井上馨宛青木書翰写に、 別冊猟獲法律草案差出候間、御異見無
15. 青木周蔵自伝 87ページ
東洋文庫
智恵ヲ仮 リテ北京政府ヲ説得シ、是非々々ニケ条之請求ヲ可レ為レ致様」云々之御決意相顕申候。 (井上馨家文書)とある。
16. 青木周蔵自伝 115ページ
東洋文庫
日独親善を深める方策としてドイツからの輸入促進を政府に勧諭したが、明治十六年 八月二十三日付、井上馨宛書翰中に、 特二御注意ヲ乞度一事アリ、抑独政
17. 青木周蔵自伝 116ページ
東洋文庫
四人之骨折二起由セリ。併シ人民卜人民トノ交際 ハ廉ナリ潤ナリ、此段幾重も≧≧≧御含置可レ被レ下候。 (井上馨家文書) と軍艦・武器の輸入を懇請している。
18. 青木周蔵自伝 139ページ
東洋文庫
内閣制度発足により、井上馨は外務卿より、第一次伊藤博文内閣の外務大臣となる〕の説明により、以後減税の議は中止する旨を申出たり。 明治十九年(千八百八十六年)四月
19. 青木周蔵自伝 143ページ
東洋文庫
書を草し内閣に提出したり。 同年七月十八日、第二十七回会議に於て会頭〔井上馨)は、通商事項に関する取調の報告井に通商航海条約案及港則を審査委員より提出したる旨を
20. 青木周蔵自伝 232ページ
東洋文庫
井上毅らであった。宍 伊藤は第四帝国議会開会前、馬車より落ちて負傷したため、十二月一日、総理代理内相井上馨 が施政方針の覚書を朗読風に演説した中にある。モ 明
21. 青木周蔵自伝 245ページ
東洋文庫
発するに方り、一、二の閣僚と内閣に参集し、善後の策に就て協議しつつありしが〔五月十一日の御前会議〕、伯爵井上馨氏忽然其の席に来り日く、 大津の変は真に意外なり
22. 青木周蔵自伝 265ページ
東洋文庫
「青木の引責辞職は不可ではないが、松方首相の意見を聞いてからにすべきである」と答 えたという。又、井上馨は、五月二十五日付で伊藤に宛て、松方内閣総辞職によ
23. 青木周蔵自伝 266ページ
東洋文庫
に、元勲の指導性が発揮されている。なお、第一次松方内閣成立直前の二十四年五月二日の伊藤博文宛井上馨書翰によると、松方の意もあって井上は条約改正交渉の中止と青木外
24. 青木周蔵自伝 289ページ
東洋文庫
を料理すること能はず。椿山伯〔山県有朋の号〕よζζζζ、何卒深く此の辺に細意を注ぎ、世外伯〔井上馨の号〕と云々御示談有之度、千祈万祷不レ蕾候。国事を談ずるに方り
25. 青木周蔵自伝 299ページ
東洋文庫
に委ね、又は無経験なる三百代言者流に引渡す訳には「すっても顛んでも」難二相成一候間、世外伯〔井上馨〕と被二仰合一必ず御憤起有レ之度候。其の節は老生も、余命を貧ら
26. 青木周蔵自伝 301ページ
東洋文庫
保つことができる。 の四条件をもってイギリス政府と交渉し、助力を得るか打診を命じた。 三 井上馨は、明治二十七年十月十五日、駐朝鮮公使となり、京城に乗り込ん
27. 青木周蔵自伝 314ページ
東洋文庫
ならしめざる可らず云々との要領卑見は、之を手翰に記し、一昨夏〔明治二十四年夏〕、鳥居坂新館〔井上馨自邸)にて貴閲に付し、切に御決意を促し候事も御座候処、其の後第
28. 青木周蔵自伝 316ページ
東洋文庫
以て政府の注意を促したり。将又、先般衆議院に於て、製艦費の支出を否決するに方り、一月十七日老閣〔井上馨、臨理総理大臣、内務大臣〕は、同院に於て、 輔弼の責を塞ぐ
29. 青木周蔵自伝 324ページ
東洋文庫
文武官の俸給の一割を建艦費に当てる。 の詔勅を出させ、衆議院の予算削減を妥協させた。三 この書簡は、井上馨家文書中にあり、文中、増補・改訂が幾らかある。
30. 青木周蔵自伝 335ページ
東洋文庫
メリヵの新聞には、「黄禍論」まで飛出すほどであった。 一一一六月二十二日、元蔵相渡辺国武は、井上馨に宛て、派兵と財政について、 とても三千や五千のはし
31. 青木周蔵自伝 349ページ
東洋文庫
青木の一方的な尊敬でなく、木戸もまた青木を大いに嘱望していたことが判る。 木戸についで青木と親しかったのは井上馨である。青木にとって、木戸を慈父とすれば、井上は
32. 青木周蔵自伝 358ページ
東洋文庫
長門国厚狭郡小埴生村に、父三浦玄仲、母友子の長男(のちの青木周蔵)として生れる。幼名団七・木戸孝允十二歳、井上馨十歳、山県 有朋七歳、伊藤博文四歳、陸奥宗光 一
33. 青木周蔵自伝 360ページ
東洋文庫
ドイツより帰朝九月十六日、条約改正取調御用掛となる十二月十六日、長女ハγナ誕生十二月二十日、井上馨邸でパークスと懇談・九月十日、井上馨、外務卿となる五月二十二日
34. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 257ページ
東洋文庫
随行して渡欧。のち 日本政府に奉職、各種の遣外使節団に随行、とく に条約改正交渉に当り、外相井上馨の秘書として 貢献した。新見正興(伊勢守、豊前守)〔一八一三⊥
35. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 268ページ
東洋文庫
佐渡の人。文久三 年(天奎)父鷹之助に伴われ、小使の名義で池田 筑後守長発に随行して渡欧。維新後井上馨を識り 大蔵省に入ったが、明治六年、井上とともに辞職。 井
36. あしおどうざんあと【足尾銅山跡】栃木県:上都賀郡/足尾町/足尾村
日本歴史地名大系
据えた。この年の末に潤吉が病死すると、市兵衛の実子虎之助が数え年一九歳で社長になったが、実権は井上馨・原敬らが掌握していた。なお同三一年には、銅山で使う用材など
37. あだちけんぞう【安達謙蔵】
国史大辞典
の東学党の乱の際佐々の命で渡韓。室田釜山総領事のすすめで『朝鮮時報』の発刊の事にあたり、また井上馨公使の協力を得て京城に諺文新聞『漢城新報』を発刊。翌年、三浦梧
38. アメリカ彦蔵自伝 2 208ページ
東洋文庫
件iたとえば琉球の大使一行が訪問したことなど一が起こっている間に、大蔵省の大臣と次官〔大蔵卿井上馨と大丞渋沢栄一〕の連署した建白書が、日本の新聞に掲載された。そ
39. あゆかわよしすけ【鮎川義介】
国史大辞典
の総帥として著名。明治十三年(一八八〇)十一月六日長州藩士鮎川弥八の子に生まれる。鮎川家は、井上馨・貝島太助や三菱の木村久寿弥太・藤田伝三郎らとも姻戚であった。
40. ありまつひでよし【有松英義】
国史大辞典
日、備前国御野郡に生まれる。岡山藩士有松正義の長男。明治二十一年(一八八八)独逸協会学校卒。井上馨の自治党機関誌『自治新誌』の記者となる。のち、判事、司法省参事
41. あるが-ながふみ【有賀長文】
日本人名大辞典
明治-昭和時代前期の実業家。慶応元年7月7日生まれ。有賀長雄の弟。農商務省工務局長をつとめたのち,明治35年井上馨(かおる)の推薦で三井家同族会理事となる。のち
42. アーネスト・サトウ伝 177ページ
東洋文庫
。(6) 長州藩士の密出国 一八六三年(文久三年)六月、長州藩士伊藤俊輔(博文)、志道聞多(井上馨)、野村弥吉(井上勝)、遠藤謹助、山尾庸三の五名はイギリス人ト
43. アーネスト・サトウ伝 1ページ
東洋文庫
126アレン,A.L. 13阿波侯 86いイカラス号 88伊藤博文 46,52,59,93,132井上馨 48インドシナ 119うヴァイス大尉 30ヴァルデルゼ
44. イギリス画像
日本大百科全書
リスに対する認識を深めた。翌1863年長州藩は禁令を破って、後の伊藤博文(いとうひろぶみ)、井上馨(いのうえかおる)ら5人を密航させてイギリスに留学させた。一行
45. イギリス公使館焼打事件
日本大百科全書
起こしていた。長州藩でも、高杉晋作(しんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、志道聞多(しじもんた)(井上馨(かおる))、伊藤俊輔(しゅんすけ)(博文(ひろぶみ)
46. イギリス公使館焼打事件
世界大百科事典
1863年1月31日(文久2年12月12日)深夜,長州藩の高杉晋作,久坂玄瑞,志道聞多(井上馨),伊藤俊輔(博文)らが,江戸品川の御殿山に建築中のイギリス公使館
47. イギリスこうしかんやきうちじけん【イギリス公使館焼討ち事件】
国史大辞典
嶺内蔵太・伊藤俊輔(博文)・白井小輔・赤禰幹之丞・堀真五郎・福原乙之進・山尾庸三・志道聞多(井上馨)の十二人は品川の青楼相模屋に会して部署を定め、八ッ時(十三日
48. イザベラ・バード 極東の旅 2 365ページ
東洋文庫
其日国王ノ御病気ト云フヲ以テ延引相成候処近頃御病気モ略御全快ニ赴カレタル旨致伝聞候ニ付本官[井上馨]ヨリ当総理大臣ニ注意ヲ与ヘ該挙行ヲ相促シ候処愈…」。(84)
49. 維新史料編纂会
日本大百科全書
1911年(明治44)5月、文部省維新史料編纂会として発足し、『大日本維新史料』の編纂を行った会。同会は、前年の井上馨(かおる)の発起による彰明(しょうめい)会
50. いしんしりょう‐へんさんかい[ヰシンシレウヘンサンクヮイ]【維新史料編纂会】
日本国語大辞典
明治維新史料の収集・編纂機関。明治四四年(一九一一)に設立された。文部大臣の管轄。初代総裁井上馨。「大日本維新史料」「概観維新史」等を刊行したが、昭和二四年(一