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  11. 井上毅

井上毅

ジャパンナレッジで閲覧できる『井上毅』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
井上毅
いのうえこわし
一八四三 - 九五
明治時代前期の官僚・政治家。明治憲法・教育勅語などの起草者。幼名多久馬。梧陰と号す。天保十四年(一八四三)十二月、熊本城下竹部に生まる。父は熊本藩家老米田家の家臣飯田権五兵衛、慶応元年(一八六五)、同じ家中の井上茂三郎の養子となった。家は中小性格、幼より神童といわれ、主人米田(長岡)是容に認められ、その命で藩儒木下犀潭(さいたん)の門に学ぶ。ついで藩校時習館の居寮生となった。慶応三年、江戸遊学を命ぜられてフランス学を学ぶ。一旦帰郷し、明治三年(一八七〇)再び東京にでて南校にはいり中舎長となった。四年官途について司法省十等出仕となる。五年六月司法卿江藤新平の渡欧に随員を命ぜられ、江藤は中止したが、井上らは渡仏し、さらにベルリンに赴いて六年九月帰朝した。七年大久保利通の清国派遣にあたって意見書を提出して随員に加えられ、諸文案の起草その他で才幹を発揮して大久保に認められ、これが頭角をあらわす糸口となった。八年『王国建国法』を訳出してプロシア憲法の内容をはじめて日本に紹介した。十年太政官大書記官、翌年兼地方官会議御用掛、ついで兼内務大書記官となる。このころ、伊藤博文のために「教育議」を起草した。これから、岩倉具視・伊藤らの命で各種の意見書の起案をするようになり、また自己の意見を上申し、これを通じて政府要路者と密着するようになった。折から自由民権運動が高潮に達して、国会開設の要求が岩倉その他の政府首脳を苦慮せしめた。たまたま十四年には参議大隈重信から政党内閣・国会即時開設の意見がでると、その対策のためにプロシア憲法による欽定憲法構想をまとめて、六月岩倉に提出した。これが岩倉の意にかない、政府の憲法構想の基準となった。同時に伊藤博文が憲法起草の責任者に指命され、井上がその協力者となった。おりから北海道開拓使官有物払下げ問題がおこると、大隈追放の政変を裏面で画策し、伊藤中心の薩長政府樹立をはかるとともに、国会開設の勅諭をも起草した。かくて同年十月政変(明治十四年の政変)となり、新設の参事院の議官となる。またこの年から太政官雇レースレルを顧問として憲法起草の準備調査に専心し、十七年には法制局御用掛・図書頭など兼勤となって諸法案立案にも与っている。また、十七年・十八年には井上馨・伊藤博文の随員として朝鮮・清国に赴いたがこれも条約その他外交文書起草のためであった。十八年十二月、内閣制度創始には、伊藤の下で一切の企画にあたり、翌十九年からいよいよ憲法起草に入った。伊藤の主宰のもとに、井上は主として憲法本文と皇室典範の起草を担当し、二十年五月、まず試草甲・乙案を脱稿、さらに起草をすすめ翌年四月、確定草案を完成した。ついで枢密院の審議には同院書記官長となり、憲法制定会議の司会にあたった。翌二十三年には「教育勅語」の起草にあたり、特に憲法との関連に留意した。この年枢密顧問官となる。二十六年三月、第二次伊藤内閣の文部大臣となり、学制改革、特に実業教育の振興を行なったが翌年八月病気のため辞任。二十八年一月子爵に列せられたが、同年三月十七日病没した。五十三歳。墓は東京都台東区谷中の瑞輪寺にある。著訳書には『治罪法備考』(明治七年)、『奢是吾敵論』(同十八年)、『内外臣民公私権考』(同二十二年)、『梧陰存稿』(同二十八年)などがある。
[参考文献]
井上毅伝記編纂委員会編『井上毅伝』史料篇、海後宗臣編『井上毅の教育政策』、海後宗臣『教育勅語成立史の研究』、稲田正次『明治憲法成立史』、木村匡『井上毅君教育事業小史』、井芹経平・小早川秀雄『元田井上両先生事蹟講演録』、大久保利謙「明治十四年の政変」(明治史料研究連絡会編『明治政権の確立過程』所収)
(大久保 利謙)


日本大百科全書(ニッポニカ)
井上毅
いのうえこわし
[1843―1895]

明治前期の官僚。天保 (てんぽう)14年12月18日熊本藩の陪臣飯田権五兵衛の三男に生まれる。1866年(慶応2)井上家の養子となった。幼名多久馬 (たくま)、号は梧陰 (ごいん)。主君長岡監物 (ながおかけんもつ)に才能を認められて木下犀潭 (きのしたさいたん)の塾に入門、さらに抜擢 (ばってき)されて藩校時習館の居寮生となった。1867年、藩命によって江戸に遊学してフランス学を学ぶ。明治新政府成立後の1871年(明治4)司法省に入り、翌年渡欧調査団の一員としてフランス、ドイツを中心に国法学の修得と法制の調査に従事した。1873年に帰国するや、盛んに政府首脳部に対して献策し、しだいに大久保利通 (おおくぼとしみち)、岩倉具視 (いわくらともみ)、伊藤博文 (いとうひろぶみ)らの信任を得ていった。太政官 (だじょうかん)大書記官となり、1881年10月の「明治十四年の政変」をめぐって薩長 (さっちょう)藩閥勢力の背後で画策、大隈重信 (おおくましげのぶ)の政府追放とプロシア流欽定 (きんてい)憲法構想の採用を実現して、その位置を不動のものとした。政変後、参事院議官、内閣書記官長などを務め、伊藤博文のもとで憲法起草に従事した。1888年法制局長官に就任して枢密院書記官長を兼任。教育勅語の起草にも関与し、1893年には第二次伊藤内閣の文部大臣となったが、病気のため在任なかばで辞任し、明治28年3月17日に没した。

 形成期明治国家最大のブレーンとして、起草した草案や、大臣・参議などにかわり代筆した意見書は多数に上る。旧蔵文書は「梧陰文庫」として国学院大学が所蔵。

[大日方純夫]



改訂新版 世界大百科事典
井上毅
いのうえこわし
1844-95(弘化1-明治28)

明治期の官僚,政治家。大日本帝国憲法,教育勅語などの起草にあたったほか,明治10-20年代の法制・文教にかかわる重要政策の立案・起草に指導的役割を果たした。熊本藩士の出身。生家は飯田家で,井上家の養子となった。幕末に江戸に遊学,奥羽戦争にも従軍した。1870年大学南校中舎長となり,翌年司法省に出仕,72-73年渡欧し,主としてフランスで司法制度を調査した。帰国後,大久保利通,岩倉具視,続いて伊藤博文に協力して,枢機に関与した。とくに明治14年の政変では参謀として活躍,また元老院国憲按を却下して,プロイセンに範をとった君権主義的憲法を採用するよう岩倉に建言した。大日本帝国憲法起草の中心人物で,また,教育勅語の起草にあたっては,元田永孚の儒教的君主論を抑えて,勅語の中立性を確保し,権威そのものに高めるよう尽力した。法制局長官,枢密院書記官長,枢密顧問官を歴任した後,93年3月から8月まで第2次伊藤博文内閣の文部大臣を務めた。冷徹な政治的リアリストで,漢籍と西洋法制の両面に通じ,ボアソナード,レースラーらの協力を得て,日本法制の近代化に大きな功績を残した。儒学の非実用的性格を排し,尚武の気風と《韓非子》などの統治術を尊び,また政治における〈機〉を重視した。中江兆民は〈真面目なる人物,横着ならざる人物〉として評価している。終生,持病の結核に悩み,日清戦争の遂行に関与できないことを悔やみつつ世を去った。号は梧陰。
[長尾 龍一]

[索引語]
教育勅語
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検索コンテンツ
1. 井上毅画像
日本大百科全書
明治前期の官僚。天保てんぽう14年12月18日熊本藩の陪臣飯田権五兵衛の三男に生まれる。1866年(慶応2)井上家の養子となった。幼名多久馬たくま、号は梧陰ごい
2. 井上毅
世界大百科事典
1844-95(弘化1-明治28) 明治期の官僚,政治家。大日本帝国憲法,教育勅語などの起草にあたったほか,明治10-20年代の法制・文教にかかわる重要政策の立
3. いのうえ‐こわし【井上毅】
日本国語大辞典
政治家。熊本藩出身。号は梧陰。明治憲法の制定に参与。教育勅語をはじめ、多くの勅令、法令を起草した。枢密顧問官。第二次伊藤内閣の文部大臣。天保一四~明治二八年(一
4. いのうえこわし【井上毅】画像
国史大辞典
ある。 [参考文献]井上毅伝記編纂委員会編『井上毅伝』史料篇、海後宗臣編『井上毅の教育政策』、海後宗臣『教育勅語成立史の研究』、稲田正次『明治憲法成立史』、木村
5. いのうえ-こわし【井上毅】画像
日本人名大辞典
1844*−1895 明治時代の官僚,政治家。天保(てんぽう)14年12月18日生まれ。司法省につとめ,明治5年渡欧して司法制度をまなぶ。大久保利通に登用されて
6. 井上毅[文献目録]
日本人物文献目録
編)『井上毅先生を憶ふ』三井甲之『井上毅と現代日本の形成 1‐2』J・ピタウ『井上毅と実業教育』細谷俊夫『井上毅の教育政策』海後宗臣『井上毅の憲法私案起草につい
7. 井上毅[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©小学館ライブラリー
8. いのうえ-きさい【井上毅斎】
日本人名大辞典
1791−1845 江戸時代後期の儒者。寛政3年生まれ。井上四明の孫。備前(びぜん)岡山藩士。藩主池田斉敏(なりとし)の世子時代から侍読をつとめた。弘化(こうか
9. 井上毅蔵書印[図版]画像
国史大辞典
井上毅蔵 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
10. いのうえこわしもんじょ【井上毅文書】
国史大辞典
る。『井上毅文書』の価値の高いことは、その死の直後、新聞紙上に指摘され、彼自身も遺言して将来の取扱いを指示し、今日に保存されるに至った。 [参考文献]国学院大学
11. 青木周蔵自伝 190ページ
東洋文庫
員は左の如し。  伊藤伯。 寺島伯。 井上伯。 青木子。 榎本子。 井上毅。 其他難。 寺島伯は、領事裁判と立憲主義とは井行せずとの趣旨を以て、榎本子の採用せる
12. 青木周蔵自伝 232ページ
東洋文庫
調査委員会のメンバーは、榎本武揚(委員長)、副島種臣、後藤象  二郎、伊藤博文、黒田清隆、寺島宗則、井上毅らであった。宍 伊藤は第四帝国議会開会前、馬車より落ち
13. 青木周蔵自伝 308ページ
東洋文庫
〔○。ωoぎ尽留男8鼠旨巳凸氏及び井上毅氏等の意見を参酌して立案せしものなり。 井上伯は法律問題に関して「ボアソナード」氏に信頼すること深からざりしが、井上毅
14. 伊藤博文画像
日本大百科全書
はじめ、1885年には太政官だじょうかんにかえて内閣制度を創設し、初代首相に就任した。また翌年から井上毅いのうえこわし、伊東巳代治いとうみよじ、金子堅太郎かねこ
15. 伊藤博文
世界大百科事典
中止し,井上外相を辞任させるとともに,12月には保安条例を公布して反政府運動を弾圧した。この間,伊藤首相と井上毅,伊東巳代治,金子堅太郎らの手によって大日本帝国
16. いとうひろぶみ【伊藤博文】
国史大辞典
この内閣のもとで、同十九年以降、伊藤はみずから最高責任者として井上毅らのスタッフとともにいよいよ憲法草案の起草に着手した。二十一年四月に至って、井上毅を通して政
17. 伊東巳代治
世界大百科事典
たるとともに,85年伊藤を補佐して天津条約の締結に努めた。第1次伊藤内閣では首相秘書官として井上毅らとともに憲法や衆議院議員選挙法など憲法付属の法典の起草に当た
18. いとうみよじ【伊東巳代治】
国史大辞典
用掛・太政官大書記官として立憲制創出に伴う諸制度の改革とその整備に努めた。また、伊藤のもとで井上毅・金子堅太郎とともに大日本帝国憲法・皇室典範ならびに憲法付属の
19. いとうみよじもんじょ【伊東巳代治文書】
国史大辞典
治が直接・間接に関係した政治史料などである。明治憲法制定関係史料としては、『伊藤博文文書』『井上毅文書』と並んで最も重要なもので、昭和十六年(一九四一)美濃部達
20. いのうえただしろう【井上匡四郎】
国史大辞典
明治九年(一八七六)四月三十日、旧熊本藩儒岡松甕谷(おうこく)の次男として生まれる。同二十八年一月井上毅の養子となり、毅の没後、同年四月子爵となる。同三十二年東
21. いのうえ-ただしろう【井上匡四郎】
日本人名大辞典
明治-昭和時代の鉱山学者,政治家。明治9年4月30日生まれ。岡松甕谷(おうこく)の次男。岡松参太郎の弟。井上毅(こわし)の養子。京都帝大,東京帝大などの教授をへ
22. 岩倉具視画像
日本大百科全書
推進するために、順次、措置を講じた。まず1878年宮内省内規取調局総裁に就任し、1881年には井上毅いのうえこわしに命じて「大綱領」を起草させた。そこには後の帝
23. 岩倉具視
世界大百科事典
固め,その藩屛を強化するかに腐心していることを示している。そして,懐刀としての太政官大書記官井上毅を駆使して明治憲法の基本構想をつくり,明治14年の政変後,政局
24. いわくらともみ【岩倉具視】
国史大辞典
議などの意見を提出した。十四年、参議大隈重信のイギリス風の憲法意見をきっかけに太政官大書記官井上毅がプロシア風の欽定憲法構想を提出するとこれを採用して政府の憲法
25. 岩倉具視[文献目録]
日本人物文献目録
龝山徳三郎(著), 服部誠一(校)『岩倉贈太政大臣集 2巻2冊』間島冬道(編)『岩倉公逸事』井上毅『岩倉公実記 2巻2冊』多田好問(編)『岩倉公実記 3巻3冊』
26. いわくらともみけんぽういけんしょ【岩倉具視憲法意見書】
国史大辞典
岩倉・伊藤博文・井上毅の線が憲法起草の主流となったのである。イギリス流国会論の風潮を抑え、プロシア風憲法の樹立に果たした井上の役割は大きい。 [参考文献]宮内省
27. いわくらともみゆうせいきゅうたく【岩倉具視幽棲旧宅】京都市:左京区/岩倉村地図
日本歴史地名大系
王政復古の計画を練ったといわれ、維新策源地の一つでもあった。現在邸内には遺髪塚があり、その碑に井上毅による碑文が刻まれる。「京都府愛宕郡岩倉村概誌」(大正七年、
28. うちつぼいまち【内坪井町】熊本県:熊本市/熊本城下
日本歴史地名大系
着手された。同一〇年九月士族財津志満記ほか三名は力食社を始めることとし、明治政府に出願した。井上毅・安場保和らの尽力により、翌一一年七月四万四千円の官金が交付さ
29. えのもとたけあきもんじょ【榎本武揚文書】
国史大辞典
(五)山内堤雲宛十三通、以上榎本発信書翰。来信は、黒田清隆四十八、青木周蔵七、金子堅太郎六各通ほか、大鳥圭介・井上毅・松方正義ら諸家の書翰計二百八十一通である。
30. 大隈重信[文献目録]
日本人物文献目録
原敬』馬場恒吾『大隈と山県』渡辺幾治郎『大隈伯に投じた爆弾異聞』不破志要『大隈伯の条約改正と井上毅』横山晴夫『大隈伯論』三宅雪嶺等『大隈老侯と会見の想い出』佐藤
31. おおくまじょうやくあんはんたいうんどう【大隈条約案反対運動】
国史大辞典
元老院に提出した。同月十一日には熊本国権党も建白書の提出を決定した。八月二日の閣議で伊藤博文・井上毅ら政府内の批判派の敗北が明らかになると、国権派および民権派は
32. おかまつおうこく【岡松甕谷】
国史大辞典
厭い、文章を軽んずることを慨嘆し、絶えて西学を口にせず、世と背馳し、不遇であったという。次子は井上毅のあとを嗣いだ。著に『甕谷遺稿』八巻、『初学文範』二巻、『荘
33. 小野梓
世界大百科事典
的役割を果たす。83年東洋館書店(現,冨山房)の開設など活動の分野は広い。彼と大隈との関係は井上毅と伊藤博文の関係に比されるが,当時の英法派,仏法派,独法派の対
34. おもなお雇い外国人
日本大百科全書
Rösler (1834―1894) ドイツの法律家。1878年(明治11)外務省法律顧問として来日。井上毅いのうえこわしを助け帝国憲法の基本方針について多くの
35. おんな二代の記 75ページ
東洋文庫
五十にまもないころでした。 山田は多くの公職を経て男爵に叙せられ、松方内閣の農商務大臣で終りましたが、その間、井上毅、佐々友房などという熊本出身の同志とともに国
36. かじょう‐じょうたつ[カジャウジャウタツ]【下情上達】
日本国語大辞典
*東京朝日新聞‐明治三六年〔1903〕八月一三日「請願上奏の規定は去る二十四年時の文事秘書官長井上毅氏が、下情上達の趣旨より之を公布し」カジョージョータツ
37. 仮装舞踏会
世界大百科事典
では鹿鳴館に始まり,1887年(明治20)4月,伊藤博文によって仮装舞踏会がここで開かれた。井上毅,大山巌,渋沢栄一といった明治の高官やその夫人たちが,歌舞伎風
38. かぞくれい【華族令】
国史大辞典
伊藤は宮廷改革と平行して華族制度の制定に力をいれ、十七年七月七日、宮内省達で華族令(全十条)の公布となった。井上毅の起草にかかり、内容は公・侯・伯・子・男の五爵
39. 金子堅太郎
世界大百科事典
局の設置にともない,立憲制移行にともなう諸法制の整備に関与した。86年からは伊藤博文のもとで井上毅,伊東巳代治らとともに憲法,皇室典範や憲法付属の法典の起草に当
40. かねこけんたろう【金子堅太郎】
国史大辞典
その局員となり、諸制度の創設に関与、十八年には総理大臣秘書官となり、翌年から伊藤博文のもとで井上毅・伊東巳代治らとともに憲法・皇室典範ならびに憲法付属の諸法典の
41. かねこ-けんたろう【金子堅太郎】画像
日本人名大辞典
政治家。嘉永(かえい)6年2月4日生まれ。明治18年首相秘書官となり,翌年から伊藤博文のもとで井上毅(こわし)・伊東巳代治(みよじ)とともに憲法起草に参画。第3
42. 加波山事件 民権派激挙の記録 32ページ
東洋文庫
喜ぶなかれ。」と同志に返電した。) 前日のこと、寺島宗則・山県有朋・伊藤博文・黒田清隆・西郷従道・井上毅・山田顕義の七参議は連署して、プロシャ流憲法の制定・国会
43. 加波山事件 民権派激挙の記録 294ページ
東洋文庫
首都は厳戒裡に置かれた。政府は、かかる情勢下、一策を弄し、国会開設の詔ここに下る。「岩倉公実記」に見える井上毅の次の言は、この間の事情を端的に示す。すなわち、「
44. かみかわりきゆう【上川離宮】北海道:上川支庁/旭川市/神楽村
日本歴史地名大系
設定され度の件」を内閣総理大臣三条実美に上申、陸軍大臣桂太郎や侍従に上川視察を求めた。しかし法制長官井上毅は、現実に国都が東京にあってほかに必要がないこと、北京
45. がっこう【学校】
国史大辞典
小学校については、その後義務教育制度が整備され、同三十三年に四年制を確立、四十年には六年に延長された。井上毅文相の実業教育振興政策によって実業学校も発達した。中
46. きのした-さいたん【木下犀潭】
日本人名大辞典
ゆるされる。天保(てんぽう)6年江戸の佐藤一斎に入門。時習館訓導となり竹添(たけぞえ)進一郎,井上毅(こわし)らの門人をそだてた。慶応3年5月6日死去。63歳。
47. 教育勅語画像
日本大百科全書
げん編集の命によって本格的な起草に着手。編集作業は初め中村正直に委嘱されたが、のち法制局長官井上毅こわしの手に移り、枢密顧問官元田永孚もとだながざねがこれに協力
48. 教育勅語画像
世界大百科事典
はじめ文部省は帝国大学教授中村正直に草案執筆を委嘱したが,完成した草案の哲学論的・宗教論的色彩を法制局長官井上毅に批判され,この草案はしりぞけられ,この井上が山
49. きょういくちょくご【教育勅語】
国史大辞典
国民の道徳を公権力により画一化しようとする意見と、政府の中枢にある伊藤博文やそのブレインであった井上毅のように、古今の思想を折衷して国教を建てこれを行うごときは
50. きんだい【近代】画像
国史大辞典
が示され、その後の教育は教育勅語に基づいて行われるようになった。二十六年に文部大臣に就任した井上毅の教育政策によって実業教育の振興が推進されたが、これは当時にお
「井上毅」の情報だけではなく、「井上毅」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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