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近衛文麿

ジャパンナレッジで閲覧できる『近衛文麿』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
近衛文麿
このえふみまろ
一八九一 - 一九四五
大正・昭和期の政治家。明治二十四年(一八九一)十月十二日公爵近衛篤麿の長男として東京に生まれた。同年実母衍子(前田慶寧三女)を、そして十四歳で父を失った。三十七年一月父の死とともに襲爵し、近衛家の当主となった。四十二年学習院中等科を卒業し第一高等学校英文科に入学し、四十五年卒業して東京帝国大学哲学科に入学したが、河上肇らをしたって京都帝国大学法科に転じ、ここで西田幾多郎・戸田海市らから影響を受けた。大正三年(一九一四)五月および六月の『新思潮』にオスカー=ワイルドの「社会主義下の人間の魂」を翻訳掲載し、発売禁止となった。五年貴族院議員。六年京大を卒業し、内務省地方局の見習となった。七年「英米本位の平和主義を排す」という論文を『日本及日本人』誌上に発表し、持てる国と持たざる国の対立という図式を公表したが、以後の近衛の行動の大きな枠組となったと思われる。八年パリ講和会議に随員として出席した。十年貴族院改革の必要を感じ、森恪・山口義一らと憲法研究会を設け、また翌年貴族院の研究会に入った(十三年には筆頭常務にえらばれた)。また十年には日本青年館を設立し、その理事長に就任した。十一年東亜同文会副会長に就任。昭和二年(一九二七)研究会を脱会し、不偏不党を標榜して火曜会を公侯爵議員をもって組織し、その幹事となった。六年貴族院副議長に就任。この前後から木戸幸一・原田熊雄らとともに政権問題について元老に意見を述べている。また満洲事変に対し強い賛成の態度を表明した。八年貴族院議長に就任。このころから首相候補として下馬評に上がるようになった。九年日米関係の悪化を憂い訪米、アメリカの政界・財界の巨頭らと会談。十一年二・二六事件の直後、元老西園寺は近衛を次期首相に奏請し、大命降下したが拝辞した。この年東亜同文会会長に就任。翌十二年六月四日林内閣のあとを受けて組閣の大命降下し、第一次内閣を組織した。翌七月日華事変が勃発し、これへの対応がこの内閣の最大の課題となったが、結局事変収拾には成功しなかった。また事変との関連で軍部を中心に推進されたいわゆる「革新」政策をおおむね実行し、国家総動員法などを成立させ、国民精神総動員運動を展開し、またその「革新」的政策を推進すべき「近衛新党」計画に関与した。しかし十三年に入って陸軍が推進した防共協定強化問題をめぐって閣内に対立を生じ、翌十四年一月内閣総辞職を行なった。同月首相となった平沼騏一郎に代わって枢密院議長に就任するとともに平沼内閣の無任所相を兼摂した。十五年に入って欧州戦線でのドイツの動きが活溌になるにつれて、近衛を党首とする新党への待望が高まり、四月には木戸幸一・有馬頼寧とともに新党結成を決意し、新政治体制の必要を主張して六月二十四日枢密院議長を辞任した。七月十七日組閣の大命を受け、陸・海・外相予定者を荻外荘に招いて会談し(荻窪会談)、枢軸強化、対ソ関係の調整、日華事変の遂行、対米英仏蘭方策、新政治組織の結成などを協議の上、同月二十二日第二次内閣を組閣した。九月二十七日日独伊三国同盟締結、十一月三十日汪政権承認、翌十六年四月十三日日ソ中立条約調印と、ほぼ荻窪会談の線で外交を進めたが、十五年末からの非公式の、のち外交ルートにのった日米交渉をめぐり、また十六年六月二十二日の独ソ開戦への対応をめぐって松岡洋右外相との対立が激化した。また新体制は十五年十月十二日大政翼賛会として発足したが、「革新」派と「復古」派の対立がはげしく、この年暮に平沼・柳川平助を入閣させ、大政翼賛会から「政治性」を除去し、政府の外廓団体化するに至った。松岡問題が主因となって十六年七月十六日第二次内閣は総辞職し、翌日大命は再び近衛に下り、十八日直ちに第三次内閣を組閣した。この内閣で近衛は、すでに緊迫した状況の中での日米交渉を成功させることに全力を挙げたが、すでに九月六日の御前会議で十月中旬までに和戦の決定をするという決定をしており、その十月中旬になっても交渉の進展がなく、交渉打切りを主張する東条英機陸相と対立し、十月十六日内閣総辞職を行なった。太平洋戦争開戦後も戦争の将来について憂慮していたが、十七年ごろから次第に早期和平のため陸軍皇道派と海軍を連携させて東条ら陸軍主流に代わらせようと努力し、吉田茂・小畑敏四郎・真崎甚三郎らと連絡をとって活動した。二十年二月早期終戦を天皇に上奏(「近衛上奏文」)、七月天皇に召されてソ連への和平仲介依頼特使を望まれこれを承諾したが、結局実現せず敗戦を迎えた。敗戦後の二十年十月マッカーサーから憲法改正の研究調査を示唆され、内大臣府御用掛として改正案の起草に従事し、十一月改正案を奉答したが、この前後からGHQの態度が変化し、十二月六日戦争犯罪人容疑者として逮捕令が発せられた。十二月十六日早朝「所謂戦争犯罪人として、米国の法廷に於て裁判を受けることは、堪え難いことである」として自決。五十五歳。京都大徳寺に葬られた。法名は荻外院殿象山道賢。近衛は聡明な政治家として人気があったが、決断と断行力に欠けていたと評された。西園寺公望から後継者として期待されていたが、「革新」派として明らかに異なった政治姿勢を示し、しかも「近衛上奏文」ではそれをみずから批判するなど、昭和前期の多難な時代にゆれ動き、その意味でも昭和前期を代表する政治家であったといえよう。なお著書に『欧米見聞録』『清談録』『平和への努力』『失はれし政治』などがある。
[参考文献]
矢部貞治『近衛文麿』、岡義武『近衛文麿―「運命」の政治家―』(『岩波新書』青八二六)、伊藤隆『近衛新体制』、鶴見俊輔「翼賛運動の設計者」(思想の科学研究会編『共同研究転向』中所収)、栗原彬「近衛文麿のパーソナリティと新体制」(『年報政治学』一九七二年)
(伊藤 隆)


日本大百科全書(ニッポニカ)
近衛文麿
このえふみまろ
[1891―1945]

大正・昭和時代の政治家。「このえあやまろ」とも読む。1891年(明治24)10月12日、明治の国権主義者で、貴族院議長・枢密顧問官などを歴任した篤麿(あつまろ)の長男として東京市に生まれる。母衍子(さわこ)は文麿の生後8日目に死去し、衍子の実妹前田貞子(ともこ)が篤麿の後妻となる。指揮者秀麿(ひでまろ)は異母弟。1904年(明治37)父が死去し、不幸な少年時代を過ごした。学習院初等科・中等科から第一高等学校、京都帝国大学法科大学に学んだ。京都帝大在学中の1913年(大正2)毛利千代子と結婚。河上肇(かわかみはじめ)の教えを受け、イギリスの作家オスカー・ワイルドの『社会主義下の人間の魂』を翻訳して『新思潮』1914年5月号と6月号に発表し、発売禁止処分を受けたこともある。卒業後内務省に入り、1919年西園寺公望(さいおんじきんもち)全権の随員としてベルサイユ講和会議に出席した。五摂家(ごせっけ)の筆頭、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)から数えて46代目という名門の出身であるところから、若くして華族界のホープと目された。1916年10月満25歳になると同時に貴族院議員となり、1922年9月研究会入会を経て1927年(昭和2)11月火曜会を結成、1931年1月貴族院副議長、1933年6月同議長に就任した。若くして論文「英米本位の平和主義を排す」(『日本及日本人』1918年12月号)を発表し、「正義人道に本(もとづ)く世界各国民平等生存権の確立の為(ため)」、「英米本位の平和主義」と「経済的帝国主義を排して各国をして其(その)植民地を開放せしめ」、日本の進路を確保すべきであると論じていた。こうした現状打破的な考えから、満州事変や国際連盟脱退などの日本の政策を高く評価したことが、当時のファッショ化しつつあった時流に投じ、首相候補の一人に数えられるに至った。陸軍の皇道派に親近感をもち、1936年の二・二六事件直後には組閣の大命を受けたが、健康を理由に拝辞した。
翌1937年6月与望を担って第一次内閣を組織したが、7月7日に日中戦争が勃発(ぼっぱつ)した。政府は初め不拡大方針をとったが、軍部に押し切られて全面戦争に突入した。1938年1月16日「国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」と声明して平和への道を自ら閉ざし、11月3日「東亜新秩序建設」が日本の戦争目的であり、国民政府が「更生ノ実ヲ挙ゲ」てこれに参加するなら歓迎すると声明、さらに12月22日近衛三原則(善隣友好、共同防共、経済提携)を発表して汪兆銘(おうちょうめい)政権擁立工作を進め、中国侵略継続の意図を明らかにした。1939年1月総辞職して枢密院議長に就任、同時に平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣の無任所大臣を務めた。1940年7月第二次内閣を組織し、新体制運動を展開して、10月大政翼賛会を結成、日本ファシズムの中心組織をつくりあげた。
また日独伊三国同盟締結後、日米交渉を進め、これに反対する松岡洋右(まつおかようすけ)外相を排除するためいったん総辞職、1941年7月第三次内閣を組織したが、東条英機(とうじょうひでき)陸相の反対にあって日米交渉は行き詰まり、10月総辞職した。
1944年東条内閣打倒を図り、1945年2月近衛上奏文を天皇に奉呈し、敗戦必至との認識のもとに、恐ろしいのは敗戦よりもそれに伴う共産革命であり、政府は国体護持(天皇制擁護)を絶対の課題とすべきであると主張した。敗戦後、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣に副首相格の国務相として入閣、憲法改正などにあたったが、戦犯に指名され、12月16日服毒自殺した。長身端麗にして聡明(そうめい)、「聞き上手」は有名で多くの支持者を得た反面、気力と決断力に欠け、彼自身は内心日中戦争の拡大に賛成ではなかったが、断固たる処置をとらず、戦争拡大を許した政治責任は重大であった。
[木坂順一郎]



世界大百科事典
近衛文麿
このえふみまろ
1891-1945(明治24-昭和20)

軍部を中心とする勢力にかつがれて三たび首相となった貴族政治家。五摂家の筆頭の家柄で,貴族院議長,公爵近衛篤麿の長男であるが,出生直後に母を,少時に父を失う経験をもった。アジア主義者の父の因縁で頭山満ら右翼との関係も深いが,一高を経て東京帝国大学哲学科に入り,京都帝国大学法科に転じて河上肇らの指導もうけた。1919年のパリ講和会議には西園寺公望らの全権随員として参加したが,その直前に発表した〈英米本位の平和主義を排す〉には,西園寺の国際協調主義とちがってアジア主義と〈持たざる国〉の理論が現れており,それが彼の生涯を通ずる指導理念となった。これは後発帝国主義国の自己主張ともいえる。1931年貴族院副議長,33年に同議長となったが,満州事変以降の政局混乱のなかで天皇に近く,各方面に顔がきき,清新さと知性をあわせもつ近衛は将来の首相と目された。軍人らがしきりと接近する一方,級友の後藤隆之助らは昭和研究会をつくって政策作りに着手した。

二・二六事件直後に天皇から組閣を命じられて辞退したが,翌37年6月には広範な人気と期待をうけて第1次内閣をつくった。だが,7月に蘆溝橋事件がおこると高姿勢で対応して日中全面戦争に拡大させ,南京占領直後には〈国民政府を対手とせず〉声明を出して和平の道を閉ざした。しかし中国の抵抗は根強く,日本は長期戦の泥沼に引き込まれ,近衛内閣は1938年11月に東亜新秩序声明,12月に国交調整3原則の声明を出し,汪兆銘を抗戦から離脱させたところで,39年1月に総辞職し,近衛は枢密院議長となった。その秋に第2次世界大戦が始まり,1940年初夏にヒトラーの電撃戦が成功すると,これに呼応する新体制運動の中心人物として再び脚光を浴びた。7月に第2次内閣を組織し,武力南進方針の採用,日独伊三国同盟の締結,大政翼賛会の創立など大戦突入に備えたファシズム体制の樹立をはかった。しかしドイツのイギリス本土攻略は実現せず,41年春には日米交渉を開始した。6月の独ソ開戦ののち日米交渉に反対の松岡洋右外相をしりぞけて第3次内閣を組織したが,南部仏印進駐で交渉が行き詰まるなかで,中国からの撤兵問題をめぐって東条英機陸相と対立して10月に総辞職した。太平洋戦争の敗色こい45年2月には,〈国体護持の立場より憂うべきは敗戦よりもこれに伴う共産革命〉との上奏をおこない(近衛上奏文),終戦をはかった。敗戦直後には東久邇稔彦内閣の無任所大臣となり,ついで内大臣府御用掛として憲法改正の取調べにあたったが,戦犯容疑者の指名をうけ,出頭当日の未明に自殺した。
[今井 清一]

[索引語]
近衛文麿内閣 近衛上奏文
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検索コンテンツ
1. 近衛文麿画像
日本大百科全書
大正・昭和時代の政治家。「このえあやまろ」とも読む。1891年(明治24)10月12日、明治の国権主義者で、貴族院議長・枢密顧問官などを歴任した篤麿(あつまろ)
2. 近衛文麿[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©小学館ライブラリー
3. 近衛文麿
世界大百科事典
憲法改正の取調べにあたったが,戦犯容疑者の指名をうけ,出頭当日の未明に自殺した。今井 清一 近衛文麿内閣 近衛上奏文
4. このえ‐ふみまろ【近衛文麿】
日本国語大辞典
政治家。公爵。篤麿の長男。名は「あやまろ」とも。東京出身。京都帝大法科卒。昭和八年(一九三三)貴族院議長。同一二年組閣。同一五年第二次内閣を組閣。大政翼賛会を設
5. このえふみまろ【近衛文麿】
国史大辞典
録』『清談録』『平和への努力』『失はれし政治』などがある。 [参考文献]矢部貞治『近衛文麿』、岡義武『近衛文麿―「運命」の政治家―』(『岩波新書』青八二六)、伊
6. このえ-ふみまろ【近衛文麿】画像
日本人名大辞典
1891−1945 大正-昭和時代前期の政治家。明治24年10月12日生まれ。近衛篤麿(あつまろ)の長男。近衛秀麿の兄。貴族院議長などをへて昭和12年第1次近衛
7. 近衛文麿[文献目録]
日本人物文献目録
未発表遺稿』近衛文麿『皇室の血流る近衛文麿』矢部貞治『近衛文麿』今井清一『近衛文麿』田中惣五郎『近衛文麿遺稿 解説』矢部貞治『近衛文麿回想』風見章『近衛文麿と木
8. このえふみまろかんけいもんじょ【近衛文麿関係文書】
国史大辞典
整理されたものも少なくないと思われる。矢部貞治『近衛文麿』下に利用されたほか、一部が諸史料集中に翻刻されている。なお陽明文庫には、山本有三が近衛伝執筆準備のため
9. 近衛文麿内閣画像
日本大百科全書
昭和期に近衛文麿を首班として組織された第一~三次の内閣。木坂順一郎第一次(1937.6.4~1939.1.5 昭和12~14)林銑十郎(はやしせんじゅうろう)内
10. 近衛文麿内閣(第一次)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
※(兼)は兼任。一つの職名に複数の人名がある場合は順次後任を示し、同一人名がある場合は専任となったことを示す ©Shogakukan
11. 近衛文麿内閣(第三次)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
※(兼)は兼任。一つの職名に複数の人名がある場合は順次後任を示す ©Shogakukan
12. 近衛文麿内閣(第二次)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
※(兼)は兼任。一つの職名に複数の人名がある場合は順次後任を示す ©Shogakukan
13. このえふみまろにっき【近衛文麿日記】
国史大辞典
昭和十九年(一九四四)六月二十一日から七月二十四日に至る約一ヵ月間の近衛文麿の日記(口述筆記したもの)。第二次世界大戦中にその所在が失われたが、同四十二年に発
14. 『近衛文麿日記』
日本史年表
1968年〈昭和43 戊申〉 この年 共同通信社 『近衛文麿日記』 刊。
15. 秋山定輔
世界大百科事典
失われた。以後は政界の黒幕的存在として政治裏面で暗躍。特に大正初期の桂太郎新党結成や昭和期の近衛文麿新党工作に深く関与した。また明治期以来対中国問題にもさまざま
16. あきやま-ていすけ【秋山定輔】画像
日本人名大辞典
疑をうけ辞職。大正4年4回目の当選。宮崎滔天(とうてん),孫文らとまじわり,日中問題に関与。近衛文麿(このえ-ふみまろ)の新党運動にも参加した。昭和25年1月1
17. 麻生久
日本大百科全書
社会大衆党の書記長を歴任。1933年(昭和8)ごろから徐々に親軍的傾向を強めた。1936年から代議士。のち近衛文麿(このえふみまろ)の側近グループに加わり、近衛
18. 麻生久
世界大百科事典
このころから陸軍統制派に接近。36-37年総選挙で社会大衆党を躍進させた。日中戦争開始前後から近衛文麿に接近して,近衛新党を画策。40年新体制運動が始まると率先
19. あそう-ひさし【麻生久】画像
日本人名大辞典
北海道夕張炭鉱などの労働争議を指導。昭和7年社会大衆党書記長となり,11年衆議院議員(当選2回)。のち近衛文麿の新体制運動に協力し,社大党を解党。昭和15年9月
20. あたごやまじけん【愛宕山事件】
国史大辞典
日本がポツダム宣言を受諾、降伏するという情報を得るや、これに反対して終戦派と目される木戸幸一内大臣・近衛文麿・平沼騏一郎・岡田啓介・米内光政ら重臣の暗殺を企て、
21. 阿部重孝
日本大百科全書
構築した。その門から多くの教育学者、教育制度・行政学者を輩出。教育関係の各種委員を委嘱され、また近衛文麿(このえふみまろ)をバックにした教育改革同志会の主要メン
22. 荒木貞夫画像
日本大百科全書
り、1935年男爵。1936年の二・二六事件では決起将校に同調し、事件後予備役となる。第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣
23. 荒木貞夫
世界大百科事典
どで成果をあげえず辞任。二・二六事件では反乱軍に同情的態度をとり,予備役に編入された。第1次近衛文麿,平沼騏一郎両内閣の文相として教育の戦時統制を推進。敗戦後A
24. 有田八郎
日本大百科全書
ぼっぱつ)に際しては、オーストリア公使として国際調停に尽力。広田弘毅(ひろたこうき)、第一次近衛文麿(このえふみまろ)、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)、米内光
25. 有田八郎
世界大百科事典
へて,36年に広田弘毅内閣の外相に就任し,日独防共協定を締結した。38年10月,宇垣外相の後任として第1次近衛文麿内閣に入り,平沼騏一郎内閣にも留任した。この間
26. 有馬頼寧
日本大百科全書
1929年貴族院議員(研究会所属)となり、斎藤実(さいとうまこと)内閣の農林政務次官、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の農相のほか、産業組合の要職を歴任、近
27. 有馬頼寧
世界大百科事典
継ぎ,のち貴族院議員となり,研究会に所属。32年農林政務次官,翌年産業組合中央金庫理事長をへて,37年近衛文麿内閣の農林大臣となる。40年新体制運動を推進し,1
28. ありまよりやす【有馬頼寧】
国史大辞典
昭和二年(一九二七)父の死により伯爵家を継ぎ衆議院議員を辞し、産業組合中央会監事。同四年貴族院議員に当選。近衛文麿・木戸幸一と並んで「革新」的な華族として注目さ
29. 池田成彬
世界大百科事典
革を断行した。36年みずから敷いた停年制で三井を辞め,37年日銀総裁,さらに38年から第1次近衛文麿内閣の蔵相兼商相を歴任,その後内閣参議をへて敗戦まで枢密顧問
30. いけだしげあき【池田成彬】
国史大辞典
与えていたために憲兵隊の取調べをうけたことも一つの理由であった。引退後の池田は次第に軍・政治家との接触を深め、近衛文麿・石原莞爾との連絡が多く、石原の「主要産業
31. 池田成彬(いけだせいひん)画像
日本大百科全書
社会事業にも尽くした。1936年定年制に基づき三井合名から引退。その後、日本銀行総裁(1937)や第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の蔵相・商工相(1938)
32. 石黒忠篤
世界大百科事典
1908年東大法科卒業。農商務省に入り,農務局長,蚕糸局長を経て31年農林次官,40年第2次近衛文麿内閣の農林大臣。43年貴族院議員,45年農商務大臣をつとめる
33. いしわたそうたろう【石渡荘太郎】
国史大辞典
このように多面な政治的活動は注目すべきであり、官僚出身者としては異色であった。その政治行動の一面は石渡が近衛文麿と学友であり、父が司法次官・内閣書記官長・貴族院
34. 板垣征四郎
日本大百科全書
500万人という移民計画を推進し、これを「日本民族の大陸移動」と名づけた。1938年(昭和13)5月、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の改造で陸相として入閣
35. 板垣征四郎
世界大百科事典
日中戦争の拡大にともない,ソ連への対応準備のため,石原らとともに〈不拡大派〉とみられて38年第1次近衛文麿内閣の陸相となったが,拡大をとどめることはできなかった
36. 井上日召
日本大百科全書
殺害させた(血盟団事件)。自首し、34年無期懲役の判決を受けるが、減刑、大赦により40年に出獄。翌41年近衛文麿(このえふみまろ)に接近、相談役を務めた。第二次
37. いのうえにっしょう【井上日召】
国史大辞典
と相まって空前の衝動を世に与えた。井上はこの事件で無期懲役に処せられ、同十五年仮出所、一時期近衛文麿の相談役をした。昭和四十二年三月四日没。八十歳。井上の右翼運
38. うえだ-しゅんきち【殖田俊吉】
日本人名大辞典
政治家。明治23年8月4日生まれ。大蔵省にはいり,昭和8年関東庁財務局長。大戦末期の20年,近衛文麿の側近として和平工作にかかわり,吉田茂らとともに憲兵隊に逮捕
39. 宇垣一成画像
日本大百科全書
陸軍が反対し、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍大臣を出さず、組閣を流産させた。翌1938年には近衛文麿(このえふみまろ)内閣の外相、拓務相についたが、興亜院設置
40. 宇垣一成
世界大百科事典
組閣の命をうけたが,その政治力を忌避した陸軍中堅幹部の激しい反対にあい組閣を断念する。38年近衛文麿内閣の外相となって,戦争の長期化による国力の消耗を防ぐ立場か
41. うしば-ともひこ【牛場友彦】
日本人名大辞典
れ。牛場信彦の兄。オックスフォード大卒業後,太平洋問題調査会,三菱石油につとめる。昭和12年近衛文麿(このえ-ふみまろ)首相の秘書官。戦後は日本輸出入銀行監事,
42. 内ヶ崎作三郎
日本大百科全書
1924年(大正13)憲政会より出馬して当選、以後、浜口雄幸(おさち)内閣の内務参与官、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の文部政務次官などを歴任、1941年
43. うちはらくんれんじょ【内原訓練所】
国史大辞典
・大蔵公望らは、昭和十二年(一九三七)、青少年の満洲移住を押し進めるべきであるという意見書を近衛文麿首相宛に提出した。同件は、同年十一月拓務省から閣議に提出され
44. 右翼系統図 1(全体図)[別刷図版]画像
国史大辞典
F3,F5 古島一雄 B2 児玉誉士夫 B7,B9 後藤文夫 A6,F5 近衛篤麿 A2,B1 近衛文麿 D7 小林順一郎 E6,F5,F6 近藤栄蔵 G5 権
45. 汪兆銘(おうちょうめい)
日本大百科全書
日本軍の画策にのって、重慶(じゅうけい/チョンチン)から脱出。ハノイで和平建議を発表して日本の近衛文麿(このえふみまろ)首相に接近し、1940年3月、日本の傀儡
46. おうちょうめいこうさく【汪兆銘工作】
国史大辞典
要求するが、戦費賠償は求めないことなどで、従来の日本の主張をある程度緩和したものだった。これより先、近衛文麿首相は武漢・広東占領直後の十一月三日、いわゆる「東亜
47. おかよしたけ【岡義武】
国史大辞典
、大正期の日本を対象とした『転換期の大正』を公刊し、さらに『近代日本の政治家』『山県有朋』『近衛文麿』などの政治家研究の成果を生んだ。『黎明期の明治日本』に代表
48. 小川平吉
日本大百科全書
)外交路線と対立した。のち五私鉄疑獄事件に連座して入獄。出獄後、1937年日中戦争が起こると近衛文麿(このえふみまろ)首相に進言して対中国和平工作に奔走したが成
49. おがわへいきち【小川平吉】
国史大辞典
十二年日中戦争開始とともに、蒋介石との直接和平交渉の必要を主張して積極的に活動し、特に先代以来懇意であった近衛文麿を通じて軍部にも働きかけ、また萱野長知を使って
50. おぎくぼかいだん【荻窪会談】
国史大辞典
米内光政内閣総辞職後、大命をうけた近衛文麿が組閣を前にして、昭和十五年(一九四〇)七月十九日荻窪の私邸荻外荘で開いた四者会談。近衛のほかに外・陸・海相に予定さ
「近衛文麿」の情報だけではなく、「近衛文麿」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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