1. 近衛文麿画像
日本大百科全書
大正・昭和時代の政治家。「このえあやまろ」とも読む。1891年(明治24)10月12日、明治の国権主義者で、貴族院議長・枢密顧問官などを歴任した篤麿(あつまろ)
2. 近衛文麿[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
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3. 近衛文麿
世界大百科事典
憲法改正の取調べにあたったが,戦犯容疑者の指名をうけ,出頭当日の未明に自殺した。今井 清一 近衛文麿内閣 近衛上奏文
4. このえ‐ふみまろ【近衛文麿】
日本国語大辞典
政治家。公爵。篤麿の長男。名は「あやまろ」とも。東京出身。京都帝大法科卒。昭和八年(一九三三)貴族院議長。同一二年組閣。同一五年第二次内閣を組閣。大政翼賛会を設
5. このえふみまろ【近衛文麿】
国史大辞典
録』『清談録』『平和への努力』『失はれし政治』などがある。 [参考文献]矢部貞治『近衛文麿』、岡義武『近衛文麿―「運命」の政治家―』(『岩波新書』青八二六)、伊
6. このえ-ふみまろ【近衛文麿】画像
日本人名大辞典
1891−1945 大正-昭和時代前期の政治家。明治24年10月12日生まれ。近衛篤麿(あつまろ)の長男。近衛秀麿の兄。貴族院議長などをへて昭和12年第1次近衛
7. 近衛文麿[文献目録]
日本人物文献目録
未発表遺稿』近衛文麿『皇室の血流る近衛文麿』矢部貞治『近衛文麿』今井清一『近衛文麿』田中惣五郎『近衛文麿遺稿 解説』矢部貞治『近衛文麿回想』風見章『近衛文麿と木
8. このえふみまろかんけいもんじょ【近衛文麿関係文書】
国史大辞典
整理されたものも少なくないと思われる。矢部貞治『近衛文麿』下に利用されたほか、一部が諸史料集中に翻刻されている。なお陽明文庫には、山本有三が近衛伝執筆準備のため
9. 近衛文麿内閣画像
日本大百科全書
昭和期に近衛文麿を首班として組織された第一~三次の内閣。木坂順一郎第一次(1937.6.4~1939.1.5 昭和12~14)林銑十郎(はやしせんじゅうろう)内
10. 近衛文麿内閣(第一次)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
※(兼)は兼任。一つの職名に複数の人名がある場合は順次後任を示し、同一人名がある場合は専任となったことを示す ©Shogakukan
11. 近衛文麿内閣(第三次)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
※(兼)は兼任。一つの職名に複数の人名がある場合は順次後任を示す ©Shogakukan
12. 近衛文麿内閣(第二次)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
※(兼)は兼任。一つの職名に複数の人名がある場合は順次後任を示す ©Shogakukan
13. このえふみまろにっき【近衛文麿日記】
国史大辞典
昭和十九年(一九四四)六月二十一日から七月二十四日に至る約一ヵ月間の近衛文麿の日記(口述筆記したもの)。第二次世界大戦中にその所在が失われたが、同四十二年に発
14. 『近衛文麿日記』
日本史年表
1968年〈昭和43 戊申〉 この年 共同通信社 『近衛文麿日記』 刊。
15. 秋山定輔
世界大百科事典
失われた。以後は政界の黒幕的存在として政治裏面で暗躍。特に大正初期の桂太郎新党結成や昭和期の近衛文麿新党工作に深く関与した。また明治期以来対中国問題にもさまざま
16. あきやま-ていすけ【秋山定輔】画像
日本人名大辞典
疑をうけ辞職。大正4年4回目の当選。宮崎滔天(とうてん),孫文らとまじわり,日中問題に関与。近衛文麿(このえ-ふみまろ)の新党運動にも参加した。昭和25年1月1
17. 麻生久
日本大百科全書
社会大衆党の書記長を歴任。1933年(昭和8)ごろから徐々に親軍的傾向を強めた。1936年から代議士。のち近衛文麿(このえふみまろ)の側近グループに加わり、近衛
18. 麻生久
世界大百科事典
このころから陸軍統制派に接近。36-37年総選挙で社会大衆党を躍進させた。日中戦争開始前後から近衛文麿に接近して,近衛新党を画策。40年新体制運動が始まると率先
19. あそう-ひさし【麻生久】画像
日本人名大辞典
北海道夕張炭鉱などの労働争議を指導。昭和7年社会大衆党書記長となり,11年衆議院議員(当選2回)。のち近衛文麿の新体制運動に協力し,社大党を解党。昭和15年9月
20. あたごやまじけん【愛宕山事件】
国史大辞典
日本がポツダム宣言を受諾、降伏するという情報を得るや、これに反対して終戦派と目される木戸幸一内大臣・近衛文麿・平沼騏一郎・岡田啓介・米内光政ら重臣の暗殺を企て、
21. 阿部重孝
日本大百科全書
構築した。その門から多くの教育学者、教育制度・行政学者を輩出。教育関係の各種委員を委嘱され、また近衛文麿(このえふみまろ)をバックにした教育改革同志会の主要メン
22. 荒木貞夫画像
日本大百科全書
り、1935年男爵。1936年の二・二六事件では決起将校に同調し、事件後予備役となる。第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣
23. 荒木貞夫
世界大百科事典
どで成果をあげえず辞任。二・二六事件では反乱軍に同情的態度をとり,予備役に編入された。第1次近衛文麿,平沼騏一郎両内閣の文相として教育の戦時統制を推進。敗戦後A
24. 有田八郎
日本大百科全書
ぼっぱつ)に際しては、オーストリア公使として国際調停に尽力。広田弘毅(ひろたこうき)、第一次近衛文麿(このえふみまろ)、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)、米内光
25. 有田八郎
世界大百科事典
へて,36年に広田弘毅内閣の外相に就任し,日独防共協定を締結した。38年10月,宇垣外相の後任として第1次近衛文麿内閣に入り,平沼騏一郎内閣にも留任した。この間
26. 有馬頼寧
日本大百科全書
1929年貴族院議員(研究会所属)となり、斎藤実(さいとうまこと)内閣の農林政務次官、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の農相のほか、産業組合の要職を歴任、近
27. 有馬頼寧
世界大百科事典
継ぎ,のち貴族院議員となり,研究会に所属。32年農林政務次官,翌年産業組合中央金庫理事長をへて,37年近衛文麿内閣の農林大臣となる。40年新体制運動を推進し,1
28. ありまよりやす【有馬頼寧】
国史大辞典
昭和二年(一九二七)父の死により伯爵家を継ぎ衆議院議員を辞し、産業組合中央会監事。同四年貴族院議員に当選。近衛文麿・木戸幸一と並んで「革新」的な華族として注目さ
29. 池田成彬
世界大百科事典
革を断行した。36年みずから敷いた停年制で三井を辞め,37年日銀総裁,さらに38年から第1次近衛文麿内閣の蔵相兼商相を歴任,その後内閣参議をへて敗戦まで枢密顧問
30. いけだしげあき【池田成彬】
国史大辞典
与えていたために憲兵隊の取調べをうけたことも一つの理由であった。引退後の池田は次第に軍・政治家との接触を深め、近衛文麿・石原莞爾との連絡が多く、石原の「主要産業
31. 池田成彬(いけだせいひん)画像
日本大百科全書
社会事業にも尽くした。1936年定年制に基づき三井合名から引退。その後、日本銀行総裁(1937)や第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の蔵相・商工相(1938)
32. 石黒忠篤
世界大百科事典
1908年東大法科卒業。農商務省に入り,農務局長,蚕糸局長を経て31年農林次官,40年第2次近衛文麿内閣の農林大臣。43年貴族院議員,45年農商務大臣をつとめる
33. いしわたそうたろう【石渡荘太郎】
国史大辞典
このように多面な政治的活動は注目すべきであり、官僚出身者としては異色であった。その政治行動の一面は石渡が近衛文麿と学友であり、父が司法次官・内閣書記官長・貴族院
34. 板垣征四郎
日本大百科全書
500万人という移民計画を推進し、これを「日本民族の大陸移動」と名づけた。1938年(昭和13)5月、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の改造で陸相として入閣
35. 板垣征四郎
世界大百科事典
日中戦争の拡大にともない,ソ連への対応準備のため,石原らとともに〈不拡大派〉とみられて38年第1次近衛文麿内閣の陸相となったが,拡大をとどめることはできなかった
36. 井上日召
日本大百科全書
殺害させた(血盟団事件)。自首し、34年無期懲役の判決を受けるが、減刑、大赦により40年に出獄。翌41年近衛文麿(このえふみまろ)に接近、相談役を務めた。第二次
37. いのうえにっしょう【井上日召】
国史大辞典
と相まって空前の衝動を世に与えた。井上はこの事件で無期懲役に処せられ、同十五年仮出所、一時期近衛文麿の相談役をした。昭和四十二年三月四日没。八十歳。井上の右翼運
38. うえだ-しゅんきち【殖田俊吉】
日本人名大辞典
政治家。明治23年8月4日生まれ。大蔵省にはいり,昭和8年関東庁財務局長。大戦末期の20年,近衛文麿の側近として和平工作にかかわり,吉田茂らとともに憲兵隊に逮捕
39. 宇垣一成画像
日本大百科全書
陸軍が反対し、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍大臣を出さず、組閣を流産させた。翌1938年には近衛文麿(このえふみまろ)内閣の外相、拓務相についたが、興亜院設置
40. 宇垣一成
世界大百科事典
組閣の命をうけたが,その政治力を忌避した陸軍中堅幹部の激しい反対にあい組閣を断念する。38年近衛文麿内閣の外相となって,戦争の長期化による国力の消耗を防ぐ立場か
41. うしば-ともひこ【牛場友彦】
日本人名大辞典
れ。牛場信彦の兄。オックスフォード大卒業後,太平洋問題調査会,三菱石油につとめる。昭和12年近衛文麿(このえ-ふみまろ)首相の秘書官。戦後は日本輸出入銀行監事,
42. 内ヶ崎作三郎
日本大百科全書
1924年(大正13)憲政会より出馬して当選、以後、浜口雄幸(おさち)内閣の内務参与官、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の文部政務次官などを歴任、1941年
43. うちはらくんれんじょ【内原訓練所】
国史大辞典
・大蔵公望らは、昭和十二年(一九三七)、青少年の満洲移住を押し進めるべきであるという意見書を近衛文麿首相宛に提出した。同件は、同年十一月拓務省から閣議に提出され
44. 右翼系統図 1(全体図)[別刷図版]画像
国史大辞典
F3,F5 古島一雄 B2 児玉誉士夫 B7,B9 後藤文夫 A6,F5 近衛篤麿 A2,B1 近衛文麿 D7 小林順一郎 E6,F5,F6 近藤栄蔵 G5 権
45. 汪兆銘(おうちょうめい)
日本大百科全書
日本軍の画策にのって、重慶(じゅうけい/チョンチン)から脱出。ハノイで和平建議を発表して日本の近衛文麿(このえふみまろ)首相に接近し、1940年3月、日本の傀儡
46. おうちょうめいこうさく【汪兆銘工作】
国史大辞典
要求するが、戦費賠償は求めないことなどで、従来の日本の主張をある程度緩和したものだった。これより先、近衛文麿首相は武漢・広東占領直後の十一月三日、いわゆる「東亜
47. おかよしたけ【岡義武】
国史大辞典
、大正期の日本を対象とした『転換期の大正』を公刊し、さらに『近代日本の政治家』『山県有朋』『近衛文麿』などの政治家研究の成果を生んだ。『黎明期の明治日本』に代表
48. 小川平吉
日本大百科全書
)外交路線と対立した。のち五私鉄疑獄事件に連座して入獄。出獄後、1937年日中戦争が起こると近衛文麿(このえふみまろ)首相に進言して対中国和平工作に奔走したが成
49. おがわへいきち【小川平吉】
国史大辞典
十二年日中戦争開始とともに、蒋介石との直接和平交渉の必要を主張して積極的に活動し、特に先代以来懇意であった近衛文麿を通じて軍部にも働きかけ、また萱野長知を使って
50. おぎくぼかいだん【荻窪会談】
国史大辞典
米内光政内閣総辞職後、大命をうけた近衛文麿が組閣を前にして、昭和十五年(一九四〇)七月十九日荻窪の私邸荻外荘で開いた四者会談。近衛のほかに外・陸・海相に予定さ