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  11. ワシントン会議
国史大辞典・日本大百科全書

国史大辞典
ワシントン会議
ワシントンかいぎ
大正十年(一九二一)十一月十二日から翌年二月六日まで、アメリカの提唱によりワシントンで開催された、海軍軍縮および極東・太平洋問題に関する国際会議。この会議で締結された一連の広範な諸条約・決議からなる「ワシントン体制」は、欧州における「ベルサイユ体制」と並んで、極東における相対的安定をはかり、新たな国際秩序を樹立する試みとして重要な歴史的意義をもつ。

〔背景〕

第一次世界大戦中、日本は著しい大陸進出をとげたが、戦後アメリカとの対立が激化した。アメリカ国務省極東部では、門戸開放政策を旗印に、戦時中に日本が獲得した権益を「総決算」し、「極東における勢力均衡を再確立すべき」時機が到来したと判断していた。こうした対立と並行して、日米間に激しい海軍軍拡競争が進行していたが、日本では戦後の不況下で既定の建艦計画を完了することが財政的に不可能になり、他方アメリカでも税負担軽減のための軍備制限の気運がたかまった。おりしもイギリスでは、一九二一年に満期になる第三次日英同盟の存廃をめぐって自治領(とりわけカナダ)代表と折りあいがつかず、またアメリカも日英同盟を日本の中国進出の支柱とみなして強力に反対。イギリスは日英同盟問題の打開策として「太平洋会議」を提案しようとした。アメリカはみずからのイニシアティブを保つため、大統領W・G・ハーディングがアメリカの軍縮会議案にイギリスの提案と合流させ、ワシントンで国際会議を開催することを提案した(参加国は、アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリア・ポルトガル・オランダ・ベルギー・中国の九ヵ国)。

〔日本の反応〕

ワシントン会議の招請は日本に大きな衝撃を与えた。すなわち、国際法廷の被告席に立たされ、大戦中に東アジアで獲得・拡大した特権や地位(対華二十一箇条要求、満蒙特殊権益、山東問題、シベリア出兵など)を奪われ、さらに将来大陸への進出を封じこめられるのではないか、といった危機感を表明するものも少なくなかった。しかし、すでにロシア革命で日露協約を失い、さらに伝統的に「日本外交の骨髄」とされた日英同盟の将来すら危ぶまれているなかで、日本政府にとって国際的孤立からの脱却こそワシントン会議における最たる外交課題であらねばならなかった。そのためには、まず対米協調が先決問題であったが、日本経済にとってアメリカとの通商とその資本は死活的に重要であった。きたるべき会議を好機として「軍国主義国」の汚名をぬぐいさり、平和外交に転換、日本の国際的地位を改善すべきだというのが、戦前から対米協調を奉じる原敬首相の信念であった。この路線は、ワシントン会議の直前に原が暗殺された後も、彼が選んだ全権(海相加藤友三郎首席全権、幣原喜重郎駐米大使、徳川家達貴族院議長)によって受け継がれていく。

〔海軍軍縮〕

十一月十二日、開催の冒頭、アメリカ首席全権C・E・ヒューズ(国務長官)は思いきった海軍軍縮の具体案を発表して満場を驚かせた。それは(一)十年間の建艦中止、(二)建造中の主力艦全部、既存艦の一部の廃棄、(三)現保有の勢力比を基準として米・英・日の比率を一〇・一〇・六とし、(四)それに基づき各国の保有量を定める、という提案であった。これに対し、加藤首席全権はアメリカ案をおおむね受諾する決意を固めた。彼は日米間の国力の較差を冷徹に認識、大局的な政治的立場から、「日米戦争は不可能」と割り切り、外交的手段によって日米関係の調整に専念した。もし建艦競争が続けば、アメリカとの較差は開く一方で、日本は財政的破綻を免れないことを加藤全権は熟知していた。しかし、日本全権団の海軍随員の中には、対米作戦上、七割比率が絶対に必要と強硬に主張する者もおり、加藤は海軍部内の反対論を強力に抑えた。そして、六割比率受諾の代償として、彼は米英日三国の間に太平洋島嶼における海軍基地の増強を禁止することを提案、それが認められて海軍軍縮条約が成立した。これによりアメリカはフィリピン、グアムの要塞化が不可能になったので、日本は西太平洋および極東海域において事実上、海軍力の優位を保障されることになった。

〔太平洋・極東問題〕

アメリカにとって、日英同盟の解消は海軍軍縮実現のための前提条件であった。日英米の全権が会議の舞台裏で交渉を重ねた結果、日英同盟の軍事的義務や同盟的色彩を払拭し、単なる協議条約をまとめあげた。これにフランスを加えて四箇国条約としたのは、アメリカ側が日英との特殊な政治協定の色彩を薄めることを欲したからである。四箇国条約は、太平洋諸島の現状維持を約するとともに、日英同盟を廃棄したが、日本政府では一応孤立化を免れ、日米間の疑惑をとり除いたことを評価した。中国に関する九箇国条約は、アメリカ全権E・ルートが起草した四原則を骨子として、門戸開放政策を再表明したものであるが、中国の主権、独立、領土的・行政的保全の尊重、中国における「優先権」や独占権の禁止など、門戸開放を強化し国際的に法文化した。しかし、親日家のルートは、日本が最重視していた満蒙特殊権益に関する日本側の伝統的主張に対して暗黙の了解と譲歩を示した。九箇国条約は新たに排他的権益を獲得することを禁じるにとどまり、列国の既得権には触れていなかった。九箇国条約が成立した結果、中国における日本の「特殊利益」を明示的に承認した石井・ランシング協定は廃棄されることになった。他の極東問題に関しても、ヒューズ全権は日本に圧力や屈辱を加えることを慎重に避け、「名誉ある後退の機会」を与えようとした。山東問題について日本は「日中両国限りの問題」としてワシントン会議における討議を拒み、会議とは別個に日中間で直接交渉することになったが、日本側の譲歩により山東権益を若干の条件付きで返還、駐屯日本軍の撤退を約した。また二十一箇条要求中の保留項目の放棄や、シベリア撤兵問題についても、アメリカは日本との対決を避け、日本の自発的譲歩による解決をはかった。

〔意義〕

ワシントン会議における日本の外交は後日、「屈辱外交」の烙印を押されることになるが、当時日本全権はアメリカが予想外に「同情的態度」を示し、日本の「感情・体面を傷つけざるよう」気を配っているのを多とする旨の電報を政府に送っていた。会議の成果と全権に対する当初の訓令とを対比すると、日本は所期の目的を大体達成したといえよう。ワシントン会議を契機として、日本は軍事的対決への道(「旧外交」)から平和的経済主義(「新外交」)に政策転換をはかり、ここに幣原外交の時代が開幕した。アメリカは日本を新しい国際協調システムの中に組み入れることにより日米提携をはかろうとし、これに呼応する形で日本は対米協調政策に転じたのである。しかし海軍部内では対米六割の比率に対して激しい反感がくすぶり続けたし、陸軍の一部でも九箇国条約によって日本は大陸進出を阻止されたという反発が根強く、この底流は、やがて世界大恐慌の到来とともに一挙にワシントン体制打破論として噴出する。
→九箇国条約(きゅうかこくじょうやく),→山東還付条約(さんとうかんぷじょうやく),→四箇国条約(しかこくじょうやく),→幣原外交(しではらがいこう),→ワシントン体制
[参考文献]
外務省編『日本外交文書』ワシントン会議・ワシントン会議軍備制限問題・ワシントン会議極東問題、日本政治学会編『国際緊張緩和の政治過程』、麻田貞雄「ワシントン会議と日本の対応」(入江昭・有賀貞編『戦間期の日本外交』所収)、同「ワシントン会議をめぐる日米の政策決定過程の比較」(細谷千博・綿貫譲治編『対外政策決定過程の日米比較』所収)
(麻田 貞雄)


日本大百科全書(ニッポニカ)
ワシントン会議
わしんとんかいぎ

アメリカ大統領ハーディングの提唱により、1921年11月から翌年2月までワシントンで開かれた国際会議。アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの五大国のほか、オランダ、ベルギー、ポルトガル、中国の四か国代表が参加し、軍縮および太平洋・極東問題を討議した。その結果、海軍軍縮に関する五か国条約が成立したほか、太平洋に関する四か国条約、中国に関する九か国条約など7条約、12決議が成立した。
 五か国条約では、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの五大国間で主力艦総トン数の比率をそれぞれ5、5、3、1.75、1.75とすることに合意をみた。四か国条約では、アメリカ、イギリス、フランス、日本間で太平洋の諸島嶼(とうしょ)に関して現状維持が合意され、この条約の成立に伴い、長年結ばれてきた日英同盟が廃棄されることとなった。九か国条約では、従来からのアメリカの中国政策の柱であった「門戸開放・機会均等」の主張が、この条約で成文化され、国際的に承認された。このため、これとなじまない日本の中国における特殊権益を認めた石井‐ランシング協定は廃棄され、また日本は21か条要求の一部を撤回し、山東省における権益を返還することとなった。この会議において、アメリカは中国の国権回収運動の擁護者の形で終始主導権を握り、台頭する日本の行動を抑制することに成功した。これによりアメリカは、第一次世界大戦後の極東、太平洋地域における列国の勢力関係を画定し、いわゆる「ワシントン体制」を築いた。
[宇佐美滋]

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検索コンテンツ
1. ワシントン会議
日本大百科全書
アメリカ大統領ハーディングの提唱により、1921年11月から翌年2月までワシントンで開かれた国際会議。アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの五大国のほか
2. ワシントン‐かいぎ[‥クヮイギ]【─会議】
日本国語大辞典
一九二一年一一月から翌年二月にかけて、アメリカ合衆国ワシントンで開かれた国際会議。アメリカ合衆国大統領ハーディングの提唱によりイギリス・アメリカ・フランス・イタ
3. ワシントンかいぎ【ワシントン会議】
国史大辞典
[参考文献]外務省編『日本外交文書』ワシントン会議ワシントン会議軍備制限問題・ワシントン会議極東問題、日本政治学会編『国際緊張緩和の政治過程』、麻田貞雄「ワシ
4. ワシントン会議
日本史年表
1921年〈大正10 辛酉〉 ワシントン会議 開催(~大正11年2月6日、日本全権加藤友三郎・徳川家達・幣原喜重郎)。 1922年〈大正11 壬戌〉 2・2 日
5. いきん【顧維鈞】(Gù Wéijūn)
世界人名大辞典
[同-20],駐英公使[20-22]を歴任.この間,パリ講和会議全権代表[18-19],ワシントン会議の全権代表[21-22]として活躍.北京政府外交部総長[2
6. こう【黄郛】(Huáng Fú)
世界人名大辞典
参加.辛亥革命に参加,第二革命[13]失敗後アメリカに移り,帰国[15].北洋政府では,ワシントン会議代表団顧問,外交総長,教育総長を歴任し,馮玉祥の北京政変に
7. しょうぼうりん【蒋夢麟】(Jiǎng Mènglín)
世界人名大辞典
行う.余日章(よじっしょう)とともに全国商会聯合会・全国教育会聯合会連席会議に推挙され国民代表としてワシントン会議に出席[21].また中華教育文化基金董事会(中
8. じょせいしょう【徐世昌】(Xú Shìchāng)
世界人名大辞典
総統就任[1918],段祺瑞(だんきずい)を抑え親米的立場を採る.パリ講和会議[19]やワシントン会議[21]に積極的に参加するも,直隷派の台頭で大総統を罷免さ
9. 朝日新聞
世界大百科事典
。大正デモクラシー期にはおおむね普通選挙実施,軍縮支持の論陣を展開,また第1次世界大戦,ワシントン会議などの報道でも資本力に裏打ちされた報道体制で大きな成果を挙
10. アメリカがっしゅうこく【アメリカ合衆国】
国史大辞典
一九二〇年代のアメリカは国際連盟不参加の方針は堅持したが、現実的立場から国際関係をリードし、一九二一年のワシントン会議では太平洋における自国の安全、中国の「門戸
11. アメリカ合衆国史(年表)
日本大百科全書
鉄鋼ストライキ1920パーマーの「赤狩り」。ベルサイユ条約の批准否決される。女性参政権認められる1921ワシントン会議開催(~1922)。サッコとバンゼッティに
12. あもうえいじ【天羽英二】
国史大辞典
入り、ヨーロッパの大・公使館を歴任。本省欧米第二課勤務を経て、同十二年広東総領事。その間ワシントン会議、山東懸案解決条約共同委員会などに随員として出席した。昭和
13. いかい‐えい[ヰカイヱイ]【威海衛】
日本国語大辞典
隊の根拠地となった。日清戦争以後、日本が占領。一八九八年からイギリスが租借。一九二二年のワシントン会議を経て、一九三〇年に中国に返還された。→威海。イカイエ
14. いかいえい【威海衛】
国史大辞典
英国は清国との間に、旅順を露国が占領の間、同地を租借する条約を締結した。大正十一年(一九二二)二月一日のワシントン会議総会で、英国代表は同地還付を声明、昭和五年
15. いぎ【意義】 : ワシントン会議
国史大辞典
〔意義〕 ワシントン会議における日本の外交は後日、「屈辱外交」の烙印を押されることになるが、当時日本全権はアメリカが予想外に「同情的態度」を示し、日本の「感情
16. イギリス画像
日本大百科全書
を締結し、相互援助を約した。この同盟条約によって日本は第一次世界大戦に参戦したが、同盟はワシントン会議の四か国条約によって破棄された。昭和に入ってからの日本の中
17. イギリス
世界大百科事典
日本は対ロシア問題,大陸問題についてイギリスの極東の憲兵としての役割を果たした。21年のワシントン会議で日英同盟が廃棄されてから,東アジアにおける日英の利害関係
18. イギリス史(年表)
日本大百科全書
ウィンザー家と改称1918第四次選挙法改正。第一次世界大戦終結1919ベルサイユ条約締結1921ワシントン会議(~1922)で四か国条約により日英同盟廃棄192
19. 石井=ランシング協定
世界大百科事典
さし,政治的権利をふくまないものと解釈し,両者の解釈は大きくくい違っていた。結局,この協定はワシントン会議での九ヵ国条約締結にともなって23年廃棄された。由井
20. いしい‐ランシング‐きょうてい[いしゐ‥ケフテイ]【石井─協定】
日本国語大辞典
日本の中国における特殊権益の承認と、中国の領土保全、門戸開放、機会均等などを規定。同一二年、ワシントン会議で廃棄。イシイランシン
21. いしい・ランシングきょうてい【石井・ランシング協定】
国史大辞典
のとみなしているように、日米両国間に解釈の相違があった。しかしこの協定の存続期間は短く、ワシントン会議で、九箇国条約が締結され、中国における特殊権益が否定される
22. いとうみよじ【伊東巳代治】
国史大辞典
張るとともに世論操縦に努めた。大正六年(一九一七)臨時外交調査委員となりシベリア出兵問題、パリ講和会議、ワシントン会議など、第一次大戦から戦後にかけての重要な対
23. 医の倫理 65ページ
文庫クセジュ
 少し遅れて、アイオワ州議会は安楽死を「畸型や白痴の小児」にまで拡大した。だがワシントン会議は、この二つの法律をしりぞけ、その提案に反対した。  ヨーロッパの他
24. 内田康哉
世界大百科事典
16年駐露大使となったが,ロシア革命で帰国。18年原敬内閣の外相になり,シベリア出兵に反対し,ワシントン会議に対処した。25年枢密顧問官となり,28年のパリ不戦
25. うちだこうさい【内田康哉】
国史大辞典
ため日本が犠牲を払うことへの疑問から反対した。第二次外相時代、パリ平和会議(一九一九)、ワシントン会議(一九二一―二二)に対処した。同十四年枢密顧問官となり、昭
26. 改訂新版 英国史 168ページ
文庫クセジュ
の国際連盟への参加も不可能となった。一九二一年になると、イギリスは日本との同盟を破棄し、ワシントン会議では合衆国と同格の主力艦保有量を承認させて、フランスをイタ
27. 尾崎秀実時評集 日中戦争期の東アジア 318ページ
東洋文庫
企てた際には日本と同盟して之に対抗し、第一次欧州大戦を通じて日本の大陸進出が顕著となるや、米国と結びワシントン会議に於いて日本に苦杯を喫せしめた事にも表現されて
28. 尾崎行雄
世界大百科事典
に立ち,労働者のデモに加わり,憲政会幹部と対立。21年脱党,翌年革新俱楽部に加わる。一方ワシントン会議に先立ち軍備縮小同志会をおこし,吉野作造らとともに熱心に遊
29. 海関
日本大百科全書
1902年のマッケー条約で税率は再改定されたが、民国以降は関税自主権の回復が強く主張された。22年のワシントン会議を経て、25年の北京(ペキン)特別関税会議で承
30. かいぐんかくちょうもんだい【海軍拡張問題】
国史大辞典
同十年には三一・七%に達した。当時日英米三国間に激しい建艦競争が行われたので、同十年十一月ワシントン会議が開かれ、日英米仏伊五ヵ国間に主力艦と航空母艦に関して軍
31. かいぐん‐ぐんしゅくきょうてい[‥グンシュクケフテイ]【海軍軍縮協定】
日本国語大辞典
〔名〕海軍の軍備制限に関する国際的な協定。一九二二年ワシントン会議で成立した、主要海軍国、英・米・日・仏・伊の主力艦、航空母艦の保有トン数をそれぞれ五、五、三、
32. かいぐんぐんしゅくもんだい【海軍軍縮問題】
国史大辞典
同十年八月、軍縮協定は不利よりもむしろ利点が多いと結論した。米国の提唱により、同十年十一月ワシントン会議が開かれ、日英米仏伊五ヵ国間に、主力艦と航空母艦について
33. 加藤友三郎画像
日本大百科全書
高橋是清(たかはしこれきよ)各内閣の海相を務め、1920年男爵となる。1921~1922年ワシントン会議に首席全権として出席、帰国後高橋内閣の後を継いで内閣を組
34. 加藤友三郎
世界大百科事典
任し大将に昇進した。引き続き寺内正毅,原敬,高橋是清内閣の海相を歴任し,この間,21年にワシントン会議の全権委員をつとめる。加藤らはこの会議で対英・米6割の海軍
35. かとう‐ともさぶろう【加藤友三郎】
日本国語大辞典
海軍大将元帥。政治家。広島県に生まれる。日露戦争で連合艦隊参謀長。第二次大隈内閣以降四内閣の海相。ワシントン会議首席全権。大正一一年(一九二二)政友会の支持で組
36. かとうともさぶろう【加藤友三郎】
国史大辞典
ずとする広い視野に立ち、英米両国との無制限建艦競争には否定的で、十年から十一年にかけてのワシントン会議には日本の全権委員として列席し、海軍軍縮条約・九箇国条約・
37. かとう-ともさぶろう【加藤友三郎】画像
日本人名大辞典
謀長として日本海海戦を指揮。第2次大隈内閣の海相となり,海軍大将に昇進。大正10-11年ワシントン会議に首席全権として出席,海軍軍縮条約に調印。翌年首相となり,
38. かとうともさぶろうないかく【加藤友三郎内閣】画像
国史大辞典
松方は海軍軍縮の実施という内閣の重要使命を考慮して、長年海相の任にあって海軍部内に信望が厚く、ワシントン会議の全権をつとめ、かつ衆議院の多数党たる政友会の受けも
39. 加藤寛治
世界大百科事典
海軍兵学校(18期)卒業。日清戦争に従軍,日露戦争では軍艦三笠の砲術長。1921-22年にはワシントン会議随員となり,主力艦対米比率7割を主張して加藤友三郎全権
40. かとうひろはる【加藤寛治】
国史大辞典
ラジオストック派遣の第五戦隊司令官に任ぜられ、同地警備の任につく。九年十二月中将に昇進。ワシントン会議には、海軍首席随員として参加し、対米七割の強硬論を主張す。
41. カナダ史画像
日本大百科全書
85年の大陸横断鉄道の敷設により、その後のカナダの経済発展の路線を確立した。1871年のワシントン会議では、外交上の主権が依然としてイギリスに握られている無念を
42. かわはらもすけ【川原茂輔】
国史大辞典
躍した。三年全院委員長に就任。日独戦役には青島出征軍慰問議員団長として派遣された。のち、ワシントン会議視察のため渡米した。十三年政友本党の結成に参画し幹部となっ
43. かんだないぶ【神田乃武】
国史大辞典
尽くし、ローマ字普及運動を推進し、さらに国民外交の方面でも、リスボン万国議員会議に出席、ワシントン会議に列席するなど、その活動は多方面に及んだ。大正十二年(一九
44. かんとうしゅう【関東州】
国史大辞典
大正四年(一九一五)五月、いわゆる対華二十一箇条要求の結果、九十九ヵ年に延長された。同十年に開催されたワシントン会議において、中国は租借地返還を要求し、二十一箇
45. 関東大震災
世界大百科事典
普選運動,労農運動など民主化を求める民衆運動が広がり,社会主義運動も台頭してきた。前年のワシントン会議を機に軍縮論も高まり,シベリアや中国山東省からの撤兵がおこ
46. かんとうだいしんさい【関東大震災】
国史大辞典
くわえて関東大震災は、日本帝国主義の曲がり角と重なりあうことによって深刻な社会的災禍をまねいた。折からワシントン会議、ソビエト=ロシアの勢力拡大、中国民族運動の
47. がいこうせいさく【外交政策】 : 原内閣
国史大辞典
撤兵問題は難航した。また、一九二一年七月、海軍軍縮と太平洋および極東問題を討議するためアメリカからワシントン会議へ招請されると、対米英協調の実をあげるため積極的
48. 九か国条約
日本大百科全書
1922年2月6日、ワシントン会議で調印された中国に関する一連の原則を定めた条約。調印国は、アメリカ、ベルギー、イギリス、中国、フランス、イタリア、日本、オラン
49. 九ヵ国条約
世界大百科事典
ベルギー,イギリス,フランス,中国,イタリア,日本,オランダ,ポルトガルの計9ヵ国の間でワシントン会議の一環として調印された条約。中国の主権・独立・領土的行政的
50. きゅうかこく‐じょうやく[キウカコクデウヤク]【九箇国条約】
日本国語大辞典
一九二二年二月、ワシントン会議において、日、英、米、仏、イタリア、ベルギー、ポルトガル、オランダ、中国の九か国が締結した条約。米国の提唱で、中国の主権尊重、門戸
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