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  11. 三国同盟
世界大百科事典・日本大百科全書

改訂新版 世界大百科事典
三国同盟
さんごくどうめい
Triple Alliance
Dreibund[ドイツ]

1882年から1915年まで存続したドイツ,オーストリア・ハンガリー,イタリア間の秘密軍事防御同盟。英仏露三国協商と対立し,第1次世界大戦の一方の陣営を形成した。ドイツ帝国成立後のビスマルク外交の目標は,フランスを孤立させ,その対独復讐戦争を防止することにあった。ビスマルクは1881年にドイツ,オーストリア・ハンガリー,ロシアの間に三帝同盟を成立させたが,イタリアがチロル,トリエステをめぐってオーストリア・ハンガリーと不和であったことから,フランスに接近するのを恐れていた。イタリアは81年のフランスのチュニジア保護国化に反感をいだき,ドイツとオーストリア・ハンガリーに接近し,82年5月20日に三国同盟が成立した。その内容はだいたい次のとおりである。(1)イタリアがフランスから攻撃された際には他の2国が,ドイツがフランスから攻撃をうけた場合にはイタリアが武力援助を行う。(2)オーストリア・ハンガリーとロシアが開戦した場合は他の2国は好意的中立を守る。(3)締約国の1国ないし2国が攻撃をうけた場合には他の同盟国は被攻撃国を援助する。(4)3国中の1国が開戦する場合には他の2国は好意的中立を維持し,共同戦争の際には単独の休戦はしない。同盟の期限は5年であって,イギリスは標的とはされていない。

 この三国同盟は1887年2月20日さらに5ヵ年延長されたが,その際,墺伊,独伊特別条約がそれぞれ付加された。これにより,オーストリア・ハンガリーとイタリアはバルカンでの現状維持を約束し,それが不可能な場合には相互代償主義による協定を結んで解決をはかること,ドイツはイタリアが北アフリカをめぐってフランスと開戦する際には武力援助を与え,イタリアのニース,サボア,コルシカ獲得を援助することなどを約束した。その後,ビスマルクはブルガリア問題をめぐってロシアとオーストリア・ハンガリーの対立が深刻化し三帝同盟の存続が不可能になると,87年6月にドイツとロシアの間に再保障条約を結び,ロシアをドイツ側にひきとめた。しかし,ビスマルク辞任後のドイツでは対露関係は重視されず,そのため91年5月に三国同盟が12年間という長期の期限で更新されると,ロシアとフランスは接近し,91年から94年にかけて露仏同盟が成立し,ビスマルク体制の一角は崩れた。三国同盟は1902年6月,12年12月と更新されたが,この間に英独間の対立が激化し,日露戦争をはさんで英仏露三国協商が成立した。イタリアもオーストリア・ハンガリーとの利害調整ができず,1900年12月にフランスと北アフリカの植民地に関する秘密協定を結び,協商側への接近をはかった。第1次世界大戦が勃発するとイタリアは中立を宣言し,15年4月の領土獲得を約束したロンドン密約に基づいて,同年5月4日に三国同盟を破棄したので三国同盟は崩壊した。

 なお,〈日独伊三国同盟〉については別項を参照されたい。
[義井 博]

[索引語]
Triple Alliance Dreibund ビスマルク,O.E.L.F.von ロンドン密約


日本大百科全書(ニッポニカ)
三国同盟
さんごくどうめい
Triple Alliance 

第一次世界大戦前のドイツ、オーストリア、イタリア間の軍事同盟。同時期のイギリス、フランス、ロシアの三国協商と対立し、サライエボ事件を世界大戦に拡大させる原因となった。
[藤村瞬一]

成立

三国同盟の成立は、プロイセン・フランス戦争(1870~71)に勝利を収めたドイツのビスマルクが、フランスの報復を恐れ、孤立させる政策をとろうとしたことに由来する。つまりビスマルクは、フランスがロシアに接近することを警戒し、1873年にロシア、オーストリアとともに三帝同盟を締結した。しかしこの同盟は、バルカンをめぐるロシアとオーストリアの対立によって効果が疑問視された。加えてロシア・トルコ戦争(1877~78)終結のサン・ステファノ条約を修正するベルリン条約がベルリン会議で成立したが、この条約に不満をもつロシアとドイツの関係も悪化し、三帝同盟は事実上、破産した。そこでビスマルクは、英仏がエジプト、チュニジアの権益を相互に承認しあう協定を結ぶと、これを支持した。というのは、フランスが北アフリカに関心をもてば、それだけヨーロッパにおける独仏の緊張が回避できると考えたからである。フランスは81年、英仏協定に従いチュニジアを占領した。これはビスマルクの思惑以上の結果をもたらした。つまりフランスのチュニジア占領は、リビアに関心をもつイタリアに大きな衝撃を与え、イタリアは急速にドイツ、オーストリアに接近してきたからである。かくして82年、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟が成立した。
[藤村瞬一]

更新

この条約は、ロシア、フランスを仮想敵とし、相互軍事援助または好意的中立を約束したもので、1887年には更新された(第二次同盟)。ところが90年、ビスマルクが退陣すると、ドイツは従来の対ロシア接近をやめ、ドイツ・ロシア再保障条約(1887)を更新しなかった。このためロシアは必然的にフランスに接近、91年にはロシア・フランス同盟の前提となる政治協定が締結された。そこでドイツは91年、三国同盟を更新した(第三次同盟)。このとき、第二次同盟条約では個別協定となっていたオーストリア、イタリア間のバルカン協定、ドイツ、イタリア間の北アフリカ協定を同盟条約に一本化し、有効期間6年、延長6年の条約として強化した。条約は1902年(第四次同盟)、12年(第五次同盟)と更新されたが、この間情勢が変化していた。
[藤村瞬一]

消滅

エチオピア侵略に失敗(アドワの大敗、1896)したイタリアは、これを機にドイツ・オーストリアとの協力からフランスとの友好に転じ、仏伊協定(1902)を結ぶに至ったのである。さらにイタリアはイタリア・トルコ戦争(1911~12)の結果、リビアを得てからはいっそうフランス(チュニジア)、イギリス(エジプト)との友好関係を必要とし、ここに三国同盟はまったく形骸(けいがい)化した。したがって第一次大戦の勃発(ぼっぱつ)(1914)に際しても、イタリアは同盟側にたって参戦せず、逆に1915年のロンドン密約によって協商側について参戦した。かくして三国同盟はついに効力を発揮することなく消滅した。
[藤村瞬一]

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4. さんごくどうめい【三国同盟】
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5. 三国同盟
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6. 三国同盟(日独伊三国同盟)
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7. 三国同盟戦争
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8. 日独伊三国同盟
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9. 日独伊三国同盟
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10. にちどくい‐さんごくどうめい【日独伊三国同盟】
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11. にちどくいさんごくどうめい【日独伊三国同盟】
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12. 日独伊三国同盟
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13. にちどくいさんごくどうめいとたいへいようせんそう【日独伊三国同盟と太平洋戦争】 : 近代
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14. 日独伊三国同盟/日本国、独逸国及伊太利国間三国条約
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15. 浅間丸事件
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16. あしがらじょうあと【足柄城跡】神奈川県:南足柄市/矢倉沢村地図
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17. あしづ-うずひこ【葦津珍彦】
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18. アステカ文明 5ページ
文庫クセジュ
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文庫クセジュ
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文庫クセジュ
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22. アステカ文明 35ページ
文庫クセジュ
 当初は、テノチティトラン、テスココ、トラコパンのあいだで締結された、三国同盟の協定にしたがって、最初の二都市はそれぞれ、租税の五分の二ずつを徴収し、残りの五分
23. アステカ文明 53ページ
文庫クセジュ
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24. あつはらむら【厚原村】静岡県:富士市/旧吉原市・鷹岡町地区
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25. 阿南惟幾
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26. あべ-かつお【阿部勝雄】
日本人名大辞典
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27. あべないかく【阿部内閣】画像
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28. アメリカ合衆国画像
世界大百科事典
拡大するにつれて,日米関係は悪化したが,太平洋戦争に至る緊張の直接の引金となったのは,日独伊三国同盟の締結と日本の南方進出,それに対するアメリカの強硬な反発であ
29. 有田=クレーギー会談
世界大百科事典
ことになった。会談を前に,東京では右翼を中心とする排英運動が展開されたが,その背後には日独伊三国同盟の締結をねらう陸軍の煽動があったとされている。7月15日から
30. ありたはちろう【有田八郎】
国史大辞典
抑制しようと努力した。なかんずく平沼内閣時代、板垣陸相らの主張するソ連のほか英仏をも対象とする日独伊三国同盟論に対し、対象はソ連に限るべきであると米内海相ととも
31. アントネスク
日本大百科全書
国土の3分の1が周辺諸国に奪われた1940年の危機に際して国王に請われて首相に就任、ドイツ軍の領内進駐を認め、三国同盟に加入した。鉄衛団の支持を得て独裁制を敷い
32. イギリス
世界大百科事典
,東アジアにおける日英の利害関係はしだいに対立し,とくに満州事変を経て日中戦争の勃発,日独伊三国同盟の締結,日本の南進政策で全面的に対立して日英戦争となった。 
33. イギリス史画像
日本大百科全書
捨てて日英同盟を結び、続いてイギリス・フランス協商、イギリス・ロシア協商によって三国協商を形成し、三国同盟(ドイツ、オーストリア、イタリア)と対立した。その結果
34. イギリス・フランス海軍協定
日本大百科全書
交換公文に基づき、翌1913年1、2月に両国海軍当局の間で締結された三つの協定。ドイツまたは三国同盟との戦争に両国が連合した場合、フランス海軍は地中海に集中し、
35. いしいきくじろう【石井菊次郎】
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36. いしかわしんご【石川信吾】
国史大辞典
日中戦争勃発時には、知床艦長。同十三年一月青島海軍特務部長。同十四年十一月興亜院政務部第一課長。日独伊三国同盟の成立に努めた。同十五年十一月軍務局第二課長(政策
37. いしかわ-しんご【石川信吾】
日本人名大辞典
大正-昭和時代前期の軍人。明治27年1月1日生まれ。海軍の参謀畑をあゆみ,ナチスドイツなどを視察。日独伊三国同盟の成立に活躍する。昭和15年軍務局第二課長となり
38. いしわたそうたろう【石渡荘太郎】
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ことに彼は文麿の期待を容れることが多かった。平沼内閣の政治課題は近衛内閣から持ち越された日独伊三国同盟締結の可否であったし、のちの米内内閣の書記官長でもこの問題
39. 板垣征四郎
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平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣にも留任して、汪兆銘(おうちょうめい)政権工作を推進し、三国同盟問題で強硬態度を示した。のち朝鮮軍司令官、第七方面軍司令官と
40. イタリア画像
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国でファシズム政権が誕生し、1937年(昭和12)の日独伊三国防共協定の成立から1940年の三国同盟の締結へと政治的、軍事的にもっとも親密な関係を結び、第二次世
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uglielmo Oberdan(1858―82)である。三国同盟はこの運動を抑圧したが、運動は衰えなかった。20世紀に入り、三国同盟の存続にもかかわらず、英仏
44. イタリア史画像
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45. 井上成美
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長に就任し、米内光政(よないみつまさ)海相、山本五十六(やまもといそろく)次官とともに日独伊三国同盟締結に反対した。1940年航空本部長として軍令部の大艦巨砲主
46. いのうえ-しげよし【井上成美】画像
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奪い返し,本格的に三河経営に着手した。その間隙をぬって北条氏が駿河に侵入したが,54年,北条氏康,武田晴信と三国同盟を結び東方を安定させ西進策を整えた。60年駿
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