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日英同盟

ジャパンナレッジで閲覧できる『日英同盟』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
日英同盟
にちえいどうめい
日露戦争前から第一次世界大戦後のワシントン会議直後まで日英間に結ばれていた同盟条約。

〔由来〕

明治三十一年(一八九八)三月十七日イギリス植民相チェンバレンは、ロンドン駐在の日本公使加藤高明を招き、ロシアの進出に直面する極東の国際情勢について日英両国の利害を論じ合ったが、それからおよそ二ヵ月後の五月十四日バーミンガムで演説し、日英米三国の同盟協力を説いた。しかしこの時点ではまだ客観的情勢が熟していなかったとみえて、日英同盟問題は正規の外交交渉のテーブルには載せられなかった。ついで明治三十三年夏の義和団事件を経てロシアが満洲(中国東北)・華北・朝鮮半島へ力の浸透を計ると、これへの対処に苦慮するイギリスと日本は、ドイツを誘引してロシアにあたることを考えた。これに対してドイツ帝国宰相ビューローは明治三十四年三月十五日に国会で演説し、満洲は英独協定の適用範囲外であると宣言したが、それにもかかわらずその直後の三月十八日、ロンドン駐在のドイツ大使館一等書記官(臨時大使代理)エッカルトシュタインがイギリス外相ランズダウンならびに駐英日本公使林董を個別に訪問し、日英独三国同盟案を説いた。林公使は四月十七日にランズダウン外相と会談し、イギリスもまた極東で日英両国の利益を擁護するための協定に関心をもつという心証を得たが、しかしその後の会見ではこの件についてなんらの確認も得られなかった。その後の英独交渉の経過は十分には明らかにされていないが、五月に入るとそれはすでに中断されていた。日本でもまた五月十日には第四次伊藤内閣が辞職し、ようやく六月二日に第一次桂内閣が成立するという政変があったので、日英同盟問題もまた一時中断の状態におかれた。

〔成立〕

一時中断された日英交渉が再開されたのは、当時賜暇帰国中の駐日公使マクドナルドとロンドン駐在の林公使との会談によってであった。これは七月十五・十六の両日に行われたが、この会談を通じて林公使は「英国政府にて何故にや頻りに日露の相合同するを恐れ居る模様」という印象を得た。ついで七月三十一日にはランズダウン外相が林公使に向かって、「朝鮮に於ける日本の利害はトランスバールに於て英国の有するものと等し」と語った。これらのイギリス側の意向について報告をうけた桂太郎首相は、対露妥協論者の元老伊藤博文および井上馨を説得することにかかったが、伊藤はみずからペテルスブルクを訪問してロシアとの妥協の可能性を探りたいと考え、エール大学で名誉学位を受けるためのアメリカ訪問を利用してロシアまで旅程を伸ばすこととした。伊藤が横浜を出航した翌日、駐清公使として義和団事件の善後処理にあたっていた小村寿太郎が北京から帰り、それから二日後の九月二十一日に外相に就任した。清国での経験から対露強硬・日英提携の立場を固めていた小村は、就任後ただちに最初の同盟条約試案を作り、十月七日に桂首相・山本権兵衛海相・児玉源太郎陸相の了承を得たうえ、十月八日にはロンドンの林公使に正式な同盟交渉に入る権限を与えた。こうして十月十六日の第一回公式会談をもって林公使とランズダウン外相との間で日英同盟交渉が開始され、十一月六日にはランズダウン外相から林公使にイギリス案が手交された。他方、十一月四日パリに到着した伊藤はこの地でロンドンの林公使および本国政府と連絡をとり、十一月二十七日ペテルスブルク到着、ラムスドルフ外相およびウィッテ蔵相と会談を重ねたのち、十二月四日ベルリンに向かって出発した。もちろん伊藤はなんらの約束をも取りかわさなかったが、十二月六日ベルリンから本国政府に打電し、日英同盟交渉の一時延期を進言した(八日夜到着)。けれども日本ではすでに十二月七日の元老会議で同盟問題についての態度を決定しており、桂首相は十二月九日に天皇の裁可を得た。これ以後交渉は最後の詰めに入り、明治三十五年一月三十日ランズダウン外相と林公使によって日英同盟協約が署名され、即日発効するとともに、二月十一日には東京とロンドンで同時に発表された。

〔内容〕

この同盟協約は、協約文と秘密交換公文との二つから成っていた。前者は、極東における日英両国の利害と希望をうたった前文のほか、本文六ヵ条から成り、第一条は清韓両国における日英両国の「特別ナル」「格段ニ有スル」利益の尊重とその防衛についての相互承認、第二条は中立義務、第三条は参戦義務、第四条は第三国との別約の条件、第五条は通告義務、第六条は条約期限(五ヵ年)を、それぞれ規定していた。また秘密交換公文は、両国海軍の共同行動と極東海域における優勢維持を約束していた。この交換公文にもとづいてこの年の五月には横須賀で、また七月にはロンドンで陸海軍当局者が会合し、さらに十一月には東京で海軍当局者が協議したが、これらの経験を通じて日本の軍当局者は、来るべきロシアとの戦争のばあいイギリスとの軍事協力の可能性が現実にはきわめて小さいことを自覚せざるを得なかった。日露開戦が目前に迫っていた明治三十七年一月一日、日本政府はイギリスに対して軍事的援助を求めず、ただ財政上の援助のみを期待するむね、林公使を通じてランズダウン外相に申し入れた。それから四十日後の二月十日、日本はロシアに宣戦した。

〔改訂〕

明治三十八年一月二日旅順要塞が陥落し、戦況が日本に有利に傾いたなかで日英同盟協約調印三周年記念祝賀会が開かれ(二月十五日)、この席上で小村外相が日英同盟継続強化の希望を述べると、イギリスはこれを歓迎する反応を示した。日本では四月八日に閣議を開き、まず韓国を完全に保護国化するという基本方針を確定するとともに、同じ日の閣議で日英同盟協約の継続と改訂について交渉を開始することを決定した。しかし実際に交渉が開始されたのは五月十七日の林公使とランズダウン外相の会談からであって、この日から三ヵ月足らずの折衝ののち、八月十二日には第二回日英同盟協約が調印された。新約款の内容は、三項の目的を掲げた前文のほか、八条から成り、インドをも同盟の適用範囲に含ませること(前文および第四条)、前協約のような防禦同盟ではなく攻守同盟に改めること(第二条)、韓国に対する日本の保護権を承認すること(第三条)、イギリスのインド領有および防衛の権利を承認すること(第四条)、有効期間を十年とすること(第八条)、などを規定していた。したがってこの協約は大正四年(一九一五)まで有効のはずであった。ところが日露戦後の国際情勢の激変によってこの協約は期限に先立って更改されることになった。というのは、明治四十二年十一月―十二月におけるアメリカ国務長官ノックスの満洲鉄道中立化提案およびこれに対する翌年七月の日露第二回協約の成立によって、日英同盟協約はいまやアメリカに対する牙ともなりうる可能性をもつこととなったからである。そこでこの牙を抜くために英米間で総括的仲裁裁判条約締結の気運がおこると、これと日英同盟協約との関係を調整しなければならなくなった。このような背景のもとで実現されたのが再度の協約改訂であって、明治四十四年七月十三日ロンドンで第三回日英同盟協約が調印された。この改訂協約の最大の特色は、締約国の一方が第三国と総括的仲裁裁判条約を結んだ場合、その締約国は前述の第三国と交戦する義務を負わないことを規定した(第四条)ことによって、アメリカをこの協約の対象から除外した点にあるが、そのほか前協約から韓国に関する条項およびインド国境防衛に関する条項が削除された。日本政府はこの「協約改訂ノ大目的ハ期限ノ延長ニ在」りとなし、有効期間を調印の日から十ヵ年と規定した(第六条)。したがって第三回日英同盟協約は大正十年まで効力をもつこととなったのである。

〔廃棄と意義〕

第一次世界大戦の結果ドイツ帝国が消滅した後も日英両政府は同盟関係の継続を望んでいたが、これに対してアメリカ政府は疑義を呈し、その更新を阻止することによって極東における日英の共同行動を抑止しようと考えていた。この問題は第一次世界大戦後における世界秩序の再建や軍備縮小の課題と密接に関連していたから、結局大正十―十一年のワシントン会議で採り上げられることになり、その結果大正十年十二月十三日調印のいわゆる「四国条約」中の規定(第四条)によって第三回日英同盟協約の廃棄が確定された。ただしその終了の期日はその「批准書寄託ノ時」となっていたから、第三回日英同盟協約は大正十二年八月十七日まで効力をもったわけである。こうして日英同盟協約は二度の改訂を経て明治三十五年一月から大正十二年八月まで、つまり日露戦争前から第一次世界大戦後まで「帝国外交ノ骨髄」(小村外相の言葉)であった。けれどもその間に日露戦争および第一次世界大戦を経験し、国際政治構造の根本的転換に遭遇したのであるから、その標的や意義が各時期によって変転したのも当然であった。その第一回協約はもちろん、第二回協約も初期にはロシアを標的とするものであったことはいうまでもないが、しかし一九〇七年八月の英露協商によってこの両大国の歴史的妥協が実現されると、以後日英同盟もまた標的をドイツにおきかえ、大正三年日本は日英同盟協約を根拠としてドイツに宣戦した。しかし一九一八年にドイツ帝国が消滅すると、以後日英同盟は西および南太平洋における日本の優勢をイギリスが支持する保証書のようなものになった。これは場合によってはアメリカに対して牙となるものであった。そのうえ日英同盟協約は、両国の勢力範囲を相互に承認し、国益を排他的に保障し合う軍事的同盟条約であったから、これがウィルソン以後の「新外交」と相容れないものであったことはいうまでもない。顧みれば、二十一年の生命を保った日英同盟協約こそ十九世紀的「旧外交」の最後の象徴的存在であったといってよいであろう。
[参考文献]
外務省編『日本外交年表並主要文書』上
(中山 治一)


日本大百科全書(ニッポニカ)
日英同盟
にちえいどうめい

最初はロシア、のちドイツを対象とした日本とイギリスの軍事義務を伴う同盟。1902年(明治35)1月30日成立(第一次協約)。以後、第二次、第三次と継続更新されたのち、1923年(大正12)8月17日の日本、アメリカ、フランス、イギリスによる四(し)か国条約の発効により終了するまで、およそ20年6か月にわたり存続し、日本外交政策の骨髄と称された。
第一次協約をめぐる交渉は、北清(ほくしん)事変後中国をめぐる列強の対立とロシアの満州占領をきっかけに始められた。強大なロシア陸軍を牽制(けんせい)する必要からイギリスは「栄光ある孤立」を捨てて日本に接近した。日本では元老伊藤博文(いとうひろぶみ)らが満韓交換による対ロシア妥協の道を模索したが、小村寿太郎(こむらじゅたろう)外相を中心とする政局担当者は、ロシアと協商してもいずれ対決は避けられないとみて、駐英公使林董(はやしただす)に交渉を命じた。その結果、締約国が他の一国と戦争状態に入った場合に、同盟国は中立を守り他国の参戦防止に努める。また二国以上と戦争状態に入った場合は同盟国は参戦することを義務づけた同盟協約がロンドンで調印され、同時に海軍の協力に関する秘密公文が交換された。公文の趣旨に基づき同年中に軍事当局による協議が進められたが、日本は対露戦争に単独で臨む方針をとり、イギリスに軍事援助でなく財政援助を期待すると申し入れ、イギリスは好意的中立を約した。
第二次協約は日露戦争末期の1905年(明治38)8月12日に調印されたが、第一次協約が「日本が現に韓国において有する優勢な利益を擁護する」と定めていたのに対し、第二次協約は適用範囲を拡大してインドをも含めることとした。したがって協約の目的は、東アジアおよびインドにおける全局の平和の確保、日英の領土権の維持ならびに日英両国の特殊利益を防護するものになり、同盟の性格も防御同盟から攻守同盟に変更された。なお1907年日露協約、英露協商が成立したのちはしだいにその性格をかえてドイツを対象とするようになった。第三次協約はアメリカの対日世論が悪化するなかで1911年7月13日に調印されたが、アメリカを同盟の適用範囲外とした。それはイギリスがアメリカと交戦する可能性を消去するためであった。
第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、日本はこの同盟を理由に連合国側にたってドイツに宣戦を布告し、青島(チンタオ)のドイツ租借地や南洋群島を占領した。第三次協約の期限が到来する1921年(大正10)7月を前に、中国をめぐってイギリス・アメリカと日本との対立が表面化すると、アメリカは、日英同盟が勢力範囲を相互に保障する排他的・軍事的な旧式外交の象徴であり、普遍的な国際協力による平和と安定を目ざす理想主義外交に脅威を与えるものとみなすようになった。そして太平洋の現状維持と領土保全を定めた四か国条約による置き換えを図り、実現した。
[藤村道生]



改訂新版 世界大百科事典
日英同盟
にちえいどうめい

1902年から23年まで継続した日本とイギリスの間の攻守同盟条約。日本が朝鮮,中国に勢力拡大をはかるに際し,北方の帝政ロシアに対抗するため,東アジアにおけるイギリスの勢力を利用する傾向は,すでに日清戦争のときにみられる。イギリスもまたアジアにおける自国の利益を守るうえでロシアと対立しており,〈光栄ある孤立〉の伝統を放棄して同盟国を求める方向にあった。1900年中国で起こった義和団の蜂起と列国によるその鎮圧は,イギリスをして東アジアにおける日本の軍事力に注目させる機会となったし,また日本は義和団事件中に行った厦門(アモイ)占領計画に失敗し南進の企画をくじかれ,一方,ロシアの満州駐兵が進み,日本が朝鮮,中国への侵略をはかるうえで,北方のロシアとの対立が深刻化した。こうしたなかで,01年4月,林董(ただす)駐英公使は日英間の永久的協約について見解を表明し,10月には日本政府は林公使に日英同盟商議の権限を正式に付与した。日本国内では,日露協商を説く伊藤博文らと,日英同盟を要求する桂太郎らの意見が対立,確執を生じもしたが,結局,02年1月30日,ロンドンで林駐英公使とランズダウン外相の間で日英同盟協約が調印され,即日実施された。

この第1回日英同盟協約は6ヵ条からなり,イギリスの中国における,日本の中国,朝鮮における利益保護のための共同行動(1条),締約国のいずれかが利益保護のため第三国と交戦するときは他の締約国は厳正中立を守る(2条),締約国の一方が2国以上と交戦したときには他の締約国は参戦の義務を負う(3条),この協約を損なう内容の第三国との協約締結の禁止(4条),利益が危険に瀕(ひん)したときの相互通知義務(5条)などを取り決め,期間は5年と定められた。この協約がロシアを対象としていたことは明らかであるが,同時に第1条には〈清国又ハ韓国ニ於テ両締約国孰(いず)レカ其臣民ノ生命及財産ヲ保護スル為メ干渉ヲ要スヘキ騒動ノ発生〉した場合にも,両締約国は〈必要欠クヘカラサル措置ヲ執リ得ヘキコトヲ承認ス〉と明記されており,中国,朝鮮における民族運動を抑圧する目的をもっていたことも看過されてはならない。したがって日露戦争が日本に有利に進展し,日本の韓国に対する独占的支配が強まるなかで,日露講和条約を前にして,この日英同盟協約は改訂(1905年8月12日,林董駐英公使,ランズダウン外相が調印)され,イギリスは日本が韓国において〈指導,監理及保護ノ措置〉をとることを承認し,それと引換えに日本はイギリスがインド国境付近で特殊利益をもち,それを守るためにイギリスがとる措置を承認するなど,両国のアジアにおける植民地支配を承認・擁護する内容を強め,期間も10年に延長された。

しかし,日露戦争後,中国をめぐって日露が接近し,それと英米との対立の兆しがあらわれ,日英同盟もロシアを対象とするというよりも,ヨーロッパでイギリスが対立を深めつつあったドイツに対する牽制としての意味をもつようになった。このような国際状況を反映し,日英同盟協約は1911年7月13日改訂(加藤高明駐英大使,グレー外相が調印)され,その第4条で,すでにイギリスが〈総括的仲裁裁判条約〉を締結していたアメリカに対しては,この協約は適用されないことが規定された。14年の日本の第1次世界大戦への参戦は,日英同盟協約の〈協同戦闘〉の義務を理由として行われたが,この大戦の結果,国際関係は一変し,とりわけ東アジアにおいて日本と英米との対立は激化した。その結果,21年12月13日,ワシントン会議で調印された〈太平洋方面に於ける島嶼(とうしよ)たる属地及島嶼たる領地に関する四国条約〉の第4条で,日英同盟協約の〈終了〉が明記され,四ヵ国条約が実施された23年8月17日に失効した。
[中塚 明]

[索引語]
林董
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1. 日英同盟
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5. 日英同盟協約・日英同盟
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元老会議に意見書を提出、日英同盟を主張.元老会議、 日英同盟修正案 を可決(12月9日、桂首相、天皇の裁可を得る)。 1902年〈明治35 壬寅〉 1・30 日
6. アスキス(Asquith, Herbert Henry, 1st Earl of Oxford and A.)
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で発効を延期される.大戦勃発に際して,イギリスは参戦する外交上の義務はなかったが(攻守同盟は日英同盟のみ),ドイツがフランスを圧倒してドーヴァー海峡対岸地域を支
7. アメリカがっしゅうこく【アメリカ合衆国】
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わずかに国際連盟案をおりこむことに成功しただけだった。極東では、日本はヨーロッパの混乱に乗じて日英同盟を口実に独に宣戦布告し、極東と太平洋の独領と権益を獲得、さ
8. アーネスト・サトウ 神道論 300ページ
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拝が実施される)、日清戦争(同二七年)、三国干渉(同二八年)、不平等条約の改正(同三二年)、日英同盟(同三五年)、日露戦争(同三七年)と続く。 彼は明治新政府が
9. アーネスト・サトウ伝 156ページ
東洋文庫
日英同盟を経て日露戦争へ さらに五ヵ月で日英同盟(一九〇二年(明治三十五年)一月三十一日)は完全に成立した。この同盟により、日本があるヨー・ッパ列強国と交戦し
10. アーネスト・サトウ伝 157ページ
東洋文庫
拒むとの決定をした。イギリス軍艦は冬期間イギリス国旗を掲げてとどまるよう命令を受け、翌一月イギリスが日英同盟に調印することによって、・シアの侵略に対抗する姿勢を
11. アーネスト・サトウ伝 189ページ
東洋文庫
以て両国に迫り、談判の継続は阻止したものの、間もなく勃発する日露戦争への伏線となった。(24) 日英同盟 露清密約に対して共同歩調をとった日英両国は、満州におけ
12. アーネスト・サトウ伝 3ページ
東洋文庫
35に二一ノレ,E.S.」. 22,30,39,42新潟領事職 103ニコライ二世 158二条斉敬 75日英同盟 156日米修好通商条約 25日露戦争 156日
13. イギリス画像
日本大百科全書
さらに日清(にっしん)戦争後はロシアの進出に対抗して極東を重視する政策をとり、1902年(明治35)日英同盟を締結し、相互援助を約した。この同盟条約によって日本
14. イギリス
世界大百科事典
1902年に締結された日英同盟は2次にわたって更新され,日本は対ロシア問題,大陸問題についてイギリスの極東の憲兵としての役割を果たした。21年のワシントン会議で
15. イギリス【England】
国史大辞典
おびやかされたので、伝統的な孤立政策を捨て、日本と同盟関係に入った。一九〇二年(明治三十五)の日英同盟の成立がそれであって、この同盟は一九〇五年および一一年の二
16. イギリス史画像
日本大百科全書
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17. イギリス史(年表)
日本大百科全書
9~1902第二次ブーア戦争1900労働代表委員会結成1901オーストラリア連邦成立1902日英同盟成立(~1921)1904イギリス・フランス協商成立1906
18. 石井菊次郎[文献目録]
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1‐11』久保田貫一(編)『外交随想 遺稿』石井菊次郎『新任石井駐米大使と帰任林駐支公使』-『「日英同盟秘話」と石井菊次郎』今井庄次
19. いとうないかく【伊藤内閣】画像
国史大辞典
情勢、わけても満洲をめぐるロシアの動向は日本にとって深刻な重圧となり、事態の打開に日露協商か日英同盟かの選択が迫られようとし、海軍の拡張がいよいよ急がれつつあっ
20. いとうないかく【伊藤内閣】 : 伊藤内閣/〔第四次〕
国史大辞典
情勢、わけても満洲をめぐるロシアの動向は日本にとって深刻な重圧となり、事態の打開に日露協商か日英同盟かの選択が迫られようとし、海軍の拡張がいよいよ急がれつつあっ
21. 伊藤博文画像
日本大百科全書
めぐる閣内不統一のため総辞職した。この年日英同盟論がおこると、日露協商の可能性に期待して訪露するが、具体的な成果は得られず、結果的には1902年の日英同盟締結を
22. 伊藤博文
世界大百科事典
閣との折衝を任とする一方,元老として日露協商の可能性を打診するため訪露するが,政府の推進する日英同盟の交渉が先行して予期した成果は得られなかった。また,野党化し
23. いとうひろぶみ【伊藤博文】
国史大辞典
政友会総裁としての伊藤は党内統制にいたく苦しむとともに、また内政面では地租増徴継続問題を巡り、外交面では日英同盟推進か日露協商打診かを巡り、桂内閣との間にはなは
24. 伊藤博文[文献目録]
日本人物文献目録
井上聞太と伊藤俊輔』奈良本辰也, 松浦玲『伊藤博文と山県有朋』時野谷勝, 梅渓昇『伊藤博文と日英同盟』A・ステッド(著), 綱淵謙錠(訳)『二十世紀を動かした人
25. 伊藤正徳
世界大百科事典
海外特派員として,また海軍通の記者として名をあげる。とくに21年ワシントン軍縮会議における〈日英同盟の廃棄と4ヵ国条約の成立〉のスクープは有名。28年同編集局長
26. いとう-まさのり【伊藤正徳】
日本人名大辞典
軍事評論家。明治22年10月18日生まれ。大正2年時事新報社にはいり,10年のワシントン軍縮会議で日英同盟の廃棄,四か国条約の成立をスクープ。昭和25年社長。戦
27. 改訂新版 英国史 143ページ
文庫クセジュ
、中国の領土保全という原則に立って一九〇二年に同盟を結んだ。日露戦争に日本が勝利をえた後も、日英同盟は改訂されて(一九〇五)、極東における現状維持に役立つものと
28. 改訂新版 英国史 222ページ
文庫クセジュ
R. C.》結成. 1901 エドワード7世即位(サックス・コーバーグ・ゴータ家. 1902 日英同盟締結. 1903 L. R. C.政治基金設定(→労働党誕
29. エッカルトシュタイン(Eckardstein, Hermann Freiherr von)
世界人名大辞典
事官および代理公使に登用され[1889-1901],英独同盟交渉[01]に主動的役割を演じ,日英同盟成立の機をつくったが,英独同盟は成立しなかった.第一次大戦後
30. エリオット(Eliot, Sir Charles Norton Edgecumbe)
世界人名大辞典
リアに出兵すると,英国高等弁務官として同地に赴く.のち駐日大使として来任し[19:大正8],日英同盟廃棄後の新たな日英関係の枠組み作りに努力したが,東アジア政策
31. おおくまないかく【大隈内閣】画像
国史大辞典
倶楽部の支持を得て組閣に成功した。内閣成立後約三ヵ月にして第一次世界大戦の勃発に遭遇すると、日英同盟を理由にドイツに宣戦を布告し、山東半島に出兵してドイツの租借
32. おおくまないかく【大隈内閣】 : 大隈内閣/〔第二次〕
国史大辞典
倶楽部の支持を得て組閣に成功した。内閣成立後約三ヵ月にして第一次世界大戦の勃発に遭遇すると、日英同盟を理由にドイツに宣戦を布告し、山東半島に出兵してドイツの租借
33. 大本神諭 天の巻 民衆宗教の聖典・大本教 149ページ
東洋文庫
(大正三)七月、オ!ストリアとセルビアの間で 戦端が開かれ、世界大戦に拡大した。日本は同 年八月、日英同盟を理由に参戦し、ドイツに宣 戦を布告した。〔大正
34. 尾崎秀実時評集 日中戦争期の東アジア 95ページ
東洋文庫
『そこで山県公は日本の存在が如何に「東洋永遠の平和と支那領土の保全」との為めに有益であつたかを日英同盟や日露戦争や日独戦争の実例に依つて立証した後「彼等(支那)
35. おんな二代の記 124ページ
東洋文庫
日露開戦のころは事あるごとに日英同盟が口にされ、学校で君が代を歌うときには必ずイギリス国歌もうたい、国旗を立てるときには日の丸とユニオンジャックを交叉し、提灯
36. かいせんかてい【開戦過程】 : 日露戦争
国史大辞典
日露交渉は打切られて日英同盟が成立した。それは日本がロシアとの戦争に際してロシアの同盟国フランスの参戦を阻止し、イギリス金融市場での外債募集の可能性を獲得したこ
37. かいてい【改訂】 : 日英同盟
国史大辞典
明治三十八年一月二日旅順要塞が陥落し、戦況が日本に有利に傾いたなかで日英同盟協約調印三周年記念祝賀会が開かれ(二月十五日)、この席上で小村外相が日英同盟継続強化
38. 桂=タフト協定
世界大百科事典
配を承認する。この秘密覚書はその後T.ローズベルト大統領によって追認された。本覚書は,第2回日英同盟,日露講和条約とともに,日本の韓国保護国化,併合への重要な布
39. 桂‐タフト協定
日本大百科全書
している。当時は秘密にされ、公表されたのは24年(大正13)である。日本は、この協定と第二次日英同盟で、韓国保護権の設定について英米の承認を取り付けたとして、同
40. 桂太郎画像
日本大百科全書
難局を切り抜け、その巧妙さは「ニコポン主義」(相手を懐柔するの意)と評された。1902年2月日英同盟の功で伯爵、1907年9月日露戦争の功で侯爵、1911年4月
41. 桂太郎
世界大百科事典
01年5月第4次伊藤内閣総辞職のあと後継首班におされ,山県系官僚を網羅して内閣を組織した。政綱に日英同盟締結の方針をかかげ,02年1月これを実現し,内閣の威信を
42. かつら‐たろう【桂太郎】
日本国語大辞典
経る間にドイツ式兵制の確立、北清事変への出兵などにあたった。明治三四年(一九〇一)以後三回組閣。日英同盟を結び、日露戦争を断行。社会運動を弾圧し韓国併合を行なっ
43. かつらたろう【桂太郎】
国史大辞典
補に推薦され、翌六月二日山県系の官僚を網羅する内閣を組織した。東アジア情勢の緊迫するなかで、日英同盟締結の方針をかかげて、三十五年一月にはこれを実現し、内閣の威
44. 桂太郎自伝
東洋文庫
長州閥嫡流の軍人・政治家として生き,日英同盟・日露戦争・韓国併合を主導した桂は,ニコっと笑ってポンと相手の肩をたたくところから“ニコポン宰相”とよばれた。半生の
45. 桂太郎自伝 21ページ
東洋文庫
陸軍大臣在官中明治三十三年清国事変に於ける功に依り旭日大綬章及び 金四千二百円を授け賜ふ三十五年 日英同盟成る 年五十六 二月廿七日 勲功に依り特に伯爵を陞捜
46. 桂太郎自伝 248ページ
東洋文庫
に依て慎重に慎重を加へ、遂に彼此両国間の意思の相合する域に達し、明治三十五年一月下旬に於て、日英同盟の協議結了を告げ、互ひに同盟の成立をなせり。 従来我が計
47. 桂太郎自伝 256ページ
東洋文庫
殊に韓国の始末は我が国の安危存亡に関するは多言を要せざればなり。故に内閣組織の当初に当り、英国提議し来りたる日英同盟は断然廟議一決して実行したる次第なり。愛に於
48. 桂太郎自伝 258ページ
東洋文庫
するに於ては政府の決心如何云々。此時始めて魯国に関する談は開かれたり。日英同盟は極東全体即ち清国の問題なれども、主として清韓両国に関する保全なれば、其局部韓国に
49. 桂太郎自伝 259ページ
東洋文庫
に任命あり。小村氏の主義は勿論魯国に親しむことは到底一戦の後ならでは六つケ敷と云ふ主義にて、日英同盟は同氏平素の希望するところにて、陪英国との談判を重ね、明治三
50. 桂太郎自伝 260ページ
東洋文庫
可能のことxなせり。一時甘言以て我を遇するは英国との関係目前に迫まり居るが為めなり。故に断然日英同盟を締結するに決心せり。日魯〔英魯力〕両国何れに寄るを可とする
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