20世紀世界史において最も巨大な意義をもった社会変革。マルクス主義者をユーラシア大陸に広がる大国の権力の座につけ,社会主義の名のもとに新しい社会体制をつくり出す一方,反資本主義,反帝国主義の革命運動を全世界に拡大する火元を生み,世界史に革新的な作用を及ぼした。
革命は大きく分けて,1905年の革命(第1次革命)と17年の革命から成り,後者はさらに〈二月革命〉と〈十月革命〉に区分される。この〈十月革命〉は,ロシア革命の全過程の中で最も重要な局面を構成し,マルクス主義にもとづく社会主義社会の実現を目ざす政権を,人類史上初めて誕生させたことで知られる。そのため〈ロシア革命〉という名称が〈十月革命〉と同義に用いられる場合もある。
歴史的前提
20世紀初めのロシアは,フィンランドに自治を認めつつ支配し,ポーランド,カフカスを完全に併合し,東はシベリアより極東までを版図に収めた広大な帝国であった。大ロシア民族が,この帝国の住民を構成する多数の民族を支配していた。国家権力は,身分制的秩序を残しながら,一応独立した司法制度,全身分的地方自治制,国民皆兵制軍隊をもつ,改良された無制限専制君主制であった。経済的には,国家の手で養成された鉄道と重機械工業,外国資本で発展した鉄鋼,石炭,石油業が,自立的に成長した綿工業と併存する後進資本主義的な工業の体系と,地主的土地所有が共同体農民の馬,農具持参の労働で支えられる雇役制的農業構造とが,出稼労働者の低賃金によって結びついていた。このような構造をもつロシアは,1890年代には急テンポの経済成長をとげ,体制的に一応の安定をえていたが,20世紀に入ると,恐慌で経済成長が止まり,構造のひずみからさまざまな運動が噴出しはじめた。まず学園の自由から進んで,政治的自由を要求する学生運動が1899年の全国一斉同盟休校から始まり,1901年3月には首都の路上で警官隊と衝突,死者4名を出した。この間,運動弾圧に徴兵措置を用いた文相は狙撃され,殺されている。
ほぼ同じころ,フィンランドでとられた自治権否定,ロシア化政策に抗議するフィンランド人の請願運動は,1901年9月全人口の2割が署名した請願書を皇帝に提出した。1902年3月には,南ロシアのポルタワ,ハリコフ両県で,農民の激しい地主領襲撃事件が広がった。それは農村の久しい沈黙を破るものであった。1903年になると,1890年代の成長の基盤であった南ロシアの鉱山・工場地帯全域に長期かつ深刻なゼネストがおこった。
このような学生運動,民族運動,農民運動,労働運動が噴出して,体制が動揺する中で,皇帝ニコライ2世は90年代の成長政策の推進者蔵相ウィッテを退け,内相プレーベを重用して抑圧政策をとる一方,山師的人物の献策をいれて,極東での冒険政策をすすめ,1904年1月日露戦争に入り込んだ。この戦争は,国民にまったく不人気であり,かつロシアの軍事力,国力の欠陥を露呈した。同年7月,内相プレーベが首都の路上で暗殺され,代わった内相スビャトポルク・ミルスキーPyotr D.Svyatopolk-Mirskiiは譲歩路線に転換し,〈自由主義者の春〉が現出した。
政治党派としては,20世紀の初めよりマルクス主義者の党であるロシア社会民主労働党(以下〈社会民主党〉と略す)とナロードニキ系のエス・エル党が生まれ,活動していたが,全局を制したのは自由主義者たちであった。反政府的な地主層は,ゼムストボ(地方自治体)代表者の大会を開催して圧力を加え,解放同盟Soyuzosvobozhdenie(カデットの前身)に入っている自由主義的知識人は政治的デモンストレーションを目的とする解放宴会をくりかえし,立憲政治を要求したのである。
第1次革命
1904年末,旅順が陥落すると,ロシア政府の権威は決定的に動揺した。この時を待っていた司祭ガポンは,彼が組織してきた首都労働者の合法的親睦共済団体〈ペテルブルグ市ロシア人工場労働者の集い〉(会員約1万)を動かし,皇帝に改革要求の請願書を提出することに踏み切った。これはプチーロフ工場のストライキの中で進められ,請願行進の形をとることになった。
1905年1月9日(新暦1月22日),政治的自由と国民代表制,8時間労働と団結権を求め,〈私たちの祈りに答えてくれなければ,あなたの宮殿の前で死ぬほかない〉と結んだ請願書をもった十数万の労働者とその家族は,首都の数ヵ所から求心的に冬宮めざして行進を開始した。軍隊がこれに発砲し,政府発表では130人,革命家の見積りでは数百人の死者と数千人の負傷者を出した。憤激は首都中に広がり,学生・市民の同情ストがおこり,他の都市の労働者も抗議ストに入った(血の日曜日事件)。政府は問題を労働者の待遇改善問題と狭くとらえて対応しようとしたが,労働立法に消極的な資本家すら立憲的改革を要求するに至った。2月4日には皇帝の伯父でモスクワ総督のセルゲイ大公がエス・エル党員によって暗殺された。政府もやむなく2月18日には,国民代表を法案の審議に参加させることを約束し,その案の作成を内相ブルイギンAleksandr G.Bulygin(1851-1919)に求める勅書が出された。これは世論をいっそう活気づけることになり,自由主義者は専門職業人連盟を結成し,運動の組織化に乗りだした。
日本海海戦でバルチック艦隊が全滅すると,政府批判はいっそう高まり,6月9~11日にはポーランド第2の都市ウッチで労働者がバリケードをつくって警官隊と衝突,300人以上の死者を出した。一方,6月14日黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで水兵の反乱がおこり,オデッサ市民と交歓し,政府を慄然とさせた。8月6日,きわめて限定された内容の諮問議会(ブルイギン国会)の設置が発表されたが,それではとても国民の満足はえられなかった。おりしもアメリカ大統領の斡旋で,8月10日よりポーツマス講和会議が始まった。全権に起用されたウィッテは,南サハリンの割譲という,ロシアにとっては最小の譲歩で日本との講和を締結することに成功した。8月末,政府が大学,高等教育機関に自治を認めたことは,労働者,市民,政党が大学の構内で政治集会を自由に開くことを可能にした。大学が革命の震源地と化した感があった。
やがて革命の波は10月に最高潮に達する。10月7日,モスクワ~カザン鉄道の労働者がストライキに入ったのに発した全国鉄道ゼネストは,一般労働者,市民のゼネストを導いた。その中で,ウィッテはニコライ2世に譲歩を迫り,ついに10月17日(新暦10月30日),市民的自由と立法議会の開設を約束する〈十月詔書〉が出された。2日後,事実上の首相職である大臣会議議長職を新設する勅令が出され,ウィッテが初代の首相に任じられた。ここに〈自由の日々〉が到来した。だが,〈自由〉を統一スローガンに全国民的な連合をもって進んできた革命は,ここから分解を始めた。
まず労働者は8時間労働の要求を実力で実施する闘争の道に立ち,〈十月詔書〉に満足した資本家と衝突した。農民は,共同体の取り決めで地主に対し,地代引下げ,労働報酬引上げの交渉を行ってきたものだが,10月以降,中央農業地帯とボルガ沿岸地方で激しい地主領地打ちこわしの挙に出た。地主たちは一時は領地放棄を考えたが,やがて実力自衛策をとり,全体として右翼化する。
12月2日,ペテルブルグ・ソビエト,農民同盟,社会民主党両派(ボリシェビキとメンシェビキ),エス・エル党,ポーランド社会党の6者が,国庫への納税拒否を呼びかける〈財政宣言〉を発すると,態勢を立て直し弾圧の機をうかがっていた政府は,翌日,ペテルブルグ・ソビエトの代議員全員を逮捕した。12月7日モスクワで始まった大抗議ストに対し,当局は武装自衛隊に攻撃をしかけ,バリケードをつくって抵抗する労働者をペテルブルグとポーランドからの増援軍によって粉砕した。このとき約700人の労働者・市民が殺された。これは通常〈モスクワ蜂起〉といわれるが,武装した労働者が革命の既得権,解放された空間を防衛しようとしたものである。こうして,危機を脱した皇帝と保守派は約束した大改革を切り下げ,12月11日にまず〈ブルイギン国会〉選挙法を若干手直しした程度の国会選挙法を定め,さらに06年2月20日には皇帝権力に法律裁可の権限を残した国会,国家評議会の二院立法制を発表した。ついに国会開会直前の同年4月23日(新暦5月6日),引き続き皇帝に〈最高専制権力〉が属するとする新国家基本法が公布された。革命の結果は無制限専制から国会,国家評議会の二院によって制限される専制への移行という,きわめて不徹底なものに終わったのである。
4月27日国会は開会したが,自由主義者の党カデット党と無党派急進農民のトルドビキ派が議員の過半数を握り,土地改革を要求して政府と対立した。政府は7月8日国会を解散した。181人の議員たちは,ビボルグに集まって反政府闘争を呼びかけるアピールを発したが,バルチック艦隊の水兵が反乱をおこしただけであった。国会解散とともに首相を兼務するに至った内相ストルイピンが以後精力的に活動し,共同体の解体をねらった改革を推進して,1907年6月3日第2国会解散と同時に,地主勢力を優遇する新国会選挙法を公布し,国会を政府に協力的なものに強引につくりかえた(〈6月3日のクーデタ〉)。政治は以後完全に常態化する。第1次革命を最も長くみる人々も,ここに革命の終りをみる。
再編の行きづまりと第1次大戦
ストルイピンの執権のもとで,経済はふたたび好況を迎え,銀行の力が強くなり,ブルジョア文化が発展したが,第1次革命を生みだした矛盾は,成長の中でかえってより深刻化していった。政治的には皮肉なことに,国会と国家評議会は左と右から専制権力を利用するストルイピンの改革路線を妨害し,彼は目的を達しえず,政治的には無力化した中で,11年9月暗殺されてしまった。彼の死後は皇帝を抑えこめる強力な政治家は現れず,皇帝の恣意が徐々に増大する傾向にあった。ストルイピン改革の柱であった土地改革も農村構造を改革しえず,かえって共同体に立てこもる農民とそこから出た富農との新たな対立を生んだ。労働立法は遅れ,労働者は再び戦闘性を表し,12年プラハ協議会で独自党を結成したレーニン派のボリシェビキをみずからの指導者に選んだ。
注目すべきは,第1次革命の頂点で専制を助ける側にまわった資本家の中から,地主貴族を押しのけて国家の主人公になろうという政治志向が現れたことである。進歩党をつくったモスクワの綿工業資本家コノバーロフAleksandr I.Konovalov(1875-1948)らの右翼自由主義者である。こうして労働者の急進化とブルジョアジーの急進化によって,1914年初夏のロシアには,ふたたび革命的危機が接近していた。ストルイピンは再編のための条件として〈内外における20~30年間の平静〉をあげたのだが,帝国主義諸国家間の対立,バルカンの小国間の対立は,ロシアをまきこみ,ついに14年7月第1次大戦が始まることになった。
交戦列強が経済力,国力のすべてを動員して戦争を遂行するこの総力戦の中で,ロシア国家は解体を始める。大戦はロシア革命の条件を一変させたのである。具体的には,開戦直後にみられた挙国一致的状況は急速に去っていき,14年末には輸送と補給の困難が,すでにまったく危険な域に達していた。15年4月ガリツィアにおけるロシア軍の第一線はドイツ軍の攻撃を支えきれずに後退し,ついでポーランド戦線が総くずれとなって,大退却が始まった。この状況の中で,全工業の動員を主張して軍需生産への参入をめざすモスクワ資本の動きは,戦時工業委員会をつくり出し,国の信任をうる人々よりなる内閣を求める国会多数派〈進歩ブロック〉が形成された。皇帝は皇后とラスプーチンの助言で,敗北の責任者,ロシア軍最高司令官ニコライ大公を解任し,みずからがその後任となった。大臣たちはこれに強く反発し,皇帝と激突した。以後,皇帝は皇后,ラスプーチンに支配され,混乱した政治指導を行っていく。こうして国家解体が本格化した。この事態の中で,皇族も軍部も,国会議員たちも資本家たちも,打開の手が打てずに危機はますます深化していくばかりであった。結局,なされた唯一の行動は,16年12月16日のラスプーチン暗殺であった。しかし,万事手おくれであった。皇后はラスプーチンの愛人であるという流言は,皇帝の国父としての権威を決定的に傷つけていた。
二月革命
革命はふたたび首都の労働者の行動によって始まった。大戦中にペトログラードと改称された帝国の北西隅にある首都では,食糧難,燃料難が最も激しく現れた。しかも全国一の工業都市で軍隊の集結地として,38万の労働者と47万の兵士がいた。資本家の中の急進派と結んだ戦時工業委員会労働者グループは,1917年2月14日の国会再開日に,かつて〈血の日曜日〉に冬宮へ請願行進したように国会へ請願行進をしようと呼びかけた。ボリシェビキなどの反対で,当日の行動は失敗に終わったが,首都中心部でのデモのよびかけは労働者の間でも複雑な反応を呼びおこしていた。
2月23日(新暦3月8日),国際婦人デーにさいして,無名の活動家グループの働きかけで,ビボルグ区の婦人労働者はストライキに入り,〈パンをよこせ〉と叫んでデモ行進を開始した。これに男子労働者も応じ,デモ隊はネバ川にかかる橋を突破して,市の中心部,ネフスキー大通りへ向かおうとした。ストライキは2日目から他の区に広がり,25日には全市ゼネストになった。これを鎮圧するために出動したコサック兵が警察署長を斬殺するという事件がおこり,兵士の命令不服従を予感させたが,26日には兵士たちはデモ隊に向けて発砲し,多くの死者を出した。しかし,この日の鎮圧行動から嘔吐を催す思いで帰った近衛ボルイニ連隊の兵は下士官に率いられて,翌27日(3月12日)朝反乱をおこし,これは近くの2連隊にも波及した。反乱した兵士は労働者と一緒になって,二つの監獄から政治犯を解放させた。釈放された政治犯の一部は,国会の建物に集まり,ペトログラード労働者・兵士代表ソビエト創設のイニシアティブをとった。政府側の軍管区司令官は,この反乱鎮圧のため部隊を出動させたが,この部隊は途中で消えてしまった。
国会はこの日の朝,皇帝の休会命令を受けとって解散することに決めたのだが,事態の急変を知り,本会議場の外で非公式会議を開き,国会臨時委員会を選出した。コノバーロフと提携するケレンスキーは,国会を革命にコミットさせようと努力した。夜になって,国会の建物の中に労働者代表と社会主義政党の代表が集まって,ソビエトの結成会議を開くと,国会臨時委員会は深夜の2時,権力掌握を決断した。翌日各省庁の接収が行われたが,国会の代表者が交通省に入り,鉄道の運行をコントロールしはじめたのは決定的に重要であった。というのはモギリョフの大本営にいた皇帝が,イワーノフ将軍に命じて首都革命の鎮圧軍を出動させていたからである。一方,大本営の軍首脳は国会議長ロジャンコと接触し,皇帝に次々に譲歩を進言していた。
首都では3月1日に兵士が最終的にソビエトに忠誠を誓うことを決議し,これが〈命令第1号〉という文書にまとめられた。労働者と兵士がソビエトに忠誠を示し,官吏と将校が国会臨時委員会に忠誠を誓うというあり方が,いわゆる〈二重権力〉状態である。この基礎の上に,ソビエトの承認のもと,3月2日国会臨時委員会は,首相リボフGeorgii E.L'vov(1861-1925),外相ミリュコーフ,商工相コノバーロフなどの臨時政府を発足させた。この白軍首脳はロジャンコの要請を受け入れ,皇帝に皇太子への譲位を求めた。ニコライ2世はいったんはこれを受け入れたものの,皇太子の病気を考えて,自分の弟ミハイルに譲位するとした。ミハイルはこれを拒否したので,ここに帝政は崩壊することになった。帝政を打倒したのは,一つは〈労働者・兵士の革命〉であり,いま一つは〈ブルジョアジーの革命〉であった。
首都での革命の知らせは全国に衝撃を与え,この二つの革命は全国に拡大したが,それと同時に,この革命の受益者として,農民と被圧迫民族とが,つくりだされた自由の空間の中で革命に立ち上がることになった。農民は共同体単位で行動をおこし,郷(ボーロスチ。郡と村の間の行政単位)のレベルに委員会をつくった。被圧迫民族は,たとえばウクライナでは,3月4日に民族統一戦線としてのウクライナ中央ラーダ(ラーダ)を成立させている。このあとから加わった〈農民革命〉と〈民族革命〉の展開が〈労兵革命〉と〈ブルジョアジーの革命〉の関係に影響してくるのである。
臨時政府は政治犯の大赦,言論・出版・集会・結社の自由,身分の廃止,宗教的・民族的差別の撤廃を実現し,ロシアを〈自由〉な共和国とした。問題は〈平和〉にあった。ブルジョアジーにとって革命は,よりよく戦争するためのものであった。一方,ペトログラード・ソビエトは3月18日,無併合・無償金の講和を実現することをめざすアピールを発した。これは外相ミリュコーフの方針と衝突した。4月20日,首都の兵士のイニシアティブでミリュコーフ打倒,侵略反対のデモがおこり,ミリュコーフは閣外へ去った。ボリシェビキは帰国したレーニンの〈四月テーゼ〉を受け入れ,ソビエト権力の樹立をめざす活動を開始する。他方,ソビエト主流派のメンシェビキとエス・エル党は,この動揺ののち臨時政府に入閣し,連立政府を発足させた。
新政府の外相テレシチェンコ(チェレシチェンコとも呼ぶ)Mikhail I.Tereshchenko(1886-1956)は戦争目的を修正する連合国会議を提唱し,郵政相ツェレテーリはソビエトの主張する線で平和のための国際社会主義者会議を開くことを推進した。陸海軍相ケレンスキーはロシアの国際的地位を上げるために,前線での攻勢を準備しようとした。平和のために戦争するというこの政策は,深い矛盾をはらんでいた。民衆はボリシェビキを突き上げ,6月8日,〈全権力をソビエトへ〉というスローガンのもと,デモを行うことを決定させた。ソビエト主流派はこれを強く非難し,デモを中止させたが,6月18日〈無併合・無償金・民族自決の全面講和〉を要求するデモを主催せざるをえなかった。この6月デモは30万から40万人が参加した大デモとなった。
十月革命
革命の課題は〈自由〉と〈平和〉にとどまらなかった。二月革命によって8時間労働日を獲得した労働者は,工場委員会をつくって権利要求をさらに高めていたが,資本家側は経営権を守るため,この要求を抑え込もうとした。1917年5月末~6月初めペトログラードの工場委員会協議会は,ボリシェビキの指導下に〈労働者統制(労働者による生産の統制)〉の必要を決議した。
農民は〈土地〉を求めていた。5月末に開かれた第1回全ロシア農民大会がエス・エル党の指導下に憲法制定会議で〈土地社会化〉を実現することを決議すると,郷委員会に結集する農民はただちにこれを実現してよいと判断されたものと受けとった。エス・エル党の指導者V.M.チェルノフが農相のポストにあったが,連立の条件にしばられて,農民のこの意欲にこたえる施策を打ち出せなかった。彼がわずかに決定した土地売買・質入れの禁止も,地主である首相以下の強い反発を招いた。被圧迫民族も〈自治〉を求めた。ウクライナ中央ラーダが5月半ばに自治を要求すると,臨時政府はこれを拒否した。6月10日,ラーダはウクライナの自治を宣言した。ソビエトはウクライナ地方の自治を認めるという考えを出し,政府とラーダは協定を結んだが,カデット党から出ている4大臣は抗議して辞任した。
この政府危機に対して,首都の兵士はまたもやイニシアティブをとり,連立の中止,ソビエト権力の実現を求めて,7月3日の武装デモを決行した。ボリシェビキは時期尚早としてデモを中止させようとしたが,果たせず,デモを承認するにいたった。翌日もつづいたデモに,ソビエト主流はボリシェビキの陰謀をみて,弾圧に乗り出した。レーニンは地下に潜行した。しかしボリシェビキは非合法化されず,ソビエト内部の地位を保ちつづけた。デモは抑えたものの,首相リボフは職を投げ出し,前線ではケレンスキーの始めた攻勢がドイツの反攻を招き,危険な状態となった。ようやく4人のカデット党員が個人の資格で入閣することをえて,ケレンスキーを首班とする第2次連立政府が7月24日に成立した。
この政府は〈平和〉を実現する展望をもちえず,前線と国内秩序の維持だけを目的とした。ということになれば,軍人が主役になるのが当然である。新任の最高軍司令官コルニーロフは前線で死刑を復活したのにつづいて,後方でも軍内抗命者(命令に服従しない者)に対してこれを復活することを目ざし,軍事独裁の樹立も辞さない腹であった。8月25日コルニーロフはケレンスキーの譲歩を問題にせず,将軍クルイモフAleksandr M.Krymov(1871-1917)に首都進撃を命じた。政府内のカデット4大臣はコルニーロフ支持を表明し,辞任した。ケレンスキーに残るのは,ソビエトの支持だけであった。
ソビエトは一丸となってコルニーロフ軍を迎え撃つ態勢をとったが,その中核となって働いたのはボリシェビキであった。コルニーロフ軍の進撃ははばまれ,8月31日クルイモフは自殺し,翌日コルニーロフは逮捕された。コルニーロフ反乱の経験は,ソビエト権力を求める声を一般化した。ボリシェビキは連立策をとってきたソビエト右派を除いた左派だけの政権を望んだ。8月31日,首都のソビエトが〈革命的プロレタリアートと農民の代表からなる政権〉を要求する決議を採択したのは,ボリシェビキの力を示したものである。ケレンスキーは新しい権力基盤を求めて,9月に民主主義派会議を開き,いわゆる予備議会を発足させ,コノバーロフを副首相に迎えて,第3次連立政府を発足させた。しかし,地方では農民革命が高揚し,地主邸の焼打ちが広がっており,人々の要求にこたええない政府の命数は尽きていた。
この9月,潜行中のレーニンは臨時政府打倒の武装蜂起の決行を同志に提案したが,党中央委員会はただちには賛成しなかった。とくにジノビエフとカーメネフという古参の大幹部は強く反対し,党外でその態度を表明した。権力掌握への準備は首都ソビエトの議長となったトロツキーの考えで進められ,10月12日反革命からのソビエトの防衛という目的で軍事革命委員会が設置された。この委員会が委員を派遣し,首都の軍事組織を指揮下に収めようとして,軍管区司令部と衝突した。23日夜,臨時政府はこの挑戦を粉砕することを決意し,翌朝よりボリシェビキ側を攻撃した。しかし,24日中に首都内の重要拠点は,ことごとく革命派の兵士と労働者赤衛隊の手に制圧されてしまい,臨時政府は冬宮に孤立した。10月25日(新暦11月7日)午前10時,軍事委員会は臨時政府が打倒されたことを宣言した。冬宮は翌26日,わずかな戦闘の末陥落し,ケレンスキーを除く臨時政府の閣僚全員は逮捕された。
この行動は25日夜11時に開かれた第2回全ロシア労兵ソビエト大会に既成事実として突きつけられた。ソビエト右派は抗議して退場し,残ったボリシェビキと左派エス・エル党,その他若干の党派は,ソビエト権力の行動綱領をもりこんだアピール,〈平和についての布告〉〈土地についての布告〉をレーニンの提案によって可決した。民主的講和と即時休戦,地主の土地の没収,軍隊の民主化,生産に対する労働者統制,憲法制定会議の召集,パンの確保,民族自決権の保障が新しい権力の目標とされたが,注目すべきことは,〈社会主義〉という言葉は含まれていなかったことである。目標については一致があったが,左派エス・エル党に入閣を断られたボリシェビキが,レーニン首班,トロツキー外務人民委員の単独政府を提案すると,他党はすべて反対した。このため単純多数で臨時労農政府,人民委員会議が選出された。
首都を脱出したケレンスキーは,将軍クラスノフPyotr N.Krasnov(1869-1947)の部隊とともに攻め上ってきたが,10月30日,郊外のプルコボで打ち破られた。この日モスクワでも5日間つづいた大戦闘が終わり,臨時政府派が敗北した。11月1~4日には,北部方面軍と西部方面軍司令部があるプスコフとミンスクでソビエト権力が樹立された。こうして十月革命は勝利した。これはボリシェビキと左派エス・エル党を支持する首都およびモスクワの労働者と兵士,北部方面軍・西部方面軍の兵士の組織された力によるものであった。この労兵革命は,農民革命と民族革命に助けられ,ブルジョアジーの革命を打ちたおしたのである。キエフではウクライナ中央ラーダとソビエトは協力して臨時政府側の軍管区司令部を打倒した。11月7日,ラーダもウクライナ人民共和国を宣言した。だが,この革命の過程がはらむ矛盾は,ただちに顕在化した。労兵革命の一方の柱であった革命的兵士集団は,休戦が実現し,階級制の廃止と将校選挙制を中心に軍隊の民主化が実現するとともに,急速に解体していった。
民族革命との対立も早くきた。ウクライナ中央ラーダとロシア人労働者を中心とする地元ソビエトとの対立から,12月にはモスクワ政府は最後通牒をつきつけ,遠征軍を送り込んだ。1918年1月26日ソビエト軍はキエフを占領し,ウクライナ全域は,ひとまずソビエト権力の支配下に入った。農民との関係では,12月に労兵ソビエトと農民ソビエトとの合同がなり,左派エス・エル党が入閣するという進展があったが,農村では農民たちが自力で地主を追い出し,土地を共同体の原理で分配していった。11月に行われた憲法制定会議選挙では,ボリシェビキは善戦したものの,得票率24%の第2党にとどまった。レーニン政府は,この結果は革命の昨日を意味するとして従うことを拒否し,1918年1月5日に開催された憲法制定会議にソビエトの採択した〈勤労被搾取人民の権利の宣言〉の採択を迫り,これが拒まれると,1日で会議を解散させた。1月10日第3回ソビエト大会でレーニンは,ロシアが〈社会主義ソビエト共和国〉であると宣言した。十月革命は社会主義革命としての性格を,このとき明示したのである。
ソビエト政権
〈平和〉の実現は,新政権の最大の課題であった。民主的講和と即時休戦の訴えは交戦列強に拒否され,わずかに東部戦線をなくしたいドイツが応じて,12月9日よりブレスト・リトフスクで講和交渉が始まった。ドイツ側は〈無併合・無償金〉の講和原則を認めなかった。交渉を引きのばし,調印はしないという全権代表トロツキーの努力に対し,ドイツは攻勢に出て,ペトログラード方向へ進撃した。結局,ロシア革命の確実な成功のためには〈息つぎ〉が必要であるとして,即時講和を主張したレーニンの方針が採用され,3月3日,講和条約が調印された。党内でも革命戦争論(ドイツ軍に攻め込ませ,そのことによってドイツ国内に革命を誘発させるという主張)に立つブハーリンらはいっさいの役職から去った。しかし,より重要なのは左派エス・エル党の閣僚が全員辞任し,野に下ったことである。
経済管理の面でも,労働者統制により徐々に工場管理へ進もうと考えられていたが,資本家のサボタージュや逃亡があって,工場を次々に接収せざるをえず,ついに6月28日,すべての大工業の国有化を宣言するに至った。都市と農村の商品流通が止まる中で,土地を自分たちで獲得した農民は,都市に穀物を提供する義務を感じなかった。ドイツ軍の侵入で穀倉ウクライナを占領された革命政権は,残された中央部農村において,富農が隠している穀物を取り上げるとの方針のもとに,武装した労働者を送り込んだ。6月11日には貧農委員会の設置も布告された。下野した左派エス・エル党はこれに強く反発し,7月4日ドイツ大使を殺し,武力反乱をおこした。レーニン政府はこれを鎮圧し,ソビエトの第2党であるこの党を非合法化した。十月革命派のこの武力衝突が,つづく内戦の序幕となった。
内戦と干渉戦争
このときすでに,極東からボルガ川のほとりまでチェコ軍団の反乱により,各地のソビエト政権は次々に打倒されていた。この軍団は,オーストリア軍に徴兵されて捕虜となったチェコ人兵士を中心に組織されたものであった。民族主義的なこの軍団は,ウラジオストクから船に乗ってヨーロッパの戦場へ赴くことになっていたが,その移動中に武装解除を命じられたことから,1918年5月25日反乱をおこしたものであった。時を合わせたかのように,英仏軍1万5000が北のアルハンゲリスクに上陸し,反ソ政権を擁立した。そして8月2日と3日には日本とアメリカがチェコ軍団救出の名目でシベリア出兵を宣言した。日本は10月末までに7万5000の兵力をシベリアと北満(現在の中国東北の北部)に展開させた。連合国は東部戦線再建のため,武力干渉の機会をねらっていたのである。チェコ軍団の反乱によって,サマラ(現,クイビシェフ)に憲法制定会議議員たちが反ソ政権を樹立した。
ソビエト政権は,この危機にさいして赤軍を徴兵制の軍隊に切りかえ,8月30日レーニンが暗殺者に撃たれて重傷を負うと,チェーカーを中心に赤色テロで対抗した。反ボリシェビキ派の中で,チェコ軍団の後押しをうけるエス・エル派と旧軍人,帝政派,リベラルとの対立は根深かったが,9月のウファ国家会議で妥協が成り,5人の執政府のもとに全ロシア統一政府が生まれた。しかし,これは短命に終わった。11月17日陸海軍相コルチャークはクーデタをおこし,最高執政官に就任した。こうして反革命の主役は帝政派の軍人となった。コルチャークは沿海州で日本の支持を受けて勢力を張っていたセミョーノフをも一応指揮下におさめ,全シベリアの支配者としての地位を固めたうえで,19年3月,ウラルから西に向けて総攻撃を開始した。4月にはカザン,サマラに80kmの地点まで進出する。このとき北西部では,エストニアからロジャンコの軍がペトログラードを目ざして侵攻し,挟撃の形をとったのだが,赤軍はがんばりぬき,ついに6月9日チャパーエフVasilii I.Chapaev(1887-1919)の軍はウファを奪還し,コルチャーク軍を押しもどした。すでにシベリアではコルチャーク軍と日本軍に対して,農民パルチザンが立ち上がっていた。中央部の農民はソビエト政権の穀物徴発に苦しみながらも,地主制を復活させかねない帝政派の勝利をおそれ,赤軍を助けた。これが赤軍の勝因の最大のものの一つである。
コルチャーク軍の進撃がくい止められると,こんどは南からデニキン軍が攻め上ってきた。6月24日ハリコフを陥した同軍は,7月3日モスクワへの進撃を開始した。赤軍側の作戦の混乱もあって,デニキン軍の前進はつづき,10月13日オリョールが陥落した。このときもペトログラード方面にはユデニチNikolai N.Yudenich(1862-1933)軍が迫ってきた。軍事人民委員トロツキーの作戦案が,この危機の中で効果を発揮した。これとともに,デニキン軍の背後からアナーキストのマフノに率いられたウクライナの農民軍が攻撃を加えたことが赤軍を助けた。10月20日,オリョールが奪還され,デニキン軍は後退した。12月16日,キエフが解放され,デニキン軍は打ち破られた。
この熾烈な内戦を戦いぬくために,ソビエト政権は〈戦時共産主義〉と呼ばれる経済政策をとった。その第1の柱は〈穀物独裁〉であり,第2の柱は全工業の国有化であった。20年11月,5~10人の労働者を雇う小工場までも国有化された。商品経済は極度の国家統制の中に封じ込められたのであった。政治面でも,共産党の一党国家があるべき姿とされ,組織局と書記局により党機構が整備され,党と国家が一体化した。〈軍事的プロレタリア独裁〉と呼ばれる強力な国家がつくり出された。
内戦・干渉戦は国際帝国主義との闘争で,ロシア革命は世界革命の第一歩と考えられたので,革命的共産主義者を糾合して新しいインターナショナルをつくることが構想された。1919年3月2~6日,共産主義インターナショナル(コミンテルン)第1回大会が包囲下のモスクワで開かれた。ここから世界へ散った代表たちは,各国社会主義運動の左翼を結集して,20年7月23日に第2回大会を開いた。41ヵ国・67組織の代表が集まったこの大会で,コミンテルンを世界党とし,各国共産党をその支部とする規約が決定され,かつロシア革命を植民地従属国に広める〈民族植民地問題テーゼ〉が採択された。
ロシア革命の拡大の最初の実験は,ポーランド戦争によって試みられた。1920年春,ウクライナに侵入し,5月7日キエフを占領した独立ポーランドのJ.ピウスーツキの軍を追って,赤軍はポーランド領内へ進撃を開始した。7月30日には亡命者によって,ポーランド臨時革命委員会が結成された。赤軍がピウスーツキ軍を粉砕してしまえば,この委員会がポーランドの革命政府となったであろう。だが,8月15日トハチェフスキーが率いる赤軍はワルシャワ近郊で進撃を止められ,退却する。革命の軍事的輸出は失敗したのである。
このころ白衛軍の最後の代表者として登場したのが,将軍ウランゲリPyotr N.Vrangel’(1878-1928)であり,彼は1920年6月,4万の兵力を率いてクリミア半島に入った。9月になるとウランゲリ軍はさらに力をつけて,アゾフ海東岸のクバン地方に進出する。この軍隊と戦うにあたって赤軍は,デニキンに対する勝利後,〈脱走兵,裏切者〉として狩り立ててきたマフノ軍とあらためて協定を結んで共闘することになった。11月に両軍の共同反攻は効を奏し,ウランゲリ軍は壊滅した。こうして白衛軍との闘争は終わったが,赤軍とマフノ軍との協力もそれまでであった。赤軍のケルチ解放より10日後には,マフノ軍は〈ソビエト共和国と革命の敵〉と宣言されてしまった。
ソビエト政権は,同じとき,タンボフ県のアントーノフの反乱に苦しめられていた。反乱の指導者アントーノフはエス・エル党員であった。農民たちは,20年の夏から〈人馬の解放〉をスローガンに反政府ゲリラ活動を始め,郡部から共産主義者を一掃した。帝政派の将軍たちが打倒されると,ふたたび当初の農民,エス・エル派と共産党政権との対立が正面に出たのである。多年にわたり農民革命の最大の根拠地であったこのタンボフ県での反乱につづいて,21年3月,これまた常に首都革命の柱の一つであったクロンシタット要塞水兵の反乱(クロンシタットの反乱)が生じた。マフノ軍同様,この二つの反乱は厳しく鎮圧された。レーニンはそのころ,農民との和解を考えていた。すなわち彼は21年3月の第10回党大会で,穀物の割当徴発制を廃止して現物税制を導入し,余剰穀物の販売を許すという新政策を採用した。これはこの年のうちに都市と農村の間の自由な商品経済関係を認めるネップ(新経済政策)体制に発展していった。
このようにして,21年3月のクロンシタット反乱の清算がなされた時点をもって,内戦の終了,大きくはロシア革命の時代の終りをみることができる。これは,2月21日,ただひとつ残ったメンシェビキのグルジア共和国が赤軍の侵攻によって打倒され,ザカフカスが完全にソビエト政府によって制せられたことと見合っている。しかし,極東では日本軍は22年10月までウラジオストクにとどまり,さらに尼港(にこう)事件を口実とした北サハリンの占領は25年までつづけられたのである。それはともかく,1921年には革命と内戦,干渉戦に勝利したソビエト権力は,政治的には一元的な強力な国家となっていた。しかし,国土は荒廃しきっていた。その秋,ボルガの沿岸から恐るべき飢饉が発生し,控えめにみても100万の人が死んだ。だが,全身に受けた傷による多量の失血で顔面蒼白ともいえる,この若き社会主義国の誕生は,全世界に変革を呼び,世界史に衝撃を与えていくのである。
世界への影響
ユーラシア大陸に広がる大帝国におこった社会主義者の革命は,フランス革命に劣らぬ巨大な影響を世界史に与えた。ロシア革命の解放的・祝祭的イメージは,アメリカのジャーナリスト,ジョン・リードにより《世界をゆるがした十日間》(1918)の中で生き生きと伝えられ,世界中に広められた。運動としてのロシア革命を世界中に拡大する政治的メカニズムとなったのは,1919年に発足した共産主義インターナショナル(コミンテルン)であった。人類史上未曾有の世界戦争に苦しみ,新世界を待望していた多くの人々がボリシェビズム,共産主義に福音を見いだした。西欧各国の社会主義政党内の左派は右派と激しく対立し,共産党の結成を急いだ。ロシア革命は1918年にはドイツ革命に続いたが,ここではロシアの道は拒まれ,19年のハンガリー・ソビエト共和国で初めて拡大をみたのだが,それも短命に終わった。
しかし,欧米の各国政府はロシア革命を危険視した。ボリシェビキがドイツと停戦協定を結んだため,初めはドイツを助ける勢力だとみて(レーニンをドイツの手先とした),干渉戦争(シベリア出兵)を開始したのだが,しだいに共産主義の中に恐るべき敵を見いだしていったのである。これと対抗するためには,社会改革を進めて,労働者の体制秩序への統合をさらに加速化させる必要がある。ロシア革命は共産主義運動と指導層の改革意欲との二重の意味で,大戦後の西欧に革新的効果を及ぼしたのである。
さらに帝国主義的世界秩序において被圧迫民族の解放という理念をかかげたロシア革命は,大戦の中で動きはじめた植民地の民衆に一つのはっきりした方向性を与え,民族解放運動の高揚を促した。この面でコミンテルン第2回大会で採択された〈民族植民地問題テーゼ〉が大きな役割を果たした。具体的には,中国に及ぼした影響が最も大きく,ロシア革命は孫文に始まり毛沢東に終わる中国革命を用意することになるのである。
この面と密接に関係しているが,ロシアの革命政権が従来の国際秩序の否定者として,一種のアウトサイダー国家となったこと自体も,国際政治に新しい要素をもたらしたといえる。革命政権はロシア帝国の巨額の対外債務を引き継がないと宣言し,秘密条約を暴露してしまった。大戦後のヨーロッパに生まれたベルサイユ体制からソビエト・ロシアは排除されたが,このことはベルサイユ体制の圧迫下におかれた敗戦国,戦責国のドイツがロシアと接近する条件となった。1922年両国はラパロ条約を結び,やがて秘密裏に軍事面の協力関係に入るのである。
アジアや中東の国々もソビエト・ロシアとの間に新しい外交関係をつくることができた。中国に対する1919年7月のカラハン宣言は中国に対する権益の放棄を宣言して,世界の人々に強い印象を与えた。ソビエト・ロシアとの関係は,イギリスからの独立を宣言したアフガニスタンにとっても一つのよりどころとなった。もとよりソビエト・ロシアの政策が時として国益優先に傾いたが,ロシア革命の生んだ国家の存在は,西欧列強から自立した道を歩もうとする国々にとって,依拠しうる別の対抗力を意味したのである。
ロシア革命の影響は政治・外交の面に限られず,広く思想・文化の面にもあらわれた。西欧世界の危機を感じとっていた知性は,この革命から受けた精神的衝撃を糧として,現代思想と芸術の新しい模索を進めたのであった。
[和田 春樹]
日本への影響
ロシアの二月革命の報が日本に伝わったのは,1917年の3月半ばであった。新聞を通じてのロシア革命の情報は,革命の拠点の一つペトログラードをその源として,ベルリン,ロンドンの外電,ニューヨーク,サンフランシスコの特電によっており,それだけに革命の経過は正確に伝わらなかったようである。〈露国に革命乱勃発す〉〈革命勃発原因〉〈露新内閣成立〉というような見出しの記事には,ロシアの下院が政権を掌握し,閣僚を投獄して仮政府を組織したこと,ペトログラードの陸軍が革命軍と合流し,労働者がストライキに突入したことは報じられていた。しかしこの革命の原因については,各地での数週間にのぼる食糧欠乏によると伝えていただけで,その真相は明らかでなかった。
にもかかわらず,二月革命はまず日本の政治家に衝撃を与えていた。なかでも立憲政友会の総裁原敬は,新聞がロシア革命を報じた翌3月18日の日記に,ロシア革命の発生と皇帝の退位にふれ,〈真に大政変〉であるとしたためるほど,いちはやく大きな関心を寄せていたのである。原敬は,革命ロシアの〈共和政体組織〉への推移を告げる記事に注意を払いながら,元老山県有朋や寺内正毅首相ら超然主義者もロシア革命で目をさまさなければならないこと,一般に国内もデモクラシーに傾く実情にあることを,三浦梧楼や山県に語っていた。国政をリードする元老,党人,軍部の間では,今後の日本のとるべき進路とのかねあいで,二月革命は大きな関心の的になっていたのである。
一方,大逆事件以来〈冬の時代〉を迎え,沈黙を強いられていた社会主義者たちにも,二月革命は強烈な印象を及ぼしていた。荒畑寒村は,二月革命に驚き,〈革命! 革命! これほど魅力的な語があるだろうか〉とのべ,帝政が一挙に覆った事実に圧倒されたことを回想しているし,山川均も生涯のうちで最も大きな影響を受け,荒畑と組織していた労働組合研究会でロシア革命の話をしたとき,涙がとまらなかったと,当時の印象を回想していた。社会主義者たちは,一般に二月革命の報に接して社会主義の理想郷が地上に実現したと欣喜雀躍したという。ところで,内務省は日本の社会主義者のロシア革命への反応にことのほか注意をはらっていたが,それによると堺利彦は,在米の片山潜宛てに,ウラジオストク,上海あたりに組織を設立する必要のあるむねの通信を送ったそうであるし,ケレンスキー政権の成立後,堺はロシアを訪れたい要望をもっていたという。
しかし,二月革命に感激し興奮した社会主義者といえども,ケレンスキー,レーニン,トロツキーなどの人名,メンシェビキ,ボリシェビキの呼称を知っている人間は少なく,革命の過程を理解するのも容易ではなかったらしい。しかもこの年の秋,レーニンの率いるボリシェビキが中心になって十月革命が行われたが,当初はレーニンに関する知識もほとんどなく,とまどっていた。在京の社会主義者たちも,二月革命が徹底的でなく十月革命は理想論としては歓迎するが,はたして継続するのかどうか,各国政府の干渉にどこまで耐えられるか心配する向きが強かった。また,労働者階級にも全体としては,さしたる影響を及ぼしていなかったようである。こうしたなかで,在京の社会主義者は秘密の会合をもち,ロシア革命の成功の祝いと臨時政府が戦争を即時中止することを要請する決議文を作成し,モスクワに送った。
一般に日本では,十月革命が恐怖の念をばらまきながら,永続きはしないという観測が大勢を占めていた。しかし,山県,寺内,原ら政局の要路にあった人々の間では,やがてロシアの十月革命が国民の多くによって支持されている事態を認識し,レーニン政府が日本で想像するような乱脈ではないこと,ボリシェビキはロシアの人心に投じて形づくられたものであること,圧制をきわめた帝政を廃し,貴族・富豪の財産を分割し,国民が4年間にわたって苦しみ続けてきた戦争を中止したことなどを認めざるをえなかった。しかしその反面,日本の政界,財界,新聞界は,十月革命が国内に波及しデモクラシーの風潮に接合することを恐れた。そのため,政府は国家に反抗する社会主義者ら〈特別要視察人〉のロシア革命への反応に注目し,全国の新聞はボリシェビキを〈過激派〉と称し,レーニンの当て字に〈冷忍〉と書いた新聞もあったほどである。そこには悪罵と嘲笑とがこめられていた。しかも日本は,1918年の夏,米騒動が全国的規模に広がろうとするころ,シベリア干渉戦争に乗りだしていったのである。にもかかわらず,ロシア革命と米騒動と,国内外の激動をぬって,デモクラシーの風潮はがぜん高まっていった。吉野作造と福田徳三を中心とする黎明会のデモクラシー啓蒙運動と,〈人類解放〉の促進,〈改造運動〉への従事をうたった新人会の発足は,その新たなスタートであった。
[金原 左門]
[索引語]
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